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短編小説 糸を吐く

のどの奥がむずむずする。つい咳き込んだら、手のひらに何かがついた。目をやると、蜘蛛の糸のようなものが細く光っている。つまんで捨てようとすると、糸の端はまだわたしの中にあり、口からつるつると伸びて手にからみついた。

糸はきまって、恋人がそばにいないときに出た。

「今、どこにいるんだろう」
「何をしているのかなあ」

会社員のわたしよりも七つ年下の聡は、まだ学生である。自転車で十分ほどのところにある大学に通いながら、近くの小さな喫茶店でアルバイトをしている。

もともとは、彼からのアプローチがきっかけだった。やはり近くに部屋を借りて住んでいるわたしは、コーヒーのおいしいその店に、休日のたびに通っていたのだ。そのうち、春に入ったバイトの彼から「美香さん、美香さん」と話しかけられるようになり、誘われて出かけるようになった。回を重ねるうち、夏には自然につきあうようになった。

下宿暮らしだった彼は両親が海外赴任中ということもあり、余計に自由を楽しんでいた。1LDKのわたしの家で一緒に暮らすようになるまで、そう時間はかからなかった。「美香さんって、クールな大人にみえるのに、おっちょこちょいなところがかわいいね」などと言う彼に、はじめはからかわれているだけだと思っていたが、その素直な明るさに惹かれ、今となってはわたしのほうが彼に夢中になっていた。

わたしたちは、できる限りいつも一緒にいた。朝はともに目覚めて食事をとり、駅まで手をつなぎながら向かった。日中、離れているときは合間合間に「何してるの」「好きだよ」と電話やメールで連絡をとりあう。帰ってからは、どちらかの帰宅を待ってともに食事をとり、テレビを観て笑い、またともに入浴すると抱きあって眠った。

その彼が、一緒に暮らすようになって半年ほどたった今、なんだかおかしい。前のようにそばにいてくれなくなった。部屋にいるときもかまってこない。電話もメールもすぐに通じない。手をつなぐときも、心なしか握り方に力がない。

どうしてしまったんだろう。さびしい。
思いをめぐらすほど糸は強く太くなり、粘り気を帯びた。糸は、切ろうとしても切れなかった。おまけに、あとからあとから出てくる。彼以外のことにふっと意識がいくときに、吐き出される糸が途切れるぐらいだった。

糸の始末に困ったので、とりあえず指を芯にして、毛糸玉のように巻き取っていった。糸巻きはどんどん増え、わたしはそれをクローゼットの片隅にしまった。気になって時々目をやると、クローゼットは妖しくぼうっと光った。

どんなときでもそばにいたい。彼が何をしているか知っておきたい。いったい彼は何を考えているんだろう。彼と距離ができることで、その気持ちは日増しに強くなり、かつて自発的に彼が行なっていた行為を、いつしか強要するようになっていった。

「ねえねえ、最近おかしくない? 休み時間とかバイトの前とか、時間ができたらちゃんと連絡ちょうだい。離れていると心配なんだよ。いつもずっと『好き』って言って」

わたしが会社に拘束されている時間も、学生の彼には自由がある。年上のわたしが毎日揉まれてすりへっていっても、彼は若いエネルギーにあふれたままだ。まわりには、かわいい女の子だってたくさんいるに違いない。そして、彼女たちはもっと彼と話が合うに違いない。そんなのいやだ。起きているときも寝ているときも、彼にはいつもわたしのことを考えていてほしい。

一日のなかで、彼に電話をかける回数が増え、送ったメッセージへの返事が遅いと文句を言った。大学で彼がとっている講義の時間割を持ち歩き、空いているはずの時間は机の上の携帯電話をにらみ続けた。勤務中もトイレに行くふりをして、たびたび彼の電話を鳴らした。彼からの連絡があってもなくても関係なかった。職場で糸が出そうになると、気をそらすため、電卓で一から百まで順に足していったり、顧客の名前をアイウエオ順に唱えたりした。同僚とのおしゃべりも減った。何も知らない友人は「美香ちゃん、なんだか最近黙々と仕事に集中してるねえ」などと、まとはずれの感心をみせた。何をしていても、わたしの頭の中は仕事ではなく、彼でいっぱいなのに。

「聡くんがいつ、どこで、誰と、何をしているか、いつでもちゃんと知っておきたいの。ねえ、わかって」
「美香さんが心配するようなことは何もないから安心して。お願い」

いくら彼に言われても、わたしはやめることができなかった。そのようなことをすればするほど、かえって気持ちが離れていくことに気づかなかった。たとえ気づいていたとしても、とまらなかった。

そんなある日、彼があらかじめわたしに伝えていた行動に、嘘があったことがわかった。

それはささいなことだった。夕方からまた喫茶店でバイトだと聞いていたので、わたしは会社帰りになんとなく行ってみたのだ。シフトは冷蔵庫にマグネットで貼ってあるので、念のために確認しておいた。つきあうようになってからは、一応「公私のけじめ」もあり、彼の働いている時間帯は遠慮していたのだが、「たまにはいいじゃないか」と思ったのだ。

ところが、いつもどおり席について、彼にコーヒーを頼もうと思って見回しても、いない。すっかり顔見知りとなっている店長にたずねると、「ああ、美香ちゃん。聡くん、今日は休みだよ。あの子と交替で」と、目のくりくりとした小柄なおかっぱの女の子のほうへ顔を向けた。わたしは一瞬とまどったが、「いえ、いいんです。ここのコーヒーが急に飲みたくなったから、邪魔になるかと思いながらつい寄ってしまっただけなんです」とごまかした。

店でしばらく過ごしたけれど、わたしはずっと落ち着かなかった。本は文字を眺めてページをたぐっているだけで、内容などまったく頭に入ってこなかった。

こほっ。小さな咳が出る。またのどの奥のほうから糸の気配がしてきたので、必死でコーヒーと一緒に飲み込んだ。

商店街を通って帰るとき、居酒屋の前で数人の男友達と楽しそうに騒いでいる彼の姿を見かけた。わたしの知らない顔だった。声をかけるのがためらわれたので、そこを迂回して帰宅した。ほどなく部屋に戻ってきた彼は、「ああ、くたびれた」などと言って、すぐ横になってしまった。起こして問い詰めようかと思ったが、やめた。

「友達と遊ぶなら、そう言ってくれればいいだけなのに」

彼の寝顔を見つめながら、わたしはぼそっとつぶやき、電気を消した。その夜は眠れなくて、幾度も寝返りをうった。彼が向こうをむいているせいで、隣にいるのに遠く感じる。また、糸が出る。その糸を彼の胸から腕、背中にかけてみた。彼を布団の上でわたしのほうに転がして、彼の体に糸を一周させる。このままこうしてわたしにくくりつけておきたい。彼に腕をまわして抱きしめ、頬ずりした。口にはまだ糸の端が残っている。口づけすると、糸は彼の唇にはりついた。彼は目を閉じたまま、うるさそうにそれを払うと、向こうへ寝返りをうった。せっかく体にまわした糸は外れてしまった。わたしは、時々表を通る車の音を聞きながら、暗がりのなかで朝まで糸を巻き取り続けた。

それ以来、わたしは時々彼にこっそりと糸をつけて行動を追うようになった。仕事が休みの日など、彼が寝ている間や出かける前、すきをみてクローゼットの糸巻きのひとつを取り出し、糸の端を上着につけておくのである。彼が出かけると、少し時間をあけて、糸をたぐりながらあとを追う。見つからないように、でも見失わないように。信号でやきもきし、曲がり角では神経をとがらせた。また、大通りでは彼が振り返らないかとはらはらした。

糸をつけ、つかず離れず後を追うのは容易ではなかったが、思っていたほどではなかった。彼の行動はわりと規則正しく、行動範囲もほぼ決まっていたからだ。移動手段がほとんど徒歩か自転車ということも理由のひとつだろう。ふしぎと、糸が他の人やものにからまることはなかった。

彼の行く先はほぼ大学か、例の喫茶店に限られていた。時々ふらりと自転車に乗って出かける先も、駅前の本屋かレコード屋ぐらいである。そこはわたしもよく行く場所だった。たまに、友人何人かと学食でたばこを吸いながら笑っていたりするが、彼が送っているのは本当になんでもない日常なのだった。あきらかに、わたしに連絡をとれないほどの忙しさではない。だからといって、とりたてて連絡するほどのことも何もない。継ぎ目なく、なんとなく、流れていく毎日のようだった。

それでもわたしはあとを追い、彼の姿を確認することで、安心した。彼が動けば糸がゆれる、たぐればそこに彼がいる。わたしは、彼とつながる糸に幸せを感じるようになっていた

次の休みも、彼のダウンジャケットのタグに糸をつけ、少し離れてあとを追っていた。寒くても、雨でも気にしなかった。

すると、彼は知らない道を行くのだった。お昼過ぎにレコード屋に行ったところまではいつもどおりだった。そのあと、ケーキ屋でショートケーキをふたつ買ったのである。「わたしへのおみやげかなあ」と心躍ったのも束の間だった。彼はポケットからメモを取り出してなにやら確認すると、駅前のバス停に向かった。わたしはあわてて距離をせばめると、気づかれないように離れて同じバスに乗り込んだ。これから知らない町に行く。わたしも、たぶん彼も知らない町に。

下車したのは二十分ほど離れたところにある住宅街で、何人もの人が降りた。郵便局の角を曲がり、細い路地に入る。コインパークの前にあるアパートの一室に彼は入っていった。わたしは、近くの植え込みの陰に座り込み、ドアを凝視しながら待ち続けた。寒さに震えた。熱が出てきたようだ。一時間たっても、二時間たっても出てこない。

「じゃ、またね」
「うん、また来てね」

声にはっとした。熱に浮かされてうとうとしてしまっていたのだ。時計を見ると、彼が部屋に消えてから四時間もたっていた。日の暮れた道路に人影がふたつ見えた。街灯に照らされたのは、彼と、あのおかっぱの女の子だった。

もう限界だ。わたしは、何も知らずに帰宅した彼を部屋に閉じ込めることにした。もう、外に出さなければいいのだ。それならば、こんなにも神経をすり減らさなくてすむ。余計な人間に会わせなくてすむのだ。

夜、眠っている彼の両腕を背中にもってくると、糸を何重にも八の字に渡して、両手首を縛った。足首も同じように縛った。

「う・・・・・・ん」

彼はうめきながら目を開くと、異変を感じて一瞬固まった。そして手足の自由が奪われていることに気づくと、芋虫のように転がって暴れ始めた。

「ねえ、美香さん。おかしいよ。こんなのやめてよ」
「聡くんが嘘なんかつくから。なんのことかわかるでしょう? わたしのことさびしくさせるからいけないんだよ。あんなに言ったのに」

彼はいつまでも騒ぐのをやめない。わたしはタオルをもってくると、猿ぐつわをかませた。

「ねえ、別にこういうことしたいんじゃないの。わたしのそばでおりこうさんにしてて。ね? 学校にもお店にも連絡入れておいてあげるから」

彼は、額に汗を浮かべ、目を見開いている。

朝になり、約束を実行した。

「すみません、彼、海外のご両親に何かあったみたいであわてて行っちゃったので。代わりに連絡頼まれたんです」

わたしが話している間、彼の携帯電話が鳴っているのが、何度も聞こえた。「奈実ちゃん」の文字がディスプレイに浮かんでいる。電話が通じないとなると、メールが来る。あのおかっぱの子だろう。わたしは「なにが『奈実ちゃん』だ」と吐き捨てると、「聡はずっと出ないよ」と彼の携帯電話をトイレに流した。もう邪魔するものはない。静かな時間が訪れた。

すると今度は彼の胃袋が鳴る。

「そうね、そうだよね。ごめんね。ごはん食べようね」

わたしの手料理のなかで、彼が一番好きなシチューをつくることにした。彼が食べやすいように、具はいつもより小さめに切って。栄養だってたっぷりだ。

猿ぐつわをとり、できあがったものをひとさじずつ彼の口元へ運んだが、彼はうなだれて目をつぶり、食べようとしない。埒が明かないので、口うつしで与えようとしたが、拒まれた。だらだらとシチューが口の端から流れ出て、服をつたい、床を汚した。

「ねえ、これ聡くんが一番好きだったやつでしょう。ひとりで何杯もおかわりしてたじゃない。どうしちゃったの。ほら、味はいつもと同じよ。具が大きいほうがよかったの?」

彼はそれでも口を開こうとしなかった。食事の間は猿ぐつわをとってあげているのに、何も話してくれない。好きあっているはずのわたしたちなのに。彼はどうしてわたしに心を閉ざしてしまったのだろう。

そのあと、果物をミキサーにかけたものを用意し、彼のあごを上に向けて流し込むと、どうにか飲み下した。無理やりでも仕方がない。

この調子では、彼が何をしだすかわからない。危ぶんだわたしは、彼が頭などをぶつけることがないように家具を別の部屋に移動させた。ベッドもやめて、部屋には布団を敷いた。また、彼が飲み込むようなことがないようにこまごましたものはクローゼットにしまった。そのあとは、壁中にクッション材となるものをはりつけた。来客用の布団に毛布、いらなくなった洋服、ぬいぐるみ。

そうだ、窓。割られて飛び出されでもしたら困る。わたしは「何かのために」と日ごろからとっておいた透明の梱包材をパッチワークのようにつなぎあわせ、一メートル四方はある窓をガードした。普通の茶色いガムテープでは光がうまく入らなくなってしまうので、透明の幅広いものを使った。

わたしはふたりの巣をつくっているのだ。わたしの愛にあふれた巣。せっせと作業を進めるわたしを、彼は部屋の隅から見ていた。とはいえ、ただ、わたしは視界に入っているだけかもしれなかった。その目はどこをみているのか定まらず、いつか一緒に散歩したときの、曇り空の下のお濠の水に似ていた。

わたしは彼が眠るのを見届けると急いでホームセンターに行き、大人用のおむつと、外付けの鍵を買った。部屋の外から鍵をとりつけ、しっかりかかるのを確認したら、ほっと口元がほころんだ。

もう、これでだいじょうぶ。糸も、吐かなくていい。

彼が家にいると思うと、わたしは安心して出かけられるようになった。わざわざ確認しなくてもいい。あとをつけなくてもいいのだ。

帰宅すると、まっしぐらに彼のもとにいった。いそいそと部屋の鍵をはずす。今日は変わったところはないだろうか。用意した流動食もちゃんと食べただろうか。ひとつひとつ確認した。うん、だいじょうぶだ。少しやせてきたけど、前にダイエットするとかなんとか言ってたし。

手足を縛ったままだと、着替えが難しいので、はじめに彼が着ている寝巻きを裁ちばさみで切って、代わりにバスタオルを巻いていた。寒いとかわいそうなので、部屋は汗ばむぐらいに暖房をかけている。彼の体をふこうとすると、手首が赤くなっていた。こすれて切れたのだろうか。ところどころ、かさぶたになっている。

「だめじゃないっ。糸、切ろうとしたの」

彼は今日も黙ったままで転がっている。目元に涙のつたった跡があった。わたしは彼を抱きしめた。

「ばかねえ、なに泣いてるの。こんなに聡くんのこと大好きで大事にしてるのに。でもね、だからこそ糸は切れないの。ずうっと一緒。ずうっと」

わたしは彼の手をとりかさぶたに口づけると、そっと撫でて頬ずりをした。

彼はそのうち抵抗しなくなった。わたしが帰って「ただいま」というとうなずき、流動食以外の食事もきちんと食べてくれるようになった。お風呂代わりに熱い蒸しタオルを用意すると、おとなしくわたしに体を預けてくれるようになった。うれしくなったわたしは、慈しむように、すみずみまでていねいに彼の体を拭いた。また、彼は以前のようにわたしにくっついて眠るようになった。もう、そろそろいいかもしれない。猿ぐつわはやめてあげた。

あるとき帰宅して彼のいる部屋に入ろうとすると、ドアが異常に重くてなかなか開けることができない。おかしい。ものを置こうにも、あんな後ろ手に縛っているのに、もってこられるはずがない。わたしは全体重をかけてドアを押し開けた。

隙間から体をすべりこませると、ばらけた糸とともに彼がドアの前に倒れている。クローゼットが開いて、床の上に糸巻きがいくつも転がっていた。

どうも彼は口をつかってドアノブに糸巻きの糸をかけ、それで首をくくろうとしたらしい。いつかわたしが町で彼のあとをつけたときになぜか物にからまなかったように、今回も糸はドアノブにうまくかからなかったのだろう。
念のために彼の口元に顔を近づけると、息があるのが確かめられた。彼は消耗して眠っているだけだった。

わたしにだまって死のうとするなんて。どうしてそこまでしなければいけないんだろう。こんなに愛してるのに。わたしのどこがいけないの。悲しくて泣いた。泣きながらまた糸を吐いた。

わたしはもう会社にも行けず、涙も糸も出つくしたまま、ぼうっとして過ごした。巻き取る気力もなかったので、糸は床の上にあふれでたままだった。

あるとき、ふと目覚めると視界が白一色だった。自分がどこにいるのか、目が開いているのかどうかもわからない。昼なのか、夜なのかも判断がつかない。

目が慣れると、それは無数の白い糸だった。糸が、繭のようにわたしをくるもうとしている。糸の壁を押すと、やわらかくはねかえされた。

繭のなかで、わたしはひとりではなかった。かたわらには彼がいる。彼が眠りながら、糸を吐く。吐いた糸がふたりを包み込む。ふたりで糸にくるまれているのは、あたたかくて心地よかった。

夢かもしれない。夢でもいい。わたしは彼に身を寄せると、ふたたび眠くなり、白い闇に落ちていった。

しかし、やはりそれは夢だった。もう一度目が覚めると、わたしはいつもと同じように部屋にいた。

急に、部屋の中の色々なものがはっきりと輪郭をもって目に飛び込んでくるようになった。乱れた布団、壁にぶらさがった無数のぬいぐるみ、汚れたタオル。部屋にはわたしの吐いた糸が膝のあたりまでうずたかくつもり、ほこりが付着している。彼は髪もぼさぼさのまま、あばらの浮き出した体でわたしの糸に埋もれ、部屋の隅に横たわっている。わたしはと言えば、手足の爪が必要以上にのび、頬に手のひらをあてると肌もかさかさに乾いていた。体を動かすと、すえた臭いが立ちのぼった。

わたしははじめて、自分がずれてしまっていたことに気づいた。彼はわたしではないのだ。わたしのものでもないのだ。彼には彼の世界がある。なのに、わたしはずっとそれを認められなかった。

どこかで、ふつふつと音がする。しゃぼん玉がはじけるような、花の蕾がひらくような、かすかな音だ。あたりを見回して、すぐにわかった。糸が切れていくのだった。山となった糸の一本一本が切れていく。切れたものから、砂のようにさらさらと細かな粒子に姿を帰る。彼の腕や脚にまわした糸も、砂になった。

無性に、外の空気が吸いたい。ガードをはずしてひさしぶりに窓をあけると、強い風が吹き込んだ。春一番だ。もうすっかり白い砂の山となったわたしの糸は、部屋の中でらせんを描いて舞い上がる。そして、風に乗り、空にむかって飛んでいった。それは「風にさらわれた」というよりも、歓喜とともに、自由の世界へ飛び出していったようにみえた。

彼は自分を縛っていた糸がなくなったあとも、ふしぎそうな顔をして二、三日部屋にいたが、知らない間に出ていってしまった。

わたしは追わなかった。糸に縛られていたのはわたしだった。

彼が出ていってまた半年が経った。もしかすると町で出くわすこともあるかもしれないと思ったが、幸か不幸か、そのようなことは起こらなかった。本当に、海外の親元にでも行ったのかもしれなかった。わたしは、引っ越しをした。新しい場所で同じようにやってくる毎日をこなすうち、徐々に平静さを取り戻していった。もう、彼の連絡先も知らない。知っていても、もう何もする必要はない。何かの折にかつての駅の近くを通ったとき、あるいはふたりで出かけた場所を目にしたとき、胸が痛むだけだった。あの喫茶店へも、もう行くことはなかった。

今では、時々咳が出るたび、糸が出ていないかを確かめるくらいである。



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