見出し画像

かぞくのかたち (全9話 7,372文字)


1.ユニオンジャックの窓


夫婦喧嘩は犬も食わないと言うが、親父が癇癪を起こし、一方的に怒りつけ、それを

「ハイ、ハイ」

とオカンは聞き流す。そんな喧嘩というか、かなり激しめの癇癪は、日課のように起こっていた。

瞬間湯沸かし器のごとく、癇癪を繰り返す親父は、ご近所の名物でもあった。

子供の教育はビンタが基本。悪い事をしたら、怒るよりも先に、平手が顔や頭に飛んできた。しかし小学生だった頃は、

「これが当たり前だ」

と思っていたので、つらいとか、しんどいという気持ちはなかった。

今から思えば、親が子供に体罰をして、その子供が自分の弟に、暴力をもって接するのは、ごく自然な形である。

またある日、僕は何かをやらかした弟に、鉄拳を用いて泣かしたのだろう。

親父の強烈なビンタが、有無を言わせず飛んできて、宙を舞い、僕の頭で窓ガラスが、割れた。

ベランダに面したその窓は、次の日、ガムテープでイギリスの国旗みたいになっていた。


二つ上に姉がいる。彼女が5年生の頃、家で算数の問題を教えてもらっていた。
姉貴は、算数が苦手で、テストの成績も悪かった。

そこに大工だから、算数は得意という、訳の分からない解釈で、あの癇癪親父がやってきた。そして長らく姉貴を教えていた。

恐らく親父は、その問題を分かっているのだが、教えることに関して素人なので、

「なんでこんな問題も分からんのや」

と平手で姉貴の頭を一発叩く。
泣きながら、問題を解く彼女を見て、

「絶対に自分は、親父に教えてもらわない」

と心に誓った。第一子の娘として、生まれた姉貴は、それでも優しく育てられたと思う。
彼女が中学生の頃、親父はCDラジカセのデッキを買ってきた。

そしてCDは、前川清のアルバム1枚。「長崎は今日も雨だった」など、名曲が入っていた。
何故それを中学生の娘に、聴かせたかったのか、はたまた自分が、聴きたかっただけなのか。

二人でレコード屋に行き、一緒に選んできたという。
ともかく、姉貴の1番最初に買ったアルバムは、前川清という事になる。

弱小剣道部の主将。姉貴は小学生で始めた剣道を、高校3年で引退するまで続けた。

剣の道での成績は、いまいち残せなかったがチームの結束は強く、中学の部活仲間が、大人になってからも、よく遊びに来ていたのを覚えている。

友情というか、大切な仲間を残す事は、出来たようだ。


2.穴があったら入りたい


清重そろばん塾という、姉貴をはじめ兄弟3人が通った塾がある。

確か週4回、月火木金曜の放課後に立ち寄って、そろばんを習っていた。

ここは主に女の先生が数多くの子供たちを1人で見ている。この塾では各自で問題集を解き、終わった者同士が、

「答え合わせしまーす」

と、互いに○×をつけて、答え合わせをしていた。
先生は、解らない問題や悩んでいる子には、優しく教えてくれたが、ズルをする子供には厳しかった。


井本という、やんちゃな同級生がいる。
当時は周りの友達が、ドラゴンクエストのゲームに夢中で、

「誰が1番最初にクリアするか」

と競いあっていた。家にファミコンのない僕は、学校が終わると、ソロバンではなく、井本の家に直行した。

そして2人で、せっせとドラクエのレベル上げに没頭していた。しかし、ソロバンを休む訳にはいかず、突発的に編み出した技がある。

そもそも、清重ソロバン塾は性善説で、互いの答え合わせを信用していた。僕と井本は、答えの桁数だけ合わせて、適当な数字をサッと書き、

「終わったので答え合わせしまーす」

と、しれっとした顔で、お互いの解答用紙に○をつけた。

「正解したので帰りまーす」

と通常は、1時間ほどかかる所を、たったの5分で終わらせていた。

そして、ダッシュでまた井本の家に戻り、ドラクエのゲームをする。これを繰り返した。
二週間くらい、この方法を続けていた。そして、ある日、

「正解したので帰りまーす」

と2人が言うと、先生が

「ちょっと、タクちゃんとのぶ君(井本)の解答を持って来なさい」

穴があったら入りたい。この時ほど、そう思ったことはない。みんなの前でめちゃくちゃ怒られた。

「何これ!!全然違うじゃない」 

と、当然だが、僕らの解答は一問も正解では無かった。

そして、怒るとヒステリックな先生は、白目をむいて、甲高い声で僕らを叱ってくれた。


3.血だらけの少年

正月早々、左眼の上を6針縫った話を書こうと思う。

元旦は、親父の実家近くにある神社に、参拝して、お墓参りするのが家族の恒例行事であった。

この神社は、境内に滑り台と、シーソーが2台あり、初詣での後、姉貴と僕、6歳になる弟と遊んでいた。

「シーソーであーそーぼ」

と姉貴と僕が遊んでいると、弟は隣のシーソー脇に、なんと立ち小便をやりだした。僕は

「こんな所で小便などするな」

と怒ってシーソーから飛び降りた。

して、小便の痕を消す為、周りの土をかき集め、それを掛けようと屈んだ瞬間、目から星が飛び散り、もの凄い衝撃を受けた。

「ドッカーン!」

よりによって僕が土を掛けていた、隣のシーソーに、姉貴と弟が乗って遊ぶという惨事になる。

姉貴が勢いよく乗ったシーソーの、反対側の角が僕の顔面に激突し、目の上を陥没させた。

「キャーーー」

と姉貴は僕の顔を見て絶叫する。

しかし、息子が眼の上を陥没させ、顔面血だらけの状態でも、親父は全員を連れ、まずはお墓参り。ここで彼は珍しく癇癪を起こさなかった。

さらに母方のお墓まで車で行き、お墓掃除と線香をあげて、ようやく僕の治療へと病院に連れて行った。お医者さんに

「だいぶ傷口が、乾いてきてますな」

と言われながら、左眼の上を6針縫って、ようやく血は治まった。

さぞ、ご先祖様は正月にやってきた、血だらけで、お化けみたいな顔をした少年を、憐れんでくれたことであろう。


4.オカンからの手紙


少しでも歯の丈夫な子供に育てたい。オカンは人一倍この想いが、強かったようだ。

姉貴、僕、弟の3人が小学生の頃、国立大学歯学部の小児歯科で定期検診を受けて育った。

「タクちゃーん、お母さん来てるよー」

と数ヶ月に一度、オカンが自転車で学校まで迎えに来る。授業を途中で抜け出して、彼女のこぐ自転車にまたがり、10キロ先の大学病院まで通った。


雨の日や、風の強い日でも、オカンは子供を自転車の荷台に乗せて走り続けた。

「お母さんは生まれつき歯が弱かったんよー」

僕の一番古い記憶でもオカンは既に入れ歯をしていた。

もしかすると、自分の歯の弱さが、子供たちに遺伝しないかと、心配して、大学病院の定期検診を、受けさせていたのかもしれない。

これは祖母から聞いた話だが、オカンがまだお腹の中にいる頃、食べ物がなくて、ほんとうに困窮していた。身籠った当時の祖母は、

「おなかすいたなぁ、、、」

と家の白壁を崩し、それにかぶりついて、カルシウムをとっていたのだという。

昭和25年徳島の田舎では、女手ひとつで子供3人を育てるのは、かなり厳しい環境であったと想像する。

それがオカンの歯の弱さに起因したのか、今となっては分からない。

施設に入所しているオカンの歯は、無論1本もなく、流動食の様な柔らかい物しか食べていなかった。(コロナ禍で入れ歯は使わないルールの施設にいる)


電話の声が、数年ほど前から、聞き取れなくなった。面会はコロナ禍の頃よりは、マシになったが、明らかに顎の筋肉が退化していた。そんなオカンが、

「新聞をな、ゆっくりな、読むんよー」

と唯一の楽しみが、ベットの上で新聞を読むことであった。2年程前から僕がこのnoteを書き、弟が印刷してオカンに手紙で送るという、兄弟の連携プレイが始まった。

たまにだが、弟宛にオカンから手紙が届くようになった。ミミズがはった様な字で、解読困難であるが、それは何より嬉しい頼りである。


5.ホンダのトゥデイ

姉貴とオカンが、車の免許を一緒に取りに行く話を書こうと思う。

僕が中学の頃、チェッカーズの解散で落ち込んでいた時に、オカンが、

「初ドライブに行くけん、付いてきて」

と死ぬほど恐ろしい目に遭わされた。おかげでくよくよしている自分が、バカらしくなった思い出がある。

話を戻そう。オカンは姉貴と新聞配達をして貯めたお金で、共に自動車教習所へ通うことにした。

高校まで剣道で鍛え、18歳になったばかりの姉貴と、当時40代のオカンでは比べるまでもない。

反射神経というか、運動能力がものをいう運転教習で、オカンはかなり苦戦した。
そして実地の教習を落とす度に、

「ほなけん、アンタはとろいんや」

と親父の激怒は止まらなかった。
家で嵐のように怒り狂う、彼の癇癪を見ながら僕は、

「オカン頑張れ!」

と子供心に応援した。
そうして、オカンは念願の運転免許を、40代半ばで取得する。しかし、免許を取って数年はペーパードライバーの状態が続いた。

僕が高校を卒業し、更に4年後、弟も神戸の大学に進学する辺りから、オカンは中古の軽四を与えられた。祖父母の病院と親父の飲み会の送迎が主だったようだ。

今、思い出したのだが、姉貴がアメリカに行くので、要らなくなった軽自動車を20年近く使っていたような気がする。

姉貴も高校を卒業して、6年間乗っていたとしたら、それは四半世紀に渡り、家族と共に過ごすという、大変お世話になった車である。


6.齢と共に丸くなる

小学生にとって4年の歳が違えば体力の差は歴然とある。それでも弟は僕の遊びについてきては、よく泣かされていたという。

ある日、そろばん塾からの帰りに、弟が友達と畑で遊んでいた。そこは数日前、僕らが遊んで、

「畑を子供らに荒らされた」

と学校にクレームが入り、先生から注意を受けていた場所であった。
僕はそろばんのカバンを振りかぶり、迷うことなく弟の頭をバシンと叩いて、

「ここで遊ぶな」

とそれだけを言い、友達の家へ遊びに行った。


しばらくして、家に帰ると弟の頭が、なんと包帯でぐるぐる巻になっており、さらに親父の機嫌が悪かった。

「な、なんかあったん?」

と、こっそりオカンに聞く。すると僕がカバンで叩いた後、弟は頭から血を流し、救急車で運ばれたらしい。

僕は慌ててカバンの中を見た。ソロバンと教科書の他に、細長い文鎮が入っていた、、、恐らくその文鎮の角が、頭に当たったのであろう。

そして弟は、ケガした部分をバリカンで刈られ、頭を何針か縫ったという。親父から

「人を叩くな、言って聞かせろ」

と僕はゲンコツをくらって怒られた。

今思えば、親が子供に体罰でしつけをしており、その子供が弟に、暴力をもって教育するというのは、ごく自然な形だと思う。

膨大なエネルギーと時間を持て余し、常に一緒に居れば、喧嘩は絶えないだろう。

しかし僕が中学生になると、兄弟喧嘩はぴたりと無くなった。

陸上競技と駅伝を本格的にはじめて、自分の持つエネルギーがそれらに注がれ、喧嘩などする暇がなくなったのだ。

またその頃になると、親父の癇癪の頻度も幾分か少なくなった。それは年齢のせいであろうが

「加齢と共に性格は丸くなる」

と世間で言われるように、親父は、オカンや子供たちへの態度も少しずつだが、穏やかになっていった様に思う。



7.アメリカ留学とファミコン

我が家で唯一、ファミコンを買って貰った、弟の話を書こうと思う。弟は何故か高校に入ってから、ファミコンを手に入れた。

正確に言うなら、弟の貯めたお金で買ったので、ファミコンを買っても良いという、許可を得た。

僕が小学生の頃、誕生日やクリスマス、正月やお盆など何度も親父に

「ファミコン買っていい?」

と頼んだが、

「そんな物は絶対に駄目だ」

と言われ続けた。姉貴もゲームが欲しいと何度も頼んだが親父に断られていた。

「我が家にそんな物は必要ない!」

と親父は断固として許さなかった。
そんな子供たちが、お小遣いを必死に貯めて、TVゲームを買いたいとお願いしても、頑固な親父は、それを受けつけなかった。


僕が高校を卒業し、川崎市で働き始めて、久々に帰省すると、弟がテレビに向かってゲームをしていた。

「ファミコン、買ったんや」

と弟の背中に向かって声をかけると、後ろを振り返る事なく

「親父と一緒に買ってきた」

と彼はテレビの画面から、目を逸らすことなく答えた。僕は心の中で、

「もう高校生なんやから必要ないやろ」

と思ったが、長年の蓄積されたファミコン熱に、無我夢中の姿態を見ると掛ける言葉はなかった。

その頃、姉貴は徳島県のN市にあるリゾートホテルに就職してその社員寮に住んでいた。

もともと町営住宅に5人で暮らしていたのだが、新しい家に引っ越してすぐ、彼女は高校を卒業することになる。

「早く一人暮らしがしたい」

と、卒業と同時に就職してホテルの独身寮に入った。
僕の記憶が定かではないが、弟が高校生の頃、彼女は1年間、沖縄の系列ホテルで働いていたようだ。

それからまた、徳島に戻ってからの姉貴の行動力は、なかなか凄いものがあり、身近にいたオカンが一番よく知っているのではと思う。

「外国に住みたい」

とアメリカのユタ州にある、英語学校に留学する段取りを1人で考え、それに向けて行動に移していく。
今でこそスマホがあれば、何でも調べる事は簡単だが、彼女のバイタリティを想像だが、敬意を込めて書こうと思う。

まず、働いているリゾートホテルを、親父の承諾を得て辞めなければならない。
そこに登場するのが、沖縄で知り合ったハーフの同僚である。

わざわざ沖縄からその同僚を実家に連れてきて、親父に

「ホテルでは馬車馬のように使われてる」

と勤務状況がどれだけブラックであるか、酒を交えて説いた。

そして彼女が辞めるのに、引き留めにくるマネージャーに対して、親父を味方につけて、強引に退職届を出すという荒技をやってのけた。

安かったであろうホテルの給料を、少しずつでも貯蓄して、留学の費用に当てた。

姉貴の周りにアメリカへ移住した人間などいたのか分からないが、とにかく一人でビザを取り、入学と住む場所を決めて彼女は旅立った。


8.マイネーム イズ アップル

偶然にも姉貴が、アメリカに旅立つ頃、所属していた陸上部が無くなるという、降ってわいたようなチャンスが巡ってきた。

会社は早期退職制度を用意して、まだ3年目の僕に200万円の退職金を提示する。

しかも辞めてから1年間は、会社の寮に残ってもいいという。まだ20歳だった僕は、その条件に迷わず飛びついた。

当時はお金をそんなに使うことがなく、世間知らずの田舎者で、

「200万あれば一生暮らして行けるんちゃうかな」

とマジで勘違いしている馬鹿であった。
そして一緒に辞めた先輩と、向かった先は、川崎駅前の「HIS」格安航空券のお店で、

「来週から10日間、どこでもいいからお得なチケット下さい」

と東南アジアのタイ往復チケットを3万円で手に入れた。そうして何の準備もなしに2人は旅立った。

「海外を見てくる」

日本から出るのが初めての2人は、旅行の知識どころか、英語も全く喋れなかった。

タイの空港に降り立ち、売店でリンゴを買うのさえ、どう言えばいいのか分からない。

「マイネーム イズ アップル」

キョトンとする店員にリンゴを指差し、お釣りを受け取ってきた先輩に人間力の凄さを学んだ。

旅の話はまた今度に書くとして、姉貴と僕は就職して安定していたのが、弟が高校を卒業する直前に不安定な状況に陥っていた。

「これはファミコンをしている場合ではない」

と、反面教師であるが、大学に受かるため、猛勉強する弟のモチベーションに、なったのではと勝手に思い書いてみた。



9.教員住宅からの引越し



最後に親父の話を書こうと思う。

自分で建てた持家に住む。これが彼の人生最大の目標であり、40を過ぎて、まさしく叶えた夢でもある。

「借家の大工だと馬鹿にされる!」

と親父がたまに言っていた記憶がある。

高校の頃に引越しをしたので、その家はもう四半世紀の月日が経ち、少し古びた感が拭えない。

通常、木造二階建は、3〜4ヶ月で出来るというが、彼は3年の月日を掛けて完成させた。

これには少々事情がある。僕が中学生の頃、親父は狭心症みたいな症状で一時期、家で寝たり起きたりの生活を送っていた。いろんな病院に診てもらったが、

「病名すら分からなかった」

恐らくバブル全盛の時代に、ひたすら働き続けた体が、悲鳴をあげたのだろう。

それは毎日寝たきりの状態ではなく、体調のいい日はリハビリを兼ね、1人でコツコツと自分の家を造作するという状況であった。それが3年もかかった理由である。


祖父も大工で、九つ上の伯父も大工だから

「必然的に自分も大工になった」

と酔っ払った親父から、聞いた事がある。また、

「ワシは中学を卒業してすぐに働いた」

これが彼の口癖だった。詳しくは働きながら夜間の定時制高校へ通っていたのだ。

彼の姉である伯母さん曰わく、

「勉強が出来なかったから定時制の高校しか受からなかった」

とのこと。中学の同級生であり、当時は農協の事務員をしていた母と出会い、結婚した。そのおかげで町立の教員住宅に住めることになる。

当時のことは両親からあまり聞いたことが無いが、一つだけ覚えている話がある。

「母の成績が良かったので、もし結婚したら、自分より頭のいい子供ができるはず。自分に似た頭の悪い子供を作りたくない」

そんな想いから結婚を、申し込んだのだと。

そして住むことになる新居だが、この教員住宅は家賃が無茶苦茶安かった。確か月5,000円程だった気がする。僕が小学生の頃は、

「友達よりもかなり貧乏な家だ」

と思っていたが、今から思えば破格の家賃で、そのような所に住めればラッキーと思う他ない。

両親が出会った頃に、この団地が造られたという。当初は、

「町中から応募が殺到した」

らしいが、真実の程は定かではない。
また、

「農協の職員がなぜ教員住宅に入れるのか」

と疑問に思うかもしれないが、役場に勤めている人や、消防士もいたので、恐らく公務員であれば、誰でも入居できたのだと思う。

親父は職人であるが故に、同じ職人仲間のことを、良く思っていなかったようだ。また彼は、

「学校の先生や役場に勤めている人が、周りにいる環境で子供を育てたい」

と思っていたのかもしれない。
これは、役場に勤めておられるKさんという方が、親父とよく酒を飲んで、話していた内容を、子供ごころに覚えた話である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?