見出し画像

わかるは楽しい  ➖不安だから勉強してきた中年男が、算数で三角形に向き合う小学生の娘から学んだこと

僕には小学生の娘がいる。彼女の歳はまだ一桁である。今回は,40過ぎの中年男が,1桁の歳の娘から学んだ話である。


ある日の夜のことだった。いつものように少しドキドキしながらドアを開けて玄関に入る。


僕は,どんなときでも部屋に入るときにはドキドキする。ドアを開け,身体を半身ほど部屋へ入れたときに感じる皮膚感覚。それで,たいてい部屋の雰囲気を察知する。安心して自然と笑顔になるときもあれば,顔に緊張が走るときもある。場合によっては,そのままドアを閉じたくなる時だってある。これが部屋に入る前なら・・・,と思ったことも少なくない。半身その部屋の空気に触れただけでその部屋の雰囲気を皮膚感覚で感じられることは,きっと僕の特技なんだろうとは思うけれど,できることならドアを開ける前に感じられたらどんなに良かっただろう。開けてしまった後では,もう逃げることはできないのである。運命が分かりながらもどうしようもない辛さはきっとそこにある。占いに支配される傾向のある僕は,自分との付き合い方を模索中である。

僕は基本的には不器用な人間である。人見知りで対人緊張も高いし,これといった特技があるわけでもない。気のきいたトークはできないし,話が面白いわけでもない。イケメンでもないし,ダンディなわけでもない。身のこなしがいいわけでもないし,手先が器用なわけでもない。要するにコンプレックスの塊であり,自信のない典型なのである。でも,よくそうは見えないといわれる。貫禄ありすぎる体型の功罪である。という話は置いといて,自信のない僕はいつも不安に付きまとわれている。漠然とした不安。その不安を解消するために僕は勉強した。僕にとっての知識は,不安の正体を暴くためのサーチライトなのかもしれない。そのように,不安を解消するための手段として僕は勉強してきた。部屋の雰囲気を読み取ることができるのも,不安ゆえのデータ収拾やその分析の賜物なのかもしれない。とにかく,僕の勉強へのモチベーションの根本には不安がある。


その夜は,ドアを静かに閉めたくなるような,そんな少しの緊張感が感じられる空気だった。すばやく靴を脱ぎ,抜き足で廊下に足を向ける。

「おかえりー」次女の明るい声に少し拍子抜けして,「ただいまー」なるだけ明るい声で応えてみた。極めて自然だった。安心した僕は荷物を置き,着替えて,食卓へ向かった。ラップがかかった僕の料理はテーブルの上に置かれており,十分な量が確保されていた。

「おっ,うまそー」食べ物は僕を笑顔にし,僕に幸福をもたらしてくれる。その食べ物は,妻が用意してくれたものだし,多くの人の手によって今テーブルの上に並んでいる。僕はささやかな,でもとっても大きな幸せを感じていた。

そのときだった。

「○○(長女の名),三角形のところ全くわかっとらんで,このままやったら大変で」妻の声が現実に引き戻す。「そうなん?」僕は食べ物の誘惑にフラフラとその注意をさらわれかけていた。「そうなんって,わかってないって」僕の無関心さを察知したのか,妻の言葉に力が入る。「ねぇ。三角形わかってないでねぇ」妻が畳み掛けるように娘に問いかける。「うん,パパが教えてくれんかったから」娘はそう言った。彼女がどんな意図でそういったのかは,未だに不明だが(それを問う機会を失ってしまったが)彼女は確かにそう言った。そのときの僕は,少し動揺していて彼女の意図を問うことなど思いつきもしなかったのである。少し思い当たる節があった。


「ねぇ,宿題教えて。分からんところがある」

何日か前の夜,長女がそう言ったのを僕は確かに聞いていた。

「ちょっと1人でやってみ?○○なら分かるろ」

目を離すとすぐやる気をなくす次女の計算カードや本読みの宿題に付き合っていた僕は,長女にそう言った。

「うん,やってみる」

そういって,彼女は机に向かっていた。どのくらい経っただろう20分位だろうか。宿題を終えた次女はテレビの前に移動する。

「ねぇ,教えて」

長女は再びそう言った。

「ちょっと待ってよ」

三女のジャングルジムになっていた僕は,その様子を見て参戦してきた次女とのコンビに揉みくちゃにされながら,なんとはなしにそう言ってしまっていた。

「うん」

そう言って長女は机に向かう。彼女が,3度目に僕に教えてということはなかった。言い訳じゃないけど,僕は長女が自分ひとりの力で宿題を解いたのだと思っていた。「やっぱりやればできるやんか」と思っていた。むしろ彼女の自立を促し,能力を高めたと自画自賛していた。何にも分かっていなかった。確かに彼女は1人で宿題を終えた。でも,彼女は全く分かっていなかったのだった。そして,僕はただの勘違いおじさんだった。


そんなことを僕は思い出していた。「教えてくれたらできたのに」甘えていたのは僕だった。40過ぎのおっさんが,1桁の歳の小学生に甘えていたのだ。「・・・」もう,何にも言えなかった。1つ言い訳を許してくれるのなら,それまでの彼女はできていたのだった。足し算も引き算も,掛け算が出てきた時だって,割り算の文章問題だって,彼女は自ら答えにたどり着いていた。ひっかかったときも,簡単な質問で自ら気づいていた。「わかってるやん」僕は嬉しくなっていたし,誇らしかった。妻にも伝えた。「本当なの」長女へなのか?僕への評価なのか?少し疑いを含んだような声で言ってくる妻に「へへへ,わかってないな~」「やっぱり僕しか分からないだろう視点が違うのさ」なんて浮かれていた。僕は,安心しきっており,それを見抜いている俺ってスゴイばりに思っていた。分かった気になった専門家の視野は簡単に狭窄する。そして,歳を重ねるごとに頭は固くなる。視野狭窄と凝り固まった頭,まさに僕のことだった。


「どこがわからないの?」

食べ物の誘惑を振り払って,僕は彼女の元に行き訊いてみた。

「わかっとる!!」

彼女はそう言った。『ごめん』僕は心の中でそう言うしかなかった。

「そっかぁ。ならいいやん。それはそうと,どんなことやってんの?ちょっと見せてみて」

「えっ,ちょっとだけよ」

彼女は,僕にプリントを差し出してくれた。三角形の問題だった。ほとんどの答えに○がついていたが,3箇所ほど間違っていた。そして,書き直している答えも間違っていることに僕は気づいた。

「三角形か~」

前の日の風呂でたまたまその話をしていた。今,学校の算数で三角形をしているという話。「三角形ってどんなものを言うの?」「3つの辺で囲まれたもの」「二等辺三角形は?」「2つの辺が等しい三角形,正三角形は3つとも一緒なんだよ」習った知識を披露する長女,その得意気な様子に僕は満足していた。でも,「三角形の角は,正三角形の角の特徴は?」「え~,まだ習ってない」「習ってないん?」「うん」彼女はあからさまに嫌がっていた。

「昨日風呂で話したやんか?できてたやんか?」

なるべく語尾を上げて軽くなるように僕は言った。彼女は,いたずらっ子ぽくはにかんでいた。

「あっ,角度やんか~(笑)」

そこには,『二等辺三角形の■つの角は等しい』『正三角形の■つの角は等しい』『二等辺三角形を重なるように(頂点から底辺へ引いた垂線で)2つに折ると■三角形になる』と書かれていた。角の問題も勉強していたのだった。

「わからん,習ってないもん」

彼女はそう言った。そんなわけはない。でも,そうなのかも知れない。彼女の中で知識の整理ができず混乱しているのかもしれない。

「じゃ,一緒に考えてみようよ」

僕は,紙に二等辺三角形を描いた。

「ほら,こことここの長さが一緒でしょ」

「うん。二つの辺の長さが一緒だから二等辺三角形」

彼女はそう言った。

「だったら角は?」

「・・・」

言葉が出てこない。「あっ,そうか」僕は,メモ用紙を長女と一緒に取りにいき,それをハサミで長女と一緒に切って二等辺三角形と正三角形を作った。

そうして僕は,

「この二等辺三角形を重なるように二つに折ってみて」

と長女に言った。長女は言われるままに折った。「わたし折り紙できるんよ」彼女は楽しそうだった。「三角形になった」折った三角形を僕に見せてきた。

「おっ,いいね。じゃあさ,開いてみて」

彼女は開いた。「開いて,閉じて」彼女は遊んでいた。面白がっていた。その三角形を回したり,浮かしたり,いろんな角度から眺めたり,戯れていた。なんだかその姿を見ていると僕も嬉しくなってきた。一通り遊んだ後,長女が言った。

「なんだったっけ」

「二つの辺はどうなっている?」

「えっと。・・・」

彼女が言葉を思い出そうとしていたので,

「もう一回折ってみ」

と僕は言った。彼女は素直に三角形を2つ折にする。

「あっ!!一緒!!」

彼女の目がだんだん大きくなり,口が開いた。そんな彼女の驚いた顔が印象的だった。なんだか楽しくなった。彼女も笑っていた。

「一緒だよ」

大好きな俳優をテレビで見たときのような満面の笑みで彼女が言った。

「ねぇ,一緒になるんよ」

キッチンにいる妻に聞こえるように長女は大きな声で話しかけた。それをきいて,勉強嫌いを公言する次女がやってきた。

「どういうこと」

普段は次女に勉強の邪魔されて嫌がる長女が,得意気に「この辺とこの辺はおんなじ長さなんよ」と教えていた。常に刺激を求める次女も珍しく大人しく座って聞いていた。

「角は?」

「一緒だよ。ほら。重なるもん!!」

「そうだね」

「だったら。二等辺三角形を二つに折ったらどんな三角形になるの?」

「えっと・・・」

「ここはどんな角になっている?」

「直角ぽいけど,はかってみんと分からん」

確かに・・・。彼女の言うとおりだった。

「分度器ある?」

「分度器ってなに?わからん」

「じゃあ,三角定規持ってきて」

「うん」

普段は,マイペースで言われてもすぐには動かない長女だが,そのときはダッシュでとりにいった。そして座ると,僕が何も言っていなのに三角定規を取り出し,2つに折った紙の二等辺三角形に当てた。

「あっ!!直角。直角だよ」

彼女は言った。そうして,『二等辺三角形を重なるように2つに折ると■三角形になります』という問題の「ふつうの」と書いていた答えを消して「直角」と書き直した。僕は,「ふつうの」という答えに爆笑した。「いい,面白い!!」長女も笑っていた。「でも普通ってどんな三角形よ?」訊くと「ふつうよ。名前がついてない三角形」と彼女は言った。彼女にとって,三辺に囲まれた三角形はふつうの三角形だったのだと思う。でも,三角形と戯れてからは,「いろんな形があるよね。ふつうって(笑)」「なんだろうね~」二人で大笑いした。訳がわかっているのかいないのか,次女も笑っていた。

その後,長女は正三角形をぐるぐる回し,台紙になぞった正三角形と回しても重なることを確認した。「3つの辺と角も一緒なんよ」僕に教えてくれた。彼女は,三角形を愛していた。きっと僕よりも。何より彼女は楽しそうだった。僕も楽しくなった。きっと次女もそうだったろう。いつの間にか,破壊王の三女も三角形で遊ぶ長女に見入っていた。そうして,自分も遊んでいた。そのうち三角形は破られた。

「三角形じゃなくなった。でも三角形っぽい」

長女は笑ってそう言った。次女も,三女も,僕も笑っていた。僕らはなぜかハイタッチをしていた。

「分かるって楽しいんよ」

長女は妻に報告した。戸惑う妻は,ちょっと僕の顔を見て,

「そう,よかったやん」

と言った。長女の横顔は,アテネの戦士のようにどこか誇らしげだった。


僕は,今まで不安に駆られて勉強してきた。そんな中でも分かる楽しさは感じてきたし,デスカッションなどで学ぶ楽しさも味わってきたつもりである。でも,今日改めて学ぶという原点を教わった気がした。


人はいくつになっても学べるのである。その純粋さをわが子に教わった。そんな夜の出来事だった。その日の食事は,格別においしかったし,食事を食べる僕への長女のサービスも格別に良かったと思う。食べ物を口にほうばりながら,僕は幸せというものをかみ締めた。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?