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竹松早智子評 ロナルド・ファーバンク『足に敷かれた花』(浦出卓郎訳、彩流社)

評者◆竹松早智子
言葉や思考に翻弄される読書体験――「規格外の存在」ファーバンクの奇抜な中篇集
足に敷かれた花
ロナルド・ファーバンク 著、浦出卓郎 訳
彩流社
No.3568 ・ 2022年11月26日

■大半の小説は読者を真っ直ぐ物語の中へ導いてくれる。しかし、まるで素直に読まれることを望んでいないかのように掴みどころがなく、それでも不思議と惹かれてしまう作品も存在する。
 ロナルド・ファーバンクは二十世紀前半に活躍したイギリスの作家である。本書には表題作の「足に敷かれた花」(一九二三年)と「見かけ倒しのお姫さま」(一九三四年)の中篇二篇が収録されている。このほか近年刊行された著書は、銅版画絵本の『オデット』(柳瀬尚紀・訳、山本容子・画、講談社)で、邦訳作品は少ない。『オデット』では少女が大人の世界へ足を踏み入れる一夜が妖しく描かれているが、『足に敷かれた花』は同じ作家から生まれた小説とは想像できないほど趣が異なる。
「足に敷かれた花」の舞台はピスエルガという架空の王国。宮廷に仕える女官ラウラ・デ・ナジアンジが本作の主人公で、「疲倦宮ユーセフ親王」と恋愛中だ。彼の母親である「夢中宮を冠せられるお后さま」はその交際には反対で、側近にぐちをこぼす。一方、ピスエルガの王族たちは「棗椰子主産の国、中東トリアヌヒイ」からやってくるジョティファ国王夫妻を迎える祝賀会への参加について揉めている最中だ。
 ここはどんな世界で彼らは何者なのか、冒頭から言葉の渦に絡めとられそうになる。格式高い言葉を口にしていたかと思うと急にくだけた物言いに変わり、その落差はどこか不安を感じさせる。
 ある日ラウラは、ユーセフ親王にほかの女性がいることを知る。さらに英国のエルシー王女との婚約話を耳にしたことで、悲しみから宗教に救いを求め、聖人の道へ進むことになる。そんなラウラの物語がおとぎ話のように語られるのだが、彼女を取り巻く王族や貴族、大使の面々によって豪快に脇道へそれていく。
 上流階級の人々の他愛もない、しかし上品とは言いがたい会話がそこかしこで繰り広げられ、下世話な話題が飛び交う。「英国大使ダレヤネン・ナンヤネン卿」夫人「レディ・ナンヤネン」や「マダム・ヌラシテ」など、強烈な名前を持つ人たちばかりが出現する。ラウラを追いかけながら宮廷や町中を飛び回っている気分で、すべての人に耳を傾ければ、このまま見失ってしまいそうだ。
 ただ、ふざけたような描写にもどこか冷静な姿が見え隠れする。終盤にはそれまでのドタバタ劇から一転して、ラウラの隠された痛みに切なさがこみ上げる。ラウラだけではない。あれだけどこにたどり着くのかわからない会話で読者を振り回してきた人物たちが、時折少しだけ本音を見せてくれたような気持ちになる。ただし、それはほんの一瞬だ。幻かもしれない。彼らはたくさんの言葉や思考を投げつけてくる。何を見られたくないのだろう。そんな憶測も嘲笑うかのように、また軽薄な笑いに満ちた不可思議な世界へ戻されていく。
「見かけ倒しのお姫さま」も宮廷を舞台に、とある国の「姫さま」の誕生日の一日が描かれている。男爵夫人のテレザは姫さまのことを「姫くん」と呼ぶほどの仲。その日テレザは、姫さまお目当ての聖人を誕生パーティーへ招待するため、手紙を届ける役を仰せつかる。
 姫さまは見た目から性別の判断がし難く、喋り方はどこか乱暴である。一方テレザは見た目にも気を使い、恋愛には奔放だ。姫さまからのお使いの途中、出会った男性と逢い引きして仕事を放り出してしまう。
 場面が宮廷に戻ると、パーティーの催しとして王さまが楽しみにしていた演劇の一種「エクストラヴァガンザ」に「プリマ・ドンナ」が出演を拒否する。取り仕切っていた女官長はひどく戸惑い、結果、自分で脚本を書き上げて上演するという強行策に出る。お芝居が始まった頃、ようやくテレザは宮廷に戻るも、姫さまへ謝罪する決心がつかずに自室に閉じこもってしまう。しかし件の聖人が姫さまを訪ねてきたことを確認すると、時を告げるおんどりの鳴き声で物語は幕を閉じるのだ。
 このパーティーの間も人々はおしゃべりをして、お芝居を楽しみ、顔色を窺い、噂話に興じて、景色を楽しむ。その様子が少し不気味で不可解な言葉で存分に語りつくされている。異国情緒あふれる庭園、誰のものともつかない発言、つじつまが合っているのかいないのか、見る見る場面が展開していく物語。それは夢そのものではないだろうか。
 訳者の浦出卓郎氏はファーバンクを「規格外の存在」として位置づけ、その点から「訳文も独特なものにしようと努め」たことが解説で示されている。現代で見聞きする言葉をふんだんに盛り込むことで、本書の奇抜さがより際立つ。いったいどんな原文なのかと興味をそそられた。
 物語がいつも優しく語りかけてくれるとは限らない。しかし文章に拒まれ、振り回され、根気強く向き合った先に見える物もあるのではないだろうか。たとえばそれを形として手に取ることができなかったとしても、目覚めながら夢を見る時間は貴重であるはずだ。
(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3568 ・ 2022年11月26日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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