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寺山修司の短歌「うしろ手に墜ちし雲雀を」

うしろ手に墜ちし雲雀ひばりをにぎりしめ君のピアノを窓よりのぞく

(『われに五月を』43頁)

『寺山修司全歌集』では、『血と麦』の「蜥蜴の時代」の一首となっている。ただ第1作品集『われに五月を』にも「真夏の死」の一首として入っている。初期の歌であることがわかる。

■語句

墜ちし――「墜ちた」。「し」は過去の助動詞「き」の連体形。

のぞく――『寺山修司全歌集』(234頁)では、「覗く」となっている。『われに五月を』では、「のぞく」と平仮名になっている。漢字では重すぎるような感じがして平仮名を採った。

■解釈

山野を駆けまわる男の子。地面に落ちているヒバリを捕まえる。空高く飛び上がる鳥を捕まえたことが、少年はうれしくてならない。

好意を感じている女の子に見せるために、その子の家に走る。

少女の家からはピアノの音が聞こえてくる。窓の奥に、女の子が一心にピアノを弾いているのが見える。少年にとってはそれまで聞いたこともない旋律。

男の子は麻痺したように立ちすくむ。少女が自分とは異質の世界に生きていることを感じる。

少年はヒバリを右手か左手に握っている。手を後ろにしているのは、いきなり見せて驚かせようと思ったからだ。でも少年は、握りしめたヒバリのことをすっかり忘れて、少女の手で魔法のように生みだされるメロディにじっと耳を傾けている。

う~む、ロマンチックだ。

ヒバリが少年の世界を、ピアノが少女の世界をそれぞれ代表している。

■いくつかのコメント

こんなふうに解釈し、よく知られた「海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり」と同系統の歌だと思ったのだが、他の人の解釈を読んで驚く。

◆松村由利子:2013

「うしろ手」は、ピアノを弾く「君」に対して少年が淡い感情を抱きつつ、粗野な自分を恥じていることを思わせる。(……)雲雀の死骸は、少年の初恋の結末を暗示しているようだ。また、少年のもつ野生と酷薄さの象徴でもあるだろう。

「うしろ手」の解釈も違うし、雲雀は「死骸」とされている! う~む、こんなに捉え方が異なるとは!

◆サイト「Riche Amateur」:2015
『寺山修司青春歌集』関する記事の一節。

なかでも忘れがたいのが鳥の存在で、寺山修司の短歌作品のなかで鳥が登場するときは、たいていが撃たれたあとの死骸、狩猟の獲物としての存在である。

こう述べて、真っ先に挙げられているのが「うしろ手に」の歌だ。やはり死骸と見ているのか! 確かに、寺山修司に鳥を撃つ歌は多いが……。

■おわりに

「墜ちし」だから、石を投げて落としたとも考えられるか。雲雀は傷ついている、あるいは死んでいる可能性もあるか。

それは少年にとっての勝利の証であり、だから好きな少女に見せたいのか。戦士が女神に捧げる供物のようなもの?

その場合、ヒバリとピアノは、野生と文化の対照ともなるか。

あるいは、石で落としたのではなく、ただ落ちて死んでいたのを拾ってきたというという可能性もあるか。そんなものを見せるなんて、と思うかもしれないが、寺山修司は昭和の子供だったからなあ。

う~む、でもやっぱり僕は、鳥は生きていることにしておこう。最初に抱いたロマンチックなイメージを放棄したくない。

■参考文献

松村由利子 →『短歌研究』2013年6月号

サイト「Riche Amateur」:2015年12月29日
https://nina313.hatenablog.com/entry/2015/12/29/205011

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