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物語の外から

 少し前に、銀行の口座をつくる機会があった。
 口座開設は何度か経験があったので、いつもどおりの手続きを進めていたときだった。2枚目の用紙を渡された途端、手が止まり、汗がふきだす。
 そこには「職業を選択してください」という欄と、「現在の職場の住所」という欄があった。この頃ちょうどアルバイトも何もしていなかった。
 ここに「無職」「住所なし」と記入すれば口座が開設できないかもしれない。でも「ここに『無職』と書いたら開設できないんですか」と聞けば、それが無職だと認めているようなもの。「はい、そうなっております」と言われたらアウトだ。
「そもそも、口座開設に職業は何の関係があるんですか」
 そう問いただしたい気持ちも出てくる。けれど目の前の行員がシステム全般を担っているわけもなく、強く主張すれば「そういうことになっているの一点張り」か「責任者を呼ぶ」のどちらかになるのも目に見えていた。「あなたの言うとおりですね。とりあえず無記入で全然いいですよ」なんてことにはなり得ない。
 それに、普通に働いてる人は「何の関係があるんですか」とは口にしない。だって困らないから。だから問いただすこと自体がやはり無職だと言っているようなもので、「そういうことになっている」場合口座はつくれない。堂々めぐりだった。
 他の欄を先に埋めながらはっと、前に少し手伝ったコンビニのアルバイトで「一応籍を残しておいていい?」と頼まれたのを思い出した。すぐにスマホでグーグルマップを開いて最寄り駅を検索し、指で道をたどってそのコンビニを見つけ店名と住所を表示して、何食わぬ顔で書き写した。
 いちいち連絡されないかとハラハラしたけど、口座はその場で開設された。職業欄を埋めたからかどうかはわからない。


 身分がないというのはこういうことなんだ。
 身分がないというのは、どうして身分がないとだめなんですかと「言えない」ということなんだ。身分があるのが当たり前の世界だから。
 身分について言えないから、言わずに済むよう、聞かれずに済むよう、こそこそ生きるようになるのもわかる。去年大ヒットした映画・万引き家族は、ぼくにはそういう点でも刺さった。
 ぼくが就活をやめたり、長く続けたアルバイトをやめたりしたのにもそれなりの理由があった。ちゃんと考えたつもりだった。
 だけどこんな心情が待ってたなんて。あるということ自体を知らなかったから、予測不可能という言葉じゃ足りない。


 ずっと「いい第三者でいよう」と思ってた。
 自覚的になったのは高校生のとき。姉に子どもが生まれたのがきっかけだった。かわいすぎるこの子も、いつか家と学校でつらくなるときがくるかもしれない。そのときに「ちょっと泊めさせてくれない?」って言ってもらえるようになりたかった。
 塾の講師をしていたときもそう。家と学校という巨大コミュニティ以外を知らない中高生にとっての、別のコミュニティでいようとした。親にも友達にも言えないことは、俺に言ってくれたらいいよと思ってた。
 心がけていたのは、浮遊すること。家族や友達に話せないのはしがらみのせいだ。だからそのどちらにも所属していないふうに、なるべくふわりといるようにした。
 塾の先生や叔父さんというポジションはそれに最適だった。そういう人に中高生のころの自分が会いたかった。別に全員のヒーローになろうとしたわけじゃない。「いつだってヒーローになる覚悟はできてるからね」という姿勢を見せることが、ぼくにとっては大切だった。
 実際に悩み相談はしなくてもいい。悩み相談を、しようと思えばできる人がいるという事実が、ぼくらには絶対に必要なはずだった。


 第三者にしかできないことがあると信じていたし、それは実際に、ある。
 ニートが職業欄を見て「なんで職業を書かなくちゃいけないんですか」と質問すれば、ああ無職だって言いたくないんだと思われてしまう。年配の女性が年齢欄に対して「どうして年齢を書く必要があるの」と聞けば、ああおばさんだって言われたくないんだと思われてしまう。LGBTの人が性別欄を指さして「男か女かって選ばなくちゃいけない?」と言えば、あ、この人、心と体の性別が違う人かもと思われてしまう。
 当事者が言うと、そういう無駄な物語性が生まれて、意見の良し悪しを純粋な目や耳で見聞きしてもらえなくなる。
 だから当事者以外が必要になる。職業欄については職がある人が言わないといけないし、年齢欄については年齢を気にしてなさそうな世代が言わないといけないし、性別欄についてはLBGTじゃない人が言わないといけない。
 第三者には、無駄な物語性がつきまとわないから。第三者だけが、物語の外から意見だけを投げ入れられるから。


 茂木健一郎さんが言うには、逮捕されたときの「容疑者」という言い方を海外ではしないらしい。Mrなどを使うだけの、日本語でいうただの「さん付け」だそうだ。すごくいい。賛成。
 だけど、俺がもし何かで捕まったあとで「容疑者って書くなよ」って言っても、聞いてもらえないと思う。
 自業自得だとか、当然の報いだとか、そういった無駄な物語性のせいで「容疑者と呼ぶことの是非」について冷静に考えてもらえないはず。
 そのことについて一番考えている本人の意見が聞かれないのはおかしなことだけど、それは物語が感情を生んでしまうからだ。感情論は常に優勢。
 その余計な感情を生まずに伝えられるのは第三者しかいない。当事者では、理解され浸透されるまでに、物語が解けるまでの膨大で無駄な時間がかかる。


 就活でしか着ない女性のあの黒いスーツ。もったいないと思う。会社に入ればどうせオフィスカジュアルの洋服を揃えなくちゃいけないんだから、就活のときからそれでもいいと思う。でもそれを就活中の学生が言ったら、めんどくさいやつだと採用してもらえなくなる。
 何度も書く履歴書。手間しかかからない。A4用紙にこちらが指定した必要事項さえ書いてあれば、手書きでも印刷でもフォーマットは何でもいいですよってどうして言わないんだろう。でもそれを面接される側が言ったら、ルールに従えないやつだと採用してもらえなくなる。
 確かに、と思ってもらえるかもしれない。だけど実際に面接で「スーツって必要ですか」「履歴書って手書きじゃないといけないんですか」って言われたらめんどくさく思うんじゃないかな。
 ポイントカードの入会書でもいい。受付をしているときにお客さんから「生年月日と性別は必要だと思えないので書きたくないんですけど」って言われたら、めんどくさい客だと思うでしょ?
「あ、でも書いてもらわないと」「うーんちょっと嫌ですね」「そう・・ですか・・・」
 されるで考えるとつい忘れてしまうけど、するほうにも自分がいる。こんな社会!と歌うロックバンドのライブでみんな手をあげて跳ね上がってるけど、こんな社会は自分も作ってる。こんな社会と自分の社会は分離していない。
 だから「スーツも自由で、履歴書も自由なとこ選べばいいじゃん」と言われても頷けない。そのルールが適用されてることに疑問を持ってるのであって、ルール圏外に行きたいわけじゃないから。
 でもそのルールの内側で、する方もされる方も物語から抜けられずにいる。


 結構好きな役者さんが「映画館でぜひ」って言ってるのに観に行かない理由は、そう言うしかないんだろうって思うからじゃないかな。
 だけどその映画が大ヒットしているとネットニュースで読んだら、急に興味が湧いてくるかもしれない。これも第三者の例。当事者、この場合出演者の言葉は、無駄な物語性がじゃまをする。
 正しいことを言っているはずのデモや演説を疎ましく感じてしまうのも、そういうことなんじゃないかなと思ってる。
 CMがここ数年、有名人が出てるものばかりじゃなく、一般の人(っぽい人)が多く出てるのも、ギャラだとか利害関係とは関係なさそうな、第三者的な意見として映るようにしてるのだろう。


 性別欄やスーツの疑問を口にするのは、空気が読めないからじゃない。
 めんどくさいとわかっていてわざわざ口にするのは、それだけその人にとって重要な問題だからだ。空気を読まないようにがんばってるんだ。本当は口にすらしたくないデリケートな問題だってあったはずだ。
 PCやスマートフォンで1分程度のちょっとしたアンケートに答えさせられる機会が増えた。その限られた設問にもわざわざ「男・女」の欄がある。クリックをする度に傷ついてる人がいるんだと胸が苦しくなる。
「性的にマイノリティだとしてもさ、男女の欄くらい適当に◯しときゃいいんだよ」って言う人も、残念だけど一定数いると思う。
 だけど例えば、鉄道ファンの集いに付き添いで行ったとする。「撮り鉄・乗り鉄」という雑なアンケートを渡されて「どっちでもないんだけどな」と苦笑いしながら適当に◯をする。そういうことを物心ついたときから頻繁に、しかも周りはそれが当然だと思ってる中で、この場合なら世界中がほぼ撮り鉄か乗り鉄しかいない中でずっとやっているんだと想像できれば、少しは気持ちがわかるかもしれない。
 踏めばいいだけじゃんと思ってた、小学生のときに習った踏み絵のつらさが、ぼくも今ならわかる。
 最近、「男性・女性・回答しない」や「男性・女性・どちらでもない」という選択肢が増えつつある。けど、これって誰のための設問?
 多様性の時代ですよ、男と女だけだと時代遅れですよ、と言われるのを避けてるだけに思える。あれは自己保身だ。


 ついこの間、自分の肌と同じ色のバンドエイドをするのがどういう感覚なのか初めてわかった、という写真付きのツイートが回ってきた。泣いてしまいそうだった。
 色えんぴつでの「はだいろ」表記がもうアウトなことは知っていたのに、バンドエイドがまさにその「はだいろ」なことに気づいていなかった。
 あの黒いバンドエイドがどうやってできたかは知らない。
 でもわかる。あらゆるこのバンドエイド的問題が、第三者を必要としてる。物語の内側で、気づいてってテレパシーを送ってる。




【このエッセイが動画になりました】

熱と発見というシリーズです。YouTubeです。


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https://note.mu/yasuharakenta/n/nf8b2559e3eb1
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https://note.mu/yasuharakenta/n/nd63211fb32c2
バンドエイドのツイート
https://twitter.com/TamasakaTomozo/status/1119776045635227648

安原健太の全情報
https://ptpk.exblog.jp/23471661/

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