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人間は人の不幸を喜ぶのか?

 以下のアベプラのYouTube番組で、『がんとの闘病をYouTubeに投稿していたが、寛解したとたんに登録者が減った』というYouTuberの方が登場した。

 番組内では、基本的にそれを嘆かわしいこと、というスタンスで構成しているのだが、私の考えは少し違う。若新さんが言っている、「リアリティへの安心感」というのもちょっと違うと考えている。

 確かに、『人の不幸は蜜の味』という言葉もある通り、人間は他人の不幸を見て、自分の方がまだマシだと思い、安心する側面がある。それは人の不幸を望んでいるようで、あまりポジティブに感じられないかもしれない。

 ただ、もう一つ忘れてはいけないのは、私たちは基本的なスタンスとして、『苦しんでいる人を支えたい』という気持ちを持っているということだ。

 何の苦しみも持たない人間は稀だ。というか、基本的にはいない。

 それでも、『苦しんでいる人を支えよう』『助けよう』とする人が世の中にいるということは、人間が、自分が苦しみの中にあっても、自分より苦しんでいる人がいるのなら、支えようという利他の気持ちを持っているという証拠に他ならない。

 「何をきれいごとを」。そう思うかもしれないが、別に根拠なくお花畑なわけではない。実体験として、私の苦しみの多い人生の中で、本当に苦しんでいるときに近づいてきた人というのは、おおよそが、私を助けようとしてくれる人だった。

 もちろん、弱みに付け込むというか、あざ笑うような人がいなかったとは言わない。
 それでも、私の親友はうつで苦しむ私に、新婚であるにも関わらず、「家に来て、一緒に住もう」と申し出てくれたし、休職した時、会社の社長は就業規則の休職期日を超えても私を雇用し続けてくれた。

 確かに、これを読んでいるあなたも、自分よりも不幸な人を見て嬉しいと感じるかもしれない。でも、その底にある感情は、「自分がまだ助けになれる人がいて良かった」という喜びではないだろうか。

 だって、本当の絶望とは、「自分は誰の助けにもなれない」ということだ。

 つまり、「自分は、誰にとっても無価値だ」ということだ。

 実際、うつ状態の時に、多くの人は「この世の誰もが自分にとって無価値だ」と絶望するわけではない。むしろ、「自分は、誰にとっても無価値だ」と思うことこそが致命的に自分を苦しめる

 そこまで行きついたとき、自分よりもさらに苦しむ人がいたら、「私が助けられる人が、まだここにいる。私には価値がある」と思って、喜ぶのが、そんなに汚いことだろうか。

 私はそうは思わない。誰かを助けたい、助けられる自分でありたいと願うことは、うつくしい。

 あなただって、自分がどれだけ大変でも他人を助ける人を、一度は見たことがあるはずだ。それを思い出してほしい。

 さあ、話を戻して、『がんとの闘病をYouTubeに投稿していたが、寛解したとたんに登録者が減った』という事実がある。

 それは、そのYouTuberの方が『不幸ではなくなったので見るのを止めた』人が一定数いるということを示しているが、その人たちも自分自身の苦しみと戦う当事者であることを忘れてはならない。

 だから登録を解除した理由は、番組内で嘆かれているような「人間の醜さ」ではなく、『自分に応援できる範囲を超えたから、あとは自分や、もっと苦しんでいる人を助けるためにがんばるよ』というポジティブな理由である可能性がある。

 そうして人に助けられた人は、また、人を助ける側にまわることもできるはずだ。若いころはどうしても性悪説を取りがちだけれども、人間という生き物は、お互いに助け合いながら、少しずつ社会を良くしていこうと試みる、優しい生き物だと私は思う。


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