Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-417…

Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-4173 #サーフィン #サーフショップ #イエローマーケット #yellowmatrket #楽天 #ヤフオク #京王線 #久我山 #芦花公園 #amazon #仙川 #クリエイチャー

記事一覧

【秀頼、家康の上洛要請を拒否】1605年5月10日

【秀頼、家康の上洛要請を拒否】1605年5月10日 徳川家康が豊臣秀頼に上洛を促すが、秀頼はこれを拒否する。教科書的には、関ヶ原合戦、江戸幕府開府などで家康の天下と思わ…

Mitsuo Yoshida
18時間前

【伊達政宗、小田原へ】1590年5月9日

【伊達政宗、小田原へ】1590年5月9日 伊達政宗が小田原の秀吉のもとへ参陣すべく会津黒川城を発つ。秀吉の圧迫にいよいよ進退窮まる政宗。北条の二の舞を避ける為に小田原…

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書) 磯田 道史 。

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書) 磯田 道史 。長い政権は必ず腐敗し崩壊する。企業も同じ。創業者の時代は、そのカリスマでなんでもできる。しかし問題…

【真田幸村戦死】1615年5月7日

【真田幸村戦死】1615年5月7日 真田幸村、奮戦もあと一歩及ばず安居天神にて越前松平勢の西尾仁左衛門に討ち取られる。享年49歳。家康にとって真田は恐怖の対象。2度の上…

【今川氏真と徳川家康が和睦】1569年5月6日

【今川氏真と徳川家康が和睦】1569年5月6日 今川氏真と徳川家康との間に和平が成立する。桶狭間の戦い後、約8年保った戦国大名今川家も滅亡。妻の里である北条家を頼って掛…

職場を腐らせる人たち (講談社現代新書) 新書 – 片田 珠美。​​​​​

職場を腐らせる人たち (講談社現代新書) 新書 – 片田 珠美。今話題の退職代行などの新卒でも即座に会社を辞める。明治維新から欧米キャッチアップ型経済で高度成長期まで…

【木崎原合戦】1572年5月4日

【木崎原合戦】1572年5月4日 伊藤義祐が島津方川上忠智の守る加久藤城に攻め寄せ、援軍の島津義弘と飯野川原で戦うが大敗する。当時島津は国内の混乱で隣国よりも劣勢だっ…

【京極高次死去】1609年5月3日

【京極高次死去】1609年5月3日 京極高次が若狭小浜で歿す。享年47歳。今に続く京極家は近江源氏の名門、祖は足利尊氏の盟友婆沙羅大名で有名な佐々木道誉です。が無名で…

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【織田信孝自刃】1583年5月2日

【織田信孝自刃】1583年5月2日 織田信孝が兄信雄に追いつめられ尾張内海の野間大御堂寺で自刃。享年26歳。清州会議後、三法師の後見と岐阜を与えられた信孝。しかし後ろ…

【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日

【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日 豊臣秀吉が大友義統の朝鮮出兵における罪を糺し豊後を没収、義統を毛利輝元に預ける。小西行長は元々仲の悪い加藤清正が朝鮮王子逃…

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正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。

正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。 室町幕府の初代将軍。弓馬に優れ、メンタルも人一倍タフネス! と思ったら、精神的にムラがあり、歴史…

Mitsuo Yoshida
10日前

塙団右衛門討死】1615年4月29日

【塙団右衛門討死】1615年4月29日 大坂方の塙団右衛門が和泉樫井にて紀州浅野勢と激突、討死する。誰?無名の名将です。加藤嘉明の鉄砲大将でしたが、関ヶ原合戦で先駆けし…

Mitsuo Yoshida
11日前
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明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。

明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。 知名度は高くないけれど、あの坂本龍馬が抜擢した有能な福井藩士。 金融面に…

Mitsuo Yoshida
12日前
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寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。 あの毛利元就の孫であり、戦国最大の決戦・関ヶ原の戦いでは西軍の総大将でもあった。 負け戦の大将なのに、敗戦後も家の…

Mitsuo Yoshida
13日前

元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。 一足先に信長を逃がし、豊臣秀吉や一説には明智光秀等と殿…

Mitsuo Yoshida
2週間前

【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

【北条氏秀越後へ】1570年4月25日 北条氏康が上杉謙信に和を求めて子の三郎を送り、謙信は三郎を景虎と名乗らせ養子とし長尾政景の娘を娶す。氏康は桶狭間の戦い後の政局を…

Mitsuo Yoshida
2週間前
【秀頼、家康の上洛要請を拒否】1605年5月10日

【秀頼、家康の上洛要請を拒否】1605年5月10日

【秀頼、家康の上洛要請を拒否】1605年5月10日
徳川家康が豊臣秀頼に上洛を促すが、秀頼はこれを拒否する。教科書的には、関ヶ原合戦、江戸幕府開府などで家康の天下と思われがちだが、この頃はまだまだ戦国の気風であり、各地の大名は戦国を行きぬいた古強者だった。そしてなにより大阪には豊臣家が存在し西国大名は関ケ原後の外様しかおらず、事が起きれば天下はいつでもひっくり返る状態だった。この頃家康はまだ豊臣家

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【伊達政宗、小田原へ】1590年5月9日

【伊達政宗、小田原へ】1590年5月9日

【伊達政宗、小田原へ】1590年5月9日
伊達政宗が小田原の秀吉のもとへ参陣すべく会津黒川城を発つ。秀吉の圧迫にいよいよ進退窮まる政宗。北条の二の舞を避ける為に小田原行き決定。しかし古今東西こう言う絶体絶命でも内ゲバ権力闘争は有る。弟小次郎擁立派から暗殺未遂、その首謀者の中に実母まで居た。背後には秀吉に通じ、この機に政宗を失脚させたい最上義光が暗躍、寸でで命の危機を乗り越えた政宗は後顧の憂いを絶つ

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家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書) 磯田 道史 。

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書) 磯田 道史 。

家康の誤算 「神君の仕組み」の創造と崩壊 (PHP新書) 磯田 道史 。長い政権は必ず腐敗し崩壊する。企業も同じ。創業者の時代は、そのカリスマでなんでもできる。しかし問題はその後。賢人家康は権力継承に心を砕いた。この完璧な制度はなぜ崩壊したのか?!薩長による転覆?それは結果論。サラリーマン将軍や老中による治世の緩みが大きい。大名統制の肝、無私改易。薩摩や土佐にもこの危機があった。しかし「まあまあ…

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【真田幸村戦死】1615年5月7日

【真田幸村戦死】1615年5月7日

【真田幸村戦死】1615年5月7日
真田幸村、奮戦もあと一歩及ばず安居天神にて越前松平勢の西尾仁左衛門に討ち取られる。享年49歳。家康にとって真田は恐怖の対象。2度の上田城での完敗。「#どうする家康」では佐藤浩市演の真田昌幸「他人のモノを勝手に他人に与えてはいけない」と沼田領割譲に激しく抵抗した。幸村は連日の激戦で疲弊しきっていたが、最後の突撃で家康本陣の金の扇の馬印を倒し、数キロ後退させた。家康

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【今川氏真と徳川家康が和睦】1569年5月6日

【今川氏真と徳川家康が和睦】1569年5月6日

【今川氏真と徳川家康が和睦】1569年5月6日
今川氏真と徳川家康との間に和平が成立する。桶狭間の戦い後、約8年保った戦国大名今川家も滅亡。妻の里である北条家を頼って掛川城を明け渡す。かつての人質と大家の御曹司の関係は逆転し、氏真は流浪の人生へと。氏真は統治者としては力量不足だが、人間性は謙虚で没落名家にある尊大な態度は無かった。しかし北条家は代替わりで居心地はあまり良くは無く、京に行く。 #光る

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職場を腐らせる人たち (講談社現代新書) 新書 – 片田 珠美。​​​​​

職場を腐らせる人たち (講談社現代新書) 新書 – 片田 珠美。​​​​​

職場を腐らせる人たち (講談社現代新書) 新書 – 片田 珠美。今話題の退職代行などの新卒でも即座に会社を辞める。明治維新から欧米キャッチアップ型経済で高度成長期まで来た。それは寝る時間を削って働けば生産性が上がり、その対価として年功序列終身雇用があった。#司馬遼太郎 先生「#坂の上の雲」坂を上がれば豊かな対価が得られると言う明治と同じ官僚主導の護送船団方式。それをプランAだとすれば本来プランBに

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【木崎原合戦】1572年5月4日

【木崎原合戦】1572年5月4日

【木崎原合戦】1572年5月4日
伊藤義祐が島津方川上忠智の守る加久藤城に攻め寄せ、援軍の島津義弘と飯野川原で戦うが大敗する。当時島津は国内の混乱で隣国よりも劣勢だった。その隙に突然5000の大軍で僅か数十人の加久藤城が襲撃。義弘は数百の寡兵で出陣した。その際一人一人に声を掛け礼を言い鼓舞し勝利を確信させ勇気づけた。兵を2つに分け1隊は森に隠し、1隊は背後から攻める。城に向いていた敵は反転、わざと

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【京極高次死去】1609年5月3日

【京極高次死去】1609年5月3日

【京極高次死去】1609年5月3日
京極高次が若狭小浜で歿す。享年47歳。今に続く京極家は近江源氏の名門、祖は足利尊氏の盟友婆沙羅大名で有名な佐々木道誉です。が無名です。淀殿の妹お初の旦那と言う以外目立った記録なしとなってしまっています。それ以上に没落名門の京極家は名門好きの秀吉に姉を側室に入れ、大名として復活、高次は女の力で成り上がったとも言われ不名誉です。実際は関ケ原では東軍に付き西国随一の猛

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【織田信孝自刃】1583年5月2日

【織田信孝自刃】1583年5月2日

【織田信孝自刃】1583年5月2日
織田信孝が兄信雄に追いつめられ尾張内海の野間大御堂寺で自刃。享年26歳。清州会議後、三法師の後見と岐阜を与えられた信孝。しかし後ろ盾の柴田勝家は北国に居り孤立無援。そこに目を付けた秀吉は、信長葬儀の喪主問題を持ち出し、対立する兄信雄をけしかけ滅ぼす。あとは伊勢の滝川一益と、各個撃破されては手も足も出ない #光る君へ #大河ドラマ

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【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日

【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日

【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日
豊臣秀吉が大友義統の朝鮮出兵における罪を糺し豊後を没収、義統を毛利輝元に預ける。小西行長は元々仲の悪い加藤清正が朝鮮王子逃亡を追いかけた事に焦り、平壌まで深追いした。そこを狙われ包囲され進退窮まる。京城(ソウル)に居た黒田長政らに援軍要請したが、寡兵にて無理だとの回答。平壌近くの鳳山に居た義統は敵前逃亡したため、秀吉に軍律違反を問われた。 #光る君へ  #

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正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。

正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。

正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。
室町幕府の初代将軍。弓馬に優れ、メンタルも人一倍タフネス!
と思ったら、精神的にムラがあり、歴史ファンには「情緒不安定だよね……」と揶揄されてしまうことも。現代でもリーダーは揺るぎない信念で組織を引っ張る。そう言う虚像があるが、尊氏は家臣領民の話をよく聞く、優しい民政化だったとも言える。前例や組織論ガチガチで一方的に判断す

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塙団右衛門討死】1615年4月29日

塙団右衛門討死】1615年4月29日

【塙団右衛門討死】1615年4月29日
大坂方の塙団右衛門が和泉樫井にて紀州浅野勢と激突、討死する。誰?無名の名将です。加藤嘉明の鉄砲大将でしたが、関ヶ原合戦で先駆けし「大将の器に非ず」と罵倒され出奔。その時「遂ニ江南(こうなん)ノ野水二留マラズ、高ク飛ブ天地一閑鴎(いっかんおう)」という即興の詩を書き付け文才も高かった。大坂の陣では豊臣に従軍、たった20人で夜襲を掛け蜂須賀軍を大混乱に陥れ、重臣

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明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。

明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。

明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。
知名度は高くないけれど、あの坂本龍馬が抜擢した有能な福井藩士。
金融面に強く、日本初の財務大臣でした。
実は、東京の街作りにも尽力した、東京都知事でした。藩主松平春嶽の要請で熊本から来た横井小楠に影響され民主主義資本主義に興味を持つ。坂本龍馬との交流は有名で「みつはち」(旧名は三岡八郎)と呼んでいた程

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寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。
あの毛利元就の孫であり、戦国最大の決戦・関ヶ原の戦いでは西軍の総大将でもあった。
負け戦の大将なのに、敗戦後も家の存続を許されています。西国の巨魁毛利氏は家康も恐れていた。#鎌倉殿の13人 の大江弘元が祖で分家が関東の毛利庄を領し姓とした。謀略王元就の力で12か国の太守になるが、世に言う家を潰す凡庸三代目輝元により2か国、しかも上杉景勝の様に

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元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。
一足先に信長を逃がし、豊臣秀吉や一説には明智光秀等と殿(しんがり)を引き受け、朝倉軍に追われた戦いですね。
寡兵で朝倉の追撃を食い止める役となった秀吉軍。
それは越前から京都まで壮絶な撤退劇でした。
金ヶ崎は浅井朝倉からみれば地元で土地勘があったはず、しかし信長を討ち漏らす失態を侵して

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【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

【北条氏秀越後へ】1570年4月25日
北条氏康が上杉謙信に和を求めて子の三郎を送り、謙信は三郎を景虎と名乗らせ養子とし長尾政景の娘を娶す。氏康は桶狭間の戦い後の政局を睨み、宿敵上杉謙信との和睦を計る。これはかなり氏康は譲歩した形。人質も一方的に出すだけで上杉には求めなかった。普通に考えれば関東管領上杉謙信はこの申し出は認めないと思うが、義の武将は和を求める者は拒否しないと氏康は考えた。思惑通り越

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