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寺山修司の短歌「ノラならぬ女工の手にて」

ノラならぬ女工の手にて噛みあいし春の歯車のおおいなる声

『空には本』「チエホフ祭」(現代歌人文庫3 寺山修司歌集』26頁より)

第一歌集『空には本』ではこの歌がだぶっている。小題「チエホフ祭」と「熱い茎」の両方に入っている。結句だけ表記が異なり、「チエホフ祭」の方は「巨いなる声」だが、「熱い茎」では「大いなる声」となっている。

後に寺山自身が編集した『寺山修司全歌集』では、「チエホフ祭」にある歌が削除されている。つまり、「大いなる声」の方が残されている。

寺山自身はあまり表記にこだわっていなかったようだ。どちらかというと、わかりやすい方に書き換えている場合が多い。

ここでは、「巨いなる声」を選んだ。「巨いなる」が「大いなる」より壮大で、爽快感を覚えるからだ。

■語句

ノラ――イプセンの戯曲『人形の家』(1879)の主人公。ノラは、夫から人形と見られていたことに気づき、一個の人間として生きようと、夫と子供を残して家を出ていく。自立した女性の代名詞とされるようになった。

ノラならぬ――「ノラではない」。「ならぬ」は、断定の助動詞「なり」の未然形「なら」+打消の助動詞「ず」の連体形「ぬ」で、「~ではない」という意味。

噛みあいし――「噛み合った」。「し」は助動詞「き」の連体形。

■解釈

歌意は、ノラではない女工の手で噛み合わせられた春の歯車が大きな声となって響いている、というものだ。

詠み手の共感は、自立した新しい女性ではなく、貧しい女工たちの側にある。

女工たちはノラのように目覚めた女性たちではない。工場で黙々と働く労働者にすぎない。それぞれが小さな歯車のような存在だ。

しかし、彼女らはそのささやかな労働を通じて、巨大な歯車を噛み合わせている。

大きな歯車が空中に浮かび、ごとごとと音を立てながら、ゆっくりと回転している姿が思い浮かぶ。

季節は春だ。音を立てて動く歯車は、生命が躍動する春にこそふさわしい。(「春の歯車」という表現は、ハ音が頭韻となっている。)

女工たちは歯車を噛み合わせて春を動かしているのだ。

「巨いなる声」――歯車が立てるのは「音」ではない。「声」だ。黙々と働く女工たちの沈黙、それが一つの大きな声となって春の空に響いている。それは世界に向けたメッセージだ。

「春の歯車」は着実に回りつづけ、いずれは社会を変えていく――そういう希望が感じられる。

■他の人のコメント

◆藤原龍一郎:2022

この歌の女工は、そういうノラのようにはなれずに、一介の労働者として、工場で黙々と働いているのだろう。(……)「春の歯車の大いなる声」なる下の句は、明るい雰囲気を醸し出し、暗い労働歌ではなく、むしろ、労働者自身の喜びの歌、労働賛歌として詠める。

藤原龍一郎『寺山修司の百首』33頁

■おわりに

「ノラならぬ」を使った寺山の俳句がある。

寒雀ノラならぬ母が創りし火

『花粉航海』(『寺山修司俳句全集』63頁より)

「寒雀」は晩冬の季語。寒い冬の早暁、ノラのように自立した女性ではなく、家に縛られて黙々と働く母が、火をおこして釜を焚く。疑問も持たず、当然のこととして家族のために働く母親を見つめる「われ」の思いを表現している。

寺山の目は、貧しい一人一人の人間の労働に向けられることが多いようだ。女性解放運動につながるノラのような女性に対しては必ずしも肯定的ではなかったか。

■参考文献

◆テキスト
『空には本』覆刻版、沖積舎、2003

『現代歌人文庫3 寺山修司歌集』国文社、1983

『寺山修司全歌集』講談社学術文庫、2011

『寺山修司俳句全集』あんず堂、1999

◆文献
藤原龍一郎『寺山修司の百首』ふらんす堂、2022

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