コルカタ01

良かれと思い

先日、音楽で縁を繋いだ人が、近いうちに海外へ行くとの連絡があった。
その時、「みんなが着なくなった要らない古着を集めて持っていく」と言っていた。渡航先の服が買えない子供達などにプレゼントをするためだ。

約1年半前にも彼は、ギターと30キロを超える古着をバックパッカーや登山者が使うような大きなリュックに詰め込んでバングラデシュに向かい、弾き語りをしながら、道行く人に古着を配り、旅をしていた。

片言の英語と日本語しか話せないが、「音」を奏で、「唄う」ことで周りとのコミュニケーションを取りながら旅をしていた。彼が唄い、子供達は新しい服を着て、踊りながら彼の前を取り囲んで、とても楽しそうだった。
その楽しさが伝わってくる映像を観て、私も微笑ましかったのを覚えている。
ただ、今回はその時と違う言葉を吐露していた。
「偽善者」「物乞い癖がつく」「自己満足」

そんな批判を受けることがあると。

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25年程前だろうか。
母が営むスナックでアルバイトをしていた頃、北海道出身のある常連さんが、「地元から送られてきたジンギスカンが一人で食べきれないので、一緒に食べないか」とお誘いを受けた。
私は同じく店で働いていた女の子2人と共に、差し入れの日本酒を抱えて彼のアパートへ行き、わいわいとみんなで下ごしらえをしながら、ジンギスカンをごちそうになった。

彼は独身で当時定年を迎えて再就職し、アルバイトをしながら週に一度、決まった時間に来ては、好きなカラオケを歌い熱燗を飲む。とても人柄の良い穏やかな人だった。
程なくして年末が近づいた時、「今年最後のご挨拶」と、12月の3週辺りの金曜日に彼が訪れた。
「また一人で蕎麦すすりながら紅白でもみるよ。」
そう言って彼は笑いながら、いつもの熱燗をゆっくりと煽った。

次の日、
「ねえ、正月は彼のとこで、一緒に年越しに行ってあげようかと思うのだけど。」
母がそう言った時、
「求められてないんでしょ?そういう中途半端な優しさが、逆に相手を傷つけるんじゃないの?ずっといられるわけでもないし、身内でもない。独身で寂しそうなのは分かるけど、そんな人どこにだっているでしょ?これから毎年やれるの?彼が死ぬまでやり切れるの?自分が良かれと思ってしてることが、自己満足だけならやめた方がいいと思う。逆にもっと可哀想な思いさせてしまうから。」

あの頃の私は、
これが正論だと思っていた。

その後私は結婚し、アルバイトを辞めた。
彼は病気をして入院し、そこから来たり来なかったりになって、いつの間にか現れなくなったと聞いた。

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「良かれ」
語尾に「い」がつく形容詞を仮定形にすると「かれ」となる。
この場合は「良い」という形容詞なので「良かれ」。

相手が「良い」と思ってくれることを仮定する、或いはそうであって欲しいと願い使われる。

あくまでも「仮定」だ。
私自身、今まで良かれと思ってしてきた事で感謝されたこともあったが、結果的に相手を不愉快な気持ちにさせてしまって遠ざけられたこともあるし、そんな相手に振り回されたこともある。

ただ、彼の行動に対して、確かに子供達は笑顔になって、唄っていた。周りに映る大人たちも楽しそうに彼のギターを耳にしていた。それを信じて彼はまた旅立つ準備をしている。

この映像を見るたび、若かりし頃の未熟で薄情な自分を思い出し、心が苦い。

昔の私のように、行動にすら移せない人が偽善だの自己満足だの述べたところで、何の価値も意味もないのだ。

私は心から応援している。

彼の名前は「大山おおやん」。

我が応援バンド「ヌーダピッシャーズ」のドラム担当。
私は彼が弾き語りで唄う「コルカタ」が好きだ。

私には今、何が「良かれ」なんだろう。
移すべき行動は何だろう。

この歌を聴きながら考える。

(良かれと思って-Fin-)


読んでいただきありがとうございました。これをご縁に、あなたのところへも逢いに行きたいです。導かれるように。