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極論を承知で言わせてもらう、あなた達は「異性」との関わりが多くないから「男女の友情」についてとやかく言えるんだ

前置き

この記事はいわゆる「男女の友情は成立するか」と言う議論の背後にあるものについての話です。

noteという媒体でこのような過激な主張をするのもなんだが、筆者はきょうび「男女の友情は成立するのか」問題をそれが孕む多くの倫理的・論理的欠陥を意識しないまま一生懸命こねくり回している方々はXで「デートで彼女をサイゼに連れてくのはありかなしか」を無限に論じている方々と同じようなタイプだと認識している。

どちらの命題も「考え方は個人によるとしか言いようがない」要素を含みすぎているため真面目に考えるだけムダとしか思えない。

だが、「サイゼデート問題」は肝心のサイゼくらいにしか迷惑がかからない一方で「男女の友情」問題は、それを扱う事自体が性的マイノリティをはじめとする「それなりに多くの」人々を抑圧すると言う点で、「男女の友情」は「サイゼ」とは違い単なる場を盛り上げるためのトピックとしてすらも用いるのに適さないものだと思う。


この記事は「男女の友情」問題の表面的な成否には深入りしない。一応、この問題を論じる方はそこから新たに派生するこれらの命題には最低限触れるべきではないかという筆者のスタンスだけは示しておく。

  • 性的マイノリティの存在をどう考えるのか

  • 性的な関係と友情は共存できないと言う前提の真偽

本題

ここからが本題です。これから私が述べるようなシチュエーションを想像してみてほしい。

あなたは新社会人もしくは転入生であり、あなたの新しい職場(または学校)にはさまざまな人々がいる。
一般的な職場と異なる点は一つだけ
それはあなた以外「あなたにとって恋愛対象になりうる性別」しかいないということ
あなたはそこで、少なくとも何年かを過ごす。

かなり抽象的に表現してまい恐縮だが、とにかくここではこの仮定を自分の身に起こった事としてリアルに想像してみて欲しい。

あなたはその職場の人々全員を、性的な対象として見ることができますか?それで仕事や生活ができますか?

見れるよ、だってこれっていわゆる「ハーレム」的シチュエーションの事じゃん。

まあ感性は人それぞれだ。

もしそうだとして、そういった感情をあなたは職場(学校)の人々の前で表に出せますか。

もしそうしたとして、あなたは職場(学校)の人々と良好な関係を築けると思いますか。

あなたはその場で(あなたがバイセクシャル、パンセクシャルでない場合は)唯一の異性という圧倒的なマイノリティになるであろうことも意識して考えてみて欲しい。

今度は逆の立場で考えてみよう。
あはたはその職場(または学校)において何かしらの重要な役職に就いているとする。
なんか生徒たちをいやらしい目で見ているような気がする転入生や新入社員が突然現れたらどう思うか?

同性ばかりの華がない職場に急にとびきりの美女または美男が現れる!しかも性に奔放そうだ!と考えると素晴らしいシチュエーションに思えるが自分がそのマネジメントをする立場だとすると、これは少し厄介な事になりそうだ、と頭が痛くなると思う。
(それにそもそも現実には美男美女が現れるとは限らないのである)

ともあれ、この「自分の周りにほぼ『自分の性的対象になりうる性別』しかいない環境で長期間過ごす」というシチュエーションを実際に経験している人間はそれなりにいる。
決してマジョリティとは言えないと思うが、「それなりに多く」の人々、

例えば理系の女性や、看護系の男性はこういった環境に身を置いている。


自分はヘテロセクシャルを自認しているのであまり断言はできないが、
LGBTの方々も人生の多くをこういった場で過ごしているはずだ。
(私自身は上の理系の女性に該当する)

そしてこのような状況を実際に体験した人は
自分の周りの人全てをいちいち性的に見ることは難しいこと、逆に自分がそのような目線を向けていると周りに疑われる事に対する忌避感・恐怖感を感じるはずだ。そして所謂「ハーレム系」フィクションがいかに巧妙に「主人公がその集団で異物になることで生じるリスク」を覆い隠していたのかに気づくと思う。

(特に「終末のハーレム」などは明示的に主人公のマイノリティ性が特権性と強く結びつくような舞台設定を提示している。「終末のハーレム」の女性たちは種の存続のためにも主人公を排除できないのだ。)

この文章を読んでいる方で、逆に「異性」(以下「あなたにとって恋愛対象になりうる性別」という意味でこの語を用いる)との接点が無いことに悩んでいる方々は
「そんなのは贅沢な悩みだ」
と感じるかもしれない。確かにそれも一面では事実だ。
しかしそれは海で溺れている人に水の大切さを説くような不毛さがあるし、それに

学校や職場は単なる「出会い」の為の場では無い。自分の将来やその他の生きがい、その他の癒しを追求する場所でもある。そこに恋愛の論理を押し付けてはいけない。

とにかくここまでの内容をまとめると

  • 自分の周りにほぼ「異性」しかいない環境で日常を過ごす存在が世の中にはいて、それは必ずしもLGBTの人々とは限らない

  • 少なくとも筆者の体感として、周りにほぼ「異性」しかいない状況で彼ら全てを性的対象として捉える・捉えて日々を過ごすのは難しい

と言うことだ。実はここまでの内容もまだ一種の前置きのようなもので、本当に本当の本題はここからだ。

「男女の友情」が存在しないならもう生きていけない

先程の仮定をもう一度おさらいしよう。

あなたは新社会人もしくは転入生であり、あなたの新しい職場(または学校)にはさまざまな人々がいる。
一般的な職場と異なる点は一つだけ
それはあなた以外「あなたにとって恋愛対象になりうる性別」しかいないということ
あなたはそこで、少なくとも何年かを過ごす。

こう言った状況であなたは「男女の友情」についてどう感じるだろうか。

「男女の友情」は成立しないと仮定するなら

あなたと職場(学校)の人々の間に友情は無い

あなたは自分の日常の大部分を過ごす人々との間に友情を築くことは未来永劫不可能だ

あなたは「性別」(または「性指向」)というたった一つのラベルによってまるで仕分けでもされるように
「職場(学校)の人間にだれかれ構わず性的な目線を向けている」と断定される。自由意志によってそれを選ぶのでは無い。他者によってそれが決定される。

そしてあなたがいつも話す人々もあなたを友達だとは思っていないことが決定される。あなたは常に性的な目線で針の筵になっているらしい。そこにあなた自身の体感が入り込む余地は無い。

「男女の友情は成立しない」という仮定に無理があること、この仮説があなたに大きな痛みを与える事がよく分かっただろう。

そしてもし自分の周りにほぼ異性しかいない状況に生きているなら、あなたはきっと「男女の友情は成立する」と信じる他無いだろう。議論をしたいという気にもならないだろう。「男女の友情」が存在しないとするならば、日常を過ごすこと、ひいては生きていく事自体が難しい。

人々が飲み会やタイムラインを賑わせる為のトピックとして「男女の友情」論議に花を咲かせるたびに、こうした「周りにほぼ異性しかいない状況で生きている人々」に対して下のような多くの呪いを押し付けているのだと気づいて欲しい。

「お前の日常に友人はいない」
「お前は日常で接する人間全てを性的対象として見ている」
「お前が日常で接する人間は決してお前を友人として扱わない」

これを読むあなた達の比較的多くは、恋愛関係にまつわる以外で、家族以外の異性と接することはあまり無いのかもしれない。あったとしても自分の性別と「異性」の性別の人数比にそこまでの偏りは無いので、同じ性別の人間だけで「友情」は充分補えるのかもしれない。




だから「男女の友情」が成立しないとしてもあまり生活に影響は無いかもしれない。
だが、この問題が生活に直結する人々がいる。

でもそんなのは社会にとってマイノリティだろ、ほんのたわいもない話をしているだけなのにそんな一部の例外にいちいち配慮してられるか、と思う人もいるだろう。

だが、「男女の友情」議論は今を生きる人々だけでなく将来の子供達にも呪いをかける。

「男女の友情」議論によって、目指したい業界の性別比に偏りがある子供達の思いが抑圧される。

「この業界で就職しても居場所がない」
「将来的に職場で面倒な人間関係に陥りたく無い」
と言う感情で、本当に好きなことができなくなり、知らず知らずのうちに可能性の芽が摘まれていく。
こういった抑圧はいわゆる「理系女子少ない問題」(と併存する「進学校の男子文系目指せない問題」)にも繋がっていく。
「異性と話してる時は恋人と話す時と同じ脳の部位が活性化してる」のような出典も真偽も不明の断片的なエセ科学に子供を苦しめさせてはいけない。


もちろん子供達だけの話でもない。

「どうせ男女の友情は成立しないから人間関係が広がらない」
「サークルクラッシャーになってしまうかもしれない」
という思いは新しい趣味や仕事を始めたいと思う人々のハードルにもなっているだろう。

結論

「男女の友情が存在するか否か」を議論する気になれる人はマジョリティとは言え、自分が「異性」との関わりが多くない、限定的なシチュエーションに生きているからそのような気持ちになれるのだ。

そして問題の成否に関わらずそのような議論をすること自体が、LGBTをはじめとした「それなりに多くの人々」を傷つけるし、現在だけでなく未来の子供達への抑圧に繋がっていく。

そして表面上は「男女の友情は存在しない」と考えて問題が無いと思っている人々も
「『男女の友情が成り立つか』は議論の題材として成立する」
と言う念によって自らの潜在的な可能性や趣味志向を抑圧されている可能性がある。

だからもう、「男女の友情」に対してあれこれ言うの自体をやめよう、セクシュアリティも友情の定義も人それぞれなんだから


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