神と無神論の検討による哲学入門

はじめに

 本noteでは表題のとおり主に神について概観することで、初学者的な哲学的検討について楽しんでいただくことを目的としている。ただし、ここで言う神とは一神教や多神教における神のみを想定するものではなく、「物理領域に影響をおよぼす神」「物理領域に影響をおよぼさない神」の2種にしぼり、前者の射程にはたとえば見えたり写真に写ったりするタイプの幽霊、後者の射程には理神論的な神、一部立場におけるクオリアも含まれる。クオリアに関する議論については以下で検討しており、本noteの議論についても類似の経過を辿るため参考にされたい。

心の哲学におけるクオリアに関する物理主義、随伴現象説、相互作用二元論の検討(メアリーの部屋、哲学的ゾンビ、現象判断のパラドックスを用いて)

 本noteにおいては物理主義者が最終的に神を要請する必要はないこと、つまり無神論の採用が結論づけられるが、議論においては以下注意されたい。

【検討は物理主義者が世界の説明に際し神を要するか否かで進行する】
 上を換言すれば、既存の科学的手続きでは世界について説明することができず、「物理領域に影響をおよぼす神」もしくは「物理領域に影響をおよぼさない神」のいずれかが要請されると判断されるとき、物理主義者は神を導入すべきであると結論づけ無神論を放棄することになる。よって、本noteにおいては以下のようなものは議論の外に置かれることになる。

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・宗教的であることと無神論的であることのどちらが倫理的に望ましいか
いわゆる新無神論の四騎士などがたいへん好む議論であるが、
本noteでは興味の対象にないので踏み入らない。

・宗教的であることと無神論的であることのどちらが知的に望ましいか
こちらも新無神論の四騎士が好む話題だが、本noteの興味の対象ではない。

・信仰を持つ人、無宗教の人は何らかの理由で無神論者に転向すべきか
本noteは無神論者による他派への啓蒙を目的としない。

・信仰を抱くことで得られる幸福や不幸の検討について
本noteでは「基本的に」問題としない。
ただし、本旨とずれることになるが余話として
いわゆる「パスカルの賭け」については検討を行う。

・時に人は神の直観を告白するがどう扱うべきか。
 またもし自らが直観した場合は?
本noteの興味対象ではないので議論しないが、簡単に私見をまとめる。
物理主義者は自ら神を直観した場合、
その主観的体験を神の実在の確からしさの根拠としない。
ただし、物理的に全知の物理主義者が神を直観し、
偶然その脳内過程の物理現象を記録していたところ、
「神を直観した」という脳内の処理が
物理的因果関係によらず発生しており、
非物理的な存在からの物理領域への介入を想定すべきと結論された場合は
物理的に全知であった彼は非物理の新領域への探求を開始すべきであろう。

・無神論者がいかに社会的不理解等で苦しんでいるか等について
本noteの興味対象ではないので議論しない。

・無神論者となることによって得られるベネフィットについて
本noteの興味対象ではないので議論しない。
先述のとおり本noteは他派への啓蒙を目的としたものではない。

・無神論に至る筆者の人生経験について
本noteの興味対象ではないので記載しない。
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 総じて、本noteは社会や個人がどうあるべきかについて特段の興味を示さない点で新無神論と袂を分かつ。そのため、新無神論的な議論の検討に興味を持つ人については有益な知見は得られないものと思料する。


要約

 まず物理主義者は「物理領域に影響をおよぼす神」を導入すべきか検討し、当面はその必要がないことを確認する。次に、物理主義者は「物理領域に影響をおよぼさない神」を導入すべきか検討し、導入する必要はないことを確認する。最後に余談として「パスカルの賭け」を検討し、特段物理主義を棄却すべき理由はないことを確認する。あわせて「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」についても概観する。以上により物理主義者は現状の姿勢に変更の必要がなく、つまりは無神論的であることを改める必要がないことを確認する。

そもそも物理主義者であるべきか?

 本noteの興味対象としない、と上でまとめてもよかったが独立した項目とする。新無神論は宗教との戦いを積極的に行っているが、本noteでは先述のとおりそれを目的としていない。言ってみれば、自然科学的な知識追求の手続きについて、神の探究およびその手続き構築をプラスアルファで行うべきかどうかという問題にしかほぼ着目していない。換言すれば、様々な諸自然科学の探究を行っている研究者たちは、その研究活動において(私的生活においてではなく)現在のところ神の存在を要請すべきかどうかを検討している。そのため「物理主義者は考えを改めるべきかどうか」を本noteは問うており、「物理主義者になるべきか」を問うているわけではない。自然科学的な手続きにのみ執心し、神の声に耳を傾けない人間の自己防衛的な論述と見ることができよう。

物理領域に影響をおよぼす神を信ずべきか?

 物理領域に影響を及ぼす神とはどういう神が想定されるか。テンプレートなものとしては、海を割ったり難病を癒やしたり大洪水を起こしたり……そういったものを想定してよい。ほかにも盆になったら帰ってくる祖霊なども、考慮にいれていいかもしれない。

 ほのぼのとしているので祖霊を例にとって話そう。静かなお盆の夕暮れ、縁側で涼んでいるとちりんちりんと風鈴が鳴った。「死んだおばあちゃんが声をかけてくれたんだねえ」と母親が笑い、息子がはにかむ。そんな光景を想定してみよう。このとき、物理主義者が考えを改めるべきはどのような場合か。

 言うまでもなく非物理的な領域からの物理領域への影響で風鈴が揺れた場合である。同様の事例が多々観測され、研究室レベルで再現できるようになり、どう考えても物理領域における既存の法則では説明がつけられず、物理領域に対する何からの非物理的な干渉の式をなんとか組み立てて、現象の再現ができるようになったとしよう。更に、この非物理的な干渉の式からおばあちゃんの風鈴鳴らし以外の、未だ確認できていない非物理から物理領域への影響による世界中の誰も見たことがないような怪奇現象を理論的に起きるはずだと新奇に予言し、その予言どおりの実験結果が出たとなれば……非物理領域への研究はいよいよ盛んに進められるべきであろう(この流れだと、風鈴を鳴らしたのがおばあちゃんだというところまで行き着けないのはちょっと親子に可哀想かもしれないが論旨に関係ないので無視するものとする)。

 以上のことから、物理主義は「物理領域に影響をおよぼす神」によって牙城を崩される可能性を孕んでいる。言い換えれば、物理主義は絶対に正しいわけではない。おばあちゃんが風鈴を鳴らしたかもしれないのに、腹痛でトイレに駆け込んでギリギリ間に合ったのは天使の加護があったからかもしれないのに、なぜ物理主義はそういった可能性を排除するのか? 実は、これは問い方がおかしい。

 物理主義は様々な可能性を切り捨てて削って物理主義となっているわけではない。世界で起きている物事の解明、新奇な材料や現象等の予言と実現。こういった様々な知的営為を行うために、どうしても要るので「仕方なく物理主義を採用している」に過ぎない。必要だから物理主義を使っているのだ。そして、今のところ必要ではないから「物理領域に影響をおよぼす神」を要請しないのだ。要るならこれを想定にいれて研究する用意はある。ただ、今のところそうすべき状況にない。だから、物理主義が採られている。それだけのことだ。なぜ最初からたくさんの道具を構えないのだろう? それは人間の能力は有限であり、想定可能な道具は無限に存在するためだ。

 こう言うと、なにも無限の道具すべてを有限のリソースで扱えと言っているわけではない、物理主義以外にも想定できそうな道具を「いくつか」持っておくくらいいいじゃないか、神様とか仏様とかおばあちゃんの霊とか、と思うかもしれない。だが、無限の道具の中からいくつかの道具を選ぶ場合、そこには合理的な理由が必要になる。なぜ謎の妖精「鍵隠し」や「リモコン隠し」を想定せずに「おばあちゃんの霊」を想定するのか合理的な説明をせよと要求された場合たいへんにめんどくさい。

 さらにさらに、文化的断絶があるにも関わらず世界中の様々な人がおばあちゃんの霊を想定したり神を想定したりする。その事実は物理主義以外の道具を握ってみる合理的な理由にはならないか、という問いかけもあろう。しかしこれも「人が神を想定することは神の存在の確からしさと微塵も関係がない」と物理主義者は考える。基本的に、物理主義者はホモ・サピエンスの直観を素朴には信頼していない。ただ、文化的断絶があるにも関わらず世界中の人々が神を想定するという事実は歴然たる事実として存在する。そのため、それは何故なのかと研究する自然科学的アプローチは存在する。
たとえばジェシーベリング著「ヒトはなぜ神を信じるのか―信仰する本能」などがそのようなアプローチのひとつだ。信仰を持つ人にはさして面白くない本だと思うので、実験心理学や進化論的なアプローチから、なぜヒトは信仰するのか、何が有利なのか、を検討していく流れに興味があれば一読するとよい(本書では信仰すること自体が有利なのではなく、信仰は目的論的推論の副産物であると推論されていた)。

 閑話休題。物理主義者はそうするだけの理由があれば今語る形での神を受け入れる用意があるが、ではなぜ「奇跡を起こす神なんていない!」などとときに無神論者は言うのだろう。ここでは2パターンを考えてみた。

 パターン1は「奇跡を起こし物理領域に影響をおよぼす神は絶対に存在しない。存在することは不可能だ。だからそんな神はいない」と言ったパターン。この世界に物理領域に影響をおよぼす神が存在するかどうかはともかく、そのような神が存在する世界は論理的には可能である。そのため、パターン1の言い方ならば不適切と考えられる。

 パターン2の考え方。「奇跡を起こし物理領域に影響をおよぼす神が存在することは過去から現在にいたるまでそれが確からしいと確認されたことがない。"あることが極めて確からしくないもの"を科学においては端的に"ない"と言ってしまう慣習があるので、その意味でそんな神はいないと言った」というパターン。紛らわしい!!! と思うかもしれない。だが、現場において「それ、あることが極めて確からしくないよ~」と言うのはあまりにも不便だ。「ないよ」と言ってしまうのがスムーズなのだ。だから、もし物理領域に影響をおよぼす神が出現したとき、嘘言ったじゃん!!! とか、ざまあみろ!!! とかパターン2の人を責めないでいただけると嬉しい。非物理的なものの存在を信じている人にとって、その実在の確認は福音かもしれないが、知的好奇心に餓えている物理主義者にとっても非物理的なものの実在の確たる証拠の新発見は滅茶苦茶に美味しそうなごはんに見えるのだ。確認されたらたぶん大喜びでむしゃぶりついて離さないので、そっとしておいてあげてほしい。

物理領域に影響をおよぼさない神を信ずべきか?

 物理領域に影響をおよぼさない神とはどんな神が想定されるだろう。現世で奇跡を一切見せてくれず何も物理領域に関わってくれない神……それだけだと寂しいので、こうしよう。物理領域は物理現象で因果が完全に閉じている。だが人が死ぬと非物理的な魂が、物理的な影響を一切現世に残さずに死後の世界に行き、神の審判を受ける。そして、善行悪行や信仰的行動などを加味して天国行き、煉獄行き、地獄行きなどなど定められる……そんな神なら、少しイメージしやすくなっただろうか。人格神なんて古くさくていやだ! という人は万象の法則を定めて以後世界に一切物理的に関わらない理神論的な神を想定してももちろんよい。どちらでも物理主義者の検討はかわらないからだ。

 さて、このような神を信ずべきとする立場からの批判を考えてみよう。物理主義者にとって最も有利な状況を作り、それでもなお物理主義者は破綻するのだ! と喝破するのが最も完璧な論破だろう。そこで「哲学的ゾンビ」を参考に以下の思考実験を用意した。

①物理領域に一切影響を及ぼさない神が「我々の世界」に存在する
②この世界から神を除いた「非神世界」が可能である
③「我々の世界」にあり「非神世界」にないものが神である
④物理主義者はこの神を見落としており、この神のための研究が必要だ

ゾンビ論法の改造版

 これは「哲学的ゾンビ」を用いた「ゾンビ論法」と全く同じ論法だ。ゆえに、このような神を導入するとおかしなことが起こる、という反論となる思考実験もまた存在する。「現象判断のパラドックス」と呼ばれるものだ。これを神の存在に係る形に改変して次のようにあらわそう。

①「我々の世界」に神を信じ神の研究をする者がいる
②「非神世界」は「我々の世界」と物理的に同一なので同じことが起こる
③「我々の世界」と「非神世界」で同一論文が発表され同一評価を受ける
④神の存在有無は、神の研究の確からしさの評価に関係しない

ここで言う神とは「物理領域に影響をおよぼさない神」である

 どうだろうか。「我々の世界」に物理的影響を及ぼさないが神がいるのだから、神を信ずべきだと言うことは一見もっともらしく見える。だが、「我々の世界」と論文のインクの染みの原子ひとつにいたるまで同一の「非神世界」においても同一人物が神を信ずべきだと主張しているのだ。「非神世界」に神はいないのに、だ。感覚的に考えれば「我々の世界」では神を信じ、「非神世界」では神を信じないべきだ。しかしそれはできない。神は物理領域に一切影響を及ぼさない。「我々の世界」と「非神世界」は万物が同様に動く。「どちらの世界でも神を信じるべきだ」「どちらの世界でも神を信じないべきだ」――神による物理領域の影響を否定しながら神を信ずべきだとするならば「どちらの世界でも神を信じるべきだ」と言うべきだろう。つまり、神がいなくても神を信じるべきだ、それが正しいのだというわけだ。本noteの主題ではなく、筆者は物理主義者なので本気ではなく随感に過ぎないが、このような態度はちょっと涜神的にも見える。大丈夫だろうか。もちろん、大丈夫なら全然問題ないのだ。それならそれでいい。

 しかし、知的営為にあたって「物理主義者」を説得する武器がなくなってしまった。知的営為にあたって「どちらの世界でも神を信じるべき」と物理主義者に手続きを整理させる合理的な理由を信仰者が提示できないからだ。一方、物理主義者は「どちらの世界でも神を信じないべきだ」と主張することに一切のためらいがない。「手続きをとった。確認されていない。あることが極めて確からしくない。ない」いつもの手順を踏んで終わりだ。それは「我々の世界」でも「非神世界」でもかわらない。物理主義者はどちらでもそうすべきだと言う。なぜなら、物理主義以外の新たな道具を手にしなければならない現象が一切出てこないからだ。「物理領域に影響をおよぼす神」と違って「物理領域に影響をおよぼさない神」の場合、これは「当面」ではなく「絶対」である。物理領域は物理領域で因果が完全に閉じているので、物理主義者が新たな道具を手にする動機が与えられないことが「形式的に」示されているためだ。

パスカルの賭け

 物理主義者は神を信ずべき動機付けを、知的な方面からは特段得られない。本noteはこれだけで済ませてもよいのだが、気になる人もあると思うので「パスカルの賭け」については確認する。

 物理主義者に一つ属性を追加しよう。「幸せでありたいなー」という選好だ。この選好を最大化することは、まあ基本喜ばしいことだろう。できるだけ色んな人の選好が満たされるのはとてもよいことだ。

 さてこの幸せになりたい物理主義者に以下問いかけてみよう。

①死後の世界が存在するかもしれないししないかもしれない
②死後信仰に報いて無限の幸福を与える神がいるかもしれない
③物理主義を貫き信仰しないなら無限の幸福は絶対に得られない
④選好の最大化のためには神の存在有無にかかわらず神を信仰すべきだ

筆者による単純化した様式。議論の際は必ず原文をあたること

 幸せになりたい物理主義者は功利計算の結果「信仰する!」と言うだろうか。神がいる確率は限りなく小さいかもしれないが、いれば幸福は無限大だ。どれだけ確率が低くても獲得幸福無限大ならば賭ける一択に見える――

 しかし、幸せになりたい物理主義者はそうは考えない。なぜなら上の問いは「信仰に報い、かつ信仰しないことに報いない神」しか想定していないからだ。可能性の話をするならば「信仰する者を無限の苦しみを、信仰しない者に無限の幸福を与える神」を想定することができる。さて、この場合どちらに賭けるべきか?

 信仰を持つ人にとっては不可解(もしかしたら不愉快)な問いかもしれない。そんな後者みたいなわけわからんものがいることを想定するのか? と考えるかもしれない。だが、この幸せになりたい人はやっかいなことに物理主義者だ。ホモ・サピエンスの直観をあんまり信頼していない。「ああ確かに後者のような神は色んな信仰を確認したところ見られないね。まあそれは存在することの確からしさとは何の関係もないのだが」と言ってしまう。あるいはヒトの持つ目的論的推論という能力から鑑みて、前者のような信仰に報いる神を後者のような意地悪な神より確からしく感じて創造してしまうのはごく自然なことだともウムウム、などと心理学的な話を始めてしまうかもしれない。「幸せになりたい」の属性を追加して「パスカルの賭け」を投げかけてみた場合でも、やっぱり物理主義者は考えを放棄しないのである。

 本項の余談だが、新無神論者の四騎士の一人であるリチャード・ドーキンス(僕の大好きな人でもある)は以上を概観しつつ「信仰に報いる神の存在がわずかにあったとしても神が存在しないことに賭ける無神論生活を送る方が現世で充実した一生を送れるだろう」という趣旨の発言を行っている。有名な「神は妄想である」という一般向け書籍の中でのことだ。私はこれに与しない。仮に統計的に無神論を貫いた方が現世で信仰する人より幸福になれる可能性が大きいのだとしても、それは統計の結果だ。様々な環境を吟味した結果、全世界的な統計では無神論者が幸福になれる可能性が大だが、自分の一生の計画ではどう計算してみても信仰を持った方が幸福になれる見込みが大きそうだ、と判断することは決して非合理的ではない。その判断は不合理な可能性も勿論あるが、きちんと合理的に計算した結果そんな判定がくだることはじゅうぶんあり得る。限定的な環境で最適戦略が通常と異なるのは珍しいことではない。ドーキンスのこのような発言は、無神論者を勇気づけ信仰者を攻撃しようとするあまりに政治的な勢いにはしり、知的誠実性を欠くと考える。少なくとも厳格な物理主義者は軽はずみにそのような放言はしないと私は信ずる。(冒頭で信仰者への攻撃はしないつもりだと述べたが、同じ無神論者である新無神論者の一部姿勢への批判を行ってしまったこと、平に許されたい)

ミュンヒハウゼンのトリレンマ

 最後の検討。神を排するなら物理主義者はどのような基礎付けから研究を行うのか。神を前提にするなら究極の基礎を神において、そこから枝を伸ばしていく形で知識を体系化していくことができる。では、物理主義者は? 寄る辺がないのではないか?

 この指摘は、トリレンマとして定式化している。物理主義者も何らかの形で応答すべきだが、神を信仰する者にとってもブーメランとなるトリレンマだ。名をミュンヒハウゼンのトリレンマ、あるいはアグリッパのトリレンマといい、以下のように定式化される。

①根拠の根拠の根拠の……と遡ると無限背進に陥る
②①を避けようとして打ち止めにすると最後の根拠の正当性が保障されない
③根拠Aの根拠は根拠Bで根拠Bの根拠は根拠Aとすると循環論法になる

極めて簡略化した記載

 現代の物理主義者の前身である論理実証主義者の一部は感覚与件、あるいはセンスデータと呼ばれる視覚・触覚などを正当化の必要がないがそこから得られていくものを正当化していけるナマの事実(上のトリレンマの②の打破策)として用いようとしたが、それは「所与の神話」である、「正当化の必要がない正当な知識」などではないとして痛烈に批判されてしまった。テクニカルタームが多すぎて何を言っているかわかりにくいと思うがあまり気にせず上は読み飛ばしてよい。物理主義者の中にも正当化の手続きについて見事に淀みなく解決して考えを開陳できる人はそういないだろう。このあたりの正当化に関わる話は、様々あり、哲学入門レベルを飛び越えていくので於く。

 では神を採用すればよいのか? 神の採用もまた上のトリレンマの②である。信仰をする人にとってはなんといっても神なのだからそれ以上の正当化を行う必要はないかもしれない。だが、物理主義者はそうではない。何が神を作ったのかだの神が全てのはじまりなら観察可能な根拠をもとにした証明がどうのだの言い始める。つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマについて「えーっと……」となってしまう物理主義者にとっても「あ、でも神はないです」というわけである。物理主義者はあんまり多くを置きたがらないので、同じ②をとるのだとしても「まず神がいて、神が作って世界がありました」より「世界がありました」のほうが無駄がなくて望ましいと考えるため、何か知的営為のための特別な利点がない限りここを概観しても神を導入する動機を物理主義者は得られないわけである。「神がいて、神が作って世界があって云々……」という語りにもう目的論的推論機能を感じて、ホモ・サピエンスやっぱ信じらんねえな……と苦い顔をする物理主義者すらあるかもしれない。

おわりに

 以上のことから私は当面物理主義を採用し、無神論者(無宗教者でなく)を自称しています。無神論者の中にも様々あり、無神論者の権利のために闘争すべきであるとか宗教の犠牲になっている人を救済し宗教を打破すべきであるとか考える方々もいるのですが、私はそのような運動に与する予定はありません。今回のような哲学考究の他に、正義や倫理、法哲などに関する興味もあるのですが、何らかの運動に参与するつもりはないです。これはそのような運動に批判的だからという理由ではなく、私という個人が心身ともに非常に虚弱でそのような営為に耐えられないためです。私の領域は主に分析哲学なのですが、大陸哲学――現代思想系の人などからはいやいや政治的でないことなどできないから……などと言われてしまうかもしれませんが、その場合は「実際に政治的な領域に関与しているか否かにかかわらず、私の主観的意識や五感から与えられる情報が言語的な意識として政治に結びつかず、その結果心身ともにリラックスできる状態に自らが置かれるよう動機づけられて私の意識的行動は行われる。ただし一人称的把握による意識的行動であるため、様々な要因により目的に反した行動をとることがありうる」などと弁明することになるでしょう。

 とにかく目的は神の打破や無神論最高などではなく、物を知っていくってどうやっていくべきなのかなあ、といった哲学的興味への入門・案内でした。とはいえ、殆ど哲学者等の名前も通史の紹介もせずに論述してきた本noteですから、ここからどう枝を伸ばしたものやらと悩んでしまうかもしれません。分析哲学の領域についてではありますが、ありがたいことに勁草書房さんがブックリストを作ってくれているので、よければ参考にしてみてくださいね。

 現代哲学の見取図 主要ブックガイド

 以上、本noteを少しでも楽しんでいただたなら幸いです。
 通読いただきありがとうございました。

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