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料理は家事に入りますか

*2020年7月、タイトルを変えました。

 こんばんはいづつです。優しさの押し売りは怖いなーと思わされるNewsPicksでの出来事がありました。

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 私自身も驚いたのですが、私のドライな家族観のコメントに400以上の「いいね」がつきました。押した人たちが同様の家族観を実現しているのかそれに憧れているだけなのかわかりませんが、この同意と批判の多さは潜在的な社会問題だろうと思いました。これだけ盛り上がれば当然批判コメントも散見されるわけですが、それらへの反論含めて「優しさの押し売りに困っている夫たちの悲痛な叫び」として代弁してみたい。と思ったけどあまりそうなってなさそうな記事が書けたけど、せっかくなので投稿しておきます。

 なお本文は片稼ぎ世帯を前提にしているので、共稼ぎ世帯に同じことが言えるかは考慮していません。文中の「夫」「妻」というワードはもちろん入れ替えていただいても構いません。

■優しさの押し売り

 私以外のコメントで、「妻の優しさがわからん奴」的な批判コメントが複数ありました。「優しさから生じる行動は必ず受け入れろ」という意味だとすると、そりゃ絶対違うだろと思います。ご批判のみなさまは「ありがた迷惑」ってのを経験したことないのでしょうか

 起きていることを4行で書くと

妻「私が家事を90やって夫は10しかやらない」
夫「20で十分だよ」
妻「家族のためにやった。ありがたく思え」
夫「」

ということが起きているのですが、これって

A社「B社向け製品を90個作りました」
B社「10個で足りるので10個買います」
A社「貴社のためを思って作ったのだ。買い取れ」
B社「」

と同じなんです。買うわけないだろ

 私はこれを「優しさの押し売り」と呼んでいます。優しさの押し売りをありがたくないのに買い続けていると、相手はたいそう満足するから継続しようとします。そうすると結果的に永遠に買い手は我慢し続けることになります。こんな生活は幸せなわけがない。

 我が家はこの件について専業主婦の妻とガチで話し合いました。「気持ちは嬉しいけど、そのクオリティなら食事は作らなくていい」「時間がないと文句を言うなら、おれのために作る料理をやめればいい」と面と向かって言ったわけです。やはり最初はショックを受けたようですが、これを機に私の食事は、妻の気分次第でインスタント、冷凍食品、缶詰などの組み合わせで済ますことが可能になりました。最近のインスタントフードは安いし美味しいし野菜や果物も採れるのでバランスも大丈夫です。私のために作る料理がなくなると、買い物の時間と調理の時間がぐっと短縮され、育児に使える時間が増えました。家族で食べるものがバラバラであっても、団欒の時間になんら支障ありません。

 このドライな家族関係がなぜ成立するのか。そもそも家事っていうのはどういう場合に意味があるのかという疑問からスタートして考えれば、自然に行き着く形だったりします。

■「やらなきゃいけない家事」と「やらなくていい家事」

 外食やインスタント食品のクオリティが飛躍的にアップし、洗濯機、食器洗い機、ルンバのような家電やロボットが普及し、ECで日用品から生鮮品までもが手に入るこの文明、専業主婦という仕事には競合相手がひしめきまくっています。よくアウトソーシングと呼ばれるやつで、家事だってプロに任せたほうが効率がいいという話と同じです。昔は「やらなきゃいけない家事」ばかりだったのが、「やらなくていい家事」にどんどん切り替わっています。

 こんな時代に大してクオリティが高くない家事に何時間もかけているのは、「やらなくていい家事」なのにやらないと自分の存在意義が揺らぐと誤解して必死になってやっているに過ぎないからです。自分がいなくても仕事が回るとわかっては困るから会社に行くんだという、リストラ候補第1位集団のサラリーマンとたちと完全に同じ構図。

 サービスでも家電でも、形は問わず時間を買える人はどんどん買えばいい。余った時間を睡眠、子供の世話、内職など価値のあることに費やしたほうがはるかに有意義です。

■「やりたくない家事」と「やりたい家事」

 前記と違う観点で、「やりたい家事」と「やりたくない家事」という切り分け方があります。多くの人にとっては家事は基本やりたくないものですが、中には掃除や料理が好きな人がいます。それ自体は結構なことなのですが、やりたくてやったことを恩着せがましく主張してくるのは本当に好きなのか?という疑問で跳ね返ってきます。

 典型例が「自分が作った料理を食べてほしい」という妻にとって「やりたい家事」が「美味しくてバランスがよければ誰の料理でもいい」という夫にとって「やらなくていい家事」であるケース。「料理を作る」ところまでは自分だけで完遂できるので好きでやっているのなら結構なことですが、「食べさせる」ことは相手の協力が必要です。当然ながら協力を得るには美味しいとか栄養バランスがいいとかいう手料理の利点がないといけません。外食のクオリティが高いこの現代、美味しくて栄養バランスがいい食事は他に選択肢があるので、これらに劣ったものを出しても相手を困らせるだけです。逆にもし料理が「やりたくない家事」なのにやっていたら、そりゃ不味いものが出来上がって然るべきです。これこそ最悪な不幸家族。

 実話か作り話か知りませんが「メシマズ嫁」というネタが少し昔にあったのを思い出してググったらすぐ見つかりました。

 メシマズ嫁が幸せかどうかわかりませんが、メシマズ嫁の旦那はさぞ不幸な結婚生活なことでしょう。私も「夕飯何がいい?」と聞かれて正直に食べたいものを言ってもほぼ必ず違うものが出てくる最近、帰りは吉野家に寄ったほうがいいと思い始めています。吉野家じゃなくてもいいけど。

 冗談交じりの話はこのあたりにしておこう。本当に「やりたい家事」なのであれば自主的な行動理由なのでストレスなどないはずで、その時間を家事にカウントして「私はこんなにやっている」と恩着せがましく主張したらそんなのは優しさではない。ウザく感じた相手は「だったらやらなくていいよ」と言うに決まっています。「やらなくていい家事」はもはや家事ではなく趣味と考えるべきで、「自分にとって道楽でも無関心な人を無理やり巻き込んではいけません」という当たり前な道徳です。

■家事をやらせたければ家事をやめよう

 やや回りくどい前置きをします。社会性昆虫の代表格、蟻や蜂。そのコロニーでは、いつも忙しく働いている個体が2割、そこそこ働く個体が6割、まったく働かない個体が2割に必ずなるそうです。2-6-2の法則とも呼ばれます。その働きぶりの違う個体たちの違いは、巣の中の食料備蓄や衛生環境を見て「働かないとやばい」と判断する閾値の違いでしかないそうです。忙しく働く2割の個体をコロニーから取り除くと、残った8割がまた2-6-2になって、忙しく働く個体が現れます。

 家族も同じです。「家事をやらなきゃ」とスイッチが入るための閾値が違う何人かがいて、忙しく家事をする1人はこの閾値が最も低い人だった、というだけのことでもあります。だから例えばその忙しい第1位がある日突然すべての家事をやらなくなれば、2番目に閾値の低い第2位が忙しく家事をするようになります。経験ある方も多いのではないかと思いますが、ママが旅行や帰省で数日不在にすれば、残されたパパと子供達でやるしかないので掃除や洗濯をしますよね。

 つまり、自分が家事をやらなければ、自然と他の誰かが家事をやるようになのです。「自分がサボる」という決断のほうが「もっとやってよ!」と言うよりよっぽど効果的です。我慢できずに結局自分が手を動かしてしまったら、それは残った人にとって「まだやらなくていい家事」です。やらなくていいと思っているのにやらされると、当たり前ですが出来栄えもいい加減にもなります。こういう見方をすると、多くの場合「夫が家事をやらない」のではなく「妻が先に家事をやってしまう」と解釈することもできます。

■やらなきゃいけない家事なんてほぼない

 色々な理由で家事をやる人が家庭内で偏る原理を説明をしましたが、やっぱり最後に一言だけ強く言っておきたい主張があるとすれば「優しさの押し売りが怖い」に尽きると思います。いまどき「やらなきゃいけない家事」なんてほとんどないので、それでも頑張って家事に時間をかける人は好きでやっているのだとしか思えず、だからこそ家事をたくさんこなしたと言って威張るのは控えめに言ってウザい。

 洋式の結婚式で新婦がグローブをするのは、「ハウスキーパーを雇えるほど裕福な家に嫁ぐのだから、自らの手を汚すことはない」という意味が込められているとか。ハウスキーパーがいるのに暇で耐えられないと言ってグローブを外したその手で家事をやろうとしても、プロのシェフやメイドには敵わないという単純なことです。


しまった、そろそろ書きかけの環境問題の話を完成させないと。

Yoshiyuki IZUTSU

https://www.linkedin.com/in/yizutsu/


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