パズー∶『水中の哲学者たち』永井玲依。

パズーが目に入って、決めました。

本書のエピソードは、パズーの父親が『ラピュタ』に想いをはせると、『風立ちぬ』二郎が重なる。

この場合のバルスは、時間を意味するのだと思うが、アニメーションは動くんだという驚きがその間際にある。

同期的な時間と、つながるとは大げさな何かではありますが、何かはある。

バルスするべきか、バルスしないべきか。

哲学者の宮崎駿さんは、飛行機とは何かを語る。それを想像すると。

飛行機に、実体はなく、本質もない。だからアニメーションは、現実をうつす鏡とはならない。それでも手が動き出せば仕方なく作品は始まる。やれやれですよ。

バルスする。

ショートコント。書店のレジでの言語論。

「平凡社にカバーをお願いします。」

この時私は、講談社2冊に平凡社を添えてレジに持ち込みましたが、平凡社という単語が伝わらない。

「あ、これです。文庫の方です。」そう雑貨の多いチェーンストアの店の人へ伝える。

「カードでお願いします。」と、黒いカード、ただ黒いだけの安いクレジットカードを示します。

次のやり取りは、差し込みですか。タッチですか。

「ちょっと、差し込みって何ですか。」

プラスチックの端末は、電話の子機のようなもの。そこに開いた差し込みが存在する。

知識が無いと、ジャンプとサンデーの区別は難しいかもしれない。

ここでの結論は「平凡社」は「差し込みですか」である。伝わらないこと、そのつながり。

つまり、専門語はすぐに理解するのが難しく、コミニケーションの円滑化を妨げるのである。ここでは事実だけに注目します。

哲学対話とは何か。

永井さんが好む、強い対話。(この場合、強いという感覚が重要そうです。)

例えば、こんな文体でしょうか。

この本では、哲学者が語るものは、近代哲学の常識をうたっている。一方で、言語感覚、色彩と、その領域を象徴するであろう水中の水棲動物。それが隠蔽されている。

ボードゲームでの一手、対話のパターンは、選択肢は、実は限られている。その中で、命がけの一声。

ポニョ的な世界観が、崩されるのは、再生されるのは、すべて偶然でしかなかった。

この繰り返しで成立する。哲学は難しい。

ALWAYS三丁目の有斐閣(ゆうひかく)というギャグぐらい難しい。

(もちろん法律・経済系の出版社のゴジラです.)

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