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寺山修司の短歌「むせぶごとく萌ゆる雑木の」

むせぶごとく萌ゆる雑木の林にて友よ多喜二の詩を口ずさめ

『寺山修司全歌集』146頁

18歳のとき、寺山修司は『短歌研究』の「五十首応募作品」に投稿し、「特選」を得た。そのときの49首(1首欠けていた)のうちの一つ。

投稿時の歌全体の題は「父還せ」だったが、雑誌の編集長だった中井英夫は、「チエホフ祭」と改題した上で、34首(欠けていた1首を補った)だけを『短歌研究』に掲載した。

削除された16首に含まれるのが上の歌である。

(以下、『蟹工船』についてのネタバレあり。)

■語句

むせぶ――こみ上げる感情で息がつまり、せきこむ。

多喜二――小林多喜二のこと。『蟹工船』で有名。

■解釈

◆内容
木々がいっせいに萌え出る季節。新しい生命が躍動する雑木林にいると、むせかえるようだ。

「われ」は、「多喜二の詩」に世界が一変するような興奮を覚えている。旧態依然とした世界が終わり、新しい時代が到来するような気がしている。

「友よ」と、思わず誰かに呼びかけたくなる。自分が知った新しい思想を、他の人にも伝えたくてたまらない。

う~む、まっすぐだ。どこまでもまっすぐだ。木々の新緑を見上げる青年の、希望に輝く目が見えるようだ。

◆「多喜二の詩」とは?
ところで「多喜二の詩」って何? 多喜二って詩を書いたの?

土井大助によれば、多喜二に詩はある。『定本小林多喜二全集 第12巻』に「初期文集」として詩10篇、短歌12篇が載っている。多喜二の詩や短歌はこれだけで、すべて十代の作だ。

読んでみるとどれも習作の域を出ていない。感激して「口ずさむ」ほどの詩や歌ではない。それに小林多喜二全集が出たのは、寺山修司が32、3歳の頃だ。「むせぶごとく」の歌を書いたのは18歳以前だから、寺山が多喜二の詩や歌を読んでいたはずはない。

では、「多喜二の詩」とは何か。

僕は勝手に、小林多喜二の代表作『蟹工船』の末尾の一行、

そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!

のことではないかと思っている。

『蟹工船』の労働者たちは、過酷な労働を強いる監督に抗議してストライキを行う。しかし、監督たちの連絡で軍艦がやってきて、ストの代表者9人を逮捕し連れ去ってしまう。ストはあっさり鎮圧される。だが、残された者たちは考える。代表者を押し立てたのが敗北につながったのだ、今度は代表者に頼るのではなく、みんなが一致団結してストライキを行うのだ、そうすれば怖いものはない。みんなを逮捕すれば操業そのものができなくなってしまうからだ。そして上記の一文となる。

「そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!」――寺山の歌の「われ」が感激したのはこの一文ではないか。そしてこの一文を「詩」と呼んでいるのではないか。

■「われ」は寺山自身を反映?

上に、「まっすぐだ。どこまでもまっすぐだ」と書いた。歌は確かにまっすぐだ。だが、この歌の「われ」と、作者の寺山修司自身は区別して考えなければならないだろう。

18歳の寺山が『短歌研究』に投稿した49首の冒頭にあるのが、次の歌だ。

アカハタ売るわれを夏蝶なつちょう越えゆけり母は故郷の田を打ちてゐむ

そして2番目にあるのが、ここで取り上げている「多喜二の詩」の歌。5番目の歌は次のようなものだ。

おおいなる地主の赤き南瓜かぼちゃなど蹴りてなぐさむ少年コミュニスト

みんないわゆる傾向歌だ。これらを読むと、寺山は共産主義者だったかのかと思ってしまう。

寺山の歌に同時代的に触れたある人は次のように証言している。

当時の左翼系文化人は寺山が政治的に左翼であると感じ、新しいプロレタリア詩人が登場したと思ったものだった

福井次郎――小菅麻起子52頁より

しかし、寺山自身は「アカハタ」を売ったこともないし、また母親が農民として田を打っていたこともない。多喜二の思想に全面的に心酔していたとも思えないし、また本当に「地主の赤き南瓜」を蹴ったことがあるのかもあやしい。

これらの歌の「少年コミュニスト」は寺山の虚構だ。作られた「われ」だ。おそらく寺山は、当時の時代の風潮に乗っかっていただけなのだろう。

ネット「短歌のこと」も次のように述べている。

「短歌研究」の応募に際しては「社会運動をする青年」が当時、人々の注目を引くと寺山は考えたのでしょうが(……)

でも、一方ではそんなふうに思いつつも、他方ではすべてが単なる虚構とも思えない。

「五十首応募作品」投稿原稿49首を見ると、詠まれているのは、農民(田を打つ母)、朝鮮人の子供(戦争で父を失った)、黒人(「黒人悲歌」の形で)、戦死した父、残された母と子、戦争未亡人の母、夜の女、混血児、港の男(港湾労働者)、小市民、女工、山林労働者、孤児などだ。

虚構の奥にはやはり、「虐げられし者たち」(小菅麻起子42頁)「底辺の人々」(同47頁)への共感も確かにあったのではないか。

寺山は、たとえば小林多喜二のように、特定の思想を抱き、それを一貫して表現し続けるような人間ではなかった。寺山は混沌を内包していた。そしてそれをそのときどきに表現した。寺山が多面的に見えるのはそのためではないか。

「少年コミュニスト」もまた、寺山の重要な一面だったのだ。

■おわりに

「多喜二」という具体的な名前が入っているので、もう時代に合わないかと思い敬遠していたが、何度か目にしているうちに、しだいに歌の流れるような調子に惹かれるようになった。

作者の寺山修司がどう思っていたかは別にして、気に入ったのであれば、素直にこの歌を口ずさめばいいのだ。場合によっては「多喜二」を適当に入れ替えることもできるか。――いや、やぱり「多喜二」ははずせないな。

■参考文献

『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

『定本 小林多喜二全集 第十二巻』、新日本出版社、1969

土井大助『よみがえれ 小林多喜二』本の泉社、2003

小菅麻起子『初期寺山修司研究』翰林書房、2013

ネット「短歌のこと」:2021/7/15
https://tankanokoto.com/2020/08/hitotubuno.html

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