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tokimeki kobeya

 わたしには、全てにうんざりした時に行くところがある。
 それは小さな部屋で、せいけつできちんと片付けられている。わたしはそこにいって、ときめきをかき集める。なるべく取りこぼしのないように。
 ときめきをかき集めるのは大変な作業だ。
 それは最初、どこにあるのかも、どんな形をしているのかもわからないし、集めるたびに違う色や形をしている時もある。
 さっとつかまえて、眺めたり、匂ったり、話しかけてみて、やっと、ときめくものだとかこれは随分と苦すぎるとか、そういう風にわかるものなのだ。
 その部屋には蠢めくときめきたちと一緒に、ちっぽけだけれど堅牢な小瓶がたくさん買いこまれて置いてある。
 わたしはその瓶に、選別したときめきを収納する。理屈屋のピンセットを使って。透明な硝子で出来た小部屋にきちんとときめきが落ち着いたら、名前シールに父からもらったペンを使って名前を書き込む。あとからそこに何が入っているのかを、一瞬で見分けてさっととり出せるように。
 ところがわたしは整理が大の苦手で、そのせいで痛みや不安感や経血の海に瓶たちは埋もれていってしまう。
 なのでわたしは、いつもときめきをいちから探すはめになるのだ。
 劇場に集まる古つわものたちの話はしたっけ? ところで。
 していないのなら話そうと思うんだけれど、古つわものたちは、昔は相当つわものだった。だけれど時というのはいつだって残酷なもので、今ではつわものたちは古つわものになってしまった。萎れて、漬かり過ぎたつわものたち。
 彼らは劇場に集まる。ぞろぞろと。そうして役者の動きをみては、ちがうちがうと騒ぎ立てるのだ。そうじゃない、剣ってのはこう振るんだ。なにを、きさま、川沿いの戦場でわしに負けたのを忘れたか、そのきさまが剣の先生気取りか。いや、あれは負けたのではない、川のぬかるみに足をとられたのよ。言い訳を、ならいまいちど試してみるか。うぬ、きさま、やるか。
 彼らはくちではやりあうが、決して剣を抜いたり、劇場から出て行ったりはしない。
 古つわものたちは、ありし日を遠い目でぼんやりと見ては、思い出しているだけだから。
 わたしは古つわものたちを見つけてはコレクションする。ピンセットでつまんで、さっと小瓶に。今のところ、たしか、《劇場に集まる古つわものたちシリーズ》は三百を超えたところだったと記憶しているけれど、確かではない。なにせ、コレクションは混沌と雑然さの森に追いやられてしまっている。
 小部屋はせいけつでよく片付けられている。だが、しかし瓶たちだけは、いつだって混沌の中にいるのだ。

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