設定と誤学習

生まれてから死ぬまでのストーリーは完璧に決められているらしい。神経科学では「意識」ということがホットな話題になっている。ある有名な実験では、何かを決定したと認識する0.5秒前にすでに決定事項の電気信号が発生しているという結果が出ている。その点で、自由意志はあるのか?という議題にも続く。意識は後追いで、決定したと思っているだけで、帳尻合わせをしているだけに過ぎないかもしれない。その実験をもとにした本人の書籍は「選択する余地がわずかだが残されている。それが自由に当たるのかもしれない」という希望的観測で締められているらしい。自分は最後まで読んでおらず、実験の詳細しか読んでいないが、解釈は解釈として読まないとおかしなことになると思っている。

自分は学生時代に信頼していた人たちに去られたと思う出来事があった。あとで、そのことについて本人に当時から続く感情を伝えると「まったくそんなことは考えてなかった」とのことだ。勝手に傷ついて拗らせていたのは自分だったのだ。とはいえ、その感情を抱いたということは事実。その後、嫌われる前に距離を取る、嫌われないかと変に取り繕うことがあった。大変な時期、ある人に「ネガティブに引っ張られたくない」と去られたこともある。こうしてみると、これは過去からの誤学習なのか?それすら決められたことなのか?疑問が湧いてくる。

ありていに言うなら、気づきのための出来事なのだろう。今日のとあるイベントに参加した中で「わかる ことは かわること」という単語があった。メモるためにスマホで検索してみると養老孟司の書籍がヒットした。変わってないなら分かってないと言うことになる。個人的な経験でいうなら「わからなくても かわること」はいくらでもある。あなたは歩くということが分かって歩いているだろうか?赤ちゃんは分かってから立ち上がるのだろうか?どのモノサシで測るかにもよるが、頭で分からなくて体で分かるということはたくさんある。専門用語で言うなら、小脳での手続き記憶というやつだ。これは非言語で学習されるものだ。

分かってないのに分かっているふりをするやつが嫌いだ。「お前、それ言いたいだけやろ?何目的や?」というやつだ。それが専門職の専門分野のことでなら詐欺師だと思っている。一方、自分のことを簡単に分かられてたまるかとも思っている。前までは占い的なことには拒否反応を示していた。近年は星回りやそう言ったものや偶然には、偶然と思えないようなことが起こることも体験として実感している。分かるということと、受け入れるということは違う。どこかで書いたが分かり合えなくてもお互いを受け入れられる、そんな関係を求めている。でも、分かっても欲しい。なんてややこしい性分だ。

SNSで亡くなった知人の誕生日の通知が来た。同じような人がメッセージをタイムラインに投稿している。来年はこの通知に気づくだろうか?もし、自分がある映画の登場人物なのだとしたら、その物語を楽しめたらいいなと思っている。

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