寺山修司の短歌「一本の骨をかくしに」
歌だけ読むと、晩年に近い寺山の心情を表現した歌のように思える。しかし、これが載っているのは第一歌集『空には本』で、1958年に出版されている。寺山が22歳のときだ。
■解釈
「枯草」とあるので、季節は冬。道を歩いていると、前に骨をくわえた犬がいる。犬は枯草の中に分け入っていく。骨を隠しに行くんだ、と思う。どこに、どんなふうに骨を隠すんだろう? なんとなく、後をつけてみたくなる。
「われ」はどんな心情だったのか。特に目的もなく、ただ漠とした寂寥感を抱えて歩いていたのだろう。人の中で生きることに疲れて。
犬は一匹だけで、ただそのままに生きている。気取ったり、カッコつけたり、無理して笑ったりすることもない(犬は笑えないか)。「われ」はそこに生き物の生の姿を見て共感するところがあったのだ。
■他の人のコメント
◆原田千万:1988
なるほど、こんな捉え方もあるか。
■おわりに
寺山は実際に犬の後をつけたのだろうか。それともすべては空想上のことなのだろうか。余所のアパートの敷地に入り込んで住居侵入で逮捕されたこともある寺山のことだから、犬の後だってつけてみるかもしれない。
この歌が収められているのは、1958年6月出版の『空には本』の小題「祖国喪失Ⅰ」の中だ。1957年1月1日出版の『われに五月を』の小題「祖国喪失」のところには載っていない。ということはこの間に詠まれた可能性が高い。
でもこの頃、寺山はずっと重病で入院していた。だから冬の枯野を歩くことはできない。
ただ、病気が軽快してきた1958年には、他の患者と一緒に病院を抜け出して、夜の雑踏の中を歩いたり、新宿歌舞伎町の音楽喫茶でお茶を飲んだりしている(小川238頁)。
そのときに冬の街をとぼとぼと歩く犬を見た可能性がないとは言えない。ただし「枯野」の方は、虚構の舞台設定だろうな。
■参考文献
『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011
小川太郎『寺山修司 その知られざる青春』中公文庫、2013
原田千万 →『日本文芸鑑賞事典』第17巻、1988
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