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斎藤幸平『マルクス解体』人新世の未来予想図

ポスト・モダン。これはモダン批判ということで、例えば管理社会で、のっぺらになった社会は問題があるので考え直そうというスタンスによっている。

というのも、例えば脱構築的に極論から常識を疑っていくような現代思想の傾向は、客観的にならなければならない。読み方があるという事です。

その上で、脱成長に向き合わなければならない。そういう意味では、この概念を、ライフ・スタイルとして捉えなければならない。

ゆえに、脱成長は「脱政治」という用語と同じくらい政治的なんだ。そう思います。

ナンシー・フレイザー『資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか』のポイントは、資本主義をいう言葉(かつては、左派の用語だった)が一般的になっている。なぜか。

3300文字強、長め。目次のA,Bパートでイントロダクション。C,Dで本題になります。


A:イデオロギーの現代思想

デヴィッド・ハーヴェイは、ポスト・モダンの地理学者で、マルクス主義者である。

彼ハーヴェイのポスト・モダン言説は、現代社会の問題点を、やや過激な方法でまとめているという方法論を意識した上で読むと意味がある。そんな感じがする。

というのも、彼の『資本論入門』では、価値観の転換が短期で行われるというイデオロギーの問題点を示している。

エピソード:彼が地理学会でディスカッションをしていたら、彼の理論に多くの人が関心を示した。次に彼が、この理論の参照がカール・マルクスであることを紹介した。すると、ほとんどの人が関心を示さなくなった。

モダンの領域では、イデオロギー対立を前提として議論が成立している。ですから、最も重要なのは誰の理論であるか。それだけになります。

もっとも、ポスト・モダンも連続するモダン(近代)の領域の事なので、同じような問題性を抱えていて、多様性や過剰性が常識となっても、なんらかの、わだかまりが残る。

ゆえに、ポスト・ポストモダンも同じ問題点が生じる。そのはずです。

B:脱構築、現代思想のコアから

さて、斎藤幸平さんはどうか。というと、確かにその現代思想は、マルクスに全てのリソースを投入しているという意味で、過剰です。

一方で、幅広く現代思想の理論を説得力のある形で示して、日本国内での「政治」に関する問題意識を、中心的なコーディネーターとして、ある種のキュレーターとして機能している。(この場合の政治は気候変動問題です)

変わって千葉雅也さん『現代思想入門』では、脱構築的な思想家として、デリダ・フーコー・ドゥルーズを挙げて、それに先立つ思想家として、マルクス・フロイト・ニーチェを紹介している。

さらにさかのぼるとイマニエル・カントの超越論哲学になって、千葉さんは、それを継承する現代思想について、「他者性、超越性、極端化、反常識」の4つを挙げています。

極端化と反常識は、似た意味で使われていますので、この4つ(3つ)をまとめるとこうなります。

近代哲学の超越性を意識した上で、他者性を前提として、より極端化(反常識)された現代思想によって問題解決を行う。

(千葉さんの他者性は、超越性と対比させていくことで現代社会の本当の問題点を発見していくという点で抽象的な概念だと思います。これは「脱政治」的に政治する営みでリアルな意識になる。それはどこにでも機能する。)

C:脱成長コミュニズムの生成

斉藤さんに戻ると、カール・マルクスを、ルカーチで読み解くという、かつての思想家を現代に蘇らせる極端化で定義して、続いてラトゥールの思想を一元論としてしりぞける。

斎藤氏は、ルカーチ『歴史と階級意識』を、マルクス的な思想の展開にとって重要な思想として再評価します。ルカーチの階級意識は、労働者の当事者意識を、感情の問題として重視します。この場合は資本家では無いという差異に意味があります。

ラトゥールに至っては、社会学の存在論的展開は、例えば「もの」への開かれへと文化人類学は、オリジナルの思想としては重要だが、ここでは一元論は、主語(主体)の欠如として現代思想的に批評されます。

人間と環境は、二元論として政治的な目的と対象が、はっきりする。ところが、一元論ラトゥールは、環境を「アクター(アクタン)」として、人間と同じような役割を持たせる。

この点は政治的であるかどうかが論点となっているように思われます。ラトゥールの思想は、やや流行が落ち着いている印象ですが、フランスの現代思想を独創的な方法で展開していました。

別の見方をすれば現代思想批判という形でドイツ的な近代哲学による問題解決を行っていくという事でしょうか。

斎藤氏の捉える哲学史。(たぶん)

近代哲学
カントから、マルクス・ヘーゲル。(二元論的)

ポスト・モダン:(近代の後)
デヴィッド・ハーヴェイ(二元論を批判的に再構成する)

ポスト・ポストモダン:(ポストモダンの後)
ラトゥールに代表されるのは、主観と客観の無い(乏しい)一元論。人間と自然の差異が曖昧になる。

D:本書のまとめ

斎藤さんとしては、ドイツ的な哲学を重視する傾向があるのかもしれません。アートの観点ではラトゥールの影響はあるように思えます。

この点では、相対主義批判になっている。そして現代思想としてのカール・マルクスを主体(例えば私、そして共同体、それからコモン)という形で捉えているように見える。

本書の第一部のルカーチから、第二部の相対主義(現代思想)批判の部分が、哲学史として興味深く感じました。解釈は一義的でなく、むしろ物事の二面性にあって、思想の断定とレッテル貼りは慎重に行わなければならないと思います。

スロヴェニアのマルクス主義ジジェク、それからガブリエルに連なるようなドイツ観念論の解釈、それを哲学史として現代思想に置き換えている。

(ジジェクはスピーチの名人。ガブリエルは、哲学的な対話を企業倫理に結びつけて交渉するという意味では活動家です。気候変動の企業倫理は、ドイツ国内の企業間合意、EU域内の合意、グローバルな合意の形成と多段階に渡る困難なものだが可能性はある。

斎藤さんは、「生産力主義」と「ヨーロッパ中心主義」のマルクスを超える試みです。グローバル社会の複雑化はこの点でニヒリズムに陥らざるを得ないけれども、その危機への抵抗が不可欠です)

E,(感想)人新世の未来予想図

この点では、現代思想の潮流が、一元論的な相対主義が重視される傾向について危機感を持っているもかもしれません。この点では、現実の問題は変化と活動だ。

脱成長コミュニズムは、脱成長を現実な問題として扱う意識が重視されるので、個人の積極的な関心と、問題の本質は何かという明晰性が必要。その中で、ブルシット・ジョブが何であるかというような定義が重要です。それは、政府セクターにあるのか、民間セクターにあるのか。それともグローバルな領域なのか。

脱成長コミュニズムは、その大げさな言説、その可能性と不可能性が試される。あらゆる社会問題は、多様性がハッシュタグのように、拡散するプロメテウスに、その複雑性こそが再帰的に考えるきっかけであり、目的でもある。

Xする対象の言説それ自体に悪は、まるで無い。

革命的な改革。その意味では『人新世の資本論』も、入門書というよりは『共産党宣言』のような書物かもしれない。

共産党宣言』:高校世界史で覚えるのは3点。共産主義という妖怪、人類の歴史は階級闘争、団結せよ。本書では、マルクスの黒歴史とされる個所です。斎藤さんのコミュニズムの場合は、自治的な営みを、現代思想の視点を踏まえて再構築する、実現可能性。

最後に、フェリックス・ガタリ『エコゾフィー』になるが、彼の90年代の予言は、日本はラカン的な学問とデリダ的な学問になるだろう、というものだった。

ここで、フランス現代思想か、ドイツ哲学か。そういう疑問が出てくるが、なかなか決断はできず、それでも単純なハイブリッドは無いという事は言える。

このEUの対立は、ナポレオンとビスマルクのラグナロク(Netflixアニメ『終末のワルキューレ』)では無い。

哲学とは何か。ドゥルーズ主義者、ガタリ主義者であってはならない。マニアやフォローだけでなく変化が必要で、その意味でのみ、斎藤幸平氏は現代思想家である。

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