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その奇妙な店は~朝顔は絡みつく【奇談】

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません
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 その奇妙な店は、ジャングルのようであった。

 佳代子は思わず足を止めた。
 職場からの帰り道に、何となくいつもと違うことがしたくなって、いつも曲がらない道で曲がった。そして、見つけたのだ。その店を。
 花屋のようであった。
 床にはびっしりと植木鉢が並べられており、天井からは無数の植物がぶら下げられている。切り花は見当たらない。鉢植えの観葉植物がほとんどで、その全てが生き生きと緑に輝いているのである。
 その中に、一つだけ。明らかにそぐわないものがある。
「朝顔……?」
 観葉植物の、濃い緑に埋もれるようにして、朝顔が一株、置いてあった。
 どこか異国情緒あふれる店先に、純和風のそれはひどく目立っていた。しかも、いっそう奇妙なことに、今は晩夏である。普通こういった季節ものは、もっと早めに売りに出すものだ。八月も終わりに差し掛かろうというこの時期に、朝顔が店頭に並んでいることなどあるのだろうか。
 佳代子は店に近寄り、しげしげと眺めた。
 確かに朝顔だった。手で抱えるほどの大きさの植木鉢に、三本の支柱。そこに絡まるようにして蔦が延び、可憐な蕾を湛えているのである。

「それが、お気に召しましたか」

 声をかけられて、佳代子ははっと顔を上げる。
 この店の店員だろうか。物柔らかな笑みを浮かべた青年が、佳代子を見つめていたのである。
「珍しいですね。こんな時期に朝顔なんて」
 そう告げると、店員は少しだけ目を見張り、ややあって頷いた。
「ああ、ええ。そうですか、朝顔」
「何か?」
「いえ。――何か、御祝い事ですか?」
 店員の目線を追って、佳代子は破顔した。手に持っている、たくさんの紙袋。その一つから花束が覗いているのに気付いたのであろう。
「ええ。実は今日、仕事を退職したんです。それで」
「ああ、それはそれは……お疲れ様でした」
 店員は微笑んだ。
「そうだ、もし宜しければ、こちら、差し上げましょうか」
「えっ」
 目線で朝顔の株を示されて、佳代子は慌てて首を振った。
「そういうつもりで見ていたわけでは、ないですし、いただく理由もありませんし……」
「いいんですよ。これも何かの縁ですし。理由は、そうですね、僕からの、退職のお祝いということで、いかがでしょう」
「でも、ここお店でしょう? いただくなんて……」
 佳代子は焦った。何の気なしに見つめていた花を、無料で譲るというのだ、この青年は。もしかしたら新手の詐欺ではないか。タダと言っておいて、あとから高額な請求をされたらたまったものではない。
 そういった佳代子の不安を察したのであろう、青年は人好きのする笑顔を浮かべ、口元に手を添えた。そして、秘密ですよ、と言った風情で、佳代子に囁いたのである。
「実はこの株、少しだけ問題がありまして……ああ、いいえ。売り物にするにはという意味です。このままだと廃棄になってしまうので。勿論僕はお客様の住所を控えたりだとか、連絡先を聞いたりだとかも致しませんし、ご安心ください。この――朝顔、を助けると思って。よろしければ」

 随分と熱心に勧めてくる。

 佳代子は朝顔に目を移した。三本の支柱に絡まる蔦は生き生きとしているし、葉もつやりとして瑞々しい。愛らしく膨らんだ蕾は、朝を今か今かと待ち望んでいるようにも見えて、思わず佳代子は微笑んだ。
 丁度いいのかもしれない。
 仕事を辞めた自分には、世話をするものが必要だ。そう、思った。
「それじゃあ、ありがたく……」
 そう言うと、青年は、にっこりと笑った。何かを含んでいるような、印象的な笑みであった。

***

「どうしたんだ、それ」
 夫の隆司は帰宅するなり、声を挙げた。朝顔に気づいたのであろう。鉢は、リビングの隅に置いてある。最初はベランダに置こうかと迷ったのだが、夜は冷えるし、室内の方がいいのではと思ってのことだ。
 豆腐を掌の上で切りながら、佳代子は笑った。
「いただいたの。退職のお祝いですって」
「へえ」
 隆司は軽く眉を顰めた。
「朝顔、嫌いなの?」
 夫の声に不快の色が混じったのを感じ、佳代子はそう尋ねた。
「いや、お前にきちんと世話ができるのかと思ってな」
「失礼ね、植物くらい、私だって育てられます」
「そうかそうか、そいつは失礼」
 隆司は軽く笑って、背広を脱いだ。几帳面に皺を伸ばしてコートハンガーに吊るし、ダイニングテーブルにどっかり座ると、新聞を読み始める。
 退職の、ねぎらいの言葉はなかった。分かっていたことだけれど、少しだけ、胸の中に冷たい風が吹く。

 ――仕事、辞めたくなかったな。

 鍋の中に、切った豆腐を放り込みながら、佳代子は自分がまだ後悔していることを改めて自覚するのである。

 佳代子は会社を退職した。
 妊娠が発覚したのである。
 分かった時は、臨月のギリギリまで働くつもりでいた。大学を卒業してから三年、ようやく仕事が楽しくなってきたところであったし、今やめるのは勿体ない、産休を取り、子育てが落ち着いてきたら、復職する。そう考えていた。
 それに難色を示したのは、隆司だった。
「初めての子供なんだぞ」
 働きたい、と佳代子が告げると、隆司は目の色を変えて反対したものだ。
「家でゆっくりした方がいい。仕事なんかして、ストレスをためて、もし万が一のことになったらどうするんだ」
 夫の気持ちは、佳代子にとっても嬉しいものだった。それでも、少しだけ失望を覚えたのは事実である。

 隆司は、少々過保護なところがあった。
 所謂、幼馴染の恋愛であったのだ。とはいっても、佳代子がまだ黄色い帽子を被り、ランドセルを背負っている頃に、隆司は近所で大学生をやっていたのだから、一緒に遊ぶというよりは、自分を導いてくれる先生と生徒のような関係であった。
 だからであろう。隆司が、まるで自分を囲い込むようなことをしたがるのは。彼は、佳代子が社会と関わるのをよしとせず、手元に置きたがるような節があった。
 専業主婦に、と言う話をすると、同僚たちは羨ましいと口にしたものだ。けれど、佳代子にとって、それは退屈な日々を意味する言葉だった。
 夫の為にご飯を作り、掃除をし、夫の帰宅を待つ日々。
 とても耐えられる自信がない。佳代子は自分がそういったことに向いていないことをよく自覚している。
 ――朝顔、貰ってよかった。
 夫と、自分のことだけの生活など、気が狂いそうだ。植物を育てるという別の要素が加わることは、良い刺激になるのかもしれない。

 佳代子は軽く溜息を吐いた。

 出来上がった味噌汁を椀に移し、白米をよそう。おかずはもやしと卵を炒めたものと、キャベツと豚バラ肉を交互に敷き詰めて蒸したミルフィーユ。帰宅後に急いで作ったので、どちらも手間はかかっていない。
「お待たせ」
 佳代子が声をかけると、隆司は黙って新聞を畳んだ。
 二人で食卓に付く。いただきます、と手を合わせたところで、隆司が今気づいたというように、にっこりと微笑んだ。
「そうだ。仕事、お疲れ様」
「え?」
「今日、退職だったんだろ」
「……うん、ありがとう」
 心の中にじんわりと温かいものが広がっていくのを、佳代子は感じていた。心の中に巣食ったもやもやが、ゆっくり晴れていく。
 それと同時に、先程感じた後悔がすうと消えていった。
 夫は、確かに過保護で、そういった点では佳代子とはそりが合わないのかもしれないが、愛し、愛されているということは間違いないのである。夫婦として、それ以上のことはないのではないか。

 仕事を続けられなかったことは、残念だったけれど。

 この人の妻でよかった。
 この人の子を、授かってよかった。
 そう、思った。

***

「行ってらっしゃい」
 隆司を送り出して、佳代子はよし、と気合を入れた。専業主婦の一日目である。何もかも完璧にしなければならない。
 洗濯機を回し、その間に軽く掃除機をかける。
「あ……そうだ」
 朝顔。
 夜は室内の方がいいだろうと思ったが、今は朝である。少しは日光を浴びせた方がいいのかもしれない。
 佳代子はベランダを開け、鉢を移した。
 朝の爽やかな光に照らされて、朝顔はその葉をつやつやと光らせている。
「水、は、朝のうちにがいいんだっけ……」
 何しろ、今まで植物にはほとんど縁がない生活を送ってきたのである。もしかしたら、小学校の時に宿題で出された、朝顔の観察日記、以来かもしれない。
 水を入れたコップを持ってくると、朝顔にぱしゃりとかける。水滴がきらきらと輝いて、宝石のような美しさであった。

 佳代子は自らもベランダに出て、朝顔をじっくりと眺めた。
 三本の支柱に絡まる、しっかりした蔦。少し斑の入った、ハート形のような葉。青と白の螺旋模様が綺麗な蕾。まだ、花は咲かないようだ。もうすぐにでも咲くかと思ったのだが、なかなか頑固者のようである。

 ――この蕾、キャンディみたい。

 そういえば、そんなことを言った友だちがいた。朝顔の蕾を指さして、キャンディみたいだね、と言った友人が。
 佳代子は微笑んだ。確かに、朝顔の蕾はキャンディに似ている。
 せっかくいただいたのである。綺麗に咲かせたいものだ。
「……じょうろ、買おうかな」
 どのみち、夕飯の為に買い出しに行かないといけないのだ。そのついでにじょうろや、肥料も買おう。
 蔦はこのまま伸ばしていていいのだろうか。成長したら、この三本の支柱ではとてもではないが支えきれない。
 なにか、他に太めの支柱を買ってきて、それに誘導して……。
「あれ?」
 今、頭に何かが過ぎった。
 嫌な予感がした。不安とも言っていいかもしれない。指に出来たささくれのように、気にしなければたいしたことはないが、どうしても気になってしまう。そんな感覚に近い。

 ――気のせいだ。

 佳代子は微笑んだ。環境が変わって、それで、少しだけ不安定になっているのだ。そうに違いない。
 洗濯機が、終了の合図を鳴らす。
「はいはい、今すぐ」
 駆け寄って籠に移し、ベランダに洗濯物を干し始めるころには、あの嫌な予感のことなど、すっかり忘れてしまった。

***

「そうですね、水やりは朝と夜で、冷えてきたら室内に入れるのがいいと思います」
 そう言って、店員は朗らかに笑った。
 昼下がりであった。
 買い出しを終えた佳代子は、あの花屋に立ち寄ってみたのである。いつものスーパーにも、肥料やじょうろは売っていた。しかし、なんとなく、貰った場所で買うのが筋だと思ったのだ。
 店は、明るい光の下で見ても、相変わらずジャングルのようだった。佳代子から話を聞いた青年は、小ぶりなじょうろと、肥料を見繕ってくれた。お礼を言って、ついでに育て方について聞こうと思ったのである。
「ああよかった。それじゃあ、私のやり方で合っているのね」
「ええ。ただ……」
 店員は意味ありげに言葉を区切った。
「あの朝顔は、普通の方法では花は咲かないと思いますよ」
「えっ?」
「ああ、いえ。実は差し上げたあの株は、少し通常の花と違うのですよ」
「違う、というと……」
 青年は微笑んだ。

「思い出したら、花開く」

 歌うように囁いた青年に、佳代子は首を傾げた。
 思い出したら、花開く――いったいどういうことなのだろうか。
 青年は意味ありげに微笑むと。こんなことを訪ねてくる。
「お客様は、植物を育てた経験がおありですか?」
 佳代子はきょとんとした。
「いえ、私は……」
 答えようとして、佳代子は次の句が継げなくなる。
 自分は植物を育てた経験がある。そう多いことではないが、ひどく印象深いことがあったはずだ。

 そう、確か、小学校の時。
 学校の宿題で。
 朝顔。
 蔓。
 絡みついて。
 手が。
 まるで蔦のように。
 絡みついて。

 ――内緒だよ。
 ――約束だよ。

「……さま。お客様?」
 佳代子は目を瞬かせた。
 目の前には、店員がいる。心配そうにこちらを見つめていた。
「どうされました?」
「ああ、いえ……」
 佳代子は額に手を当てた。
 今、何か、重要なことを思い出したような気がする。それと掴む前に消えてしまったが、忘れてはいけないようなことではなかったか。
「顔色が、すぐれないようですが」
「ええ。大丈夫……それじゃあ、また」
 購入した品を持って、佳代子は店を後にした。ここに居てはいけない。一刻も早く家に帰って、いつもの日常に身を浸さなければならない。
 そんな気がした。

***

「お、今日は豪勢だな」
 隆司は食卓を前にすると、相好を崩した。
 コーンスープに、焼いて切ったフランスパン。マッシュポテトに、手ごねハンバーグ。付け合わせのサラダにはお手製のドレッシングがかけてある。
 赤ワインも用意した。勿論、自分は飲めないので隆司の分だけだ。
「うん。……ほら、仕事辞めて、最初の日だから」
 そう言うと、隆司は目じりを下げて笑った。
「食べましょ、冷めちゃう前に」
「そうだな」
 向かい合って椅子に腰かけ、舌鼓を打つ。
 出来は上々であった。マッシュポテトはなめらかな口触りで舌の上で溶けていったし、ハンバーグはふっくらとしていながらジューシーで、作った本人の佳代子ですら快哉を挙げたくらいだ。
 隆司は赤ワインを開けて、上機嫌である。
「そういえば」
 顔を赤らめたまま、隆司はそう言った。
「あの朝顔、どうしたんだ?」
「あっ」
 しまった。忘れていた。
 佳代子は慌てて立ち上がり、ベランダに向かう。がらりと開けた外からは、冷たい風が流れ込んできた。随分と寒い。秋が近いのだ。
朝顔は、大丈夫だろうか。
 ベランダに出て、鉢を持ち上げ、佳代子はひやりとした。
 鉢は、すっかり冷え切っていた。朝はあんなに生き生きとしていた緑色も、萎れかけてしまっている。
 あまりのことに、佳代子は暫くその場から動けなかった。開け放しの窓からは、ひっきりなしに風が吹きこんでくる。このままにしたら、身体が冷えてしまう。早く、鉢を中に入れて、窓を閉めて……分かっていても動けなかった。
「ああ、こりゃあ……」
 隆司が、ひょいと部屋から顔を出す。そのままベランダに出て、佳代子の手から鉢を取り上げた。
「早く、入りなさい」
「……はい」
 急かされて、佳代子は部屋に戻った。その後ろでぱしゃりと音がする。窓が閉められたのだ。
 振り返った佳代子の目に移ったのは、鉢を抱えた夫の姿だった。そのまま隆司はリビングに鉢を持っていく。
 佳代子は、またあの嫌な予感が蘇ってくるのを感じていた。

 朝顔。
 鉢。
 隆司の手に抱かれて――。

「おい、大丈夫か?」
 肩を軽く揺すられて、佳代子は瞬きを繰り返した。隆司だ。その肩越しに、朝顔がちらりと見える。
「佳代子」
 肩に置かれた手が、するすると佳代子の体を滑り落ち、腰までくると、そのままぐっと抱き締められた。
「もう一人の体じゃないんだから、気を付けてくれよ」
 そう言いながら、自分の頭を撫でる、手。

 手。
 絡みついて。
 ――内緒だよ。

「――やめて!」
 その手を、佳代子は思い切り跳ねのけた。
 何故そんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
 隆司は目を丸くして、佳代子を見ている。その瞳が妙に恐ろしくて、佳代子は俯いた。
「……大丈夫か? さっきから変だぞ。何か、あったのか?」
 その声に、おずおずと顔を上げると、彼は目に呆れた笑みを浮かべている。
 佳代子はほっとした。
 ――よかった。怒っていない。
 怒らせてはいけない ・・・・・・・・・隆司だけは絶対に・・・・・・・ ・
「ごめん、ちょっと、疲れてるのかも」
「そうだな……。もう休むか?」
「うん、そうする」
 笑みを浮かべながら、佳代子は彼の肩越しに朝顔を見た。三本の支柱に絡まる蔦。それはまるで――。

***

 目覚めると、気持ちの良い朝であった。
 佳代子は昨日と同じように、隆司を送り出すと、掃除、洗濯を済ませ、朝顔をベランダに出した。
 心なしか、昨日の晩よりは元気になったようだ。萎れかけた蔓は痛々しかったが、きっと朝日が何とかしてくれるであろう。
 昨日買ったじょうろで水をやり、差し込み式の肥料を、蔓の根元にぶすりと刺した。
 佳代子はそのまましゃがみ込み、朝顔をじっくりと観察する。
 自分は何かを忘れているような気がする。それも、重大なことだ。自分の人生の根幹に関わること。

 朝顔。

 蕾は、まだ開かないようだった。ぐるぐるとねじれたキャンディのような。
 そこまで考えて、佳代子は目を見開いた。

 ――キャンディみたい。
 ――この蕾、キャンディみたい。

「アイちゃん……」
 口をついて出た言葉に、佳代子は驚いた。
 アイちゃん。そう、仲が良かったのだ。朝顔を一緒に持って帰って。

 ――思い出した……。

 自分は確かに、朝顔を育てたことがある。小学生の時に、夏休みの宿題があったのだ。朝顔の観察。それで、ひとりに一株ずつ、学校から配られたのである。
「朝顔って、お菓子の国の植物みたい」
 そういって笑ったのは、アイちゃんだった。家も近く、歳も同じ二人は、幼稚園からの仲良しだった。
「お菓子の国?」
「そう、ほら、葉っぱがハートみたいだし、蕾がさ、キャンディみたいじゃない?」
「ほんとだ!」
「帰ったら一緒にお絵かきしようよ! 朝顔の絵、描こう!」
「うん。じゃあね!」
 そう言って別れた、一学期最後の日。急いで帰宅して、自分の朝顔を置いて、色鉛筆を持って、アイちゃんとの待ち合わせの公園に行ったのだ。

 けれども、待てども待てども、アイちゃんは、来なかった。
 それで、佳代子はアイちゃんを探しに行ったのである。

 もう夕暮れも近い時分であった。
 公園の周りをぐるりと回る。カラスがかあと鳴いた。まだ日は高いが、あと数分もしたら、五時のチャイムが鳴るだろう。そのくらいの時間……だったはずだ。
 公園の裏手は、少し鬱蒼とした林になっていた。
 そこに、居たのである。
 アイちゃんは。
 こてんと首をこちらに向けていた。
 アイちゃんに覆いかぶさるようにして、男が。
 アイちゃんの、細い、首に。
 男の手が。
 まるで蔦のように。
 朝顔が、土に零れて、笑っている。
 アイちゃんは――。

 男が、こちらを見た。

 ――内緒だよ。

「痛っ……」

 頭が痛い。差し込むような頭痛に、佳代子は体をくの字に折った。
 霞む視界に、朝顔が映った。
 花が、綻びかけている。
 キャンディが、その包み紙を剥がすように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 花が、咲く。

 ――内緒だよ。

「アイ、ちゃん……」
 目の前が、白くなっていく。
 遠のく意識の中で、佳代子は確かに、誰かの、足音を、聞いた気がした。

*** 

 目覚めると、やけに白い天井が目に入った。
 ゆっくりと体を起こす。
 病院のようだった。傍らには、椅子に腰かけた隆司が、じい、とこちらを見ていた。
「……よかった」
 安心したように微笑む夫に、佳代子は、何も言えなかった。ただ、ぼんやりとその顔を見つめていた。
 男。
 首に絡みついた手。
「倒れていたんだ、お前。……心配したんだぞ」
「そう」
 出した声は、思いの外冷たかった。何故、仕事に行ったはずの夫が、倒れた佳代子をすぐに見つけることができたのか。
 そんなこと、決まっている。
 そう、決まっている。
「子供は?」
「無事だ」
「そう……」
 隆司は、ずっと見ていたのだ。あの時から。いちばん近くで、佳代子を見ていた。
「そうだ、子供の名前、考えたんだ、俺」
「……どんな名前?」
「アイ、っていうのは、どうかな?」
 そう告げる夫の目が、異様に光っている。佳代子は息をそっと吸って、にこやかに微笑んだ。
「素敵な名前ね」
 もうどんなことがあっても、自分は隆司を怒らせることは出来ない。思い出したことを、絶対に気づかれてはいけない。
 佳代子は、隆司の手を握り締めた。隆司も微笑んで佳代子の手を握り返す。その瞳に映った自分の顔は、醜く歪んでいた。
 これから先、一生続く地獄を覚悟した、女の顔であった。

***

「見事に咲きましたね」
 そう言って、青年は朗らかに笑った。
「返していただくのは、一向にかまわないのですが、それでいいのですか?」
 佳代子は頷いた。手には鉢を抱えている。朝顔は、大輪の花を咲かせていた。
 青、紫、白――。
「いいんです。もうすっかり、思い出しましたから」
 そう、佳代子は呟いた。
「……この花を咲かせてしまったことを、後悔していますか?」
 鉢を受け取りながら、青年はそう尋ねた。
 佳代子はそっと目を伏せる。
「はい。……いいえ。わかりません、私……」
 青年は笑った。
「僕は嬉しく思っているんですよ。お客様が、この朝顔を見事に咲かせてくださったこと。感謝しています」
 そういって、青年は微笑んだ。
「お客様、ご存知ですか。朝顔の花言葉」
「……いいえ」
 首を振る佳代子に、青年はそっと言葉を落とした。
「『愛情の絆』と言うんです」
 佳代子の体が小刻みに震えた。

 『愛情の絆』。

 佳代子はもう隆司からは逃れられない。
 それは、隆司が怖いから、だけではない。決してそれだけの感情ではなかった。長い年月を二人で過ごしてきたのである。そこには、確かな物も存在していた。

 佳代子は、夫を愛している。
 たとえ彼が犯罪者だったとしても。
 未だ、自分を監視しているのだとしても――。

「ありがとうございました」
 青年の声を背に受けて、佳代子はその店を出た。
 ややあって振り返り、彼女は目を疑った。

 ただこんもりとした、緑の茂みだけが、そこにひっそりと存在していた。

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