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真っさらな自分になるために書く

今月、いろんな仕事に首を突っ込んでしまい忙しくしている。
自分で計画したことなので自分の責任なんだけど、緊張が続いてお腹の調子が悪い。こんなところで心と体のつながりを知るとは、、、まあヨガ的には学びの一つでもある。

思考する頭も、動ける体も一つしかないので、目の前の仕事とじっくり向き合って一つ一つこなすしかない。楽しい反面、頭が忙しくて休息を求めていた。

そして、書く(キーボードを打つ)ことで、ただ今絶賛頭を休めている。数年前にモーニングジャーナルを習慣にしていたことを思い出した。毎朝ノートに3ページ、思いつくことを書き連ねる。内容は問わず。

「書くこと何もないよー」でもいいし、「眠い」でもいい。自然に感謝する美文もあれば、こんなの誰が読んで楽しいのか?という駄文まで、レパートリーに富んだ内容だった。

今では「書く瞑想」なんて言い方をすることもあるのかな。
書く内容よりも、書く行為そのものが自己を癒やし、思考をシンプルにしていく。私たちの頭は、それだけ独り言のように脳内で勝手気ままにおしゃべりしている。アメリカの研究によれば、人は一日に約1万回~6万回も思考する。

そのおしゃべりを上手に鎮めていく術の一つが書くこと。普段吐露できない思い、答えの見つからない悩み、そんなことをつらつらと書いていく。着地点なんて無視して、自由に書く。きれいに書く必要もない。

休み時間の黒板に落書きするように、結露した窓ガラスにお絵かきするように、ルールに捕らわれず自由に書くことを自分に許してあげる。そうしていく内に、頭のおしゃべりがだんだんと静かになっていく。

私たちはいつも発散したいのだ。文章を書き、絵を描き、歌を歌い、写真を撮る。食物を育て、料理を作り、スポーツをして、山を登る。

子供の頃は近所を駆け回り、木に登り、わけもなく泣いたり笑ったり喧嘩したり、エネルギーを常に発散していた。大人になると、大義名分を示しながら自己表現をやっとしているようにも感じる。表現することそのものが色んなルールや秩序に縛られて苦しそう。

表現の仕方は人それぞれ違うけれど、内側に溜まったエネルギーを放出する術をいつも欲しているのではないだろうか。

私にとって、それは書くことだったり、ヨガを伝えることだったりする。
どんな行為も没頭し、集中すると、世界と自分との境界線がなくなって、
一つになって自分が消えていく。人は役割を背負った自分やエゴで覆われた自分から離れたくて、何かに集中しているのではないかな。

ヨガではそれをディヤーナ(静慮/瞑想)と言い、スポーツなどではゾーン状態と表現されている。

頭が静かになり、心が平坦になり、自分の呼吸の音しか感じられなくなって、世界も自分もただ一つだなぁと知ると、大きなゆりかごの中でゆらりゆらりと包まれて真っさらな自分と出会えるようになる。

忙しい日常の中でも自分が自分を見失わず、心を落ち着かせる術をもつこと。そうしたら、どんな時でも、どんな場所でも、あなたはあなたを大事にできる。

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