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プロフィールという名の生い立ち

杉本康紀(すぎもと やすのり)1978年生まれ 牡羊座
数秘8 情熱的な黒豹 kin27 鳥取県のはわい出身 大阪市在住

プロフィールは推しになる「ことだけ」を書くと教わったが、ここには推しの対象がないので生い立ちを書こうと思う。

幼少期
親は保育園の時に「できない子の気持ちがわからない子」と保育士さんから言われたらしい。それくらい小さい頃から、何でも要領を掴むのが早い子だった。幼稚園ではいじめっ子。小学校ではいじめっこにいじめられたがその後親友に。小学4年生までは息継ぎができず泳げなかった。泳げるようになったら代表選手に。陸上競技ではその地域の歴代記録を更新(100m、走り幅跳び、ソフトボール投げ)。中国地区の大会に出て「上には上がいること」を思い知る。高学年で兄の髪型を真似たらモテ期が来た。鼓笛隊ではトランペットを吹いていた。低学年の時の、子供っぽい合唱の歌い方に違和感を覚えていた。

中学生時代
小学校の陸上競技で膝に痛みを覚えているのに走らされた嫌な思いから、陸上部だけは避けようとした。当時流行っていたバスケは負けたら坊主という噂を聞き断念。担任と幼馴染の提案でソフトテニス部に入る。親友の2人はバレー部に。昼の休憩時間やソフトテニス部の部活後にバスケをするくらいには好きだった。ソフトテニスで覚えているのは、上級生のエースが怪我をした時に代理に抜擢されたが「代わりになると思ったんじゃないぞ」と言われ発奮したこと。地区予選の決勝で、高校のテニス部でペアを組むことになることの勝負のとあるポイント。県大会で、もう1試合勝てば中四国に進める試合の前に、部長の相方が油断しているのを声掛けできずに負けてしまった帰り道の涙。卒業式の日に、親友2人がバレーの強豪校へ大阪に行くことを他の子から聞き、ショックを受ける。(そのうちの一人は地元で整体師になる相談を受け、今でも活躍してる)

高校時代
あれ以上の親友はいない。とこじらせ、高校では友達を作らなかった。テニス部の部活は頑張っていたが、それ以外は覚えていない。世界史の暗記が嫌いで初めての赤点を取った。精神的に不安定だったのだろう、デパートの屋上で昼寝をしていて窓の鍵が開いているのを発見。深夜に忍び込み捕まる。母からの「普通じゃない」という涙を覚えている。顧問への第一声は「テニスを続けたいです」だった。テニスしかあの頃はなかったように思う。事件後は休み時間は図書室が居場所で、現代訳の源氏物語やスティーヴン・キングのIT、指輪物語などを読んでいた。ナイトヘッドという超能力を持った兄弟のノベルも好きだった。テニス部の団体戦は1回戦で負けそうになり、応援しながらチームメイトとシンクロする感覚を覚える。仲間のやりたいこと、気持ちがわかるような気がした。決勝まで進むがクラブチームで小学生からやっているような相手に破れる。何十年か経ってその相手がインターハイで2〜3度勝ち上がるような選手だったことを聞く。センター試験の出来が良く担任に筑波大学体育学群を勧められ、専願で受けたが、おそらく2次試験の実技で落とされる。浪人して金沢大学のスポーツ科学過程へ入学。ちなみに社会は倫理、理科は地学を取った。教科書が薄かったからだ。倫理はセンター試験100点だった。

大学時代
月700円、8畳二人部屋の男子寮に入る。初日に24時間歩く会というのに参加させられ、出発直前に食べさせられたゴーゴーカレーが悪かったのか、というか思い出した前日深夜まで一人づつ寮生全員の強制一発芸をさせられたんだ。道中嘔吐する体調不良に見舞われる。中間地点まで無理に歩かされて内心キレ倒していた。上回生からはすぐに出ていくと思われていたらしい。そんならやるなと正座させて問い詰めたい。「面白ければなんでもよし」という懐の深い場所ではあったが、戦前の匂いもする場所だった。漫画とゲームとテニスに明け暮れる。教養科目で受けた授業の教授に「医学部の神経科学のゼミに来ないか」と言われたが、ビビっていかなかった。心底後悔している。テニスでは同級生でタイプは違うが初めて敵わないところのあるチームメイトに出会う。小さい頃から大人とやっていて、どこか達観したところのある人に見えた。今もテニスをやっているようだ。1回生の時の4回生が神のような強さだったが、全国王座で早稲田にボッコボコにされるのを見て、恐ろしい世界だなと思った。ナンバーワンの試合に審判で入ったがメチャクチャ緊張した。4回生の夏、引退後に他校の気の合う子と組んでダブルスベスト4だか、相手の棄権で準優勝した。今も元気だろうか?就職活動はちょっとだけして諦め、地元の伝手でテニススクール委託事業を手掛ける会社に就職、大阪市大正区のスクールに勤務する。面接の時、天王寺の安宿に泊まって大阪の雰囲気に慄いたのを覚えている。

テニスコーチ
半年しか続かなかった。というのは中学3年くらいから腰に違和感を覚え、高校で腰を痛めた。浪人時代毎日1時間河川敷を走っていたら傾斜のせいか、アスファルトと走り方のせいか、膝を痛める。大学時代の基本ボール拾い全力ダッシュで完全にアウト。学生時代の半分を怪我で棒に振っていた。希望だった職にはつけたが、やはりというか1日6〜7時間走り回る負荷に耐えきれずリタイヤ。地元でもお世話になった方の口利きで、親会社のテニスメーカーの販社に勤める。スクール最後の頃、生徒の大会の余興でセンターコードでプレーを見てもらったのはいい思い出。

テニス用品のルートセールス
毎月前年度の100数%を課せられる日々。特にテニスの実績もなく地元でもない。コネも情報も持っていない。とにかく足を運んで「よろしくお願いします」という日々。途中から北陸を担当して、そちらでは可愛がってもらったが、大阪でアポをとって会社にいる時が辛かった。「今月(数字)いくんか?内訳は?今後の予定は?」と聞かれ続ける毎日。転勤と正社員のお誘いとプライベートが重なり、テニス選手の近くで怪我に悩む人の力になりたい。スポーツ科学を活かせることがしたいという思いから退職。

カイロプラクティックとの出会いと学費稼ぎ
トレーナー?実績がないし、いまいち制度が曖昧だ。接骨院?治らなかった思い出しかない。色々な療法(リフレクソロジー、タイマッサージ、整体など)試すがどれもピンと来ない。そこで出会ったのがカイロプラクティック。金沢時代、チラッと目に入ったことがある。当時は「なんだあのカタカナ?怪しいな」ぐらいにしか思っていなかった。自費で高いし。大正区のカイロプラクティックに電話すると、レントゲンが必要とのこと。なんだかすごそうだと思ったのを覚えている。当時そちらでは機械で背骨の状態を調べ、機械で振動を加えるシステムで調整をしてもらった。事前の評価で緊張している筋肉をピタリと言い当てられ、調整後その筋肉の痛みが触れずに消失したことに衝撃を覚えた。早速その方の母校の説明会にいく。「神経系がカイロプラクティックのターゲットだ」という理念と学長に感化され入学を決意する。とはいえ、4年制年間約100万円。そんなお金はない。どうしよう?今まで勉強は真面目にやってきたので、夜の時給のいいバイトと真逆のことを体験してみようと思い、ミナミのキャバクラの面接へ。そこから見事に3年間流された。適応力が高いのか、感化されやすい、流されやすいのか、どこに行っても「何でウチに来たの?」という学歴だったが、全然とまではいかないが、合う人はいるし、嫌なことも楽しいこともあった。痛い目にもあったがちょっとした色恋もあった。だがあくまでお金を貯めることが目的。お金やタイムカードや伝票や電話対応、時間管理・指示を出す仕事を任されるようになった。普通は2~3人でやることを1人でやるようになっていった。そもそも人の入れ替わりが激しい。真面目な方が割りを食うのだ。年末のクソ忙しい時にはフォローが入るが、伝票のミスがあると天引きだった。3年間で天引き150万円。今思うと「何やってんだ?」と思うが、流されていたのだろう。3年目の年末の1番忙しい日の直前に飛んだ。初年度に社員になって賭けイベントみたいなのに参加した後も数日飛んだが、その時に地域統括に「お前は人を裏切る奴だ」と言われたが、今となっては「フラグ乙」と思わんでもない。弁護士に頼んで時効もあったので100万取り返して手数料25万で約半額の穴埋め。教育ローンと合わせて、在学中も夕方〜パチンコや塾・家庭教師など色々移り変わりながら何とか卒業。

カイロプラクティック学生時代
とにかく、一生の仕事にするという思いで入ったので、全て吸収するつもりで受けた。今となってはそれも入り口に過ぎないと思うが、それでも分厚い基礎を学べたと思う。実技の練習だけは放課後残って出来なかったが、なんとか3年時の臨床課程に入る前の試験は学科と合わせて一発合格した。歴代初らしいので誇らしかった。覚悟が違うのだよ覚悟が。臨床家庭はとにかく苦労した。教務部長兼クリニカルセンターの副長からは「なぜ?それをしようと思うのか?根拠は?」のお言葉。教科書通りに行くはずもなく、短時間で見立てる能力も低かった私は今でもトラウマになっているかもしれない。今でも会うと「怒られる」ような引き締まる気持ちになる。学長はどちらかというと長嶋茂雄タイプだ。バランスが実に取れている。学校のポリシーも中庸。構造と機能、科学と哲学、生気論と機械論、感性と理性。どちらも大事で両輪。中途半端ではなく行ったり来たりしながら、両極を極めるとまではいかなくても揺らぎを許容されていたように思う。この考えは今でも受け継いでいるつもりだ。とある先輩臨床家の「あなたの後ろにはクライアントさんがまっているからね」という励ましを胸になんとか卒業する。

卒業後の就職と開業
卒業後、整形外科でバイトする先輩も多かった。ほぐし(筋肉の緩和)で腕がキツイという声を聞いていた。カイロプラクティックを習ってなんでそんなことせなあかんねんと却下。結局OBの経営する接骨院へ。面接で実技もチェックされ、カイロプラクティック部門を任された。高齢の方が多く、自費のカイロプラクティックはオプション。お母さんへのケアを始めようかという当時。とあるマニュアル的なテクニックのメニューを決めて、保険診療の方への提案。そして希望者には施術をする。だが、これも限られた内容でプラスアルファをすると「余計なことをするな」3ヶ月で辞めた。院長や母校の4年次にご一緒した外部受講生にアクティベータメソッドというテクニックを勧められた。神経系の反応を元に、どこに、どの方向に刺激を入れる?あるいは入れる必要がないか?を決定する、極めて合理的なシステム。その国際認定をとったタイミングで開業した。

出張専門で高級住宅街を狙うも撃沈
母校の外部受講生の先輩の勧めで、箕面で出張専門で初めて見た。全然ダメ。すでに米国やヨーロッパの戦地での臨床経験をアホほど持つ大先輩がすでにいる地方で開業するものではない。全く手応えはなかった。SEOの地域ターゲットを変え、ひたすら頑張っていると、出張ではなく市内から来てくれるように。だが距離と価格と実力の兼ね合いで継続は難しく。梅田の雑居ビルに移転。程なくして3ヶ月の生活費を残して、夜バイトからは手をひく。

開業3年目で軌道に乗る
覚悟を決めると、物事は進むもの。なんとか軌道に。最高は月99人単価は5,000円。その頃、ヒーリーングを習い、スピ系のコンサルにつき、マインドフルネスを実践し、色々な活動もした。売り上げも上がってきた。しかし、コレジャナイ感。施術をして結果を出しても、頭打ちになる。よくしても来なくなる。よくならなくても来なくなる。よくなってもセルフケアや生活改善には80%の人は取り組んでくれない。「悪くなったらまた来ますわぁ」「まだ良くならないんですけど」。アホらしくなった。散歩中、隙あらば逃げようとする実家で飼っていた柴犬のようだ。当時、身体操作も習い提供していたが、はっきり言ってかなり難しい。ストイックなスポーツ選手が半年かけてやっと身につくようなやつだ。一般の人が取り組むかと言われれば、今なら無理目だと普通に思う。そんな時に出会ったのがフェルデンクライスだった。

フェルデンクライスとの出会い
最初はマインドフルネスとのコラボ企画、お寺でのちょっとした体験だった。仰向けで膝を縦に行く動きを2種類やって、違いを味わうというものだったのを覚えている。他にもやったのかもしれないが。その時は「ふ〜ん」という感じだった。確かにこっちのほうがやりやすい。という実感はあったが、解剖学を知っていたので「分析」をしていたのだ。「はいはい。そういうことね」と。その時はそれぐらいだったが、数年後その方が1DAYの初めてクラスをするというので参加してみた。詳細は忘れたがハマった。その後1年3ヶ月の「赤ちゃんの発達を辿る大人のクラス」というのをやろうと思っていると聞き、待っていた。半年立っても始まらないので「いつやるんすか?」と聞いたら、募集してくれた。どうやら集まらないと思っていたらしい。我ながらいい仕事をしたと今でも思っている。1年3ヶ月64レッスン(月4)を受け、その後1年8ヶ月?(月3)かけて同じことを周回した。それぐらい、師匠の言葉を借りるなら「人生が変わるレッスン」だったと思う。正解はない、見本を見せない、目的を提示しない。そんなレッスン。変化や違いに目を向けることが全て。色々なバリエーションを体験することで、脳が自然にベストな選択肢をチョイスしてくれる。注意や視点、情報への感度・解像度を上げつつ、体を知っていく、発達に沿って重力との付き合いを、非言語で学んでいく。そんなレッスン体系。これを経た後は以前教えていた身体操作方もスッと入ることだろうと思った。

赤ちゃんの運動発達のサポートを学んでいる
学びつつ、勝手にセッションにそのコンセプトを取り入れてやっている。師匠から「資格とらへん?触れるということについて必ず学べるものがあるよ」と。そしてシェルハブメソッドというフェルデンの派生のメソッドを学び始める。学びを進めるうちに、中学校のテニス部指導のお声もかかり、教育畑に戻ってきた感がある。発達の凸凹が増えている現状も知り、周産期や運動発達のつまづきが増える土壌についても少しずつ見えてきた。学びというのは答えを教えてもらうということではない。好奇心や遊び心から探究し、失敗し試行錯誤し発見するものだ。そしてそこから自分への信頼や、他者へ寛容、受容が生まれると思っている。教える人と教わる人ではなく、学ぶ人とそれを促す人、そんな対等な交流を持ちたいと思っている。

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