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メディアとデザイン─伝え方を発明する(10) 見えるもの、見えないもの


10年前の連載の再録。学校のことを題材にしている。学生作品について書いたものが断然面白い(と思う)。ということで、連日のアップ。


見えるもの、見えないもの

「大切なものは目に見えない( l'essentiel est invisible pour les yeux )」これは、『星の王子さま』の有名な一節である。王子は、友だちになったキツネと別れるときに、キツネから「本当のことは目では見ることができない」という秘密を教えられる。
物語の冒頭でも、語り手である絵描きになりたかった飛行士が、「帽子に見える(象を呑み込んだ)ウワバミの絵」や、王子にせがまれて描く「のぞき穴がある小さな箱(に入ったヒツジ)の絵」のエピソードを紹介し、「目に見えない大切なもの」が暗示されている。見えているものに惑わされてはいけないという教訓の意味もあるのだろうが、見えないものを見ようとすることが、ピュアであることの象徴として語られている。

かくいう私も、見たことがないものを見たいと学生に無理難題を言う。目に見えない情報をどのようにして扱うのかというテーマが宿命的にあるからだろうか、メディアデザインは、見えないものを見るということへの希求が強い分野だと思う。

1996年に発表された八谷和彦さんのインスタレーション作品「見ることは信じること」は、インターネット上のコンテンツである「メガ日記」、「empty entity(ないこと、あること)」と名付けられた赤外線電光掲示板、そしてそれを見るための専用ビュワー「ヒツジ」によって構成されている。
何も表示されてないように見える電光掲示板をビュワーで見ると、インターネット上にアップされたさまざまな人の日記を読むことができる。ブログ前夜のインターネットに対する先見性にも驚かされるが、『星の王子さま』からの引用である「ヒツジ」という名前からもはっきりとしたテーマを読み取ることができる、一種叙情的な作品となっている。

同じくインターネットを通じて送られてくるコメントを観る作品に、クリエイター集団Semitransparent Design(セミトラ)の「フラッシュを使用しない撮影は許可されています」(2008)がある。光が不規則に点滅しているだけのように見えるスクリーンをフラッシュなしで撮影すると、シャッタースピードが遅くなって、ウェブサイトに投稿されたテキストが写る。カメラが持つ時間性と即時性をうまくギミックとして用い、見えないものを見せることに成功している。

しかし「大切なものは目に見えない」というテーゼを前提とするなら、両作品で表示されるメッセージは、目に見えた瞬間に大切なものではなくなってしまう。ウワバミの中の象は描くことができるのだ。

現在制作真っ最中の今年の卒業制作のなかに興味深い作品がある。ひと言で説明すれば、「鑑賞者のまぶたがスイッチとなって映像を投影する仕掛けが施されているスコープ状の装置」である。
鑑賞者がスコープを覗くとその向こう側に設置されたオブジェが見える。ここまではあたりまえである。しかし、そのスコープは、鑑賞者のまぶたの開閉を検知するようにつくられており、鑑賞者がまぶたを閉じるとそのオブジェに映像を投影する仕掛けになっている。まぶたを開けば投影をやめる。つまり、目をつむっている間だけ映像が映し出されるのである。
鑑賞者にはスクリーンであるオブジェが見えるだけで、肝腎の映像を見ることができないのだ。

この仕掛けだけをみると、子どもたちが寝静まってから動き出すおもちゃのファンタジーのように解釈することもできる。しかし、この作品では、その「装置と鑑賞者」を見ているオーディエンスが想定されており、オーディエンスにはちゃんと投影された映像コンテンツが見えているのである。鑑賞者はメタ鑑賞者たる観衆の反応によって、何かが起こっていることを知る。さらに、鑑賞者が見ているのは対面の実風景ではなく、装置に内蔵されたモニターに映された映像という皮肉な結末も用意されている。見えたところで実像ではないのだ。

この作品から読み取れることは、「見えないものは見えない」という事実でしかない。しかし、だからこそ「本当のことは目では見ることができない」と言うことができるのだ。ウワバミの中のゾウはウワバミとの関係の中に、箱の中のヒツジは箱との関係の中に、それぞれ存在しているのである。(2009年10月執筆)


追記:
図版は制作中の卒制作品「目を閉じてご覧ください」解説シートより抜粋。


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