見出し画像

箸墓古墳は卑弥呼の墓か?

御覧いただきありがとうございます。
今回は日本最古の巨大前方後円墳「箸墓古墳」の被葬者について、簡単にですが考察をします。

箸墓古墳の概要

箸墓古墳は奈良県桜井市にある全長約280mの前方後円墳です。長さだけでいえば戦艦大和よりも大きいという巨大さです。3世紀後半に築造されたと推定されており、特に歴民博が行った放射性炭素年代測定では240~260年に築造されたという具体的な数字も出ています。(なお誤差も大きいといわれているので推定の域を出ない模様)

この巨大な古墳は、宮内庁によって皇族が眠る陵墓として治定されているため、一般人は中に立ち入ることは出来ません。また、発掘調査も出来ないため被葬者や古墳の詳細について詳しい事は分かっていません。

箸墓古墳のあれこれについては、この動画で分かりやすく解説していますので是非ご覧ください(露骨な宣伝)

宮内庁の治定は正しいか

 宮内庁は箸墓古墳を第7代孝霊天皇の皇女である倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)が眠る「大市墓」として管理しています。これが理由で立ちりが禁止されているわけですが、この治定には幾つか疑問があります。
 まず 宮内庁の治定は「日本書紀」などの伝承などを根拠にしていますが、この伝承は神話じみた内容で全てを鵜呑みに出来るものではありません。日本書紀自体も初期の天皇がやたら長寿(100歳越えは当たり前)だったり、 紀元前660年に神武天皇が即位されていたりと不自然な点が山積みです。
 それに加えて、第7代孝霊天皇は実在性がかなり薄いとされている(いわゆる欠史八代)ので、その娘である倭迹迹日百襲姫命の実在性は怪しいものです。また、古墳の築造年代と日本書紀に記された孝霊天皇の即位年(紀元前290年)は数世紀の隔たりがあるため、宮内庁の治定が正しいとするならば何らかの解釈が必要になるでしょう。

画像1

卑弥呼の墓といわれる理由

 「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王卑弥呼は248年頃に亡くなり径100歩余の塚(墓のこと)を造り100人余りの奴婢を殉葬したそうです。これを元にした箸墓古墳が卑弥呼の墓だとする根拠は以下の通りになります。
①古墳の築造年代と卑弥呼の死去年が近いこと。
②記された墓の大きさと箸墓古墳の後円部の大きさが一致すること。
③近隣に「纏向遺跡」という3世紀の日本では最大級の規模を誇る遺跡があること。

 まずですが、これは古墳の築造年代の推定が合っていれば…という仮定の上に成り立っています。巨大な古墳の築造には長い年月がかかるのは想像出来ますが、流石に何十年も経ってから古墳が完成するっていうのはおかしいですからね。
 

 次に②ですが、これは径100歩余=直径約150m=箸墓古墳の後円部(約150m)という解釈によって成り立っています。
「径100歩余」が何メートルかは諸説があり、永遠のテーマになっています。約150mとする長里説と約30mとする短里説が有力です。
 また、墓の形は特に言及されていないので、どんな形であっても卑弥呼の墓になりえると思います。箸墓古墳の前方部を無視し、後円部のみの大きさを元に一致してると主張するのも間違いではありません。尤も、何故無視したのかという不自然さは残りますが。ちなみに100人余りの奴婢を殉葬した痕跡は未だ見つかっていません。
 

 最後に③です。纏向遺跡は3世紀の日本最大の集落跡であり、この時代の日本のどこかで栄えた邪馬台国の都として捉えらることが多々あります。ちなみに箸墓古墳もこの遺跡の一部として属しています。
 魏志倭人伝では、わざわざ卑弥呼の墓について言及していることから、どの古墳を卑弥呼の墓とするかは邪馬台国の所在地を考えるうえで重要なファクターとなっています。①②のような根拠を持つ箸墓古墳が纏向遺跡に存在する、これが箸墓古墳を卑弥呼の墓だといわれる理由だと思います。

まとめ

 最後まで読んで下さりありがとうございました。ご覧になった通り、箸墓古墳を卑弥呼の墓だとするには余りにも根拠があやふやで、すぐに反論を飛ばすことも可能ですが、絶対に違うとを否定することは出来ません。
 様々な説があって研究が進んでも謎がどんどん深まっていく、これが邪馬台国論争の魅力ではないでしょうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?