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御嶽道、北御坂

御嶽道シリーズ、前回は、

を、exploreしました。

前回言及しなかったんですが、前回の大久野ルートは、"南御坂" というようです。御嶽山の南側からのアプローチだからですね。

今回は、北からのアプローチ、北御坂ルートです。

北御坂ルートは、ルート的には、一般に知られる青梅線御嶽駅からケーブルカーで、というルートです。勿論、昔はJRもケーブルカーもありませんから徒歩ですが。

1834年に刊行された御嶽詣で道中記の、"御嶽管笠" によれば、

日本橋・新宿・成子・中野・荻窪・柳澤宿・小川村・青梅橋・千本桜・箱根ヶ崎宿・新町村・坂上屋林蔵・青梅町・玉川・畑中村・日影和田村・眼医師・下村・布屋・萬年橋・沢井・御嶽山・滝本・七代の瀧

という、青梅街道ですね、を、行くルートでした。


小作駅まで輪行、今回は、青梅から吉野街道に入る御嶽菅笠のルートではなく、吉野街道始点の小作から行きたいと思います。走ったことないので。

多摩川の河岸段丘を小作坂で下って、多摩川を友田水道橋で渡り吉野街道に入ります。

圏央道を潜ったら、花蔵院があります。

1475年開創の花蔵院、本堂の屋根が見事

花蔵院は友田御嶽神社の別当だった光岸寺を合わせています。

その、友田御嶽神社

この辺りは御嶽神社の供田で、御嶽神社を勧請し創建ということです。その後、寛正年間1460 - 67に、この辺りを治めていた三田氏が再建ということで、かなり古くからこの地に存在していたことが分かります。

はい、御嶽菅笠のルートにしなかったもう一つの理由がこれでした。

青梅街道は1606年に、江戸城築城の為、成木の石灰を運ぶ目的で、大久保長安が整備しました。その後、様々な目的で使われ、メジャーになっていきましたから、御嶽菅笠の時代は青梅街道を使ったと思いますが、中世はどうでしょうか。

少なくとも、友田は御嶽神社の供田ですから、友田と御嶽神社を結ぶ道はあり、それが、吉野街道だったと、思われます。

先を行きましょう、長淵、駒木野と行って、畑中の集落に入りまして、

東畑中神社跡
畑中神社、祭神は伊邪那岐尊、彦火々出見尊。今日はお祭りでした。

東畑中神社は元熊野権現、西畑中神社は伊豆箱根権現で、のち、間に位置する今の畑中神社に両神を合わせたといいます。

そして、

十王堂

これらは全て、本山派修験の大宮寺の持ちということで、ここ畑中は、修験濃度が高いですね。御嶽神社との強い関係が伺えます。

先を行きましょう、吉野梅郷に入りまして、下山八幡神社です。

下山八幡神社

風土記によれば、蔵王権現・若宮八幡の二座を合殿とす、ということで、また、宝暦五年造営の棟札には、長久二年1040 - 44二月鎮座とありますから、やはり、この地の、中世における御嶽神社との関係が伺えます。

下山八幡神社の前の道は鎌倉街道山ノ道

先を行きましょう、即清寺です。

真言宗豊山派即清寺、元慶年間877 - 84元喩和尚による開創、建久年間1190 - 98源頼朝が畠山重忠に命じ造営、印融和尚が中興。

ここは面白いです。

即清寺は明王堂、及び愛宕権現の別当でした。

明王堂、巨岩に建つ
愛宕権現
愛宕権現からの眺望、多摩川を越えた二俣尾の集落まで見えます。

その、明王堂に祀られていたのは、智証大師円珍手彫りの不空羂索大忿怒明王でした。

何が面白いかというと、智証大師円珍は天台宗のトップ、第5代天台座主ですが、その別当が真言宗豊山派の即清寺だということです。何かあったんでしょうね。

また、円珍は本山派修験を起こした修験と言われており、これも、御嶽神社との関係が伺えますね。

軍畑の渡しをやり過ごすと、ここにも、御嶽神社がありました。

御嶽神社、創建詳らかならず、即清寺が別当

先を行きましょう、御嶽トンネルの上に古道が残っていて、そこに、御嶽山道標と鳥居が残っています。

こういう道を行きます。
御嶽山道標と古道
鳥居と古道

さぁ、今の一の鳥居です。

一の鳥居

ここからが上りでした。いやぁ、キツかったです。四、五回止まりました。

15%勾配、平均ですよ。ケーブルカー手前は30%位あったんじゃないかな
御師
這々の体で漸くここまで来ました。
帰路に待って撮ったケーブルカー、ここは30%でしょう

如何でしたでしょうか。

江戸時代の北御坂は青梅街道でしたが、それより前、中世の北御坂は、もしかしたら吉野街道だったかもしれません。

次回はもう一つの南御坂、養沢ルートを、もう一度、行ってみたいと思います。

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