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母になってわかった「子供の可愛さ」の真実

今日は母の日。三日前、もうすぐ三歳になる娘に手作りのお花をもらいました。娘は隣の部屋でパパと一緒に作ったお花を、母の日当日を待たず速攻で渡しにきてくれました(笑)。

少し前までまさか自分が”母”と呼ばれるものになり、母の日のプレゼントをもらうようになるなんて想像もしませんでした。

学校や仕事、結婚は辞めることができるけれど、母には一度なったら辞めることができない。

世のイメージするような優しい母に自分もなれるだろうか?と、自分が母というものになるのが怖くもありました。

想像もしなかった母になって、初めてわかったことがあります。それは、母の目から見た「子供の可愛さ」は変化するということ。

「子供が可愛くない親なんていない」という言葉がありますが、これは私が実際に育児をしてみた感覚とはちょっと違っていました。正直に正確に表現するならば「全体的にはとっても可愛いが、可愛くない瞬間もある」です。

注:筆者の子供がまだ三歳未満のため、この記事にある”子供”は三歳未満の子供を意味すると思って読んでください。

子供の可愛さは変化する。その要因とは?

そもそも”可愛い”という感情はどんな感情でしょうか?

私は大学の卒業論文で人間が可愛いと思うものの要素を導き、その要素で形をつくるというを研究していました。特に日本でよく使われる〝可愛い〝という形容詞は、意味が広く、興味深いものです。

人に可愛いと感じさせる要素は様々ありますが、一つ共通の条件として言えるのは、可愛いという感情は「自分より弱く愛すべき存在、自分を脅かさない存在」に感じるものだということです。例えば、動かないぬいぐるみやお人形は可愛いけれど、ナイフを持って襲ってくるチャッピーは可愛くないですね。可愛がっていた部下が優秀すぎてかわいく思えなくなったりする例は男性にも共感してもらえるかもしれません。

赤ちゃんは絶対的に可愛いの?

赤ちゃんや幼児は弱い存在であり、それ自体で母親を脅かすことはないように見えます。実際私が産んだ子供も、想像以上にか弱くてよく泣く、小さな存在でした。

想像と違ったのは母親の自分の方です。出産でボロボロになった体で、四六時中ゆっくりは眠らせてもらえません。特に一人目の育児は何もかもが初めてで、眠っているうちに息が止まっているのではと何度も口元を確認したり、わずかな異変らしきものを見つけ取っては検索し尽くさずにはいられません。母親の自分が異変に気付かなければ、ほかの誰も気づくことは無いのだという責任感を感じながら、小さな命を守ることに必死でした。そこにあるのは可愛いという感情ではなく一種の恐怖ですらあります。

「うちの子はよく泣く子だったから、一歳になってようやく可愛いと思えるようになった」と友人が言っていました。自分が大変すぎると子供を可愛いと思うことができなくなるのは多くのママに共通して言えることではないでしょうか。 (一歳を過ぎると産まれたての危うさも消え、意思疎通もできるようになってずいぶん楽に感じられます。)

つまり、母が子供を見て感じる可愛さというのは、子供のあるがままの可愛さから母の負担を差し引いた差分と言えそうです。母に余裕がある時は子供はそのままで充分可愛く見えますが、負担で一杯になってしまうと子供の可愛さを感じられなくなるのです。

子供の可愛さは一緒に子供を見ている人数に比例する

特に娘がまだ言葉が話せなかった時期は、夫と二人で見ている時の子供の方が、自分一人で見ている子供より可愛いと感じることが多くありました。さらに、私の母を加えた三人で見ている子供はもっと可愛く見えます。カメラを出してきて写真を撮りたくなるほどに、子供の全ての行動が、表情がキラキラ輝いて愛おしく見えます。「同じ子供なのになぜ?!」と不思議ですが、いつも全部抱えていた子守の責任(負担)が軽くなった分、子供の可愛さを感じることができるようです。友人に「可愛いねー」と言ってもらったり、道ですれ違った人に微笑んでもらうだけでも気持ちの負担は軽くなります。ちゃんと言葉が話せない年頃の子供の可愛さは、誰かと共有することで倍増すると感じます。

図にするとこんな感じ。 (あくまで仮説です)

これとは逆に、誰かと一緒にいても可愛さが半減して感じられるケースもあります。あるがままの子供の姿を受け入れてもらえず、”良いお行儀”を求められるようなケースでは、逆に母の精神的負担が増えるため、子供の可愛さは減って感じられます。スーパーや電車で交渉不能の駄々をこね、周囲から冷たい目で睨まれた時にはやっぱり可愛くないと思ってしまいます。そして何より連れてきた自分が悪いと自己嫌悪でいっぱいになり、どうしたらいいかわからなくなりますね。

子供の可愛さを最大化する方法は?

子供の可愛さが自分の状態次第だと気付いてから、私は自分が子供を可愛いと思えるための工夫を意識して習慣化してきました。子供を可愛いとさえ思っていれば、どんな時も子育てが楽しく、幸せでいられる気がします。嬉しいことに、ママ友から「なんでそんなにいつも穏やかでいられるの?」と聞かれたことがあります。生活や性格もあるかもしれませんが、もしかしたらほんのちょっとした考え方で変わるのかもしれません。

工夫1)泣き止まない時には”笑わせ相撲”

時に、赤ちゃんは基本的な欲求を叶えても泣き止まない時があります。一歳すぎるとこちらがどうしても譲れない理由(例えばお菓子をいっぱい食べたのにいつまでも食べたがるとか)で泣き続けることも多くなります。こちらが妥協可能なオプションを提示しても泣き止まない時は、本当に困ってしまいます。言葉がはっきり通じないので、理屈も先延ばしも誠意ある説明も通じません。。

こういう時に私は、頭の中で「カーン!」とゴングを鳴らして笑わせ相撲に突入することにしています。泣いている子供を大きめのマットに寝かせて自分も横になって楽になり、子供のプヨプヨお腹に口を付けてブーっと鳴らしてみたり、髪の毛でゴシゴシしたり、こちょこちょしたり、、、子供が根負けして笑えば母の勝ちというゲームです。最初は大抵更に泣きますが負けずに勢いで押し通していると、最後は意外にも笑ってくれるのです。身体的ストローク(ボディタッチ)は互いの心を癒してくれますし、ギャン泣きだったのに自分の力で笑わせられたときにとっても子供が可愛く見えます。 

サンプル数がうちの子供一人なので、もしかしたら絶対に笑わない子もいるかもしれませんが、よかったら試してみてください。 

子供が泣いている状態というのは、母にとっては一種の恐怖です。これを自分の力で収められれば、自分のコントロール下と認識でき、子供は”可愛い”対象になります。自分の力で収められない場合は恐怖が続いてしまいます。子供が泣き続ける時、どうしても放置するしかない時もありますし、笑わせ相撲をしても泣き止まない場合もありますが、可能な時には力づくで笑わせてみるというのは母のメンタルヘルス的に良い効果がありそうです。
※注)最近三歳近くなった娘は「泣く理由」がはっきりしてきたようで、笑わせ相撲で笑わせるのが難しくなり、その分言葉で泣き止んでくれることが多くなりました。言葉を得ると言葉で解決できる事が増えますね。

工夫2)「何かやらかしそう」と思ったら即、最悪のケースをイメージする 

離乳食の時期、せっかく頑張って作ったご飯をひっくり返されたという切ない話はよく聞きます。時に子供は暴虐無人、ちゃぶ台ひっくり返し亭主です。我が子も血気盛んなタイプで、離乳食期には不機嫌になると皿やスプーンを投げ落としたり、ブーっと口についたご飯を吹き飛ばしたり、よくやってくれました。そんな時に役に立ったのは、「あ、不機嫌になった、何かやらかしそうだ」と感じたら、これから起こる最悪のケースを頭の中で即イメージすることです。もちろんその後すぐに止めに入ったりして被害の最小化に務めるわけですが、うまく止められることもそうでないこともあります。最初に最悪のケースをイメージしておけば、実際の子供の行動はその範囲内に収まるため、髪の毛を逆立てて怒るような気分にはならずに済むのです。

想定を超えることは恐怖になるので、瞬時に事前に想定ラインを引き上げておくことが大事です。「子供以上に大事な食器も床もない」と理性で考えればわかりますが、想定していない事をされると瞬間的なショックが大きく理性では考えられなってしまいます。

「あぁせめてそのお皿はひっくり返さないで」などと最良のケースを祈ってしまうと、お皿をひっくり返されコップを落とされた時にびっくりして泣き崩れたくなってしまいますが、その反対に「そのお皿とコップを粉々に割って子供も椅子から落ちるかもしれない」と覚悟しておくとお皿をひっくり返されたときにも可愛く思えます。


工夫3)子供を特定の誰かと一緒に見守る 

前述の通り、子供の可愛さは一緒に愛情を持って子供を見てくれる人数に比例して感じられるように思います。一人でずっと子供を見ていると、「子供が可愛いな〜」という気落ちにひたれる時間が少なくなってしまいます。それは一つには、時間に比例してどうしても自分のやりたいこと、やらなければならないことが出てくるためです。言葉の通じない子供には、自分は一人の人間として尊重してもらえない辛さもあります。誰かがいっとき子供を預かってくれたり、やらなければならない家事を代わりにやってくれることはとても助かるし、子供に対する余裕がうまれ、可愛さを感じられるようになります。でも、人の手を借りるハードルが高く感じられることもあるでしょう。単純に言葉の通じる誰かと一緒に子供を見守るだけでも癒されます。

新型コロナの規制に耐える生活は大変です。保育園に子供を見てもらえなくなっただけでなく、息抜きだったママ友家族との時間ももて無くなりました。我が家は海外在住で近所に頼れる身内がいません。代わりに夫が在宅勤務で子育てと家事を頑張ってくれ、加えてスカイプで^もおばあちゃんに娘を見てもらっています。スカイプはkubi付きのiPadにキャスターをつけてロボ風にしているので、娘が自分でいろんな場所に引っ張っていって好きなものを見せたりして、一緒に遊んでいるようです。遠隔で見てもらうだけでリビングの空気がかわり、心理的に助けられています。血縁のおばあちゃんじゃなくても、アテンションを注ぎ続けてくれる優しい特定の誰かであれば良いかもしれません。みんなで子供に繋がって助け合えれる社会になればいいなぁと思います。


母は神じゃない

私の友人に「実母の助けを借りることを嫌がる旦那だったから離婚した」という子がいました。彼女の気持ちがわかる一方で、なぜもっとリアルな母の気持ちが一般的に理解されていないのか、そうなっていれば旦那さんの理解も求めやすかったのではとも思いました。

日本ではまだまだ子供はお母さんが守るものというイメージが強くあって、母親神話(=母にとって産まれた子供は絶対的に可愛い )を信じているひとは、とっても多いのかもしれないと思います。そしてそれは子供が産まれてすぐの苦労を忘れた母たちによっても作られているはずです。私自身、誰かのためにとこの記事を書き始めて、当時のことを相当忘れていることに気がつきました。。

今、言葉を話せるようになり、私と夫と信頼関係を築けた娘は、一人の人としてひたすら可愛い存在になりつつあります。撮りためた可愛い写真や動画を何度も見返すことで、記憶は幸せなものだけ置き換えられています。だから子供が育った後の結果だけ見れば、「子供が可愛くない母親なんていない」のだと思います。

でもここまで辿り着くまでには確かに可愛い〜可愛くないを繰り返す時期がありました。私は家族や周囲の多大な助けがあってこそ、その時期を乗り越えて来られました。

子育てというナイーブなテーマで発信することは私にとって勇気がいることでしたが、自分が全て忘れてしまう前に、悩んでいる誰かの力になれることを残しておきたいと思って筆を取りました。子供が産まれてから言葉を話すまでのミステリアスな時間を、愛情たっぷりに過ごせる親子が増えることを願っています。

最後までお時間を使って読んでいただきありがとうございました。


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