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転職ランナー(全7話 6,886文字)


1.レッスンコーチとメッセンジャー


シドニーオリンピックが終了し、北京五輪が3年後に迫っていた。僕は社会人ランナーとして勤めていた会社を辞め、トライアスロンに挑戦するという暴挙にでた。

3年勤めた会社を退職したのだが、しばらくは、辞めた会社の社員寮で暮らしていた。そこは、

「退職しても1年間は残っていい」

という親心のような緩い規則があった。
今から思えば、会社を辞めた人間が、その社員寮に1年近くも居続けるのは、どうかと思うが、当時はその規則に甘えていた。

都心から近くにあり、家賃がなんと、ほぼゼロであった。

僕は武蔵小杉にあるスイミングプールで、早朝から行う「トライアスロンスクール」の手伝いをしながら、トレーニングを重ねていた。

それは朝6時から、出勤前にかけて泳ぐというスタイルで、毎朝5時にプールへ行き準備を手伝っていた。

「皆さ〜ん、今日も元気に泳ぎましょう♪」

と7時半までの90分を余すことなく泳いで、大半の人は仕事に行く。

たまに学生やフリーランスの方、仕事がお休みの人は、その後、ランニング姿に着替えて、河川敷や多摩川台公園を走った。

トライアスロンにおいてスイムの練習は、毎朝行っていたが、自転車のトレーニングが少なかった。

何かいい方法がないか探していたら、自転車便メッセンジャーの募集を見つけた。

「9時〜18時  週4日から応相談」

と書いてある。早速、面接をして月、火、木金曜、週4回の仕事を決めてきた。

そこは自転車を持ち込みで、時給1300円からのスタートである。会社は西麻布にあり、武蔵小杉から自転車に乗って中原街道をぶっ飛ばして通った。

大きなバックを背負い無線機をつけ、企業から企業へ、急ぎの書類を届ける仕事である。主に千代田区、中央区、港区を走り回り、東京の地図を頭に叩き込んだ。


まだ六本木ヒルズが更地の状態で、大きな重機が基礎工事をやっていた頃である。

この自転車便の会社は20人を1つのチームとして結成され、ディスパッチャーと呼ばれる者が無線で指示を出す。

「タク、現在地?」

「六本木交差点」

「今からマキとアキラがR社宛の荷物を持って通るから、それを持って大手町行ってくれ」

「了解!!!」

と3人が無線機から返事をする。それは常に交信しながら走るので、独特の連帯感が生まれてくる。

そんなある日、仲間がタクシーに跳ねられ、腕を骨折し、近くの病院に入院した。リーダー格の先輩が、

「みんなでお見舞いに行こう」

とまるで祭りに行く様な雰囲気で、僕も誘ってくれた。そして病院近くのコンビニへ行き、何とエロ本を買って手土産にした。

すると病室のベットで、横になっていたアキラは、満面の笑顔で、

「遂に俺の番が来たか〜」

と恒例行事の様に、それを受け取る。こんな日常が一年近く続いた。

そうこうしている内にビザを取得し、オーストラリアでプロのトライアスリートになると、僕は大見得を切って日本を旅立った。



2.大工の弟子 前編

オーストラリアでプロのトライアスリートになると、大見得を切って旅立ったのだが、1年もしないうちに、挫折して徳島の実家に帰ってきた。

当初300万あった手持ちのお金は100万程になっていた。とにかく、実家に帰ったのだが、

「何かを始めなければ」

と焦る気持ちと、

「何をするべきか?」

との迷いで、頭の中がいっぱいであった。
そんな中、オーストラリアで出会い、一緒に過ごしたシェアメイトの青年が、親子で大工さんの仕事をしていて、カッコいいと感じていたのを思い出していた。

中学の同級生に高田という、親子で大工をしている友達がいた。ある日、その彼を訪ねて

「大工の仕事ってどんな感じなん?」

と聞いた。すると彼は

「年季という修行期間があってな、その間は小遣い程度しか出えへんのよ」

と高田は4年程の年季が明けて、独立し2年目だと言う。中学の頃は、小柄でひょろっとした感じだったが、筋肉がつき、とても逞しく見えた。

高田は年季奉公2年目の頃に、同級生の石井を同じ大工の仕事に誘っていた。ちょうど彼の年季も明けるので、親方には弟子がいなくなるという。

しばらくの間、迷ったが結局、高田の家に行き

「弟子にして下さい」

と言って同級生の親に、頭を下げ、弟子入りをした。

大工の現場は朝が早い。日曜以外は祝日も休みはなかった。
毎日オカンの手弁当を持って、自転車で親方の家まで通った。雨の日も風の日も自転車をこいで通っていた。

そして親方の家で軽トラに乗りかえ、2人で現場へ向かっていた。

当時は不景気なのか、自分の思っていた大工仕事は、ほとんどなく、サイディングと呼ばれる外壁工事に駆り出される等、他業種への応援が多かった。

「今日もサイディング屋かぁ、、、」

そこは単純にパネル加工の外壁を切って、運んで、釘で撃つという単純作業の肉体労働であった。


3.大工の弟子 中編

一人前の大工職人になるための修行だと思っていたが、親方が請負で取ってくる仕事にトイレのリフォーム工事があった。

それは補助金の工事で和式のトイレから洋式スタイルに変えるのが主な仕事内容である。

タイル張りで昔ながらの和式トイレをツルハシで解体し、バリアフリーの床を造り、洋式の便座を据え付ける。

これが主な工事の流れである。ほぼ肉体労働なので、体力に自信があった僕は即戦力になっていたと思う。

ある日、トイレのリフォーム工事で新しい便座を固定して、最後にリモコンを壁に取り付けようとしていた。親方が便座に座り、

「この辺がいいかな、リモコン取ってこい」

と言われた。リモコンはプチプチの緩衝材に梱包されており、まず僕は梱包をはがそうとしていた。しかし、親方は、

「何やってんだ、早くしろ!」

と今日はいつもより機嫌が悪い。

僕は仕方なく緩衝材に包まれたリモコンを手渡した。その時、何かを指で触った感覚があり、

「ピッ」

と音が鳴った。そして、

「シュ、シュワーーー」

親方はリモコンを両手で持ち便座に座っている。そこへ勢いよくウォッシュレットの水が飛び出てきた。

「バ、バカやろう! み、水を止めろ!」

と親方が必死の形相で、こっちを睨む。

「親方、そのリモコンで止めましょう」

と僕は彼が持っているリモコンを指さした。

「お、おう、、」

しかし、プチプチに巻かれたリモコンは、どのボタンを押せばいいのか、よく見えない。

「どれが停止ボタンだ?」

と親方は新しい床を、いきなり水浸しにする訳にはいかない。

適当にボタンを押しては、水の勢いが強くなったり、違う方向から水が出たりした。もうズボンどころか、パンツの中まで、びちょびちょの状態である。

最後に僕がウォッシュレットの電源コードを抜いて、ようやく水は止まった。



4.大工の弟子 後編


なんだかんだで、高田の親方には、半年程お世話になった。

自分から言い出したので辞めるのは、少し気まずかったが、力になってくれたのが家族である。

そもそも、大工の年季という仕組みが、あやふやである。もとより修行期間がどれくらいという目安も無ければ、その間の工程や内容も行き当たりばったりであった。

そして最初の給料が3万円で、次の月から5万円である。小遣い程度とは言われていたが、本当にこの金額だけなのだ。

そこから健康保健と国民年金を引くと、ほぼ全てなくなるのだが、親には

「家に食費として3万円入れる」

と約束していたので確実に赤字になった。

オカンに毎日、弁当も含め3食を作ってもらっていたので、その3万円は安いのだが、削れるのはそこのお金しかなく、

「オカン、すまんけど1万にしてくれ」

と途中から1万円で勘弁してもらっていた。

また大工で仕事を覚えていくには、道具が必要である。

昔はノミとカンナとかで良かったかもしれないが、今日では、ほとんどが電動工具になっている。

しかも親方は、そのノミとカンナを与えただけで、

「他の工具は自分で買って、そろえていくものだ」

と言い切った。最初の数ヶ月は親方や兄弟子の工具を借りて使っていた。何度も使うことで自分の物が欲しくなる。

給料が5万円なのに、仕事で使う電動工具を5万以上かけて買うこともあった。

さらに新しい道具を現場へ持って行くには、車が必要である。中学の同級生に10万円で中古の軽自動車を売ってもらった。

そうこうしているうちに6ヶ月が経ち、そして給料日がやってきた。

さすがに親方は分かっているだろう。ほぼ毎日一緒に仕事をしていて、自前の車で現場に行き、自分の新しい工具を使っている。

ガソリン代や車の保険も自分で払っている。

いくら何でも、今までと同じである訳がない。そんな想いで給料袋を開けると5万円しか入っていなかった。

「やばい、このままでは破綻する、、、」

貯金はもう既に30万を切っていた。悩んだ末、親方に辞めると伝えた。しかし、

「辞めることは、受け付けない」

という。そして何度も、何度も電話がかかってきた。電話に出るのが怖かったので、無視を続けた。

家にこもっていた。家から出るのが怖かった。しばらくして親父が、ノミとカンナを高田の親方の所に返しに行ってくれた。

そして親方からの電話はかかって来なくなった。


5.ラフティングガイド 上巻


25になろうとしていた。プロのトライアスリートになるとオーストラリアまで行き、夢破れ。諦めて、帰ってきた徳島で、

「今度は大工になろう」

としたが、現実は厳しかった。
暫くして、ハローワークに通い始めた。無数にある求人だが、自分のやりたい仕事はなかなか見つけられなかった。 

そもそも次の仕事をやれるような精神状態ではなかったように思う。

何もしない日々が続いて、夕日が沈む瞬間を自分の部屋で何度も眺めていた。

高校を卒業し、川崎という都会でお金を貯め、オーストラリアに渡った。そしてまた徳島の田舎に戻ってきた。ほとんどの者は、

「徳島市は田舎だ」

というが、徳島の市外に住んでいる人間に言わせれば、「それでも都会だ」という。当時は、この中途半端が嫌であった。

梅雨が明け、夏が始まろうとしている頃に

「ラフティングツアー」

という求人が気になり、面接を申し込んだ。

大歩危峡という断崖絶壁の渓谷に、その会社はあった。吉野川の激流が何万年とかけてつくりあげた場所だという。

そこは家から車で2時間程かかったが、引きこもりがちだった僕にパワーをくれた。

「ゴムボートにお客さんを乗せて川をくだるのが仕事」

という。春から秋にかけて営業しており、これから夏に向けてが一番忙しくなる。

若くて筋肉ムキムキの社長が説明してくれた。

働きたいが、家から通うのはちょっと遠すぎることを伝えると、その社長は

「ボロい空き家ならあるよ」

と近くに住む家を紹介してくれた。
ここの社長をはじめ、そこには若い男女5人が働いており、ラフティングを楽しんで仕事にしている。

給料は安かったが、山奥で生活するには、何とかなった。

過疎化が進む限界集落に若者や外国人が集まって住むようになっていた。そこでは酒やツマミを持ち寄って互いの家で、たびたびホームパーティをして盛り上がったりしていた。

ある夜、河原でバーベキューをして酔った勢いで、激流へ飛び込み、フリチンの状態で溺れかけたこともある。


6.ラフティングガイド 下巻

ラフティングガイドの仕事は朝一番、大きなゴムボートをバスの屋根の上に積み込む事から始まる。そして集まったお客さんと共にそのバスに乗り、上流のスタート地点へ向かう。

バスの中ではパドルの使い方とボートから落ちた時の対応を軽く説明して、

「いざ激流の吉野川へ」

最初は、流れの穏やかな所で、実際にパドルを使い旋回したり後方に進む練習をする。

慣れてきたらボートを、わざとひっくり返し、落ちた時の救助訓練をして激流スポットに備えた。

この吉野川には『瀬』と呼ばれる、流れの急なところがたくさんあるが、特に激しい場所が3つあり、名前をつけている。

「三段の瀬」

その中でも一番攻略が難しいと言われる激流スポットは、このラフティングコースの見せ場であった。

「皆さーん、この先がクライマックスです。この先に3つ、大きな瀬が続きます。1つ目でボートから落ちると危ないですよ〜」

とお客さんを脅してから、ボートを瀬に角度をつけて入っていき

「ザブンッ」

と滝から、滑り落ちるように1つ目をくだる。さらにボートの進む角度を変えて2つ目。

「ザッブーン」

最後は急転直下の1番大きな瀬で、ここは加速して乗り越えないとひっくり返ってしまう。

「皆さ〜ん、パドルを持って漕ぎまーす!」

速度と角度を調整し、瀬に入る直前で漕ぐのをやめさせ

「体を中に入れて、屈んで〜」

みんなはキャーー、と絶叫しながら

「バッシャーン」

2メートルほどの滝を一気にくだり落ちると、みんなでパドルを空に突き上げ、ハイタッチをした。


夏を謳歌していた。秋の気配に背を向けて、まだまだ夏は終わらないと思い込んでいた。

だが紅葉がはじまり、川の水が死ぬほど冷たくなって、お客さんはいなくなってしまった。

アリとキリギリスで例えれば、完全に後者である。社長が突然、

「また来年4月からで良かったら、一緒にやろう」

と、みんなに解散を告げた。
社長が解散を告げ、ほとんどの仲間は実家に帰った。そんな中、愛媛県の宇和島市でミカンを収穫する季節バイトに行くという強者がいた。

彼はケンと呼ばれ、みんなから慕われている先輩で、今までいろんな所で季節バイトをやってきたという。

そして彼は電話1本で翌週からの仕事を決めてしまった。

「来週からだけど、今年もやっとる?? な、何、ええっ?人が足りてない、、」

ケンさんは僕の方を見た。僕は少し悩みながらもうなずいてしまった。すると彼は農家の人に

「わかった、もう1人連れて行くわ、じゃ、来週ね」

呆気にとられてる僕に、ケンさんが

「三度の飯と風呂と布団がついて、現金で30万もらえる」

と魅力的な内容を伝えてきた。ラフティングの給料と比べれば破格な値段だ。借家の大家さんに

「来年の4月に、また戻ってくるけん」

と伝え、部屋を片付けた。

そして愛媛へ行く準備をしていたら、1週間はあっという間に過ぎた。


7.みかん収穫バイト

愛媛県宇和島市の海を見渡せる丘に、みかん農家の集落がある。心地良い潮風が吹きわたる農園が、みかんの甘酸っぱい香りに包まれていた。
僕はケンさんが泊まる隣の農家さんにお世話になることとなった。

日の出と共に、バケツのようなカゴを背負い、ひたすら、みかんを採る。

「ほーなん、カゴいっぱいやけんねー」

とカゴが一杯になれば、それをコンテナに移し換え、さらにそのコンテナが満杯になったら軽トラに積み上げる。

この作業を日が暮れるまで繰り返し、山積みの軽トラで家に帰る。

最初の頃は老夫婦と3人だけだったのが、数日して東京から若い男女がやってきて5人になり、とてもにぎやかになった。

ケンさんの所にも東京から何人か来ていた。聞くところによると宇和島市とフロムエーがコラボをして、大人数が観光バスで新宿からやってきたらしい。農家のお父さんから

「あの子らには、自分が貰うお金の話をしちゃいかんよ」

と僕らは口止めされていた。
東京からの2人は力仕事に慣れておらず、みかんをカゴからコンテナに入れることは出来るが、コンテナを軽トラに積み上げることが出来なかった。

お昼は、農家のお母さんのお弁当をみんなで輪になって食べた。おにぎりと1品のおかずのみだったが、毎日がピクニックみたいで最高に美味しかった。

また、10時と3時になると空コンテナをひっくり返し、テーブルや椅子の代わりにして
お菓子休憩がある。豊後水道が西に広がっており、夕日が海に沈む景色を見て、徳島の朝日が昇る光景を思い出していた。


夜は基本的に自由行動なので、僕らは集落で1番お金持ちの家に集まり、

「酒持って来〜い!」

と毎晩のように宴をして、酒瓶を片っ端から空けていった。

朝起きて軽トラで付いて行ったら、違う農家の畑でみかん狩りをしており、それが昼の休憩まで気が付かないという事もあった。


温暖な気候で知られる宇和島でも冬の朝は寒い。小雨の降る中、手が凍りつきそうになってみかんを採る日もあった。

基本的にみかん畑は山の傾斜地にあるので、コンテナを担いで軽トラまで運ぶのが一番大変な仕事である。

老夫婦と東京のもやしっ子2人がチームメイトなので必然的にコンテナを軽トラに積む役割は僕にまわってきた。僕は、

「コンテナのミカンなんて楽勝っす」

と、それらはラフティングのゴムボートに比べれば軽い物でほとんど1人でトラックを満載にした。

1ヶ月が過ぎ、もやしっ子2人は東京へ帰った。老夫婦から

「もう1ヶ月延長してもらわれへんやろか?」

と頼まれ、僕は残ることにした。ケンさんも隣で、1ヶ月延長するらしい。

季節は冬に向かって、日々寒くなっていたが、宇和島の農家さんはとても暖かく優しかった。

やがて年が暮れようとしていた。僕は60万の現金と段ボール一杯のみかんを手に入して、徳島の実家へ帰ることにした。

このお金を元手にまた旅に出るのだが、その話はいつか書くとして今回はこの辺で筆を置こうと思う。

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