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自己肯定論2022

唐突に降りてきた自己肯定に関する考察。
これ、真理だと思う。

今日の私は、4日間溜めた家族4人分の洗濯物を車に積んで、雪の降る国道を走っていた。

洗濯カゴには納まらず、でっかいカバンにもぎゅうぎゅう詰めにした山盛りの洗濯物を運んでいたからだろうか?

こんな自分を肯定しようと潜在意識が思ったのか、突然「自己肯定はするものだ。」というワードが降ってきた。

そういえば、数週間前に仲間内で「自己肯定感という言葉が嫌い」というテーマでディスカッションをしていたことを思い出した。

それを言い出した友人は、「世の中で言われてる自己肯定感て、自己肯定感ビジネスになっていると思う。」「自己肯定感の高い低いで人々を翻弄しようとする下心が許せない。」というようなことを言っていた。

私も、自己肯定感の高い低い議論は嫌いだ。

高い、低いという言葉を使うことで、優劣に直結していく感覚があるから。高い人が素晴らしくて、低い人が劣っている。というような。

そういうことをイメージしている時点で、自己肯定感とはかけ離れていることに気が付き、それ以来私は「自己受容」という言葉に変換するようにしていた。

だけど、言葉を変えたところで、「まだマシ」にはなったが、自己肯定感をめぐるモヤモヤは晴れずにいた。

その時の議論は、本来の自己肯定感てなんだろう。ということをみんなで思い思い喋って終わったのだが、

その後、私は自分の内側で衝撃的なことに気がついた。

私自身、子育てしていて、たとえ言葉を変えたとしても、子どもたちが「自己受容をちゃんとできているかどうか」ということをいつもいっっつも気にしている。

少しでも子どもの自尊心が傷つけられそうな出来事があると(自分が怒ってしまった時も含めて)、この世の終わりのような気持ちになる自分。

なんでかな?と思っていたら、しばらくして自分の中に浮かんできたことにさらに衝撃を受ける。

それは、「勝ち組になりたい」だった。

私にとって、自己肯定感(自己受容)とは、「勝ち組」になるための条件だったのだ。

オーマイガッ。

心からのオーマイガッ。である。

さて、そのショックを忘れかけていた今日、唐突に降りてきた

「自己肯定はするもの」という言葉。

ちょうどその時、私は先日見た海外ドラマ、SATC新章「AND JUST LIKE THAT... 」のことを思い出していた。

アメリカドラマというか、文化に共通することの一つに、自分の考えや感情を率直に言う。ということがあると思うのだけど、
「私はこう考える。」「私はこう感じた。」「私はそれが嫌い。」「あなたと仲直りはしたけれど、嫌な気持ちは無くなってない。」

忖度せず、嘘をつかず、葛藤もそのままに、真っ直ぐに自分を表現してる様子が印象的だった。久しぶりに大人の海外ドラマを見たからより強く感じたのだと思う。(普段はEテレばかり。涙)

ドラマの登場人物たちは、たとえそれが道徳的ではなかったとしても、自分が思ったことは真っ直ぐに「私は思った」と表現して、それが道徳的ではないと感じるならば、「道徳的ではない」とはっきり言う。

意見がぶつかることを恐れない。

その真っ直ぐさに、この人たちは心から自分を肯定しているんだなと感じていたのだ。

そのことを思い出していた時に、はっと思ったのが

「自己肯定はするものだ」

という言葉だった。

そうだ。自己肯定はするものなんだ。

感じるという言葉にはどこか受動的な響きがある。

違うんだ。

私が私を肯定するんだ。

自己肯定は感じるものではなく、するものだ。動詞なんだ。

やろうと思って、やることだ。

だけど、自己肯定感に悩みがある人はそれができない。

やればいいと言われて、すぐにできれば誰も苦労はしない。

なぜできないのか?それは、リスクが伴うからだ。

人からどう思われるだろう?嫌われるかもしれない。ひとりぼっちになってしまうかも。社会の中で生き残れないかも。

こんな自分を肯定するなんて、とてもじゃないけどできない。

自己肯定感を感じられないんじゃない。リスクを恐れてできないのだ。

リスクを乗り越えて、自分を肯定するには勇気がいる。

誰かが自己肯定感をくれるのを待っていてもその日は来ない。

自分が決めて、自分でやるしかない。

オーマイガッ

自己肯定は「能動的に」「自分で」やることだった。

オーマイガッである。

でも、これはgood newsだ。

だって、どんな過去があっても、どんな生い立ちがあっても誰にでもできるということだから。

朗報と見るか、不幸の知らせと見るか、それはあなた次第。

もし、そんなふうに言われて見捨てられたように感じたり、そんなの強い一部の人たちだけでしょ?と思ったあなた。
(それは過去の私)

できない人には、できないなりの理由もある。

決してあなたが劣っているわけではない。それだけは間違わないで。

人は、この世界に存在する命はみんな、この世界に現れた時点で十分強いの。それを覚えておいてほしい。

「するだけ」そんなこと言われてもできないよ。
それにはちゃんと理由がある。その理由は次回に続くのでちょっと待ってて。

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