Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-417…

Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-4173 #サーフィン #サーフショップ #イエローマーケット #yellowmatrket #楽天 #ヤフオク #京王線 #久我山 #芦花公園 #amazon #仙川 #クリエイチャー

最近の記事

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。 あの毛利元就の孫であり、戦国最大の決戦・関ヶ原の戦いでは西軍の総大将でもあった。 負け戦の大将なのに、敗戦後も家の存続を許されています。西国の巨魁毛利氏は家康も恐れていた。#鎌倉殿の13人 の大江弘元が祖で分家が関東の毛利庄を領し姓とした。謀略王元就の力で12か国の太守になるが、世に言う家を潰す凡庸三代目輝元により2か国、しかも上杉景勝の様に戦って負けたのでなく、何もせず家中を統率できずの厳罰は、戦国1の愚将でしょう。何

    • 元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

      元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。 一足先に信長を逃がし、豊臣秀吉や一説には明智光秀等と殿(しんがり)を引き受け、朝倉軍に追われた戦いですね。 寡兵で朝倉の追撃を食い止める役となった秀吉軍。 それは越前から京都まで壮絶な撤退劇でした。 金ヶ崎は浅井朝倉からみれば地元で土地勘があったはず、しかし信長を討ち漏らす失態を侵してしまう、なぜか?!それはやはり秀吉の戦術眼が優れていた事に尽きます。柴田勝家辺り

      • 【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

        【北条氏秀越後へ】1570年4月25日 北条氏康が上杉謙信に和を求めて子の三郎を送り、謙信は三郎を景虎と名乗らせ養子とし長尾政景の娘を娶す。氏康は桶狭間の戦い後の政局を睨み、宿敵上杉謙信との和睦を計る。これはかなり氏康は譲歩した形。人質も一方的に出すだけで上杉には求めなかった。普通に考えれば関東管領上杉謙信はこの申し出は認めないと思うが、義の武将は和を求める者は拒否しないと氏康は考えた。思惑通り越相同盟は果たされた。そしてこの氏秀(景虎)は謙信亡き後、御館の乱を起こし、上杉を

        • 【信玄、駿河から撤兵】1569年4月24日

          【信玄、駿河から撤兵】1569年4月24日 武田信玄が駿河から撤兵する。桶狭間以来、国内が安定しない今川家。いよいよ国人の離反が相次ぎじり貧状態。これも信玄の謀略と言われるが今川救済の名目で駿河に侵攻する。徳川とは密約を結び領土分割で手打ちするが、それも反故にし野心を隠さない信玄。北条の危機感は尋常では無く信玄の想像を越える軍事行動に出た。ここに進退窮まり一旦甲斐へ撤退。しかしそこは信玄、国人や領民としっかり話を付け再侵攻の段取りをしてから兵を引いた #光る君へ #大河ドラマ

        寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

          35年になるらしいドリカム。今年はツアーが有るらしい。スタジオミュージ

          35年になるらしいドリカム。今年はツアーが有るらしい。スタジオミュージシャンだった中村がコーラスをやっていた吉田に出会って、地下鉄のホームで歌って貰った、その才能に衝撃を受けてプロデュースを買って出た。しかし天才吉田の操縦は困難で、幼馴染で吉田の大ファンだった西川を誘って3人組になった。類い稀な才能を信じ、バックバンドなどで食い繋ぎ、とんねるずのツアーメンバーだった時に、大観衆が熱狂する感動を覚えツアーは絶対止めないと思ったらしい。中村は「解散の危機は有ったのか?」「無い、解

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          天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳の戦いに決着がついた日。

          天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳の戦いに決着がついた日。 織田家の跡継ぎを巡り、豊臣秀吉と柴田勝家が本気でぶつかり、豊臣軍の勝利。 なぜ秀吉が勝てたのか。 前田利家の裏切りがあったから――そう説明されますが単純なものでは無い。秀吉人生でも最高に冴えわたっていたこの頃の戦いは天下簒奪の野望へ突き進む強烈な力を感じる。教科書では秀吉勝利は当たり前、さらっとしか触れませんが、下馬評では秀吉の絶対的不利だったと考えられる。信長が手塩にかけた最強軍団長の柴田勝家とその与力は武

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          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。

          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。父康熙帝は35人の男子が居て女真族の伝統で皇太子を決めない事から激しい権力闘争に向かう。父が寵愛した次男には奸臣が集まり、次男は尊大になり性格が捻じ曲がる。4男だった雍正帝は生き残った9人との闘争に最下位の身分序列から帝位に就いた。父は中華史上最高の名君と言われ、明の残党を糾合、ロシアに侵略されていた台湾の解放、チベット外征でダライラマを助け、殖産興業と減税で清は安定した。その基盤を継いだが権力闘争で政権は不

          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。

          ネタニヤフと言う怪物

          ネタニヤフと言う怪物、国民国家は日本で言えば明治になり身分では無い統治機構が誕生、それは軍事貴族だった武士は、関ケ原などの局地戦で雌雄を決し、天下を抑え、そんな事に無関係の庶民から搾取してきた。しかしナポレオン登場後、戦争は総力戦となり、国の全リソースで激突する。そうなると兵も武士だけでは足りなくなり一般人兵が生まれ、それを支える女子供は立派な戦力となり、戦争後は選挙権などの権利が与えられた。これが国民国家、イコール戦争マシーンと言う事。冷戦後、国家正規軍同志の対立が無くなり

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          【柳生石舟斎死去】1606年4月19日

          【柳生石舟斎死去】1606年4月19日 上泉信綱より剣術新陰流の印可を受けた柳生石舟斎宗厳が没す。享年78歳。「石の舟は沈まず」と言われた新陰流の始祖、家康の旗本でボディーガード、黒田長政の推挙で真剣白刃取りの妙技を披露し直臣になったと言われる。数々の歴史小説やドラマの柳生十兵衛のモデル #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

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          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日

          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日 吉川元春・小早川隆景が播磨に入り、織田方の尼子勝久・山中鹿介の拠る上月城を包囲する。毛利元就にとって尼子は不俱戴天の仇であり、生涯大きな壁だった。月山富田城を落とし滅亡させた後、死んだ。しかし勇将山中鹿之助らは生き残り各地でゲリラ戦を展開。2代に渡って尼子との戦いは続いた。 #どうする家康 #大河ドラマ

          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日

          【徳川家康死去】1616年4月17日

          【徳川家康死去】1616年4月17日 徳川家康が駿府城で没す。享年75歳。渋沢栄一「日本史上最高の賢人」3英傑の最後の一人。前年に豊臣滅亡させて悲願の天下泰平の道を付ける。そして年号も「元和」改元、平和の元と言う意味です。日光東照宮の神君遺訓「人生は重い荷を背負い長き道を行くが如く急ぐべからず」自分の長命こそが政治の安定になると、信長秀吉を見て思った結論だった。事実、秀忠は思慮深く慎重、しかし決断は果断に行うと言う安定期に欠かせない存在になる #どうする家康 #大河ドラマ

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          【豊臣秀保死去】1594年4月16日

          【豊臣秀保死去】1594年4月16日 豊臣秀長の養子秀保が吉野十津川で事故死。享年16歳。秀吉の弟秀長の養子となり大和郡山100万石の太守へ。二人に取っては甥だったが、更に秀長の娘の養子となり婚約させている。藤堂高虎が後見をし、治世には問題無かったが、秀吉に実子が生まれると警戒の対象となってしまう。名護屋在陣後、吉野の花見に参加した時に事故死。秀吉は弔意を示さず、葬儀も隠密裏に行うと言う、なんとも陰謀論が出そうな最期 #大河ドラマ #どうする家康 ​​​​​​​

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          今、世界は各地で戦争が続発、後世「202〇年、第三次世界大戦勃発」などと言われるかも知れない。

          今、世界は各地で戦争が続発、後世「202〇年、第三次世界大戦勃発」などと言われるかも知れない。これは歴史の必然で、冷戦が終わって40年、封建身分制では無い国家は分断され、その矛先は戦争を欲する。300年にジャンジャックルソー「社会契約論」ですでに言われていた。封建社会はそもそも分断されており、庶民が搾取されて成り立つ国家であるので、人権も法治も権力者の視点からは無いので意外と体制は維持されやすい。しかし現代の国民国家はそうではない。ここは皆勘違いしている所、近代の戦争は軍事貴

          今、世界は各地で戦争が続発、後世「202〇年、第三次世界大戦勃発」などと言われるかも知れない。

          【「塵芥集」制定】1536年4月14日

          【「塵芥集」制定】1536年4月14日 伊達稙宗が171箇条から成る分国法「塵芥集」を制定。幕府衰退で統治機構が無くなると戦国大名は各地で独自の方を作る。今川、武田、大友などが有名、そして政宗の祖父が決めた伊達。塵芥集は刑法民法の区切りは無いが非常に細かく考えられていた。独特なのは「生口」と言う、私人逮捕権。基本伊達家は捜査はしない、冤罪を主張するならば真犯人を被疑者が50日以内に連行すると言ものだった。 #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

          【「塵芥集」制定】1536年4月14日

          【舟島の決闘】1612年4月13日

          【舟島の決闘】1612年4月13日 宮本武蔵と佐々木小次郎が舟島(向島)で決闘、武蔵が勝つ。関門海峡の小島、巌流島。武蔵は関ケ原に従軍したが戦争の無い時代に入ってしまい、奥義を極めた兵法は行き場を失い牢人となっていた。そこで確執ある細川家の師範だった小次郎との対決となる。その後、兵法だけでは無い侍としての人生の心得を記した、名著、#五輪の書 を書く #大河ドラマ #どうする家康 ​​​​​​​

          【舟島の決闘】1612年4月13日

          【武田信玄死去】1573年4月12日

          【武田信玄死去】1573年4月12日 上洛を目指した武田信玄が、労咳のため帰国途中に伊那駒場で病没。享年53歳。家が全てだった中世だが、やはり当主の力量の属人的要素は絶大。その信玄が信長の都合の良い時に死ぬ。それは上杉謙信も然り、戦国最大のミステリーは本能寺の変と言うが、この2人の信長に都合よく死ぬ方が謎です。 #大河ドラマ #どうする家康 ​​​​​​​

          【武田信玄死去】1573年4月12日