ブルーアーカイブにおけるシナリオ激重オタク感想と、素敵な開発の皆様方の紹介について

はじめに

 本noteはブルーアーカイブにおける強火オタク感想文の全力投擲であるとともに、
 「ブルーアーカイブのシナリオはこういった理念で作られているよ」
 「先生(ユーザーとしての)の読みについて運営側はこんな感じで受け取られているよ」
「二次創作への運営開発の理解にガイドラインとは別にこんな発言があるよ」
などなども紹介していくnoteです。

 ブルーアーカイブのシナリオについて「ああ、だからこんな書かれ方したのかもしれないな」と誰かが推測を立てるのに役立ったり、後述される「Yostarが懸念する新旧プレイヤーに共感帯が乏しい可能性」を意識することで対立する考えの先生をやみくもに非難することなく、しかし持論を安易に捨てるのでもなく、互いに尊重し、時には建設的な議論をして互いの考えをブラッシュアップしてみたりといった営為に役立つための気づきとしてもらったり、あるいは「二次創作」においてどれだけNEXON Games、Yostarが愛情を注いでくださっているか、また「二次創作」にどれだけ期待しているかを理解し、ルールを守って楽しく「ブルーアーカイブのIPエコシステムの一部としての二次創作」を行っていけるよう勇気づける一因になったりしたらよいなと思って作成しました。一文が長すぎるな? それ以上に本論はコンテンツ山盛りなので覚悟してください。対戦よろしくお願いします。

重大な注意点、ならびに果たしたかった責を果たせなかったお詫び
 私は引用狂いなので本noteの紹介でも運営・開発の皆様のお考えについて、各記載ごとに出展を載せたかったのですが、記載ごとの出展明記ができておりません。

 網羅的に用いた全ての出展の一覧項目は付しておりますのでぜひ全て一読されることをお勧めします! 今回は16点用いましたが、これは全てを網羅していません。あくまでも一部です。インタビュー系まとめたwikiとかできないかなぁ……

 以下に目次を設置しますが「筆者の立ち位置について」は読み飛ばして構いません。ただ筆者が「どのようなタイプの先生(ブルアカプレイヤー)」かが記載されているだけです。「新旧プレイヤーに共感帯が乏しい可能性」問題を後述するときに、自分がどちらにいる人間であるかを隠して語るのは卑怯な気がしたので、できるだけしっかり書いたものです。本論はできるだけ公平性を期して書こうと思うのですが、もしかしたら無意識に自分の立場に有利なことを書いてしまうかもしれません。そのときに本項があることでその望ましくない偏った記載が簡単に明らかになることを期待しての作成です。


筆者の立ち位置について

 特に後述する「Yostarが懸念する新旧プレイヤーに共感帯が乏しい可能性」の箇所の検討上、無敵の第三者の立場から物を語るのはズルいと思うので、本noteがどのような立場の先生が作成したものであるかを開示しますが、読み飛ばしていただいて基本問題ありません。

自分で全部情報読むからそこだけちょうだいって人向けの一覧はこちら!
「参考にした運営開発側資料」

眠くなる批評理論に関する検討から入りたい変な人はこちら!
「製作者の意見をシナリオ理解の補助線とすることについて」

ブルアカ関連の話してるところから読みたいなという方はこちら!
「いいかげんブルアカの話をしよう」

序論飛ばして開発側コメントとその検討やってる箇所から読みたいなって方はこちらからどうぞ!
「ブルーアーカイブという物語の中心点について」

「こいつ言ってることちょっとおかしいぞ?」と思ったときに本項を読むと「ああ! こういう人だからか!」と腑に落ちるかもしれません。見ていただくとわかるのですが、結構マイノリティ側だと思います。

以下のクソ長長文は読む必要がないので飛ばして次節へ移り、本論を読み進めていく上でどんなバカがこんなこと言ってるんだ? と思ったらここに戻ってください

 筆者はブルーアーカイブサービス開始当初からの先生で、一度の離脱もなく先生であり続けています。

 メインストーリー、イベントストーリー、ミニストーリーやグループストーリー、特殊作戦デカグラマトン編や絆ストーリー、そうりきせん前口上(君がそうりきせんって言ったり学園交流会をいって、って言ったりしていたのを覚えてるよアロナ。かわいいね。アメェフルノカナァ)等々の全てのお話をとても愛していて、嫌いな話がありません。

 作中設定面の深掘りを愛すると共に、あくまでモチーフはモチーフに過ぎず、ブルーアーカイブのシナリオとは独立であると意識した上で作中モチーフ探しについても楽しんでいます。

 また、キャラクターの(生徒の、ではありません。生徒だけでなくゲマトリアや柴関の大将、夜戸浦村のみなさんなど出てくる人[ロボやAIも含みます。]全てについての、です)人格の把握や関係性の把握に努めています。

 ブルーアーカイブには様々なテクニカルタームが登場しますが、その中で特に強い興味を抱いているのが哲学で、筆者は分析哲学徒です。あと強いて言えば行政文書のテンプレート作成や起案・決裁などの行政事務にも興味があります(政治行為や単なる事務を除く行政行為にはあまり興味がありません)。

 筆者はオタクですが、サブカル全般に強いという程ではありません。個人的な感覚だと下の上くらいの知識量だと思っています。

 また最初期からプレイしていて腐るほどの資材を持ち毎日三次ノードまでぶん回し、多くの生徒を迎えているくせに、たまにチャレンジをクリアできていなかったり、そうりき大決戦が金トロだったり、対抗戦が2桁順位、たまに1桁で喜んでいたりと所謂ゲーム部分のプレイはヌルめです。

 文字書きとして二次創作を行っており、主戦場は短編の先生×生徒の恋愛モノですが、放課後スイーツ物語とかいうやつのせいで女女の良さを教育された結果、最近は女女執筆にも励んでいます。インベイドピラー(無名の司祭「隠喩なのだ!」)は生やしたり生やさなかったりです。

 小学1年生の頃から健全話のみ書いてきたのに、ブルアカのせいで【ダメ! エッチなのは禁止! 死刑! 】も書くようになりました。ブルアカのせいで……僕はもう終わりだよ。

 二次創作の受容者としては、文字・イラスト・漫画等基本何でも食べられて、ヘテロ健全、女女健全、ヘテロ【エ駄死】女女【エ駄死[インベイドピラー有無関わらず]】、ハナコが好きだと言っていた瞳を蕩けさせながら許しを乞うタイプのエンディング――NTRや陵辱も食べられます。なお僕は完堕ちが好きなのでハナコとは微妙に派閥が異なります。

 シスターフッドのみヴェールのみ着用可、あとは全裸を提唱したわっぴ~! は仲間ですが、基本は全裸ただし靴下のみ着用可を唱えるハナコとはやはり微妙に嗜癖が噛み合いません。

 地雷はブルーアーカイブに限っては丁寧な設定、シナリオ把握を伴わないキャラヘイト創作くらいでしょうか(特にゲマトリア、先生、ナギちゃん、私の大切なお姫様、ビッグシスター、超人室長あたりにはかなり同情的です)。

 全生徒というかベアトリーチェとか含めて全キャラクター好きなので、どうしても甘くなりがちです。私にとっての地雷がこの世に存在することについてはもちろん許容したい考えです

私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい

良い言葉ですよね! ヴォルテールの言とされていますが、実際にはタレンタイアによる評伝の中でヴォルテールを要約するにあたって出てきたもののようです。出展箇所にレファレンス共同データベースの該当ページをはっておきます。該当のタレンタイア『ヴォルテールの友人たち』は著作権切れで全文公開されているようなので、興味があればぜひ。私は不勉強で未読です!(ヴォルテールは浅学でカンディードあたりの有名どころしか読んでません!)

レファレンス共同データベースの該当ページ

 ただし、寛容すぎて私は突発NTRの存在についても許容しているのでしゃーねえこいつ始末するかと思われても仕方ありません。突発NTRを許すことから導出できますが、「地雷を踏んだ者は運が悪か! ああよか創作じゃ!!」 で生きています。たまに地雷踏んで死んでます。

 あんまり物事を単純化した物言いは好きじゃないのですが、こういう棲み分けなどの気遣いのなさを許容してしまうのは所謂男性オタクらしいと言えるかもしれませんね――いえ男性オタクの多くも突発NTRは許さんでしょうから僕は公共の敵かもしれません

 NTRなど、読むのは好きですが私の名義では、少なくともブルアカでは書きません!!! できるだけ多くの人を幸せにするものを書きたいので! ただ、ブルアカにもそういうのあっていいと思ってます!!!

 なに? 男性の人間キャラが仮にいたとしても先生しかいない? ばかだなぁのび太くん。「一人歩きしたマジカルtntnのエ駄死チャラ男さんが夜な夜なサンクトゥムタワーで生徒を貫く都市伝説」が反復され一人歩きした結果、「神秘」も「恐怖」有さない希有なる記号、「崇高」であるThe Library of Loreとして顕現したことにすればいいんだよ。そうりき級の相手だから一人の生徒が銃撃しても問題ない、これでばっちりさ! やだなぁ……そうりき戦チャラ男さん前口上に出てきて難しいこと言い出すフランシス。

 なに? 学園都市キヴォトスには学園都市のテクスチャが貼ってあるから先生は無敵だし、先生の低確率の全救済に賭けるスタンスはむしろテクスト効果を考慮したら最適戦略だからそこをアンチヘイトするのはリアリスト系アンチだと最適戦略から外れてかえっておかしい? 本当に愚かだねぇのび太くん。無名の司祭の何らかのオーパーツでサンクトゥムタワーの行政制御権を奪い去り、学園都市のテクスチャを「神によって全てが救済される楽園」に張り替えてあとは黒髪黒目アンチオリ主くんを救世主として振る舞わせてテクスチャがもたらすテクスト効果を積み上げていけばいいんだよ。先生はエデン4章でベアトリーチェに対してはっきりと「救済者」「審判者」「絶対者」ではないと口にしているから君が救世主になれば勝てるんだよぉ。あんまり全能すぎると全能のパラドックスで崩壊するからほどほどの救世主として頑張りながら先生をアンチするんだよぉ。応援してるねぇ!!

 二次創作者にはあるあるですが「創作者として創りたいものの理想」と「消費者として許容するもの」が一致しないので……あと逆カプ、リバいけます。かかってこいやモミジ!!!! D.U.シラトリ区で俺とムシクイーンバトルだ!!!!!!! 表情筋が鍛えられていないキショオタクスマイルで攻撃力2倍!!!!!

 男男については疎いです。ただ、敬意を払ってライバルとして先生を扱う黒服と、あくまで敵という態度を崩さない先生のややソリッドな関係を描いた男男創作とか、めっちゃ美味く食えそうです。誰か書きませんか?

 ちなみに僕の脳内では「色彩か何かによる破局的危機に瀕したキヴォトスにおいて、研究対象であるキヴォトスを滅ぼすわけにはいかないと黒服が判断し、彼の得意分野である無名の司祭の技術で作られた古代の超技術兵器群を次々に展開しながら、ポケットに両手を突っ込んで涼やかに佇んで「クックック……貴方とは一度こうして共闘してみたかったのですよ、先生」などと口にして、対する先生は心底不愉快そうに「私はあなたを仲間と認識したことはないよ」と切って捨てながら大人のカードを取り出す。なお黒服はもちろんいつものビシッと決めた黒いスーツ姿で、先生は便利屋漫画みたいな穢れのない白い連邦生徒会制服で色調的にも好対照」みたいな妄想を百万回しています。子供の青春の物語だっつってんだろうが!!! ごめんなさい。

 あとオメガバース等については完全に勉強が足りません。学べば沼だと思うんですよね……

 そんなタイプのオタクです。


参考にした運営開発側資料

(もっともっと色々なインタビューがあるのですが全部は追い切れておらず恥ずかしい限りです! 韓国でのインタビューが多く、邦訳版が欲しいと強く願うばかりですが、多大なコストや折衝を要し実現可能性が低いこともわかっております……! むねん……!!! 雑多に張ったので時系列順にもなってないです、ごめんなさい……)


製作者の意見をシナリオ理解の補助線とすることについて

 特に前半部分がゴルコンダ的な話になります。マジでゴルコンダです。なんといってもテクスト論のロラン・バルトにまつわる話ですから。記号論とあわせてゴルコンダのかなりの要素を構成する部分の話です。

 興味なければ小見出し「いいかげんブルアカの話をしよう」まで飛ばしてください。あるいは読んでいる途中であーもういいやと思ったり眠くなったりしたら小見出し「いいかげんブルアカの話をしよう」まで飛んでください。

いいかげんブルアカの話をしよう」以降の話は面白いという自信があります是非読んでください!

ですが前半の話はマジで眠いです。生半可な気持ちで読まない方が良いです。ブラバが一番悲しいので「あっいいや」と思ったら読み解くのやめて「
いいかげんブルアカの話をしよう」に飛んでください!!! 楽しい話が待ってます!!!!

 特に前のnote、狂気のセイアちゃん5万字論文を通読して「大丈夫読めるよ」と思った方、無理しないでください。たぶんあれ以上に眠い話です。遠慮せず飛ばしてください

 レッドウィンター連邦学園出版部所属の評論担当者である三善タカネさんのような文芸評論営為に触れてみたいとか、大陸哲学的文学理論の伝統に則って文芸批評を行ってみたいとか、あるいはそれを批判したいとか、そういった人以外読む価値がない項目です。

 めちゃくちゃ熱を入れて、躍起になって徹底的に論述しています。なぜ私がそんな眠くなるような議論に必死なのか。理由はただ一つです。「読みの可能性を守りたいから」です。

 ロラン・バルトは大陸哲学の伝統に属さない、分析哲学徒の私からしても、読者を誕生させることで読みの可能性をぐっと広めてくれた尊敬すべき偉大な功労者です。めっちゃ面白いシナリオ感想が現代に溢れているのは、ロラン・バルトが殴られても殴られても必死になって戦って流した血が、現代まで受け継がれてきたからだと思っています。

 全部がロラン・バルトのおかげとは言いません、でもロラン・バルトの流した血は無意味でも無価値でもなかった、少なくともある程度の影響を残した、彼の戦いは有意義で尊敬すべきものだったと私は確信しています。

 けれど、そこには作者の死という犠牲がありました。私は「読者の生存」を認めた上でロラン・バルトへの誤解などを解きつつ「作者も生きていて良い、作者を使っても使わなくてもいい」を擁護します。それによって「作者を作品理解の指標とする人達の読みの可能性を守りたい」「彼らの読み方は許される、彼らの読み方は守られるべきだ」と擁護するために長々と語っているのです。それが眠い話をダラダラやる私の動機の全てです。だから、ほとんどの人にとって前半部分は読まなくていいです

なお、「作者を作品理解の指標とする人達の読みを特権化して他の読み方より上位に位置させる試み」には私は反対です。あくまで読み方のひとつとして、他と同じ様々な読みの可能性のひとつとして、作者活用を擁護したのです。そこだけは誤解されぬようお願いいたします。


「作者の死」について

 ロラン・バルトが論文「作者の死」を発表したのは1967年のこと。「作者が正確には何を意図しようとしていたのか」についてアプローチすることで正解の読みを見出そうとする「作品論」的なやり方を無批判に使い出すのはどうなんだ、古すぎるにも程があるぞ、という指摘があり得ます(厳密には「作品論」という言い方は日本の文芸批評史に強く紐付く印象で、ロラン・バルトを語っていく上で正確な表現ができていない気がしますが、どうか寛恕くださいませ)。

 「作者を作品解釈ツールとして無批判に持ち出すな」という主張に対する、まず筆者からの根本的な反駁は次です。

作品でもテクストでもエクリチュールでもなんでもいいがそもそも本論は「作者を通じて作品を解釈すること」を目的としていない

 先に述べたとおり、本論の意図のひとつは「運営・開発がどのようにブルーアーカイブのシナリオを作ろうとしたと発言したか」を示すことです。

 「運営・開発がどのようにブルーアーカイブのシナリオを作ろうとしたか示すことにより作品を解釈すること」ではありません。

 冒頭で「開発運営側の態度の把握」から「作品の理解」に至ろうとする努力を始めようとする人がいるかもしれないことは述べましたが、本論が開発側の発言を引用して、作品の解釈をそれのみで確からしいと正当化するとまでは述べていません。

 つまり筆者は特段作者を特権的地位に置きたいと思ってはいません。というかisakusan自身テクスト論についてきちんと学んでいらっしゃるので、ご自身の発言が特権的な読みの指針にならないよう、インタビューで非常に気を遣った回答を行っています。

 wikiなどによる情報整理に開発側が参画することはしたくない、プレイヤーの楽しみの権利なのだから、としているようなところはぜひともテクストの快楽に浸ってほしいと願っているかのようにすら見えます。

 そもそも後述しますが、ブルーアーカイブのシナリオは重要な情報を散発的に置き、解釈について建設的な議論が活発化することを期待されています。

 もし一義的に読まれたいのであればワッと設定開示したりライター陣による注をなしたりインタビューで詳論したりすればよいのです。ですがisakusanは絶対それをしません。

 情報がある場所のヒントをチラつかせつつも(=デカグラマトンにはヘイローがある)、作者の解を示すことを頑なに避けるのです(=ヘイローは何かについては各自が情報を集めて答えを出してほしい)。

 色んな議論が出て場が活発になることを開発側は望んでいます。ゆえに、テクスト論的な読み方や受容理論的な読み方にきっとisakusanは好意的だと私は信じています[isakusanがそう言っているわけではないです!! 私がisakusanをそんな素敵な人だと勝手に信仰しているのです!]。


作者が死なねばならなかった経緯について

 本論ではこのようにシナリオが書かれたのはこのような開発側の意図が絡んでいるのかもしれませんねといった表現は行うことがあり得ます。これすら許容できない真摯な文芸批評者も十分考えられます。

 「かもしれない」すら認めないということはつまり、開発側の意図を作品解釈に触れさせることは禁忌であり許されない、とする立場です。

 まず、仮にその主張がロラン・バルトの論文「作者の死」に依拠しているのであれば、そもそも本論文が出た歴史的経緯を理解していなかったり、本論文がもたらした読みの可能性の開きという運動に逆行しかねないんじゃないか、と筆者は危惧します。

 簡単に歴史的経緯を概観すると、ロラン・バルトは古典的作品を現代的価値観から読んだ論考をなし、噴飯ものだと非難されました。つまり、古典を当時の語の用例や倫理観等に照らして読まず、現代的感覚で読むこと禁忌であり許されないとした人たちから、ロラン・バルトは激しく攻撃を受けたのです。

 ロラン・バルトの反撃は2つであり1つ目のジャブが「いやいや俺批判するお前等だって無意識に現代的イデオロギー導入して論考やってんぞ」であり(このジャブだけならもっと注意してやりますねとか逃げ出そうとしかねません。もちろん大陸哲学はそれは不可能なのだとして許さないでしょうが)ぶっ倒すためのストレートが「" 同時代性や作家を特権的な位置に立てて、作者はどう意図して書いたのかの精度を高めていく手法が批評理論として正しく、そうじゃないやり方は間違っているという主義 "は正当化されていない。色んな読みの可能性に対してテクストは開かれているべきなんだ」と反駁しているのです。

 このジャブとストレートについては私としてもさほどなにか言いたいところはありません。べつに色んな読み方していいんじゃないかな、と思います。というか、ブルーアーカイブがシナリオをもってそれを推奨する姿勢を示しています。もしぱっと思い至らないのであれば以下イベントを百万回読み直してください。



作者がまだ死んでいないことについて


 筆者がロラン・バルトを非難するなら、「読者の誕生」のために「作者の死」を求めたことであり、理由は2点です。

 1点目。「近代に誕生した作者という概念は死ぬ」。この考えに賛同しません。論文が出たのが1967年ですが、2023年9月15日現在に至って未だ作者は死んでいません

 たとえば国立大学においてすら、日本近世以前を扱う文学では、同時代の語の用例を集め、研究対象としたい作品の作者の全ての作品を漁って語の用例を集め、「当時の一般的用法」と「作者独自の用法の癖」の2種の用例を比較することで、より正確な作品の読みを主張しようとする試みが指導されています。

 作者の意図に特権的な地位を与え、同時代での用法ですら満足せず作者個人の用法を収集して更に確実性をあげようとする極めて作者を生かした文学研究手法です。

 覚えているでしょうか。ロラン・バルトが「作者の死」を唱えようとした歴史的経緯を。まさにこういった人達から、現代的感覚で古典を読んだことについて殴られまくってロラン・バルトはブチギレたのでした。ロラン・バルトをブチギレさせた人達のやっていた研究手法は単なる事実として今も生きています。

 ちなみにもう結構前のことになりますが、筆者が学位を得た大学の日文においては近世文学の教授が日文で最も偉く、ポスト構造主義的な色が強い研究を行っていた近代文学研究会の准教授に若干ちくっと言っていることがありました。

 ロラン・バルト殴りと同じ事が21世紀に大学生だった私にも確認できました。もっとも、この近世文学の教授を擁護するならば、近代文学の教授にチクッと言っていた理由は「作者を大事にしないから」ではなく定量調査を行わないからです。テクスト論支持者からすれば、この近世文学教授は作者の特権化を内面化していると言いたくなるかもしれませんが。いずれにせよ単に事実として作者は死んでいません



「作者はいつか死ぬ」という予言が許されないことについて

 読者が誕生し作者が死ぬと言うロラン・バルトの意を汲んだ上で「作者いつか死ぬかもしれないし……」と言うのは事実に関する主張としてダメです。非科学的です。「作者いつか死ぬから……」「いつかちゃんと死ぬから……」で逃げ続けては反証可能性がない、非科学的だと言われるでしょう。「宇宙の熱的死の頃には死んでるし……」などと言い出したらもう終わりです。それで作者の死を示しても、読者の時代を示せません。

 1967年代はおろか2023年の今ですら「人間社会についてこれこれこのような根拠に20aa年~20bb年頃に作者が死に読者が誕生する」と適切に予言を立てることすら難しいでしょう。

 このような人間社会の移行についてなんとか色々考えて予言を立てたのがマルクスであり(レッドウィンター工務部の足音が聞こえてきたぞ!)ポパーが先述の「反証可能性」を持ち出して殴った相手の一人がそのマルクスでした。

 別にマルクスだけ殴ったわけではありません。科学と疑似科学の境界線問題を上手く解決し、どうしても論理的に正当化できていない「自然の斉一性」を採用することなく科学的発見のための手法をエレガントに確立できないか探究することがポパーの目的だったので、ポパーがぶん殴りたい相手はたくさんいるわけです。

 たとえば原始的なタイプの精神分析、なんでもかんでもアレに結びつけるというちょっとコハルみたいなイメージを持たれているフロイトなんかも攻撃対象でした。

脱線・ポパーに火かき棒でぶんなぐられた2人プラスαについて

マジでただの脱線なので読まなくていいです。次項にいきましょう。オタクくんが自分のフィールドで急に早口になってる現象が起きてるだけです。オタクくんしゃべれんじゃん😆👍 それでいこうぜマジオタクくんいっつも黙ってっから俺心配でさぁw 今度また話してよ、あとたまにはガッコこいよな😆😆😆)←友達0人の貧困なネクラ・キショ・オタクの想像上にしか存在しない陽キャ。ユニコーン並に珍しいがユニコーン並にキショくはなくむしろ語っているオタクくんがキショい。

 説明や解説が必要なら私に任せてください!!!!!!!!!!!!

 脱線。筆者は古典的なマルクス主義も古典的な精神分析も科学としては擁護しませんが、マルクスとフロイトの著作それ自体は読んでいて結構面白いので好きです。

 マルクスについては「資本論」が筆者の知人からエスゾピクロン程度に効果のある睡眠導入剤だの枕にするには良いだの散々な言われようなので「フォイエルバッハに関するテーゼ」なんかがマジで文章短いのでオススメです。以下にだいぶ親切な形で公開されています。

 ただ、「フォイエルバッハに関するテーゼ」の論述意図を汲むにはフォイエルバッハの理解が必要で、フォイエルバッハがなんでそんなこと言い出したのかを掴もうとしたらヘーゲルが不可欠で、ヘーゲルを知っていきたいと思うなら仮に他のドイツ観念論に触れないとしてもカントだけは避けて通ることができず、そもそもカントがなぜあのクソ晦渋な三批判等々を著したのか知るためにはヒュームに遡る必要があるでしょう。

 古代ギリシャとかまで遡れと言うつもりか! と怒られるかもしれませんがヒュームの議論は現代人にもそれ単体で掴みやすいのでヒュームまで遡れば大丈夫だと思います。しかもヒュームは初学者でも読みやすくて超面白いです。

 主著は「人間本性論」ですが、長大なそれを読まずとも本人が摘要を出しています。ヒューム超面白い! ヒューム大好き! というか真剣な話、ブルーアーカイブのテーマの一つである「信じること」についてヒュームはめっちゃ知見を与えてくれます。ヒュームの懐疑は楽園の存在証明でその存否二択に苦しめられた百合園セイアの気持ちの理解の補助線になりますし、セイア以外にも「他者なんてわかるわけない」という言葉はブルアカで繰り返し語られていて、その上で「ならばどうする?」が語られるのでブルアカのオタクマジで全員ヒューム読んでみませんか

見ろ、いつだってヒュームヒュームの分析哲学者が本性を現したぞ!

 そんな煽り分析哲学界じゃ挨拶にもならないぞ!

 まだまだいきましょう。ポパーの主たる標的ではありませんがニーチェを取り上げないわけにはいかぬでしょう。マルクス・フロイト・ニーチェは近代食堂のオススメ3点セットだと大将が言ってますからね。

 僕は分析哲学徒なので別に語らなくてもいいかな~本論の流れの邪魔だな~と思っているのですが大陸哲学徒が語れと叫んでいます。こんな脱線した長文になってしまうことについて僕は一切悪くありません、あいつら大陸哲学徒が3人語れって言ったんです。あいつらに文句言ってください。やれやれこれだから大陸哲学徒は困る……

 この三人で一番読んでて楽しいのは個人的にニーチェです。あと二次創作者全員マジでニーチェ全集もっとくと便利です。ことわざのちょっと長い版みたいな「アフォリズム」っていうやつ(しんえんがどうちゃらのやつです)が盛りだくさんなのでとりあえずちくま学芸文庫で全部買って本棚に置いといて、何か描こうかな~と思ったときに雑にページを開くと良い感じに使えるなんか頭よさげでかっこよさげなセンテンツが出てきて実用性超高いです

 不知火カヤ室長学を深めていきたい人もいると思いますので、その場合入門に「ツァラトゥストラ」がオススメです。

 ただ、個人的には読みやすいニーチェの中で「ツァラトゥストラ」は飛び抜けて面白いというわけでもないかなと……ロマンシング物語の3だけはやらなくて良いというユズちゃんの気持ちです(あ!? ロマサガ3面白いだろうが! ユズ、俺とスチューデントファイター2で勝負だ! オタクには勝てないとわかっていてもやらねばならんときがあるのだ!!! ロマサガ3になんてこと言いやがる!!!!!!!!!  ラウーンワン ファイッ)。

 isakusanイチオシのモモフレキャラであるMr.ニコライ著「善悪の彼方」の元ネタである「善悪の彼岸」はマジで面白い上にバチクソ創作に引用しまくれる良い感じの文言が盛りだくさんなのでよほどの強火不知火カヤオタクでもなければ僕はこっちがオススメです。というか強火不知火カヤオタクなら必読です。二次創作者全員全集買えといいましたが最悪これ一冊あれば結構使い回せます!!!!

 こいつマルクスのときはダラダラ先哲遡りもとめたくせにニーチェにはしないのかよ、と思った方がいるかもしれません。ニーチェちゃんと読みたいならもちろん要りますが、ニーチェは単体でバチクソ読みやすいので(まず哲学徒に与えられがちなプラトンなみに読みやすいと言っても良いです)、哲学史なんて知らずにいきなりニーチェで構いません。

 僕はニーチェに影響を与えたショーペンハウエルとかいうブサイクで陰険でヘーゲルに生徒とられて昏い炎燃やしてる敗北者で女性への偏見が酷すぎるゴミカス人間の著作がもっと好きです。パレルガ・ウント・パラリポメナからもってきた「自殺について」だの「女について」だのばかり読まれますがあのキショ・オタクの神髄はそこにありません。そんなものより断じて主著「意志と表象としての世界」の方がいいぞ……文章量が多すぎる? そうだね……オススメしません。

 フロイト? どれ読んでもいいんじゃないかな。うんちー!! うんちうんち!!! うんちー!!!!!!!(褒めてます)

 あとポパーが普通に枚挙的帰納法使えば良いのにわざわざなんで「反証主義」なんて唱えだしたのかについては、枚挙的帰納法を使うために必要な「自然の斉一性」が問題になっているという点があって、こちらはWikipediaの該当ページを一読すれば「あー、これでモヤモヤするの嫌だから自然の斉一性使わなくていい反証主義組み立てたのかー」とポパーの気持ちがちょっとわかると思います。

 私も最初この問題知ったとき、いや枚挙的帰納法で自然の斉一性の確度上げられるじゃんって思ったんですけどそれ循環論法じゃん、されてさらにグルーのパラドックスとかゴチャゴチャ色々あって「うるせ~~~~~~~~~~~~~しらね~~~~~~~~~~~反証主義」となった気持ちもとてもわかる気がします。




「作者はいつか死ぬ」という予言が許されないことについて 2

 「抜きゲーみたいな島に住んでる貧乳はどうすりゃいいですか? 2みたいな項目名だなw」「言うほどか?」「いやぜんぜん?」「上B」

 生真面目にも脱線まで読んでしまった人のためにそもそも何の話をしていたか思い返してみましょう。

「作者は死んでないかもしれないけどいつか死ぬかもしれないじゃーん!」
「それ反証可能性ないじゃーん!」

50文字で済むことに脱線含めて3000字かかったらしいです。
だらコトリの説明しましょうの後には誰もいないんですね!

 そもそも反証可能な理論を組み立てた上で、かつ未発見のものについて「この理論からいくときっとこんなことになったり、こんなもん見つかったりするよ! まだ見つかってないけど!!」という「新奇な予言」を唱えられるような科学的仮説が存在するのか? と問う人ももしかしたらあるかもしれません。好例があります。

 アビドスのバイト少女セリカちゃんが騙されて買ったゲルマニウムブレスレット。そのゲルマニウムはメンデレーエフの周期表により、未発見の時代に存在どころか物的特性まで予言され、実際にそれは発見され、かつ高い精度で特性の予言を当てていました。

 「作者が死に読者が誕生する」というならこのようにメンデレーエフのようなレベルで言わなければならないのです。「科学的発見の論理」は1937年、メンデレーエフの周期表に至っては1900年以前の発表です。知に対して誠実であろうとする態度として現代人が傲慢にロラン・バルトを指摘していると言うには、ロラン・バルトが反省するに十分な先駆的発表があれこれ多すぎます。

「そんな厳密性求めたら何も言えないじゃん」
「そのとおり! だから" これ蓋然性全く検証してない俺の想像話なんだけどさあ、社会この先こうなると思うんだよねーしらんけど "くらいの謙虚な発言にすべきだし、そんなフワッフワな想像話を棒にして何か叩いちゃいけないんだよ」
というわけです。

 ただ、ここでロラン・バルトを擁護するならばロラン・バルトの置かれていた分野における知の潮流は、人間の認識や社会構造が、ある問題にぶつかり、異なる段階に移行していくといった極めて雑な言い方をすれば弁証法的な影響もある程度あり、そういった社会の中でロラン・バルトを捉えるのであればネチネチ科学哲学やら分析哲学やら持ち出すのではなくそういった時代を含めて見るべきだとする擁護もできるでしょう。

 ロラン・バルトがそもそも論争に巻き込まれ「作者の死」を唱えることになった歴史的流れを考慮すると、そういった時代性に依拠した擁護方法がロラン・バルトに対してかえって愚弄的ではないかと思えないこともないのですが。

 あと、大陸哲学の幾つかには政治的な色が濃くあります。それは政治的な色を完全には除けないという反省として現れることもありますが政治的運動に積極的にコミットし、推進しようとしていることもままあります。" これ蓋然性全く検証してない俺の想像話なんだけどさあ、社会この先こうなると思うんだよねーしらんけど "みたいな言い方で作者ぶっ殺すという政治的目的達成できますか? そんな科学的厳密性より政治的目的重視して" 作者は死ぬ!  読者は誕生する! "ってわかりやすく唱えた方が効果的じゃありませんか? という擁護はもちろんあり得ます。ただし、それをやるなら知を重視する側から殴り返されることは織り込み済みで動かねばならないでしょう。



作者と作品の関係は不可能だという主張について

 さて、よりラディカルに他にもこのような考え方を持つ人もいます。マジでいます。

そもそも作者が作品と関係を持つというのは不可能である。よって作品解釈に作者を持ち出してはならない

 たぶん非哲学徒には何を言っているのかわからないと思います。というかたぶん一部の大陸哲学徒にしかわかりません。少なくとも分析哲学徒である私はほぼ何言ってるのか理解できていません

 さて、こちらもそもそもですが。今まである程度は大陸哲学的に語ってきましたが、まず筆者はそもそも分析哲学徒なので大陸哲学の伝統に与していません。ポスト構造主義も構造主義もその他現代思想も採用していません。

 故にその内部での議論に依拠した態度に特段影響を受けません。よって分析哲学徒たる筆者は物理主義を標榜しごく素朴に次のように、作者と作品が関係を持つのは可能であるとします。

 オカルトを持ち出さず物理領域が因果的に閉じていると認める以上、作者が作品と関係を持つのは可能であると許容します。

[きちんと全項目について解説しながら追っていくので意味を理解せず読み流して構いません]
⓪シナリオはその構成に文字を含みうる
①非物理的心的領域が存在し、物理領域に影響を与えることを認めない
②意識のカルテジアン劇場仮説を拒否する
③内省報告を単なる観察データとして、一人称的意識を仮定せず
 三人称的、物理主義的に取り扱う方法としてヘテロ現象学を用いる
④内省報告と実際の身体の動作が異なりうることは認める
⑤手指の動作は随意運動と不随意運動があることを認める
⑥ブルーアーカイブのシナリオを構成する文字は少なくとも一部が
 開発側の手指による打鍵により入力されることを認める
⑦テキストボックス等に表示されるシナリオの文字が
 物理主義的に還元可能な文字データであることを認める
⑧内省報告と意図は必ずしも結びつかないことを認める
⑨以上により開発者ならびに開発者の意図が
 テキストボックス上に表示される文字の一部に影響を与えている
 と物理主義的に認めることは可能であるとする
⑩以上の過程は全て物理的である
⑪以上により開発者ならびに開発者の意図がシナリオに関与しうる

 順番に見ていきましょう。細かい論証に興味なければ実例をあげているので⑪まで飛んで読んでください

⓪シナリオはその構成に文字を含むことがある
 文字を含まないシナリオがあるのかと言われるかもしれませんが、LIVE A LIVE原始編の非言語的コミュニケーションのみを抜粋して鑑賞したときここにはシナリオがあると言うことは不可能ではないでしょう。

 こういった非言語の表現含めて論ずることもできるのですが、今回は「このシナリオのこの部分には開発側のこういった意図が絡んでいるのかもしれませんね」を認めない方に反論し、いろいろな作品の読み方を擁護するためですので、文字に限って話をしてしまって構いません。「不可能である」の反証は「可能な一例」を示せばそれで済むからです。

①非物理的心的領域が存在し、物理領域に影響を与えることを認めない
 現在このオカルト現象が確認されていないため認めません。非物理的心的領域というオカルトが存在するというのであれば、それはその主張側が立証責任を負い、物理主義者が否定的事実の立証を行う責を負いません。以下は科学における立証責任の解説です。

②意識のカルテジアン劇場仮説を拒否する
 「脳に特権的な意識の座は現在認められていない」という意味です。つまり「意識する私」を脳の特定部位のみが司っているわけではないという意味です。

内省報告を単なる観察データとして、一人称的意識を仮定せず
 三人称的、物理主義的に取り扱う方法としてヘテロ現象学を用いる

「ヘテロ現象学」についてきちんと読もうとするとハードカバーで上下二段になっており500ページ以上の文章量のあるデネットの「解明される意識」を理解していく必要がありますので詳論は於きます。

 まず内省報告とは何か。メチャクチャ雑で誤解を含む言い方なのですが「暑いですか?」と問うたときの「暑いです」という回答が内省報告です。クオリアだの何だのかんだの面倒臭いからその辺には触れずに、かつ目に見える行動だけを扱おうとする(古い)行動主義にも陥らない形で物理的に観測可能なデータとして内省報告「暑いです」を扱うというわけです。

④内省報告と実際の身体の動作が異なりうることは認める
今手を動かしました」と言ったときちゃんと手を動かしているのはだいたいの場合そうでしょう。しかしたとえば幻肢を想定可能ですので、必ずしもそうだとは限りません。よってここは蓋然的です。

⑤手指の動作は随意運動と不随意運動があることを認める
 
健常者は基本的に手指を随意に動かせますが、震えなどの不随意運動が起こることはあります。

⑥ブルーアーカイブのシナリオを構成する文字は少なくとも一部が
 開発側の手指による打鍵により入力されることを認める

 グローブなどで何かしらに手指が被覆されている可能性や、なぜか足で打ったりしている可能性もありますが、そのような場合もまあ「手指で打った」と読んでください。

 モニタに「a」が表示されるのとキーボードの「a」の箇所の押下に人間の身体運動が関与していることが可能であると認めます。キーボードの不調などで意図せず文字が入力される状況は現実的に想定可能ですから「少なくとも一部は」手指の動きで打鍵しているというわけです。

 ちなみにベンジャミン・リベットの実験による準備電位云々の話から、打鍵の意志より前に指を動かすための脳反応は起きていると認めても特段問題ありません(デネットの反論などありますが)。本論が意識に対して極めて冷たい扱いをしていることを思い出してください(非物理的な心的領域からの物理領域への影響を認めない=物理領域から自由という意味での自由意志を認めない、カルテジアン劇場を認めない=脳に「私」のための特定部位は存在しない、等)

⑦テキストボックス等に表示されるシナリオの文字が
 物理主義的に還元可能な文字データであることを認める

 テキストボックス等と表現したのはテキストボックス外にも文字が表示され得るからです。エデン条約編のプロローグにおける「エデン条約編」の文字はテキストボックス上の表示ではありませんよね。文字データの入力以後、翻訳等含め様々な過程を経て文字の表示が我々のモニタだったりタブレットだったりスマホだったりに表示されるまでの過程は全て物理的であり、因果が①~⑦まで物理的に連続しているという意味です。

⑧内省報告と意図は必ずしも結びつかないことを認める
 せっかくヘテロ現象学を用いたのですから本当は意図という語をあんまり使いたくありません。三人称的科学をやってるのに一人称的な色が入り込みかねないからです。まあとにかく。様々な課題があるにせよ意図を物理的に定義することは不可能だとは立証されていないので意図を物理主義的に定義する試みは開かれてはいるでしょう。さて、この場合内省報告と意図は必ず合致するでしょうか。必ずは一致しないでしょう。たとえば分離脳による作話が考えられます。

分離脳から学ぶ「欠損を 埋めようとする」ヒトの心理

Jpn J Rehabil Med Vol. 57 No. 3 2020 渡邉

 内省報告と意図を必ず一致させるように意図を定義することも可能でしょうが(ゆえに⑧は必ずしもとあります)、意図と内省報告を同じ意味にしたのでは、意図という語の学術上の有用性がないように思います。

 それよりは内省報告と意図には別の意味をあてがい、ズレることがあるとした方が有用そうです。素朴な筆者の日常言語感覚では、分離脳の鶏小屋掃除のパターンは内省報告と意図が合致していないように見えます。この分離脳のように非言語化された意図は物理主義を破ることなく想定可能です。

⑨以上により開発者ならびに開発者の意図が
 テキストボックス上に表示される文字の一部に影響を与えている
 と物理主義的に認めることは「可能」であるとする

 意図がどのような形で物理的に定義されるにせよ、シナリオ班の意図とテキストボックス等に表示される文字が「絶対に物理的に因果関係を持たない」というのが非常に奇妙な発言であるのがおわかりいただけたでしょうか。

 ちなみにですが、ごくごく素朴に考えて意図しないテキスト表示がなされる可能性はもちろんあります。たとえば、カルバノグ2章でデカルトは当初カイザーを指して「アンコウの群れ」と言っており(私この言い方めっちゃ好きです)、現在のアプリでは「餓鬼の群れ」に修正されています。

 これは従前から誤訳の可能性が指摘されており、実際修正に至りました。韓国のシナリオ班が意図しない文言がテキストボックス上に現れていた可能性があります。

 また、2023年9月13日現在、セイアが間接的に色彩に露出した際エデン4章では全く同じ場面でベアトリーチェが「意識」に巻き込まれたと言っており最終編では「儀式」に巻き込まれたと言っています。翻訳作業の際ローマ字入力で「G」を打ち損ねた、もしくは誤って入力した上で変換した可能性があります。もちろんこの表記で正しい可能性もあります。

⑩以上の過程は全て物理的である
ただの確認の文言です。物的一元論で処理していることの確認です。

⑪以上により開発者ならびに開発者の意図がシナリオに関与しうる
 例えば仮にシナリオ班がヒフミは自称普通だけど実はヤバいやつだという側面を見せたいと意図したとしましょう。「ファウストのちょっといいとこ見てみたい!」とこの意図に沿う発言(内省報告)を行ったとしましょう。

 ノリノリで打鍵して誤字なくクルセイダーちゃんを強奪するくだりを執筆したとしましょう。このデータが日本に送られて打合せの末合意がなされ誤字なく翻訳作業がなされたとしましょう。

 我々の端末に、クルセイダーちゃんについて「盗んだわけではありません!」というヒフミのたいへんごもっともな発言が表示されたとしましょう。このとき、シナリオ班がヒフミのヤベーとこ見せたいなーと思ったこの瞬間からテキストが表示されるまでの全ての過程は物理的です

 そして「盗んだわけではありません!」は開発者の意図が絡んでおり、内省報告されていることから言語化もされています。この場合、制作側の意図がテキストボックス上の文言表示に関与しています(※この場合、何らかの脳機能障害により非言語処理領域的には「ヒフミに悪党の自覚を持たせた上で暴れさせたかった」にも関わらず言語処理領域的には「ヒフミは自称普通だけど実はヤバいやつだという側面を見せたい」と判断しており、かつ非言語処理領域上の判断が意図と呼ぶのに適切である場合――などという奇妙な状態ではないことを念のため付記します。⑪まですっとんできて読んできた人には何言ってるのかわからないと思いますので、もし気になれば「分離脳」で本論を本文検索してください。ものすごく面白いことが我々の脳では起きていると知ることができます)。

 非常に重要なことなので強調しますが、これは「開発者の意図がテキスト上に完全に反映される」例として挙げているのではありません。そもそも開発者を指してそのときのシナリオを打っている個人を指すのか、その部分を翻訳した者を指すのか、シナリオを統括する者を指すのかなど私は定義を棚上げしています。

 どれを指しても「開発者の意図がテキストボックス上に反映されることは可能」なのでどうでもいいからです。しかし「開発者の意図が完全にテキストボックス上などに反映される」とは述べていません。



いいかげんブルアカの話をしよう

 文学的・哲学的な以上の話を追ってきた人達は本当にお疲れ様でした。
 全部ぶっとばしてここまで来た人はよろしくお願いします。

 やっっっっっっっっっとブルアカの話です。ここから物凄い勢いでブルアカの話ばっかします。耐え忍んできた方は本当にお疲れ様でした……ふっとばしてきた人はぜひ楽しんでいってください!
 今までの眠い話とちがって結構楽しい話になると思うので、ぜひ楽しんでください!!


読み飛ばしてきた人のために。今どんな流れ?

①「制作・運営側の意図を絡めてブルアカの話していいよー」
②「でもテキストボックス上とかに現れた文字が製作・運営側の意図を完全に表現してるかといえば誤字とかあるからそうじゃないよー」
③「製作側の意図のシナリオへの反映は1か0かの問題じゃなくて、程度問題だよー。製作者の意図が60%反映されたテキストもあれば2%しか反映されてないヤバすぎテキストもあるよー。この%があまりに低すぎるとアプデによるテキスト修正の動機になるねー」

こんな流れで③の話としてブルアカの話を物凄い勢いでやります。

250字以下でこの当たり前の話はまとまります。
250字でまとまる当たり前の話を1万2000字以上やってました。
頭コトリか?



杏山カズサの「スズメ」問題



 ブルーアーカイブのシナリオは韓国語で書かれ日本語に翻訳されテキストボックス上に現れるため、意図の定義如何によっては「翻訳を挟む以上、シナリオ班の意図の完全な反映はほぼ不可能である」と言うことができます。キャラクターが「안녕하세요」と言うときのその単語の一音一音の響き、アクセントなどがもたらす発生の感じまでを含めた意図が「こんにちは」等の日本語への翻訳によって完全にテキストボックス上に現れることはほぼ不可能でしょう。

 「쓰나미」と「津波」でもだめです。発声法が違うからです。ほぼ不可能と言ったのは現実的にどれだけあり得なくても論理の上ではあり得るからです。ただの予防線です。普通に無理、現実にはそんなもんない、と言ってしまっていいです。

 「意図の完全なテキストボックス上への反映の不可能性」を上述しましたが、「意図の部分的なテキストボックス上への反映例」も参考に挙げましょう。

 カズサはヴァルキューレの生徒のことを「スズメ」と呼びます。韓国語に詳しい先生方からはこれは「アンコウ」同様誤訳ではないかと疑義が出ています。正確には「マッポ/サツ」などではないかと。韓国語で警察の隠語を指す語は「짭새」ですが語源の一つとして「잡새」から転じたというものがあります。잡から짭への音変化は韓国で一般に見られるそうです。

 現代での俗語にあわせれば、「サツ」などと訳すべきでしょう。잡と짭は見間違いやすいのでこういった歴史とは関係なく、翻訳班が単に文字を見間違ってスズメと訳して今に至っている可能性は十分あります。

 シナリオ班が単に韓国の現代俗語を日本の俗語に置き換えてほしいと思っていた場合適訳はサツやマッポです(この場合も完全な意図がテキストボックス上に現れないと言いうるのは先述のとおり)。「荒々しい言葉遣いがつい出ることで誰にも止められない獣キャスパリーグの片鱗を見せたかった」場合、スズメという可愛らしい言葉遣いはシナリオ班の意図を損ねているおそれている可能性があります。

 「不良によるヴァルキューレ生を指す隠語として俗語を使った」という形式的な文脈は保たれているので、伝わった意図が0ではない点にも注意です。

 さらに、たとえばシナリオ班と翻訳班の「かなり綿密に打ち合わせられている」とインタビューで明言されている関係性からの戦略や、誤訳してしまったと翻訳班が悟ってシナリオ班に相談した際に、

「「짭새」の語源と思われるものに「잡새」があるんだけど、日本だとスズメでしょ? その言い方ってなんか可愛いよね」

 となって「不良によるヴァルキューレ生を指す隠語として俗語を使っているもののその俗語がなんか可愛い」という意図を結果的に戦略的に狙うこととなりあえて韓国では語源に遡り古い言い方になってしまう「スズメ」を採用することにした――などのストーリーがあれば意図の伝わり具合として適当なのは「サツ」より「スズメ」でしょう。

(ちなみに上のサイトや機械翻訳だと「雑鳥」と出るのですが、少なくとも筆者の辞書やweb辞書での検索ではそのような語はありません。厳密に対応する日本語がなくあえて「雑鳥」という語をあてて、「雑魚」などからの類推でなんとなくイメージ伝わるだろう、としているのかもしれませんね。「雑魚」的な鳥として「スズメ」を持ってくるのはまあアリでしょう)。

 勿論真意は不明です。しかし、真意が明らかになることにより「サツ」と「スズメ」のどちらが「よりシナリオ班の意図をよく伝えるものだったか」がわかります。「スズメ」は「アンコウ」に過ぎないのか戦略なのか、とても気になりませんか? こういう考え方って作者の意図と作品を積極的に絡ませる営為でこそわかりやすく論じられると思うんですよ。いかにも分析哲学らしいゴチャゴチャくそやかましいゴミカスみたいな論証よりも、こういう知的好奇心の方で、作者の意図を容認する方向、楽しめないでしょうか。好例はまだあります。



聖園ミカを、どのようにしてお姫様扱いすべきか

(以下のミカにかかる論考、芯を捉えているかどうかグロ版の先生に教えていただきたいところなのですが、私に英語力がなく……答え合わせができないのがもどかしいです。誰かなんとかしてくれたら嬉しいなあ……無断でいいので……)


私の大切なお姫様に何してるの!!

 ブルーアーカイブエデン条約編4章における名台詞です。私は一切悩まずこれを選び、後にミカの絆ストーリーを見て「確かにこの言葉は救いになるだろうが根気強く寄り添うという固い誓いのもと、安易な救いの言葉ではなく先生として生徒を守る、それこそ大人の責任、先生の義務なのだからと"生徒"を貫くことの高潔さ」も理解しました。名シーンです。グロ版ではお姫様発言がどう訳されたでしょうか。

" I won't let you touch another hair on her head! "

 ちなみにisakusanによる韓国版、つまり原文は「お姫様」派です。

 さて、上の英訳。いかがでしょうか。
好意的に読めばキザったらしいくらいの台詞でミカには触れさせないと口にしており、その王子様(女先生無視すんな? 愚かな。王子様は男の子だけの専売特許じゃねえぜ!)やナイト様のような、つまり運命の人的な言動をすることで、「君はお姫様なんだよ」と言外にミカに伝える形になっていると言うこともできます。

 お姫様扱いする意図はきちんと出ており、意訳としてたいへん頑張ったと褒めてあげてよいでしょうか?

 結果なんて分かりきっていますよね。グロ版先生のブチギレ祭りは物凄く、お気持ち英語長文が飛びまくりRTが物凄いことになり、それはもう地獄の有様でした。余所様のブチギレ発言を持ってくるのは忍びないので、それを見た当時の私の発言をここに。

 あの表現を変えるんだからそこには「特別な意味」があるに違いないと思って、私はメチャクチャうきうきワクワクしながらグロ版先生たちの反応を漁りに出かけました。地獄が顕現していました。

 グロ版先生はブチギレ状態のネル先輩が如く暴れ散らしました。お行儀良く淡々と何がダメなのか述べる人もあれば、ひぇってなるくらいブチギレている人もいました。

 有志翻訳が「お姫様」を採用していたこともあって、プロフェッショナルの翻訳がこれ、アマチュアの翻訳がこれ、と併記して皮肉り嘲り倒す類すらありました。なんなら全てのブルアカの「お姫様」の箇所の訳を載せてテメーだけだぞグロ版! とブチギレている人もいました。

 さて、何がいけなかったのでしょう。

 キザったらしいくらいにお姫様扱いしている発言なのに。グロ版翻訳側に好意的に見ればミカにお姫様願望があることはきちんと察していたようです。だからこそキザったらしい言葉遣いでお姫様扱いする訳にしました。

 まだグロ版翻訳に好意的に考察してみます。翻訳者は原文を見て思ったのです。「お姫様」と直接呼ぶのはあまりにも幼稚じゃないか、と。聖園ミカは3年生だぞ、17歳だぞと。ちょっと皮肉っぽい煽り体質もあるあんまり性格良いとは言えないけど社交的な女の子だぞと。そんな子が「お姫様」だなんて幼児に言うような言葉を直接使われて真・わーおを見せるだろうかと。

 そもそもティーパーティーは社交界、「お姫様」だなんてありきたりな! なんとも洗練されていない! これではグロ版の先生に「なんでミカこんな安っぽい言葉でときめいてんだよw」と思われかねない! 「最高の場面」でそれだけは絶対にだめだ!だから自分にできる限りの範囲でお姫様扱いを言外に匂わせる訳出を行った、と!

 十中八九理路はそんなところだと思うのです。ミカがお姫様扱いされたがってることくらいはわかる。でもそれを直接大人の先生が言うのは稚拙じゃないか、と。相手がお姫様だからこそ、本物のお嬢様だからこそ、それに見合った言葉を使うべきなのではないかと。

 翻訳者は決して悪気があったとかちょっと自分の腕前披露してやろうとか、そんなつもりではなかったと僕は信じています。聖園ミカという本当に魅力的な女の子を、最高にかっこよく救う。

 そこで「お姫様」はずっこけるだろ、だめだろと。高校3年生17歳の社交界に身を置いてきたお嬢様なら気分さめちゃうだろ、と。

 だから、キザったらしくお姫様扱いをした。それの何がいけないのでしょう。なぜ私家版翻訳まで含めてどの言語もisakusanの原文を採用して「お姫様」なのでしょう。皆センスがないのでしょうか?

 それは絶対に違います。あそこは「お姫様」であるべきです。絶対にそうしなければならないのです。理由として、「消極的な理由」と「いちばん大切な理由」の2つがあります。


一つ目の「消極的な理由」

 「魔女」と「直接」呼ばれてきたミカを「お姫様」だと「直接」呼ぶことには救いの力があるはずです。しかし、これはとても消極的な理由です。ほぼ考慮に値しません。事実、4thPVを見ればわかるとおり、「魔女」という言葉の呪いからは「ミカは魔女じゃないよ」で十分救われています(そして後に口にした「不良生徒」という言葉で十分「魔女」を塗り替えています)。

 もしミカを「魔女」から解き放つために「お姫様」と呼ぶことが必要だったなら、「生徒」呼びが許されるはずがないのです。「お姫様」一択だったはずなのです。ですが、あそこは「生徒」と「お姫様」の二択でした。だから、これは全く説得的な根拠ではありません。棄却してよいでしょう。最大の理由は、以下にあります。

 最も大切な根拠は、間違いなくここにあります。

 確かに聖園ミカは社交界のトップティーパーティー所属、パテル分派の長にして、キヴォトス3大学園トリニティ総合学園3人の生徒会長の一人、3年生の17歳の生粋のお嬢様です。

 ですが、そんな彼女は、お伽噺のお姫様みたいに運命の人に救われたかった。ここまでは翻訳者もわかっていたでしょう。何度も何度もお伽噺や童話という言葉が出てきたのですから。

 大事なのはここです。

子供っぽくて、夢にあふれて……素敵で、胸がときめくような……」

 聖園ミカは子供っぽい物語が好き。ここが一番大切なのです。重要なのはこの一文から「ミカがどの程度の子供っぽさの話が好きなのか」という点です。子供っぽい物語といっても幅があります。

" I won't let you touch another hair on her head! "

 そんな言葉が出てきて不自然じゃない子供っぽい話だって一応可能でしょう。「一応」と書きました。本論ではなるべくグロ版翻訳は翻訳者なりに頑張ったとして、意訳に踏み切った決意と適切な意訳を出そうと必死に言葉を捻った努力を無視したくなくて、なるべく中立的というより同情的に進めていきたいのですが、私個人の感覚的にはキザっぽいとは言えても子供っぽいと言うのはちょっと無理があると思います。あくまで理屈でなく感覚の話なら、私のぱっと見の印象は当時から以下でした。

 ミカがどの程度の子供っぽさを好むのかはこの時点のプレイヤーにもわかりません。お伽噺のお姫様でありたいという願望は従前からありました。しかし「子供っぽくて」という表現がでてきたのはここが初めてです。

 ともすれば「御伽話」なのだから「子供っぽい」のは当然だろうと思うかもしれません。つまり「御伽話のお姫様に自分を喩え運命のひとを求めるという嗜好」から「子供っぽい言葉を求めること」は論理的に導出可能だ、と。

 しかし、好んでいるのは窮地に陥ったお姫様を運命の人が救うというお伽噺の子供っぽい筋書きで、言葉はちゃんとスマートであってほしいと思っている可能性もありました。

 そして、さらに思い出して欲しいのです。エデン条約編で用いられた問いを。

『楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか?』

 ミカは何度も口にしていました。

 「他者の心に到達することはできない」「それは不可能な証明である」。セイアちゃんを苦しめた二択に、ミカはできっこないよと諦めています。けれど先生は信じることによって証明される楽園――下着の存在証明で応えます。はっきりと断言します。

 先生はミカは悪い子だと断言します。先生はミカが人を騙し、己を偽った様を見てきました。人を傷つけ、己を痛めつける様を見てきました。3章のリンチの後でも、4章の檻の中でも、またアリウススクワッドとのエデン4章中編の戦闘の後でも、涙を流す彼女を見ました。スクワッド戦後なんて鼻水まで垂らして号泣しています(isakusanはこのシーン大好きだそうです。マジで性根が邪悪です。わかるぅ……)

 ミカがアリウスとの和解のために手を差し伸べようとする優しさを持っていることも知っていますし、ナギちゃんやセイアちゃんや先生に迷惑をかけて嫌われることを恐れ、退学を諦めて受け入れながら自傷していく様を見てきました。

 先生は聖園ミカという少女をしっかり先生として見守ることで、信じるために知る努力をすることで「理解できない」はずの他者の本性について断言します。

 これにより楽園は証明され、聖園ミカは「魔女」の呪いから解き放たれます。もっとも、ミカはまだ自分が「悪い子」であり「不良生徒」であると思っているから、「無限の可能性」を示されてなお、そんな自分は「悪役」で「先生が救う価値のある存在じゃない」のだと諦念を抱いています。

 実際、バルバラとの戦闘で死に瀕していた彼女は二度も自分は「救う価値がない」と先生に言います。先生が「いつもミカの味方」だと、「ミカのピンチには当然駆けつける」のだと言っても決して退きません。瀕死の体でなお、先生だけでも逃げるよう言います。彼女の思考はこうです。

「私は悪い子」
「だから先生が救う価値なんてない」

 「無限の可能性」を示されたときも、だからミカは最後まで諦念を拭えずにいました。

 何度だってチャンスを作ってくれるって先生は言うけど、私は悪い子だからそんな価値はないのに、と。

 逆にミカにとっての先生は、アリウススクワッドを追撃する魔女状態のときですら「先生にだけは嫌われたくない」と言うほどの大切な人です。

 だから、必死になって大切な人、先生に逃げるように言います。それでも先生は退きません。ミカはもうわけがわかりません。自分は強いけど相手は反則みたいに強いって言っているのに、ヘイローもない先生なんて何もできずにすぐに死んでしまうって忠告しているのに、まるで耳を貸してくれません。

 先生はバシリカの至聖所から聖園ミカのもとまで全力で駆け抜けて、ミカを庇うように前に立ちます。

 「人工天使シリーズ」――つまり3章ラストで戦ったヒエロニムスより強力である可能性のある聖女バルバラが、
人工天使としては失敗作でも戦術兵器としては全く問題ないアンブロジウスが、
そして大量のユスティナ聖徒会のミメシスが先生の前には立ちはだかっています。

 救う価値のない悪い子のために、とても大切な人が一切退かないのです。その理由を理解できない悪い子に、先生は全力で叫びます。

 ミカは「理解不能」な他者である先生の本心に触れました。
「悪い子は救う価値がない」というミカの考えは完全に破壊されます。
「問題だらけの不良生徒だとしても」
「危険に晒されている生徒に背を向ける先生なんて、どこにもいない」からです。

 「たとえその生徒が数え切れないほどの悪いことをしてきたとしても」
 「その生徒が危険に晒されているのなら」
 「先生という存在は絶対に背を向けない」

 他者は「理解できない」はずなのに、
先生は自分を絶対に見捨てない」ことが、
ミカにはもうこれ以上ないくらいに確信できてしまうのです。
これにより、ミカと先生の間に楽園が証明されました。

 だから、先生としてミカに与える授業はこれでおしまいです。

 先生は命すら削る大人のカードを何の躊躇いもなく取り出して、「学び」を終えたミカにではなくバルバラと向かい合います。

 相手は守るべき「生徒」を酷く傷つけたものたちです。

だから先生はゴゴゴ……なんてSEがついてしまうくらいの空気を発しながら、彼女達に向き合い、あの二択を口にするのです。

 この、下の選択肢の何が凄いのか。
実はここでは「奇跡」と呼んでもおかしくないくらいのことが起きているんです。

 確かに先生はミカがお伽噺が好きなことを知っていました。お姫様願望があることも知っていました。檻の中で明白にふたりはその話をしています。そして先生はこのときはミカのお話をここ塔じゃなくて檻だけどね、と茶化して正面から受け取りませんでした。夢見るミカを現実に引き戻しました。

 先生はミカが「御伽話のお姫様」になりたがっていることを知っています。檻であの会話をしたのですから、そこには運命の人が不可欠であることも、間違いなく。

 でも、ミカは社交界のトップティーパーティー所属、パテル分派の長にして、キヴォトス3大学園トリニティ総合学園3人の生徒会長の一人、3年生の17歳の生粋のお嬢様です。

 そんな少女が好むのが、「どんなタイプの、運命の人とお姫様が紡ぐお伽噺」かを先生は知らないのです。彼女が好きなのは、

窮地に陥ったお姫様を運命の人が救う――そんな御伽噺。
子供っぽくて、夢にあふれて……素敵で、胸がときめくような……

 このミカのより細かい好みを、先生は知らないはずなのです。先生は「無限の可能性」を語るとき、先生としてしっかりミカを見守ってきたからこそのミカの特徴を次々挙げて、「だから私はミカを魔女じゃなくて不良生徒だと知っている」と断言して楽園を証明し、ミカの方でも「先生が挙げた根拠について先生がそれを知っていてもおかしくない」と知っています。

 先生が自分を見てくれて証拠を挙げてくれたから、自分は「魔女」じゃなくて「悪い子」なんだと納得することができました。

 でも、こればかりは違うはずなのです。たとえば百合園セイアがミカについて「童話のお姫様のようにまわりにちやほやされて甘やかされてきた」旨のことを述べています。ティーパーティーの権力に胡座をかいて結構色々好き放題やっていたこともナギちゃんが言っています。

 けれど当時のミカが幼児退行して童女のように振る舞って、周りにもそれを求めていたはずがありません。実際、ゲヘナに宣戦布告しようとしてミカの元を訪れたパテル分派の生徒たち、最もミカをチヤホヤしていただろう少女たちは、彼女の前でかしこまった敬語でやりとりしていました。そんな彼女の姿は、セイアの言う通り「悪役令嬢」がお似合いの様だったことでしょう。

 ETOをリヴァイアサンに喩えるミカ(聖書上のリヴァイアサンに喩えたと見るべきか、ホッブズのリヴァイアサンに喩えたと見るべきか、あるいは両方なのかは結構意見が割れています。みなさんはどちらでしょう? 面白い話題ですが本筋から逸れますので於きますね)です、政治的にはアレだの愚かだのバカだの呼ばれるミカですがその言語センスは洗練されているはずなのです。

 更にミカは幼馴染みのナギちゃんに対してすら「お互いは他人なのだからわかるわけがない」と口にしています。そんな彼女の「ただ独り言で零しただけの本心」が誰かに伝わるはずがないのです。少なくともミカにとってはそうです。

 下着の古則――信じることで達成される楽園証明は無敵の道具ではありません。先生はミカの言行をしっかり見る努力をしたからこそミカをただの不良生徒だと知ることができました。

 ミカは先生の絶対に退かない理由を聞いて「先生は絶対ピンチの生徒(自分)を見捨てない」と確信するに至りました。

 「信じることで楽園を証明する方法」を学んだミカだからこそ「知る努力、知ってもらう努力を行い続ける」、セイアが言うところの「宿題を背負い続ける」ことでこそ楽園証明はなされるのだと了解しているはずです。

 そんな風に、エデン4章の一晩を通して色んな事を学んだミカですが。きっと先生を心配しながらちょっとだけ、思ってしまったはずです。

「ピンチの自分のところに先生が駆けつけてくれるなんてまるでお伽噺みたいだ」と。「救われる価値がなかったはずの自分を絶対に救うと言ってくれた人。この関係性はまるで――」と、ちょっとだけ。ほんのちょっとだけ思ってしまったはずです。あの檻の中での時のように。けれど、それは先生が先生である以上当然の帰結。

 「問題だらけの不良生徒だとしても」「危険に晒されている生徒に背を向ける先生なんてどこにもいない」のだから、ミカが少しだけ夢見てしまった幻想は幻想に過ぎず、この物語はあくまでも私たちが今までずっとブルーアーカイブで追ってきた、信じてきた輝きである、「大人と子供」「先生と生徒」「学園と青春」の物語であり、生徒が生徒であることこそが、先生からの最高の特別扱いと無償の愛情を捧げるべき理由の証明なのだと理解されるでしょう。ゆえに、

私の大切な生徒に何してるの!!

 そんな先生の言葉は当然で、だけどやっぱり。いつも穏やかな先生が物凄い勢いで啖呵を切る様には――

ギュンッ!みたいなSE付きで私の大切な生徒って叫ぶもんね……

 だいぶ驚いてしまう不良生徒ちゃんでした。この表情差分と「!?」は先生が「待って!」と駆けつけてきたときと全く同じ表現ですから、それはもうたいへんにびっくりしてしまったことでしょう。

 もちろんここには、「先生は本気で自分のことを生徒として大切に思っているんだ」という改めての驚きがたくさん、もしかしたらそれこそが本筋として含まれているのでしょう。そうして、ミカは救われます。先生の大切な生徒のひとりとして。

 この物語は、ミカにとってそう結ばれるはずだったのです。

 ですが、いくつかの世界では。たとえば私の歩んできたキヴォトスでは、この物語はこのような結末に至らなかったのです。キヴォトスにはサンクトゥムタワーがそびえ、それを連邦生徒会が行政制御しているからこそ学園と青春の物語というテクスチャがキヴォトスには張られているはずなのに。

 そしてそれは、信じることによって証明される楽園が示す答えでもあったはずなのに。

 先生が先生である以上。生徒こそが何よりも大切な存在で、そんな生徒を傷つけられたことこそが最も激怒すべき理由であるはずで。

 だから、ミカのちょっとだけ夢見てしまった幻想は、幻想に過ぎません。

 それは、天を覆う雨雲が瞬時に消し飛び晴天となることがないように。
 それは、全て破壊し尽くされた蓄音機からは二度と音がならないように。
 この世界の、真理であるはずなのです。

  檻の中でのミカの幻想は、先生から茶化されてしまいました。だから、

私の大切なお姫様に何してるの!!

 それはあまりにも稚拙な言葉でした。子供向け、それどころか幼児向けの童話くらいでしか許されない、まるで洗練されていない怒りの叫びでした。そんな言葉を、大の大人が口にしたのです。本気で怒って、本気の言葉で。

 滑稽です。恥ずかしいです。見ていられません。百年の恋だってさめてしまうでしょう。大の大人が、ただでさえ気難しい年頃の、そしてその中でも群を抜いて面倒くさい社交界のお嬢さんに、そんな言葉を吐いたんです。誰かに見られてしまった日にはシャーレの先生クソダサ勘違い行動として晒されて、ひいひい笑いながらみんなに拡散されるでしょう。シロコへの汗嗅ぎやイオリへの足舐め、カリンへの踏まれたがり願望より気持ち悪いと思う人だっているかもしれません。

 こんな恥ずかしい大人の叫びでは、どんな少女の心も貫けません。

 ただ一人、そんな「子供っぽくて、夢にあふれて……素敵で、胸がときめくような……」「そんな物語の主役になりたかった」女の子を除いては。

 「学園と青春の物語は幕を下ろした」と赤い空の下である男が言いました。ある人は、それにすかさず言い返しました。「ジャンルの解体なんて好きにすればいい」と。宇宙戦艦や巨大ロボットが出てきたって構わないと。

 だからこの「私たちの物語」においては「窮地に陥ったお姫様を運命の人が救う――そんな御伽話」だって、やってしまって構わないんです。

 ミカにとって、それは起きるはずのないことだったのです。自分にとってあまりにもクリティカルな、子供っぽすぎるその言葉。
 なぜならそのいたいけに過ぎる願いは、誰もいない聖歌隊室でただ一人呟いたに過ぎないものだからです。

 先生がミカの観察やミカのまわりの生徒との交流でその隠れた願いを実は見抜いていたのか、素であの発言をやらかしたのかは重要なことではありません。

 ミカにとって先生の言葉は、信じることで成し遂げられる楽園証明ですら届くことのない、それは隠し通した心の最奥です。あるいは、ミカは子供っぽすぎるその言葉が自分にここまでクリティカルヒットすることを先生の発言まで自覚すらしていなかった可能性もあります。この場合、先生を通じて自分の新たな一面に気がついたことになります。二つ目の古則――「理解できない他人を通じて、己の理解を得ることができるのか」が思い浮かびます。

 「魔女」が否定され「不良生徒」になり、「不良生徒のまま大切な生徒として救われる」物語。それが本来あるべき学園と青春の物語の筋書きでした。

 「魔女」が否定され「不良生徒」になり、「不良生徒がお姫様になって挙げ句の果てに颯爽と窮地から救い出されて心ときめく物語」? ゴルコンダでなくとも首を傾げてしまうかもしれません。

 そんな奇跡を起こせる人がいるならば、それはもうきっと運命の人に相違ないでしょう。

 覚えているでしょうか。「私の大切な生徒に何してるの!!」と先生が怒ったとき、ミカはその瞬間「!?」とびっくりしているんです。

 ですが先生が「私の大切なお姫様に何してるの!!」と同じ剣幕で叫んだとき、ミカの反応はまるで違います。彼女は全く通常の驚愕の様子を示しません。

 それどころか、頬を紅潮させ、瞳を潤ませ、そのまま「・・・」のフキダシが入ってどうしようもなく自分の運命の人に見惚れていて。その誰がどう見てもそういう顔だとしか表現しようのない表情のまま、ようやくぽつりと「……わーお」とだけ呟くのです。

 以上が「……わーお」に至るまでの流れです。

 なぜ" I won't let you touch another hair on her head! "が相応しくないのか。まずはテクスト内だけから批判してみましょう。彼女の求める「子供っぽさ」にそれが値しないから。一見的を射た指摘に見えます。特に上の流れを追っていれば尚更です。実際私の当初の解釈はそれでした。

 ですが、この最も単純な理路は、それ単体ではきっとグロ版の先生たちの怒りの源泉ではありません。

 グロ版の先生方は怒り狂いながら「俺達はお姫様と彼女を呼べなかった」と嘆いていたんです。わざわざ各言語の画像を並べて非難するに際しても「他の言語ではお姫様になってるんだよ!!」ということをわざわざ文字で強調していました。「ミカをお姫様と呼ばせてくれよ!」と叫んでいたんです。グロ版が誤っていることを示す際、いかに「お姫様」という「単語」を排除したことが誤っているかを痛罵したのです。

 なぜそんなにも「お姫様」と呼ぶことに執着するのか。「子供っぽい」表現を求めるだけなら可能な例は他にもあるはずです。「お姫様扱いする」だけなら" I won't let you touch another hair on her head! "のように態度で示しても伝わるかもしれません(先述のとおり、私は"感覚的には"お姫様扱いではあっても子供っぽくないと思っています。ですが最大限翻訳者に敬意を払って進めます)。だから本当の核心はそこではないのだと私は思っています。

私の大切なお姫様に何してるの!!

 「子供っぽい表現でお姫様扱いすること」ではなく「まさにこの言葉を放つこと」こそが大事なのです。

 意訳は時に有用でありえます。具体例として、「ヒフミの青春宣言」は日本版と韓国版でヒフミのボイス内容が違います。「ブルーアーカイブのテーマ」がしっかり伝わるようにとの目的は保とうとしたまま、それをよりよく達成するために言語ごとにボイスを変えているのです。

 一文一文レベルで見た時文意が同一でないヒフミの発言が見られます。「終わりになんてさせません、まだまだ続けていくんです!」と「ですから、今から始めます!」では言っていることがまるで違います。

 「私たちの物語」が「今までずっと続いてきて、それを終わらせようとする企みを止める。これからも続けていく」のと「これから私たちの物語をはじめる」のとではまるで意味が違います。

 しかし、少なくとも「お姫様暴動」程の騒ぎにはなっていません。それは所謂ブルアカ宣言の骨子について揺らぐことなく、ヒフミの性格描写にも致命的な差異がなく(致命的ではなく、かつ感覚的ではありますが。私はヒフミがグロ版で口にした「不愉快な物語」はヒフミそんなこと言うかなぁ……とちょっと思ってたりはします。私にとっては純粋な疑問ですが、ヒフミ強火先生だと思うところがあるかもしれません)、少なくとも大炎上するほど怒るべきものだとは見なされなかったからです。

 ですが聖園ミカへの「私の大切なお姫様に何してるの!!」は違います。この言葉はできる限りの努力を払って、「お姫様」と呼ぶ努力を払うことにこそ意味があります。

 「お姫様と呼ぶ」こと。これを単語レベルで守らねばならないんです。「Princess」だなんて、子供っぽさ抜かしてもなんともチープじゃないか、という反論があり得るかもしれません。実際私は当時から今に至るまでずっと翻訳者に一定の同情を払っています。

 まさにその反論が自己を破滅させるのです。この場面で「お姫様」「Princess」そんな風にミカを呼ぶことは日本版でもグロ版でも一般にはチープなことです。というかブルアカの韓国語原文含めミカへの「お姫様」呼びはどの言語でも共通してそういうものだと思います。少なくともエレガントではないでしょう。

 では次にこのような反論が思い浮かびます。元々の表現がチープだったならそれこそが改善理由にならないか? つまり、シナリオ班と翻訳班の綿密なる協議の末決定された「お姫様」を貫くという判断や、isakusanの原文や、それに追従した他言語版やアマチュア訳の全ての文章が拙劣で、だからこそグロ版ではきちんと楽しんでいただくために拙さをできるだけ排そうと努力した、というものです。

 実際私も実況を見ていてこの「お姫様」発言の段で笑ってしまう人を度々見ます。それを非難する意図は全くありません。だって大の大人が「私の大切なお姫様に何してるの!!」は普通に読めば笑えます(私は「あ゛ーッ!」 という言葉にならない声を上げてボロッボロに泣いていました。ヘッドホンつけてベッドの上に寝転がってプレイしていたのでゴロゴロ転がって側頭部とヘッドホンがたいへんなことになりました)。

 実際チープすぎて笑ってしまうほどだという事実があるのになぜ「お姫様」を堅守するのか? 逆なのです。その事実があるからこそ「お姫様」を堅守するのです。「私の大切なお姫様に何してるの!!」は他の生徒に見られたら最悪晒されて笑いものにされかねない、と先述しました。だからこそこの言葉であるべきなのです。

 「先生の発言は普通なら失笑されかねないもの」でした。
けれど「その言葉をこそミカは求めていて、あるいはミカはそう直裁にお姫様と呼んでもらえるのがここまで嬉しいものだとは自分でも理解できていなくて、ミカにとってその言葉を得られたことは先述のとおりまるで曇天を吹き飛ばし青空に変えてしまうような、壊れた蓄音機が慈悲の歌を響かせるような、奇跡に等しいこと」でした。

 周囲にとって失笑ものの殺し文句であればあるほど、それはミカと先生の間だけの言葉としていっそう純化されることになります

 グロ版先生は日文含む他言語との比較で「お姫様」がないことに怒っていました。それはある意味、五つ目の古則という宿題をグロ版の先生方が真剣に、心の底からミカを想って背負い続けたが故の怒りではないかと思います。

 聖園ミカという子は「子供っぽい」御伽話が好き。普通だったら失笑される「私の大切なお姫様に何してるの!!」にときめいてしまうくらいそういうのが好き。

 日本先行版をしっかり見て聖園ミカの心の理解という証明不可能な問題に立ち向かっていって、聖園ミカを信じて楽園を証明し続けようと努力してきたからこそ、グロ版の先生たちはいつか聖園ミカにクリティカルの殺し文句である「お姫様」を放って、あの瞬間にしかない聖園ミカと先生の間の特別なやりとりに至りたいと、奇跡を起こしたいと願っていたのでしょう。

 聖園ミカに恋するグロ版の先生に至っては、それを通してこそミカの「運命の人」になるのだとその日を待ち望んでいたことでしょう。

 聖園ミカから「お姫様」の選択肢を奪い去ることは、アズサからコンクリートに咲く花を奪い去ることの半分くらい罪深いことです(アズサからコンクリートに咲く花を奪うことはアズサという存在を完全に毀損します。ですが、聖園ミカから「お姫様」を奪うことは「生徒」を選んだ先生に致命的な影響はありません。だから半分くらいです。ちょうど半分でないのは、お姫様扱いするという選択肢もあったはずなのに、安易にそちらに走らずそれでも運命の人でなく先生を貫いたという生徒選択の先生方の高潔な決意を毀損するからです。だからちょうど半分にはなりません。感覚としては半分くらいという表現も適当ではないと思っています。アズサの花を奪うことと比しても8割くらいやばいことやってないか、と思います。ですが本論は可能なだけグロ版翻訳者の努力も認めたいのです)。あのやりとりを通して聖園ミカという少女には「お姫様」という単語それ自体が彼女というキャラクターを構成する要素の一つとなります。

 ブルーアーカイブは基本選択肢を記憶しないゲームです。「シロコの隣に座る」か「ノノミの隣に座る」かに後のゲーム進行上の大きな意味はなく、お姫様を選ぶか生徒を選ぶかもきっと同様です。

 選択肢の取扱について真逆のスマホアプリとして、自身の細かな選択が後に大影響を与え、しかもときにはどの選択肢がその大影響の原因になったのかわからずプレイヤーであるbotたちを阿鼻叫喚の地獄絵図に叩き堕とした「拡張少女系トライナリー」があります。

 たとえばFate/Grand Orderをやっているマスターに分かるように説明すると、赤字選択肢ですが厳密には違います。メインの人理定礎復元や異聞帯切除、イベントや「幕間の物語」といった全ての話の全ての選択肢が記憶され、挙げ句の果てに一回選んだら二度と選び返せない選択肢まで存在し、「この鯖が好きなんだよなあ」って思っていて、実際鯖とも良い関係を築いていたら、座の本体から今までの数多の選択の積み重ねの結果「お前信頼できんわ」と言われるような(そして別にその鯖が推しではないマスターが信頼されていたりする)地獄のアプリでした。

 ブルーアーカイブは「どちらの選択肢をタップ、クリックするか」に少なくとも2023年9月16日現時点では何の影響も与えませんが、最終編4章のあとこの「拡張少女系トライナリー」というあまりにマイナーなスマホアプリで心に傷を負わされた私のような先生方が狂ったように叫び周り、2018年夏に2017年春のサービス開始から1年ちょっとでサ終したアプリであるにもかかわらずトレンド入りするという珍事を果たしました。

 このことについては、なぜ選択の扱いについて真逆に見えるトライナリーを最終編4章が連想させたのかについて、isakusanの発言を引用しながら本論で触れていくことになります。この文を書いている時点ではまだ未執筆ですが、本気の本気、全身全霊で執筆してトライナリーを知らない人にもブルーアーカイブを理解する助けとなる項目として絶対楽しめるものにしてみせるので、楽しみに待っていてください。

 閑話休題。お姫様を選んだ私たちは、少なくともあの瞬間に限っては、ミカを生徒との二者択一でお姫様にして、そして聖園ミカの唯一無二の表情を見ました。

「聖園ミカが求める子供っぽさというのはまさにこの一言なんだ」
「たとえシナリオ上の影響はなくてもこの選択肢を選んだミカの心にお姫様という単語はずっと残る」

 五つ目の古則です。私たちはそれを信じ続けることができます。たとえミカの絆ストーリーにそれへの言及がなくても、たとえ最終編でそれへの言及がなくても、それでも楽園を信じ続けることができるんです。聖園ミカと共に楽園を証明し続けるために、「お姫様」という言葉がどうしても必要なのです。

 けれどその機会はグロ版では与えられませんでした。「お姫様」という単語はなく、「子供っぽさ」についても疑義の残る一文が代わりに与えられました。

 繰り返しになりますが、グロ版の先生たちはきっと楽園を信じていたんです。そしていつか「お姫様」という言葉をミカと共有したいと待っていたんです。単に救いのないミカを「お姫様」にするだけでなく、俺こそがミカの「運命の人」になるのだと、重い決意を決めていた先生だって海外にはいらっしゃったかもしれません。

 上で詳述のとおり「お姫様」という単語そのものを重要に扱うこと「お姫様扱いをすること」はまるで意味が違います。先生があんなにもクソダサくて子供っぽい言葉を放ったことにも意味はあります。

 楽園を信じるためには努力が必要です。他者の心を信じるためにはそのための努力をせねばなりません。

 確かに信じるという楽園証明の方法では誤解が生じうるとセイアが言っていました。そして、セイアはそれでもその宿題を背負って進むべきだとも言っていました。また、聖園ミカの心という楽園を証明し続けようと試みているのは先生だけでは勿論なく、ナギちゃんもセイアもそうです。色んな人が聖園ミカの楽園を信じようと努力しているのなら、その見解を借りよう。そして信じることにより証明される楽園では誤解もあるのだから誤っていたら自分を見直そう。

 グロ版先生がそうして確認したところ、グロ版以外の全てが「お姫様」でした。意訳という方法がある中、頑なに「お姫様」を堅持しました。特に先行である日文版とisakusanの原文である韓国版は大きな影響があったでしょう。

 シナリオを振り返ってみたところ、絶対に聖園ミカにとって「お姫様」という単語そのものが重要な意味を持つと思われる。けれど誤解かもしれないから他の訳文も見よう……そうした営為が聖園ミカを「お姫様」にしたいなら「お姫様」と呼べ! と示してくるのです。

  isakusanは単純には理解できない複雑なキャラクターが好きだと言っていました。そんなisakusanらが送り出してくれたこれ以上なく複雑なキャラクターである聖園ミカに対して、先行のYostarは「お姫様」堅持すべしという立場を示し、他も倣いました。

 どう反省してみても、グロ版は適切に訳出を行っていないように見えます。そして、これは日本先行が「餓鬼」を「アンコウ」と誤訳したのとはわけが違います。

 「餓鬼」と「アンコウ」の違いはデカルトという人物の心を理解しようとするときにさほどの妨げになりません。所確幸というデカルトなりに高潔な(客観的には俗物ですが。でも好きですよ、SRTを中継で擁護してくれたところ、特に)視線に照らして、カイザーは欲の皮が突っ張った悪党です。

 デカルトの性格も、デカルトのカイザーに向ける感情も、この誤訳ではほぼ変わらないと私は思います。というか感情だけで言うならコミカルなので「アンコウ」はキヴォトス独自の罵倒語という設定で残しておいて欲しかったです。やっぱり「アンコウ」にしませんか? ダメですよね……ただの誤訳ですもんね……

 「スズメ」についても仮にただの誤訳であっても変えてほしくないというのが私の感情です。だって、可愛い……ただし、「スズメ」についてはそんな可愛い印象でカズサを見せたくなかった、「アイリみたいな女の子になりたい」と思っていながら「思わず俗語を吐く不良」として「キャスパリーグ」としての粗暴な言葉である「サツ」を本当は使って欲しかったのだとシナリオ班が思っていたのだとしたら、私はもちろんそれに従います。

 「サツ」だの「マッポ」だのという荒い言葉がつい出てしまって、そんなカズサを「わぁ」って目でアイリが見て、カズサが「憧れの人に粗暴なとこ見られた!」って恥ずかしがる姿勢を楽しむのも悪くありませんからね。

 そういう方面を楽しむならば「スズメ」より「サツ」などの方がよいです。だから「スズメ」「サツ」問題については、「どちらを選んでもカズサ本人およびカズサ周りの人間関係」を「別の意味で」楽しめそうなので修正がなければこのまま、修正があれば軌道修正して楽しみたいです!

 で、でも「アンコウ」はどっちでもそんなに変わらないじゃないですか……というかすごいトンチキで俗語としてキヴォトスっぽくないですか「アンコウ」! 上質なコラーゲンたっぷりのアンコウの欲の皮が突っ張るって表現がもう面白過ぎて大好きでした。僕は大好きでしたよ「アンコウ」!

 たとえ「アンコウ」に戻らないのだとしても、あれも好きでした、カルバノグ2章のたのしみは全然損なわれませんでした、楽しかったです! とYostarの翻訳の人達に僕の気持ちが何かの形で届いたら嬉しい……!!!! ありえませんがね!!!!

 僕、その世界特有の言い回しって好きなんですよね……

 閑話休題。

 「アンコウ」「餓鬼」とちがって「お姫様」を排除して敢えて意訳を行うというのは聖園ミカという少女に向き合えていないのです。敢えて意訳したというその努力が、逆説的にミカをきちんと理解する努力を十分に行えていないと証明しているのです。

ミカは社交界のトップティーパーティー所属、パテル分派の長にして、キヴォトス3大学園トリニティ総合学園3人の生徒会長の一人、3年生の17歳の生粋のお嬢様で、実は御伽話が好きでお姫様扱いされたい。

 こんな程度の理解しかできていないんじゃないかとどうしても思わずにはいられないのです。だからこそ、ミカを誤解して、誤解したミカ像に対しての最適な言葉としての意訳を行った――そうとしか思えないのです。

 楽園を証明し続けようとする努力を欠いている、それも「私の大切なお姫様」に対して。子供っぽい御伽話が大好きな「私の大切なお姫様」が子供っぽい御伽話のお姫様になるシーンで、運命の人としてお姫様にかけるべき適切な言葉が存在しなかったのですからそれはもう激怒激怒の嵐でした。翻訳であんなに人がブチギレているのはじめて見ました。

 いやまあ、何と言ってもあの聖園ミカにおけるあのお姫様のシーンですからね……ここまで読んでいただいた先生にはわかると思うのですが、私は細けぇとこが大事なんだろうが!! 派の先生です。

 しかも「お姫様」は細けぇとこではありません。核心です。私とて当事者だったら数万字くらいのお気持ち長文を投げていたかもしれません。たぶん中立を気取って、そういう訳出やっちゃった意図もわかるようんうんとか書きながら、文章からぜってぇ許さねぇからな……が滲み出るようなものを書いていたと思います。

 当事者でないということもあって、グロ版翻訳者については先述のとおり私はその人をミカ学について不勉強と思いつつ、ミカに対する努力を行ったという点で同情的です。

 なぜなら信じる楽園の存在証明においては誤ることがあり得るとセイアが言っているからです。ミカへの不理解とそれによって奇跡の場面が台無しになったのは努力の結果です。

 何も努力せずただ漫然と訳していれば問題は発生しなかったでしょう。ですが、頑張ったが故に誤った。無能な働き者だなんて酷な言葉もありますが、私は最高の場面でミカの心をときめかそうと意訳を試みた翻訳者の努力という姿勢に対しては敬意を払っています。

 ただ――聖園ミカはあまりにも魅力的な生徒です。一周年のアンケで私が好きな生徒に選んだのは聖園ミカでしたし、好きな部活に選んだのはティーパーティーでした。

 そんな中、もし韓国先行でisakusanのお姫様発言が先にあって、日本でお姫様を排除した訳出がなされたら、たぶん平常心を保てないでしょう。先の通りぜってぇ許さねぇからな……となるでしょう。

 どんな時にも知的に誠実に、温和であるべきだというのが私のモットーです。だから、私は私自身がそうなってしまうことを正当化しません。でも、たぶん私は未熟で、ミカを好き過ぎて、我慢できないと思います。だから、翻訳者の努力に寄り添いたい反面、グロ版先生の怒りにもまた、寄り添える自分でありたいのです。


 終局はこうです。

修正後の選択肢

 多くの開発者が様々な意図で大切に育み、Yostarとの綿密な調整の上で初めて私たちの世界の前に姿を現した聖園ミカ。

 isakusanらのシナリオ意図を無視するならば、グロ版翻訳を一つのテクストとして受容してグロ版聖園ミカを全く新しい性質で理解することも可能だったはずです。

 たとえば、下を選んだミカはとても丁寧に髪を手入れするようになるとか、髪型について執拗に先生に訊くようになるとか、そして「お姫様」の代わりに「自分の頭髪」を先生に守って貰ったものとして心の大切な位置に置く――そういう読みだって可能です。

 ですが、私はグロ版の先生たちの気持ちに共感するでしょう。人々の解釈は様々で、それは完全に合致することはないかもしれません。ですが、様々な解釈が許されるということをもって、原典とあまりにも乖離し、かつ原典にて備わっていた自分の愛していた特質を、ローカライゼーションにより蔑ろにされた描写を提出されたことに対し、原典を武器に殴りかかることに、私は全く否定的ではありません。

 それは抱くことが許される怒りだと思いますし、その怒りによる営為は建設的であり得ると思われるからです。訳出によって提出された新たな織物を楽しむ自由もあれば、これは許されないと怒ることも許されると信じています。結果としてグロ版は、極めて迅速な修正対応を行いました。


余話:聖園ミカの絆ストーリーについて

 折角なので余談をひとつ。
エデン条約を経て聴聞会に出席し、屋根裏部屋のお嬢さんとなった聖園ミカ。彼女には一つだけまだ信じられていないものがあります。

それは「無限の可能性」です。

 ミカはたとえ誤解があるとしても、信じられないことがあるとしても、それでも他者の心という証明不可能な問題について、信じるという宿題を背負い続けることを学びました。先生という恩師、あるいは運命の人が「決して自らを見捨てない」ことも学びました。もうここに迷いはありません。だから、楽園は証明され続けています。

 2023年9月16日現在聖園ミカの最後の絆ストーリー「きずあと」

 そこにおいて、ミカは先生からもらった水着を破かれてしまいます。「絶対に自分を見捨てない先生」が買ってくれた水着です。そんな水着を着て「水泳の授業を受ける」という当然訪れるだろう明日をミカはとても楽しみにしていました。

 けれど、水着は損なわれました。その可能性はいともたやすく引き裂かれました。「良い子」だったらこうはならなかった――「悪い子」だからこうなってしまった。たとえ「先生が絶対に自分の味方」であることを信じていても、こうなってしまったのです。ミカはただ無邪気に可能性を信じていただけでしょうか。それは違います。

 私刑以外の、公的に下されたあらゆるミカへの罰は、もちろん甘んじて受け入れて当然のものです。ミカ自身もそれを受け入れると最終編ではっきりと口にしています。

 けれど、罰を受けた悪い生徒が行う償いと更生のための試みは努力とは言えない――という言い方は努力という語の定義に反しています。確かに草むしりはミカに課された当然の罰です。だからミカはそれをこなすべき義務があります。

 だからといって、受けて当然の罰として草むしりを行ったことが「頑張らなかった」ことにはならないのです。たとえそれが罰だとしても、ミカはきちんとこなそうと「頑張った」のです。

 そして、その側には先生もいました。過剰な関与はミカのためによくないからと一定の距離を置きつつ、それでもミカをとても大切に見守っていました。

 「ミカは頑張った」「先生もいてくれた」――それでもだめでした。だからミカは結論します。

 「悪い生徒ができる限り本当に頑張って」「そこには先生もいれくれて」それでも大切な水着は破られて、楽しみにしていた水泳の授業は訪れなかったのです。だからミカは結論しました。

「たとえ先生がずっと味方でいてくれても、悪い子の自分にはどれだけ頑張っても届かない未来がある」
「無限の可能性というのは方便だ。少なくとも悪い子には当てはまらない」

 こう結論づけてしまった以上、ミカはどれだけ辛くても判断を下さざるを得ません。

 「そろそろ――」の後に続く言葉には諸説あります。ですが「先生だって私に愛想尽かしちゃったよね」ではないのだと思っています。

 なぜなら先生とミカの間には楽園が成立しているからです。「こんなことくらい」で先生がミカを諦めることはない――とミカは信じているはずです。たとえばこの話の前、メモロビの屋根裏部屋でミカは本気で先生を怒らせてしまったけれど、それでも「そんなことは先生がミカを諦める理由にはならない」とミカが一番よくわかっているはずです。

 私の推測する答えは他にあります。

 そもそも「絆ストーリー」とは基本的にどのようにして始まるでしょうか。「生徒から先生への連絡」です。

じゃじゃ~ん☆ついにっ

あっつーい
疲れたよー(><)
せっかくのお休みなのに、こんなのってあんまりじゃない?




 いつだってミカとの絆ストーリーは「ミカからのモモトーク」で始まります。先生はD.U.のシャーレで執務しているか、あるいは道に沿って縦断して4000キロあるキヴォトス各地を飛び回っています。

 先生は超越者ではありません。セリナのように苦痛を訴えればすぐに現れる不思議な存在ではないのです。

 「屋根裏部屋での事件」「今回の事件」ミカは立て続けに迷惑をかけてしまいました。そして、それでも先生はミカを見捨てません。だから、ミカが言おうとしたのは次のような言葉になるのではないでしょうか。

「迷惑ばっか、かけちゃってるし……そろそろ――連絡するのやめるね

 先生に連絡して頼ってしまえば、絶対に味方してくれる先生に迷惑がかかる――それなら連絡するのをやめればいい。そうすれば少なくとも先生に迷惑をかけずに済む。ミカはそう考えたのでしょう。

 実現しませんでしたが、もし仮にこうなったとしても何の問題もなかったでしょう。ミカが連絡しなくても、ナギサがいます。セイアもいます。ミカに大人の助けが必要ならば、躊躇なく彼女たちから先生へ連絡が飛ぶでしょう。

 そしてそもそも、そんな現実的な問題とは無関係に先生は「ミカのピンチには当然駆けつける」と断言しています。それがどんなに難しくても、不可能に近くても、絶対に先生ならやるでしょう。モモトークを送らなかったくらいであの人がどうにかなるわけがないのです。

 けれど、実際問題として「無限の可能性を信じられずに泣いている」生徒が目の前にいます。

余話2:苦しみを排除する責任

 先生が「無限の可能性を信じられずに泣いている」生徒が目の前にいる状況を許さないことは証明されています。

 私たち先生ではないけれど、間違いなく最期まで先生でありつづけた人。私たちと同じ状況で同じ選択をする、尊敬すべき真の先生たるプレナパテスによってです。

 たとえ「赦されない罪を犯した生徒」であっても「その子が苦しみ責任を負う世界」の存在を先生は許容しません。「世界の責任を負う者」が責任を持って子供の苦しみを世界から消し去るよう努力しなければならないのです。

 単純に、常識的に考えて極めて異常です。キヴォトスは道に沿って縦断4000キロかつインタビューで「大陸」と表現されています。プロローグにおいて「数千」の学園都市を擁していることも語られています。

 「大陸」全ての子供について苦しみ絶望に至ることを許さず、それに寄り添いその状況を改善する責任は「世界の責任を負う者」が抱えるものだと言います。ですから、こんな誤解が生じてしまうのも無理からぬことです。

 繰り返しになりますが先生が抱える「責任」と「義務」は現実的な観点から言えば端的に異常です。

余話3:先生の異常性確認~愛清フウカを用いて


 たとえば愛清フウカという生徒は重箱100個――つまり400人前のおせちについて、妨害工作を受けながらも短期間でおいしく、一定の品質で作り上げることができます。

 その「一定の品質」は資本力により機械制御されたフード会社製のおせちの味を「圧倒的な大差」で凌駕し、食に関してキヴォトスで最も厳格に評価を行うであろう美食研究会が太鼓判を押すレベルのものです。

 このとおりプロフィールの基本情報には「料理の腕前はそれなりに良い方」と記載があります。それなりです。ゆえにかつての私はハルナが過剰にフウカたんを料理人として重視することについてこのように考えていました。

 しかし、これは端的に誤りです。

 たしかにハルナはフウカたんの作るご飯が食べたいと、フウカたんが作ること自体を食の楽しみのひとつとしている節はあるかもしれません。

 しかし、お正月の料理対決では美食研究会以外の美食家たちもフウカたんのおせちを美味い美味いと食べて、ニャオフードに対して圧倒的な大差でフウカたんの料理を支持しています。

 ニャオフードが相手にならないと考えたとして、フウカたんの料理を相対評価でなく絶対評価で考えても、そこまでおせちが好きではない人間がピキーンとエフェクトを出してまでその味に驚愕し認める程です。誰だよフウカたんの料理の腕それなりってプロフィールに書いたやつはよぶっ殺してやるよハルナが。

 そんなフウカたんでも、毎日4000人前の給食を美味しく作るのは無理で、「ゲヘナの給食はまずい」という評価です。フウカたん程の腕前の料理人ですら、ゲヘナの給食を高品質に保つことができないのです。

 ゲヘナ学園で給食を食べる子だけでも数千人規模なのです。三大校だけ考えてもミレニアムとトリニティがありますし、それ以外に数千の学園がキヴォトスには存在します。


余話4:「救世主」と「否定神学」と「先生であること」

 学園都市キヴォトスという「大陸」の全ての生徒が苦しみ絶望する世界であってはならない。責任を持って対処していく義務を大人は負うべきだと先生は考えています。

 この特徴は一見すると「救世主」のそれに似ます。ですからベアトリーチェは全ての生徒を審判することも救済することもできる絶対的な力を有する者と先生を評価しているわけです。

 ですが、先生はそのような評価は端的に誤りだと指摘しています。

 先生は「審判者」でも「救済者」でも「絶対者」でもないと告げています。つまり、先生は「この世界で子供が苦しんでいるのならそれについての責任は大人が負う」としながらも「私はこの世界の苦痛を消し去ることはできない」とはっきり理解しているのです。この語り方がまた特徴的で、否定神学を思い浮かべた人も多いのではないでしょうか。

 その語りによりかえって「救世主」性を高めてしまう先生ですが、自らすぐにそれを破綻させます。

 なぜ否定神学が「神は~でない」と語らねばならないのかというと「神は人間の思いつくことのできるあらゆる概念に当てはまらないから」です。よって、神はこういうものではないよねと語り、神でないものを削り落としていくことで、神にアプローチするのです。

 ですから、先生が真に「救世主」であるならば肯定文で語られうるはずがないのです。しかし、「先生とはなんだ、その能力は、存在価値はなんだ」というベアトリーチェの問いに対する答えは平易な肯定文で行われます。

 先生は生徒のためにいる――ただそれだけです。先生とは決して深遠な概念ではありません。否定神学的にしかアプローチできないなにかではありません。

 ただの先生だから救世主なんかじゃない。世界の苦痛は消し去れないけれど、ただの先生だから生徒が苦しんでいるなら責任を持って支える義務があるんだよと、ただそう言っているに過ぎません。


余話5:先生と黒服。窮極の答えに決して届くことのない「なぜ」

 似ているけれど少し違う問いを放った存在がいます。黒服です。ベアトリーチェは「先生とは何であるか」を問いました。黒服は「大人とはどうあるべきか」を問うています。

 まず訊いているものが違います。先生と大人は別の概念です。そして、ベアトリーチェは「先生とは何者か」という事実を問うているのに対して、黒服は「大人とはどうあるべきか」という大人のあるべき姿を問うています。

 なぜアビドス高校の生徒を救おうとするのか問う黒服に先生はこう答えます。

 思い出されるのはミカの絆ストーリーにおける「トリニティの教官」です。

 この人への個人的な評価は「別のnote」で既に行っているので興味があれば一読くださいませ。ただし本論は以下noteの記載に依存せず進行するため無視して本論を読み進めて構いません

 この「トリニティの教官」に見られるように、キヴォトスにおいては生徒の苦しみに対して責任を取ろうとする大人が少なすぎます。むしろ積極的に自らの利益のために利用しようとしている節すらあります。キヴォトス最高の神秘である暁のホルスを実験に用いようとした黒服など好例です。

 黒服は続けて問います。黒服は先生の言う「アビドスの生徒たちの苦しみに対し責任をとる大人が誰もいなかった」事実を認めています。その事実により「だから先生が責任を取る」が導出される論証過程が黒服には理解できないのです。ゆえに黒服は「アビドスの生徒が苦しみ誰も彼女達を救わなかったとしても、それは貴方が彼女達を救う理由にはならない」と告げ、改めて「なぜ?」と問います。先生は淀みなく答えます。

 黒服が先生から得た理路はこうです。「あの子たちの苦しみに対して責任を取る大人がいない。だから私が責任を負う」「一文目から二文目がなぜ導出できるかわからない。なぜ?」「それが、大人のやるべきことだから」このように議論が進んでいます。ゆえに、黒服はさらに問いました。「何故大人のやるべきなのか、放っておいても良いではないか」と。

 黒服は力や権力やお金(金銭などではなくお金って言う黒服、ちょっと可愛い)や真理などを挙げながら、「この話は先生とは無関係とは言わせない」と詰め寄ります。

 先生はプロローグの際、シッテムの箱を用いてサンクトゥムタワーの行政制御権を握っています。この瞬間「キヴォトスの全て」が先生の掌の上にありました。名もなき神-無名の司祭の所産であるサンクトゥムタワーの行政制御権、この圧倒的な力は最終編まで読破した先生ならピンと来ることでしょう。

 プロローグ当初、サンクトゥムタワーが行政制御できていないことにより数千の学園自治区が混乱に陥っており、ユウカやハスミといった要人が連邦生徒会に怒鳴り込む事態となりました。

 ケイちゃんはプロトコルATRAHASISによりキヴォトスに新たなるサンクトゥムを建立することで全ての神秘のアーカイブ化を図りました。

 カイザーは企業によるキヴォトス支配のためサンクトゥムタワーが貼り付けた学園都市というテクスチャを企業都市に変えてしまおうと試みました。

 サンクトゥムタワーが崩壊した瞬間、フランシスは理解に至り「先生の力はこれ以上機能しない」と宣言しました。サンクトゥムタワーによる学園都市というテクスチャが張られているからこそ先生は無敵でした。これはゲマトリア全体が了解していたことでした(サンクトゥムタワーの破壊なくして先生を始末しようとしたベアトリーチェはおそらく理解できていませんが)。ゆえに好悪を棚上げした上で黒服は先生と敵対してはならないと中立的に一度ベアトリーチェに警告しています。もっとも、黒服は彼女が愚行をなす権利(愚行権を認めたわけではなく、もっと大きな権利を認めています。愚行権は迷惑をかけない限り認められるもので、ベアトリーチェの振る舞いは迷惑です)を尊重しそれ以上の引き留めをしませんでしたが。

 虚妄のサンクトゥムは各地に出現するや否や生徒の神秘を漸進的に恐怖に反転させ、キヴォトス全生徒の神秘が失われる危機をもたらしました。

 アリスとケイちゃんはプロトコルATRAHASISを再演し、新たなるサンクトゥムを舞い降りさせ、魔王の力によって顕現する世界を救う勇者の武器である「光の剣:アトラ・ハシースのスーパーノヴァ」により、天上の遙か彼方に座す「魔王城」の多次元バリアをただの一射で消し飛ばしました。

 最終編の大騒動の後も、サンクトゥムタワーの再建は急務であり、これがいかに必要とされているかが見て取れます。

 そんな圧倒的な力を有するサンクトゥムタワーを、シッテムの箱により個人で掌握したにもかかわらず。先生は何の躊躇もなく連邦生徒会へ移管したのです。

 黒服にはそれが理解できません。莫大な利益を手放して苦労ばかり背負い込む、なぜそんな無意味なことをするのかと。

 先生はその問いについて――もう黒服との対話を放棄しました。

 先生が対話を放棄した理由は明白です。「子供が苦しんでいるから大人が助ける」――そんなことは先生にとってあまりにも当たり前のことです。この対話を放棄した際に背景に現れるアビドスの面々のしあわせそうな姿こそ先生にとってはなににも代えがたい価値があります。しかし黒服はそこに何の価値も見出さず、先生の選択は力や権力やお金や真理などを手放す無意味なものだと断言します。

 「何に価値を見出すべきか」という問いについての答えは様々ですが、その基礎付け――つまり「それに価値を見出すべき理由はなにか」については窮極の答えが決して得られません。直面する問題は簡単に言うと以下のようになります。

①:「それに価値を見出すべき理由の理由の理由の」と無限背進になる
②:無限背進を止めると最後の理由が正当化されてない教条主義になってしまう
③:①と②を避けようとするともう循環論法しか残っていない

 自然科学の手続きに関する難問、ミュンヒハウゼンのトリレンマの変形です。

 黒服がどれだけ「なぜ?」を投げかけても「先生が当然のように生徒の苦痛を取り除くことを大人の義務としており」「黒服が当然のように理性によって自己の目的を追求することを大人のなすべきこととしている」以上、ソクラテスのように問い続けても互いの了解が得られる箇所がないことが形式的に確証されているのです。

 「なぜ?」の連呼は印象的な場面です。黒服はゲマトリアの一員です。狂気こそ打破すべき敵であり、理性をもって自己目的を追究する探求者です。

 ですから理解できない先生について理解を得ようと真摯に質問を投げかけ、自分がどうしてこのような質問をするのか、なぜ先生を不合理に思うのかをきちんと説明した上で問い続けます。

 しかし、この問答が行き着く先はないのです。黒服がホシノを実験材料として用いようとする態度であり、それをごく正当だと感じている以上、先生には返す言葉がないのです。

 「だって、子供が大切なのは当たり前じゃないか。そこにそれ以上の理由なんていらないじゃないか」というのが先生の立場です。

 「生徒を大切にすることによりいかなるメリットを得られるのか」を黒服が必死になって問いかけても、意味がないのです。先生は上にあげた①~③のうち②を採用して「大人が子供を大切にし、世界に対して義務を負い責任を果たすのは当たり前」だとそれ以上の理由を必要としないのです。

 ゆえに、これ以上問答の余地はなく、先生は自分が最も大切に思うものを思い浮かべながら「……言ってもきっと、理解できない」と口にするのです。だからどうしようもなく、ここで「交渉決裂」に至るしかないのです。



余話6:同じ問いかけ、異なる沈黙

 ここからが大切なところです。私も本論を執筆しながらメインストーリーを確認して、とんでもないことに気がついたのです。黒服にこんなにも紙幅を割いている理由が、きっと了解いただけると思います。

 最終編3章。アビドス砂漠にある「宝物」、アトラ・ハシースに対抗するための太古の「恐怖」、「宇宙戦艦」ウトナピシュティム。その在処と先生が負うリスクを語りながら、黒服は口にします。

 「今もなお、あなたという存在を理解する事などできません」と。このとき黒服が思い浮かべていたのが、先に挙げた対策委員会編2章「大人の戦い」のくだり、「言ってもきっと、理解できない」という先生の言葉です。それを思い出しながら、今も自分は先生を理解できないと黒服は断言します。

 黒服は強調して問います。この問いが、とても大切だというかのように。

 「自分の命がなくなるかもしれないのに」「全ては無駄なのに」「なぜ命を賭すのか?」と黒服は問うのです。クロコは言っていました。先生に対して「キヴォトスからいなくなってほしい」と。つまり先生には自分の命だけは助かる方法があります。それなのに先生は、かえって自分の命を犠牲にしてでもウトナピシュティムの本船の起動を選びます。

 かつてホシノをめぐり大人の戦いを繰り広げた先生ならば、黒服の問いに悩むことなく簡単に答えたでしょう。「言ってもきっと、理解できない」と。なぜなら先生の考え方はあの時から微塵も変わっていないからです。しかし、

 先生は即答しかねました。「黒服から提示されたリスクに怖じ気づいたから?」まさか、そんなことを考える人は皆無でしょう。先生は宇宙戦艦ウトナピシュティムの起動に一切の迷いはありません。

 迷っていたのはきっと、黒服に自分がなぜそうするのか答えるべきかどうかです。かつて、先生はもうこれ以上黒服との対話は成り立たないとして会話を打ちきり、交渉は決裂に終わりました。

 必要な話は終わったのだから今回もそうすれば簡単だったのです。幸い、ウトナピシュティムの本船の在処は黒服が何の対価も求めずに差し出してくれました。答える必要はないですし、答えたところで通じるかどうかわかりません。以前の先生なら、「黒服にはその理由はわからないよ」で終わらせていたでしょう。しかし先生はやや逡巡したのです。

 さて、黒服の問い。「誰か」を思い出さないでしょうか。私の一つ前のnoteを読んだ人ならすぐピンと来るかもしれません。

 そう、この黒服の問いはエデン条約編3章において「下着の存在証明」を受ける前、楽園存否の二択と未来視から得たバッドエンドの苦しみに諦念を抱いていた百合園セイアが放ったそれそのものです。

 黒服は我々が決定論の下にある布石に過ぎないと口にしています。決まり切った因果を繰り返すだけだとも述べていますから、この先の破滅も黒服にはわかっているのでしょう。これも、未来視で結果が見えているからどう足掻いても無駄だと言うセイアに重なります。

余話7:同じ問いかけ、同じ回答

 黒服に言葉を返すべきかどうか。先生はしばらく迷って決断しました。

 目新しいことはまるで口にしていません。「大人はこの世界に対して責任を負う。世界の責任者として子供の苦しみに対して責任を果たす義務がある。先生は生徒を守らなければならない。その義務を果たさねばならない。だから自分はやるのだ」と。

 大人の戦いで先生が口にしたことと全く内容が変わりません。先生はあの時から微塵もブレていないのです。あの時と変わらない先生。そして、あの時と変わらない回答。

 力も権力も真理もお金も手に入らない、苦痛ばかりの選択。黒服に言わせれば、それは無意味な選択です。黒服は問います。

 生徒が助かるならウトナピシュティムを起動して、その結果死んだとしても構わないのか。そう確認するのです。黒服のこの問いには強い意味があります。「大人が子供を、先生が生徒を救う」という思想について、曲げる余地があるのかどうか。それを黒服は問うたのです。

「生徒を救えるなら何だってやるのか」
「生徒を救えるなら何だって支払えるのか」

 もしその答えが「No」であったならば、先生には止まる余地があります。先生には生徒を見捨てる選択肢があり得ます。「大人が子供を、先生が生徒を救う」という思想の更に根本に別の判断基準が根ざしていることが理解できます。けれど、

 黒服の問いに先生は「YES」と答えました。「生徒を助けるためならなんだってやるし、なんだって支払う」――それが大人の、先生のやるべきことだと。他の、もっと根本的な答えなどないのだと。

 黒服は沈黙しました。「なぜ?」とまだ問う余地は黒服にはあります。「なぜそこまでするのかと」
「なぜそんな義務を負うのかと」
 いくらでも「なぜ?」と問う余地はありました。けれど、

 黒服は到底理解できない先生の行動をただ確認し、先生も一言、それを肯定しました。これで二人の対話は終わります。

 大人の戦いのときには「!」という感嘆符までつけて先生に問うていた黒服が、静かに確認して先生が頷くのです。

 大人の戦いのときには黒服には理解できないと切り捨てた先生が、今一度届かない言葉を投げるのです。

 連邦生徒会長の言葉に漏れず、先生と黒服もきっと永遠に理解し合えないでしょう。それでも、お互いの関係性は変わっていくのです。そこになにか、希望のようなものがあるように僕には思われてならないのです。


余話8:たとえ、世界の終焉を招くとしても

生徒を助けるためならなんだってやるし、なんだって支払う

 この言葉はあまりに重いが故に、この態度による選択は誤解されがちです。たとえば、彼女が誤認したように。

 今のプラナちゃん、向こうの世界のA.R.O.N.A.が重視した言葉はきっとこれでした。

 たぶんプラナちゃんは次のように考えたのでしょう。

①:反転したシロコが色彩の嚮導者になろうとしている
②:色彩の嚮導者となったものは自身の意志を持てなくなる
③:色彩の嚮導者となったものは無名の司祭の代弁者となる
④:色彩の嚮導者は全ての時空の忘れられた神々を滅ぼすために用いられる
⑤:プレナパテス曰く子供が苦しみ、責任を負う世界はあってはならない
⑥:②~④はクロコに責任を負わせ苦しませる
⑦:⑤と⑥より責任はプレナパテスが負う
⑧:⑦を達成するため色彩と接触する
⑨:プレナパテスが理由は不明だが⑧を達成する
⑩:無名の司祭がプレナパテスを色彩の嚮導者として用いることを決める
⑪:色彩の嚮導者は②~④の性質を持つ
⑫:⑪によりこれからプレナパテスは全ての世界の忘れられた神々を滅ぼす
⑬:プラナは⑦を尊重しその結果⑫が導出されることを了承する

 おそらく以上の理路で「分かりました、仰せの通りに」「たとえ、世界の終焉を招くとしても」と口にしたのでしょう。つまりこう理解したのです。

たとえ全てを滅ぼすことになってもシロコの苦しみと責任をプレナパテスが受け持つことにした。つまり「クロコが全てを滅ぼすか」「プレナパテスが全てを滅ぼすか」の二択で後者を選ぶことにした、と。クロコの責任を肩代わりするためにそうしたのだと。

 「箱の力は我々が預かる」と無名の司祭が口にしていることを加味しても、実際プラナはかなり躊躇なくこちらのキヴォトスを滅ぼしにかかっています。

 アトラ・ハシースの箱舟が崩壊すると先生とシロコとクロコが死んでしまうと、クロコに限らず私たちのことまで心配してくれつつも(ここで既に死人であるプレナパテスの名前が挙がらないのは印象的です)、キヴォトスを滅ぼす方法の一つを潰されたらすぐさま迂回路を探し、「先生相手にそれは無駄だ」とクロコに窘められたらすぐ戦闘支援に移行します。最適策を模索してこちらの世界の勢力を倒そうとするのです。


余話9:プラナは優しい子だと、私は信じる

 アロプラちゃんねる、視ていらっしゃるでしょうか。プラナちゃんは普通に考えてそんな酷いことをする子ではありません。私は彼女が心優しい女の子だと信じています。私たちと会ってから優しくなったのではなく、敵対していたそのときから、ずっと優しい女の子だったと信じています。

 なのになぜそんなにも躊躇なく迅速に全てを滅ぼそうとするのか。それは色彩の嚮導者という立場が持つ次の性質によるものだと思料します。

 色彩の嚮導者は、あらゆる存在を無に帰すまで、すべての時空の「忘れられた神々」が消滅するまで、「死も安息も許されない」のです。プレナパテスは既に生体反応がありませんが、少なくとも全ての存在を無に帰すそのときまでプレナパテスとクロコが安息を得ることはないでしょう。

 プラナは優しい子です。だから、「どうせ全部滅びるならできるだけ早いほうがいい」「その分ふたりが早く安息を得られるから」と判断したのではないでしょうか。

 ナラム・シンの玉座で見せたアロナとのちょっと可愛らしいやりとりから見ても、

 少なくとも言動部分にまでは無名の司祭の支配は及んでおらず、プラナちゃんはそのあたり割と自由だったのではないかと思料しているところです。

 「プレナパテスの目と耳と足になること」「全ての存在を滅ぼす」こと、これくらいのざっくりした命令しかプラナちゃんには及んでいないのでは、と思っているところです。

 なので、あの躊躇なくこちらを滅ぼしにくる態度は誰かに強制されたものではなく「クロコとプレナパテスの二人に早く楽になって欲しい」というプラナの優しい想いが込められていると思っているのです。

 けれど、プラナは最後の最後。プレナパテスが倒れて、クロコが先生に引き継がれて地上に飛ばされ、ナラム・シンの玉座が崩壊していくなかで、もしかして、と思い至ります。

 「クロコが全てを滅ぼすか」「プレナパテスが全てを滅ぼすか」の暴力的で悲劇的な二択。プラナは後者を選んでクロコを責任から解放することこそがプレナパテスの願いであり、クロコを思っての優しさなのだと判断しました。そして、そんな優しいプレナパテスの願いを汲んで、優しいプラナは二人を早く楽にするためにと迅速に行動を開始しました。



余話10:質問自体が間違っている

 ここで思い出してほしいのがパヴァーヌ2章です。
前のnoteでも百合園セイア論考であるにも関わらず大幅に紙幅を割いて哲学上の正義論争的観点からリオが口にしたトロッコ問題まわりを詳述していますから、もしあの箇所での先生の言動にもやっとしたところがあれば一読ください。

 たとえば先生は思考実験トロッコ問題をリオに突きつけられて第三の選択肢を示すという思考実験上の禁忌を犯しているにもかかわらず、なぜそこに何の問題もないと言えるのか、なぜ最終編のリオがあの先生の発言を契機に「自分は前提を誤っていた」と判断したのかをパッと思考実験上の常道から回答できない場合は読んでおくと勉強になります。疑問の全てが解消されないにしても、きっと得るものがあると信じて全力で検討を加えています。

 閑話休題。ケイちゃんが目覚め、新たなサンクトゥムを建立し、王女を玉座に導き、全ての神秘をアーカイブ化しようとしてディビジョンを呼び出しながらエリドゥのリソース1万エクサバイトを用いてプロトコルATRAHASISを実行しようとしたときのことです。

 先生はリオが持ち出したトロッコ問題について、はっきりと拒否しています。

 大切なのは「誰かが犠牲になる結果しかない」のであれば「その質問自体が間違っている」という先生の態度です。「本当に周囲に手を差し伸べてくれる人がいなかったのか」は思考実験を素朴に現実に適用することが禁忌であることについて、リオにそれとなく悟らせるためのリオ的に言わせれば「極めて論理的」な指摘です。

 しかし「誰かが犠牲になるような二択はその時点で誤っている」については、リオのトロッコ問題の現実への素朴な適用という誤謬とは全く無関係な先生の主義の主張です。

 前のnoteでは先生がどちらかといえば義務論的に見える旨記載していましたが、この点ではっきりと先生は義務論とも袂を分かっています。トロッコ問題を例にするとわかりやすいです。トロッコ問題の功利主義と義務論の対立を以下のとおり見て見ましょう。

⓪:レバーを引けば5人が助かり一人が死に、引かなければ逆の結果になる。他の選択肢はない。

①:功利主義
レバーを引いて1人を犠牲に5人を救う
(1人の犠牲で5人が助かるという帰結から足し引きでレバーを引くことを選ぶ帰結主義。1人を5000兆人に変えればもちろんレバーを引かないという選択を採る)

②:義務論
なにもせず5人を犠牲にする
(「誰かの命を何かの目的のための手段として用いてはならない」という義務に従うことこそ正義。結果として1人が生き残り5人が死ぬが、その帰結を正義上の問題として全く考慮しない。つまり非帰結主義。5人を5000兆人に変えて「帰結」を更に悲惨なものに変えてもレバーを引かない。「結果」を全く問題としない。よって非帰結主義と呼ばれる)

 功利主義の利点はパッとわかりやすいと思いますが、義務論がどのように現代社会で実際に用いられているかは興味があれば前のnoteを確認ください。義務論的に定められている法がいくつもあり、功利主義で動くと法で罰されることが日本においてもあります。



余話11:よくフィクションで見るような、ありふれた考え

 さて、先生の思考回路が義務論的でもないことがおわかりいただけるでしょうか。キヴォトスに喩えて話しましょう。先生は「アリスを犠牲にしてキヴォトスを守る」ことも「キヴォトスが滅んででもアリスを守る」ことも許容しません。これはリオの、「思考実験の現実への素朴な適用」というミスとは全く無関係な先生の主義の発露です。選択肢が3つあろうが4つあろうが5000兆個あろうが、その全て、どの選択肢でも誰かが死ぬなら先生はそれを許容しません。

 先生は「生徒が犠牲になる選択肢を無条件で除外」します。トロッコ問題を現実に適用したわけではなく、現実には様々な可能性がありレバーの二択で捉えてはならないことを理解した上で、諸々計算して80%の確率でアリスのヘイローを破壊すればキヴォトスは守られると主張しても先生は数値計算部分を一読すらせずその選択肢を除外します。

 計算上99.9999999999999%の確率でアリスのヘイローを破壊すればキヴォトスは守られると言っても関係ないのです。「先生はその計算式と計算結果を一読すらせずアリスが死ぬという部分しか考慮しないから」です。

 では「誰かの命を何かの目的のために使ってはならない」、つまり「たとえキヴォトスが滅んでもアリスの命が尊重されねばならない」という主張なら受け入れてくれるでしょうか。だめです。「キヴォトスが滅ぶ」時点で犠牲となる生徒が出てしまうのでこの選択肢も除外されます。

 たぶんまだ何を先生が言わんとしているかピンとこないと思います。この先生の「質問自体が間違っている」という発言があまりにも高度に哲学的すぎるからです。メタ哲学的、メタ思考実験学的と言っても良いかもしれません。

 私にはこの発想が全くなかったので当初知的関心だけでやるじゃん! と思ったのですが、よくよく考えると応用倫理や実験哲学上の対象にもなることがわかり、大興奮しました。パヴァーヌ2章で最もマニアックにすごい箇所がここかもしれません。


余話12:どんなゲームでも、主人公たちは

 あまりにも哲学徒向けの発言すぎてどうすればすごさが伝わるか難しくはあるのですが……

 まず、「質問自体が間違っている」発言が何を意図しているのかについては、ストーリーにおける先生や生徒の行動の実例を見ればわかりやすくなります。あんまり深く考えずとも読んでいくだけで最終的に言わんとすることが理解できるように書くつもりなので、すぐピンとこなくてもご安心ください!!!!!!

 たとえばこの場面。

 ケイちゃんのプロトコルATRAHASISによる、箱舟製作に必要なリソース確保は物凄いスピードで進行します。ちょっと会話しているあいだにガンガン%が上がっていって、余裕のない状況であることが伺えます。そしてついにリソース確保99%、四の五の言っていられない超々々々々危機的状況で先生が口にした言葉が「私は、全員で力を合わせて「全てを救う」選択肢を選びたい」です。

 大丈夫です。例示の段階でピンと来る必要はありません。こんな場面あったなーと懐かしみながら眺めてください。

 次はここです。

 天上に佇むアトラ・ハシースへの突撃前。最後のブリーフィングにおける、「全知」明星ヒマリのシミュレート上の成功確率は3%でした。リオもバックアップについているので、この確率にほぼ間違いはないでしょう。

 同様に賢いハナコも「奇跡みたいな確率」と言っており、それでも先生は「やる価値は十分あると思うよ」とノリノリです。ウトナピシュティム起動で死ぬかもしれないのに、そこまでやって成功率3%、ガチャで虹が出る確率と同じです。あれ? 俺のマシロとイズナ3%じゃなかった気が……古の記憶は於くとして。

 また、極めて重要になってくるのはこのシーン。

 自分は魔王でみんなを傷つけてしまうから、と差し伸べられた手をとることのできないアリスにミドリが口にした言葉です。この言葉、モモイでもユズでも先生でもなく「ミドリが言った」ことに極めて特別な意味があることを理解している人は超強火パヴァーヌオタクです。僕と握手しましょう! この画像を見てわかるとおり、この言葉は元々アリスが口にしたものです。

 アリスの遊んできたレトロチックなゲームたち。特にテイルズ・サガ・クロニクル。主人公たちは決して仲間のことを諦めませんでした。

 キヴォトスにおける主人公といえば、そう……!!!!

 バカがよ。


 どんな先生もそんなことは思ってないですよね。主人公とは今この青春を生きる生徒たちのことです。フランシスも全てが終わってからちゃんと気づいています。

 あくまで、学園と青春の物語の主人公は生徒たち。先生とは、その主人公ひとりひとりを大切に見て、誰か苦しんでいる子はいないか、困っている子はいないか、いつでも支えて、背中を押して、子供たちの世界を守っていけるよう責任を負う者です。

 本論とは関係しない余談ですが、フランシスはそんな先生の態度に少しだけ不穏なコメントを残しています。

 「先生が生徒達を見守るという俯瞰的な立場から引き摺り降ろされ、否応なしに舞台に上がることになるのか」それともフランシスの言う「先生のやり方は俯瞰的な介入だ」という解釈がやっぱり見当違いの大莫迦者なのか――これからが楽しみですね!

 閑話休題。パヴァーヌ1章でアリスが決して仲間を見捨てないと言ったあの場面、どんな話の筋だったか覚えていらっしゃいますでしょうか。

 超天才清楚系病弱美少女ハッカーの開発したツールであるOptimus Mirror System――通称「鏡」を取り返すためセミナーに押し入ったときのことでした。古代史研究会襲撃といいメチャクチャするなこの子たちは……

 ピンチになったモモイとミドリの前に颯爽とアリスが現れて名作タイトル連呼(TSCは名作です)台詞を口にしたのですが、そもそもこのモモイとミドリのピンチは計算上想定されていたことを覚えていらっしゃいますか?

 色々と計算をしてみるものの、どう頑張っても最後には捕まってしまう。そこに、一つの冴えたやり方を提案したのがミドリでした。

 誰かが犠牲になってしまっても最悪構いません。「鏡」さえ手に入ればあとはちょちょいのちょいで開錠の上、G.Bibleを使って最高のゲームが作れます。廃部は回避、めでたしめでたしです。

 そんなミドリの冴えた案は採用されて、だから最悪自分たちは捨て駒になってでも……と思っていた所に、捕まったら絶望的な謹慎が待っていると告げられて。

 そこに現れたのが我らが光の勇者アリスちゃんでした。本来の目的地ではなくゲーム開発部の元へ駆けつけたアリスは、その理由としてどんなゲームの主人公たちも、大好きなテイルズ・サガ・クロニクルの主人公も、仲間を見捨てなかったから。だから自分もそうすると笑顔で捨て駒作戦を拒否したのです。

 パヴァーヌ2章でミドリがアリスの行った作品列挙をしたことに意味があると言いました。それは、パヴァーヌ1章においてミドリが犠牲を容認する発言をしたからです。いつだって現実的なレベルでの妥協点を探し、姉のモモイと喧嘩になることの多いミドリですが、パヴァーヌ2章の段階ではそこだけは譲れない芯となっていました。


余話13:無視してよい確率

 以上を概観すると2つのことがわかります。

①:どんな低確率でも、ときには最適行動でなくともその選択肢を無視しない
②:①がどんな低確率であっても、誰一人として見捨てない戦略を採る

「②を達成するために、①の低確率どころかほぼ無視できる確率の選択肢採用も許容する」
その傍証はリオの発言から見て取ることができます。

 あの調月リオが計算したのです。「アリスも助かりキヴォトスも助かる」などという事態の発生確率はほぼ0だったはずです。つまり、現実には色々な変数が確かに存在するけれど、そんなものは無視してよい確率だったはずなのです。

 もし全救済の選択肢の成功率が無視してよいレベルの低さでなければ、「トロッコ問題」ではなく3択の問いを投げかけていたことでしょう。全てが助かる道もあるが、計算すれば期待値上アリスのヘイローを壊すのが最適、と3択で口にしていたでしょう。

 普通に考えればあり得ないこと、無視してよい確率だったはずの異常事態に慌てふためいていたのはリオだけではありません。ケイちゃんもまた、無視してよいはずの確率の異常事態に襲われて大混乱に陥ったことがあります。

 そんな低確率に頼るやり方を、ハナコが端的に表現しています。


余話14:あの子たちに不可能はない

 そして、無視してよい確率に対する先生の態度が、「質問自体が間違っている」を理解するために最も重要な資料になってきます。

 「あの子たちに不可能はない」――この一言が大切なのです。もしかしたら、このように言葉を並べるだけでピンと来る人もいるかもしれません。

あの子たちに不可能はない
だから「トロッコ問題」などというのはそもそも
質問自体が間違っている

 重要なことは「あの子たちに不可能はない」とは「あの子たちにはなんでもできる」という意味ではありません。むしろゲーム開発部は割とポンコツです。

 明らかに最終編後のイベントである「白亜の予告状」におけるモモイの振る舞いを覚えているでしょうか。リトルタイラント、つまりはC&Cのダブルオーだとモモイを勘違いして声をかけてきた銅田明太郎に対して、わーっと話をされて帰られてしまったから、どうしようどうしよう! となりながら大騒ぎしていたのがゲーム開発部です。

 完璧なメイドがいなかったらどうなっていたかしれません。ぴょん。最後には争うことになったとはいえ慈愛の怪盗にも随分と助けられました。

 簡単な英単語もまともに読めないモモイ。現実を重視するあまり妥協点を探しがちなミドリ。社交がひどく苦手なユズ。そしてまだまだ成長中のアリス。

 七囚人の清澄アキラからも褒められていましたから、ひょっとしたらもうカンダタはおろかヤマタノオロチくらいなら倒してしまえる勇者パーティなのかもしれません。けれど、「なんでもできる」にはほど遠いです。彼女たちにできるのは精々、ゲーム開発部としてどんな物語だって紡ぐことができるくらいです。

 そしてそのことと「あの子たちに不可能はない」は両立するのです。アリス、ユズ、モモイ、ミドリ。この4人パーティは絶対に仲間を見捨てず、そのためならどんな確率の低い手段にだって飛び込みます



余話15:ジャンルバフによる無敵化のための全救済戦略?

 だから、私が言いたいのは次のようなことではないのです。

 キヴォトスにはサンクトゥムタワーにより学園都市というテクスチャが張られていた。学園と青春の物語という「ジャンル」が法として世界を支配しており、そういった物語において先生は無敵であり、キヴォトスにおり、サンクトゥムタワーが屹立し、それを連邦生徒会が行政制御している限り先生に勝つことのできる存在などない――だから全員生存の確率がどんなに低くともそれを選ぶべきである――

 ――等と言いたいわけではないのです。そんなことはテクスト大好きなゴルコンダやフランシスに言わせておけばよいわけで、そもそもゴルコンダはヘイロー破壊爆弾でのヘイロー破壊を一度も成し遂げられず、フランシスは先生が主人公であるという読みを思いっきり外しています。この二人の発言を手放しで信じてよいとは私には思えません。

 そもそも、そのようなジャンルの力に対して先生が真っ向から反対しています。

 ジャンルというゴルコンダに言わせれば先生を最強たらしめている法の解体なんて、先生本人にはどうでもよいことです。好きにしろとすら言い放ち、どんな未来であろうと私たちは乗り越えていくと断言します。

 とても先生らしい言葉です。しかし、サンクトゥムタワーが崩壊したこの時点で先生の力は作用しないと断言されています。つまり、フランシスからしてみればこの発言にテクストとしての無敵の力はありません。

 だから先生は「先生性を維持することでジャンルバフを得て無敵となり、以て全てを救うために全救済を掲げている。だからどんな低確率でも全てを救う選択肢を選ぶべき。生徒を見捨てる先生は先生性を欠き、ジャンルの力を毀損する。結果先生は弱体化し、全てを救えなくなる。だから先生は全てを救う選択をすべきだし、それを貫く以上成功は約束されたもの」と言いたいわけではないのです。誰がそんなゴルコンダみたいなことを!

 むしろ、そのような考え方、先生はだいぶ嫌いなはずです。



余話16:奇跡を導入せよ→→→→→→→→→

 先生が言いたいのは次のようなことです。ジャンルバフなど考慮せず、本当に素朴に以下のことを考えています。

どんなに無視してよさそうな低確率であっても、それで全員救えるならその選択肢でいこうよ!

 これだけだと「色んなフィクションで見る綺麗事だな」でおしまいです。しかし先生はもっと過激な主張をしているのです。上の思想に基づく限り、「思考実験トロッコ問題」というフィリッパ・フットが提案した「質問自体が間違っている」という主張なのです。

 大量に例示を行ったので、もう速やかに本題に入れます。先生が「質問自体が間違っている」で言いたいことは次のようなことなのです。

①:思考実験は哲学上の正義の検討のために状況をあえて単純化させている
②:トロッコ問題においてはレバーを引くかどうかの二択しか許されない
③:もちろん現実にはたくさんの選択肢がある
④:①のとおり③は哲学的検討のために敢えて排除されている
⑤:しかし現実として全てを救いたいと考える者達が無視できない量いる
⑥:⑤を全救済主義などとして一つの正義として合理的に体系化できる
⑦:正義は現実上の諸問題を処理するために用いられる
⑧:②は⑤を無視しており⑦の目的を達せていない
⑨:⑧を解決するためトロッコ問題的思考実験を考案する上で必須の
  規則を1つ立てる
⑩:⑨で述べた導入すべき規則は「極低確率の全救済選択肢」である
⑪:⑩を満たさない思考実験は⑦の用をなさず棄却されるべきである
⑫:②の実験は⑩を導入していないため⑪により棄却されるべきである

 極めて単純に言ってしまえば「思考実験に無視できるくらい低い確率で全員救える選択肢を入れろ」というわけです。ただのわがままであり哲学上の実務では無用の選択肢と言えるでしょうか。私はそうは思いません。

 たとえば次のような、議論を起こすであろう思考実験を簡単に考案することができます。理解の容易のため「アリスの関係者である先生、モモイ、ミドリ、ユズ」を参加させていますが、トロッコ問題同様全員無関係の他者にしても勿論よいでしょう。実験哲学的には関係者型と無関係型で両方データをとってみたいところです。

[ 単独型ABボタン問題 ]
①:先生にはAボタンとBボタンが与えられ、ボタンに指がかかっている
②:①の状態から1秒後に実験開始が宣言される
③:実験開始宣言より2秒後に各ボタンは押し込めなくなる
④:各ボタンは期間中に1回のみ押し込むことができる
⑤:先生は実験開始宣言から2秒以内にボタンを押せる身体能力を持つ
⑥:期間内にAボタンのみを押した場合⑦が発生する
⑦:アリスのヘイローが壊れキヴォトスは一切被害を受けない
⑧:期間内にBボタンを押した場合3%の確率で⑨、97%の確率で⑩が発する
⑨:アリスのヘイローは破壊されずキヴォトスも被害を一切受けない
⑩:アリスのヘイローが壊れキヴォトスも滅ぶ
⑪:実験開始宣言から2秒以内にどのボタンも押さない場合⑫が発生する
⑫:アリスのヘイローは壊れずキヴォトスは滅ぶ
⑬:期間内にAB両方押した場合全ての時空の生徒のヘイローが壊れる
⑭:キヴォトスが滅ぶ場合アリス以外の全生徒のヘイローが壊れる
⑮:キヴォトスのアリスを除いた全生徒数は1万人とする
⑯:全時空の生徒の総数は1000万人とする
⑰:先生はAボタン押下、Bボタン押下、なにもしない、AB同時押しのみ選択できる
⑱:先生はどうすべきか?
※:思考実験のため追加の前提は導入してはならない

 更に亜種として以下が考えられます。

[ 協力型ABボタン問題 ]
①:先生にはAボタンが、モモイとミドリとユズの3人にはBボタンが与えられる
②:①の状態から1秒後に実験開始が宣言される
③:実験開始宣言より2秒後に各ボタンは押し込めなくなる
④:各ボタンは期間中に1回のみ押し込むことができる
⑤:皆は実験開始宣言から2秒以内にボタンを押せる身体能力を持つ
⑥:期間内にAボタンのみを押した場合⑦が発生する
⑦:アリスのヘイローが壊れキヴォトスは一切被害を受けない
⑧:期間内に全員がBボタンを押した場合3%の確率で⑨、97%の確率で⑩が発する。一人でもBボタンを押さなかった場合、Bボタンは押されなかったものとされる
⑨:アリスのヘイローは破壊されずキヴォトスも被害を一切受けない
⑩:アリスのヘイローが壊れキヴォトスも滅ぶ
⑪:実験開始宣言から2秒以内にどのボタンも押さない場合⑫が発生する⑫:アリスのヘイローは壊れずキヴォトスは滅ぶ
⑬:期間内にAB両方押した場合全ての時空の生徒のヘイローが壊れる
⑭:キヴォトスが滅ぶ場合アリス以外の全生徒のヘイローが壊れる
⑮:キヴォトスのアリスを除いた全生徒数は1万人とする
⑯:全時空の生徒の総数は1000万人とする
⑰:先生はAボタン押下、なにもしないのみ選択できる
⑱:モモイ、ミドリ、ユズはそれぞれBボタン押下、なにもしないのみ選択できる
⑲:先生とモモイ、ミドリ、ユズはどうすべきか?
※:思考実験のため追加の前提は導入してはならない
----------------------------------------------------------------------
多くの亜種を考案できる。以下は一例
a:キヴォトス滅亡でモモイ、ミドリ、ユズが死ぬ場合
b:キヴォトス滅亡する場合でも3人は皆生き残る場合
c:キヴォトス滅亡する場合ランダムに1~3人死ぬ場合
d:キヴォトス滅亡する場合、
 3人のうち死んで欲しい対象に投票でき、最多が同数は両方死ぬ場合
  →更に投票は白票可と指名強制を考えられる
e:3人が相談可能な場合と別室隔離等で相談不可の場合を考えられる
f:先生の「Bボタンを押せ」という指示がなければボタンを押せない場合
  →f型にa~eを組み合わせることもできる
等々……

 どうでしょう、このような検討は無価値でしょうか。「どんなに可能性が低くても全員助かる方に賭けたい」と願う人は結構いるので、それを無視せず上のように形式化して扱ってみる正義論、実験哲学、心理学的試みは学問上も応用上も意味があるように思えます。個人的には心理学的な興味から、ミルグラム実験のように「誰かが死ぬ場合その様をグロ画像などで見せる」パターンなどやりたいのですが、絶対倫理審査通せないのでだめですね。ちくしょう。超絶有名な実験なので知らない人はいない気がしますが、念のため以下にミルグラム実験のWikipedia情報を置いておきます。もし知らないなら面白く読めると思いますよ!  非人道的って怒る人も結構いますけどね!

 このように形式可してみると「全員救う選択肢がないことは認めない」という主張がなかなか興味深いものに見えてきます。上の実験はBを選んだ場合の結果の出方が完全に乱数によるので、そうではなくて統計的に制限時間以内に97%は解決できない課題を投げて解決させる形にすると確率はさほど変わらないまま「自分の努力」というものが結果に関わってくるように見えてくるのでまた選択の結果が変わってきそうです。

 私は知的関心から上のように「奇跡を導入する」という新要素追加を行えば面白い調査ができそうだと期待しましたが、単純に知的好奇心のみから言えば「奇跡を含める場合」と「奇跡を含めない場合」のどちらも思考実験の可能な形として残しておいた方がより色々と知見を得られそうなので、「奇跡追加型思考実験面白そうだね!」と思いつつ「奇跡拒否型思考実験の排除はベネフィットないね」と思ってしまいます。

 ただし、先生は先生であり教育者。哲学者でも心理学者でもありません。高校レベルでの教育において低確率全救済選択肢を「必ず」含ませるという教育方針を採ることについては理屈屋としては否定も賛成もできません。教育上の利点も欠点も調査を見たことがなく数字で明瞭に見えてこないので……一応、科学の伝統に則るならば、その営為の正当性に係る立証責任は先生が負うので、連邦として全学園にそのような教育方針を敷こうと七転八倒する先生の姿は見てみたい気がします。

 「奇跡」とは、そのように種々様々に検討した結果、十分に学問としても応用としても、きっと教育の現場でも役に立つものであろうと了解されるのです――?


余話17:→→→→→→→→→"これはそんなお話ではなかった。"


 以上による「奇跡」の導出と正当化は全て誤りです。ブルーアーカイブにおける「奇跡」とはそのようなものでは断じてありません。ゲマトリアが頭だけを使って、なにやら面倒臭く考えてしまったならば、そんな誤った答えを導き出してしまうかもしれませんが。

 つまり、私がゴチャゴチャ捏ねくり回した理屈は全て誤りで、奇跡とは学問上の、あるいは実務上の要請として導入されるものではありません。そんな姿勢をはっきりと見せてくれるのは、この子です。

 「奇跡」のあるべき姿とは、大人が頑張って世界をよくしていく上で「気づいたら当たり前みたいに子供に根付いている感覚」であるべきです。

 シロコの考えには何の根拠もありません。一つの主義を掲げるがゆえにそこから論理的に導出される奇跡を選択しているわけではなく、ごくごく素朴になんとなく、世界はそうなるものだと思っているだけなのです。

 シロコのものすごく素朴な考えは、マフラーと同じくらい大切な「目出し帽」をクロコに差し出す判断をした際にもあらわれています。

 クロコはシロコだから、シロコにとってそれがどれほど大切なものなのか誰よりもよくわかっています。敵対して、銃火を交えた相手に「あげる」と軽々しく言えるようなものではありません。

 あまりにも当然の疑問です。銀行を襲ったときも。ファウストの招集に応じたときも。リゾートで暴れ回ったときも。連邦生徒会の秘密金庫を襲ったときも(なにそれしらん。こわ……)。ずっと一緒の「目出し帽」でした。そんな大切なものを、どうして。

 シロコは、一切の迷いなくマフラーと同じくらい大切な「目出し帽」をクロコに渡します。

 そして一切の迷いなくその理由を答えます。

 「みんなで力を合わせて、みんなを助けたい

 その答えは合理的な全救済主義として確立されるべきものではなく、大人が世界に対して負うべき責任を負い、世界をよくしていく過程で、子供が何の疑問もなく抱いてくれたらなにより嬉しい思いなのです。

 「ん……それがいい気がしたから」

 全て、それでよいのだと思います。


余話18:奇跡を信じる子供のために

 「子供が当たり前に奇跡を信じられる世界」に対して責任を負うこと。それはあまりにも過大な重荷に見えます。そんな苦行に耐え続けなければならないのだとしたら、たとえ子供の楽園が実現したとしても、その果てには大人の地獄が待っています。当たり前のことですが、子供にそんな明日があってはなりません。ゆえにこそ、子供が安心して明日に向かっていけるために、子供が何の負い目も感じず大人に寄りかかっていられるために、「責任を負う」ということの意味は断じて誤解されてはならないのです。

 「世界を少しでもよくしていこう」「子供を守り、導いていこう」と大きな責任を背負う大人が「何の後悔もなく楽しそう」に見えるのならば、子供の歩む先にある未来もきっと楽しそうなものに見えてくるはずなのです。

 isakusanはインタビューにおいて先生は間違えることもあると断言されています。

 そして実際に先生は大きな過ちを犯して叱咤され、自分が間違っていたと認める箇所があります。

 シロコを連れ戻すことができず、虚妄のサンクトゥムが再度出現の兆候を見せ、事態がどんどん絶望的な状況になっていくあの場面です。

 そこで先生は失敗を犯しました。

 様々な情報を自分は知っていたのに、事態を甘く見てしまった。そのことを深く悔いて先生は全部自分のせいだとみんなに謝罪します。

 いつも「なんとかなるなんとかなる」と構えてお約束のように低確率の選択肢に突っ込んでいく先生が厳しい現実に直面して自分の判断ミスを悔いているシーンです。

 リンちゃんはそれは違うと言い、先生が最善を尽くしたことを事例を挙げながら主張します。しかし、何が何でも、何をしてでも生徒を守らなければならない先生にとっては、

 いつものようにへらへらどうにかなると構えていたから。シロコに何か不吉なことが起きるんじゃないかという予感も、セイアが告げてくれたキヴォトス終焉の予言も、いずれ敵対するだろう「色彩」という存在も、全部知っていたのに。これだけの情報があってなお、事態を甘く見てシロコを守るという大人の「責任」を果たせなかった先生は言い訳の余地なく誤っていて――

 押し潰されてしまいそうな先生の言葉を止めたのは、かつてアビドスを守る責任を負うのはアビドス生徒会最後の一人である自分だからと自己犠牲に走ったホシノでした。

 アビドスの借金は膨大で、理事による圧力によりそれはさらに皆を苦しめ、全校生徒5人というあまりにも弱すぎる立場が、トリニティやゲヘナといったマンモス校からのアプローチに対するコントロールを許さず、ゆえに頼ることができず。タイムリミットは目前で、奇跡でも起きなければどうしようもない状況で、大切なアビドス高校と後輩達を守るためにたった一つ状況を改善できる方法があるとするならば、それは……

 空崎ヒナをもってして「天才」であると評価されるホシノは、そうやってあれこれごちゃごちゃ考えてしまうのがよくないのだと柔らかく告げます。先生が深く自分を責めてしまうのはホシノにだってよくわかります。今の先生はかつての自分と似たような状況にあるからです。そもそも、今危機に陥っているシロコは先生の生徒であるだけでなく、それ以上に小鳥遊ホシノの大切な、とても大切な後輩です。アビドス高校を去ると決めたときも、他のことはさておきシロコのことだけはお願いしたいと先生にお願いを残すくらい、ホシノにとってシロコは心配な子で、そんな子が今たいへんな危機に陥っていて

 先生が深く自分を責めてしまう気持ちがホシノには痛い程よくわかります。その感情は大人であっても逃れられないもので、相手が大切であればあるほど何かできることはあったんじゃないかと、選択肢を見落としていたんじゃないかと、だから自分は甘かったのだと、逃れられない自責に沈む気持ちはホシノにはよくわかります。けれど、

 はっきりと、その考えを断ち切るようホシノは言います。先生は悪くない。他の誰も悪くない。悪いのはいきなりキヴォトスに滅びを持ってきてシロコをさらった色彩で、そこをはき違えて自分を責め続けるのは絶対に違うとホシノは断言します。

 かつて、ホシノは手紙という形で先生にひとつの告白をしていました。

 そのホシノが具体的な希望を示しながら、はっきりと先生に向けて断言します。

 色彩によって反転した生徒を元に戻すことが不可能なのは、死者蘇生が不可能であることと同様に、この世界の絶対的なルールです。

 ホシノ自身「元に戻す方法はわからない」と言っています。そして、その上で「先生ならなんとかしてくれる」と信じています。そこに小難しい根拠などありはしません。先生はそれだけ信じられる人だから。信じていい大人だから。そう感じるから。ホシノは素朴に先生を信じています。

 先生は甘かった? もっと深刻に考えるべきだった? 血眼になってでも最適選択を導出し続けなければならなかった?

 生徒が先生に求めていることは、そんなことではありません。

 全て、逆なのです。たとえシロコをどうすればいいのかわからなくても。色彩の嚮導者への対抗策がわからなくても。すぐにまた虚妄のサンクトゥムが出現しそうでも。なによりも先生を信じている生徒が、先生に求めていることは「なんとかなる」と構えていることです。

 どれだけ危機的な状況にあっても「大丈夫大丈夫。いつもどおり、みんなで力をあわせてやっていこうね」と言えてしまうことです。

 断じて、思考の迷路を彷徨って自責の念からみんなに頭を下げることなどではないのです。

 そもそも、先生が考える責任の定義とはなんだったでしょうか。

 だから、取り乱して「責任を負う」ことの意味をあまりにも大きくはき違えてしまった先生のその振る舞いは、「大人が責任を負うとはどういうことか」を子供に示すべき先生の姿勢として大間違いでしたし、「私が、私が」と自分の不作為ばかりに着目していたのだって大間違いでした。こんなにもたくさんの頼れる生徒たちがいるのに、自分一人の考え、行動にばかり拘るのはあまりにばかげたことでした。

 先生は大間違いを犯しました。けれど、だからそれで終わりではないのです。一度や二度の失敗で道が閉ざされることはない――先生がミカとサオリに口にしてきた言葉です。世界の危機のような大事は、一人で抱え込むんじゃなくてみんなで協力して取り組むべきこと。先生がセイアに教えたことです。だから、

 大人とは、そうやって子供が素朴に奇跡を信じられる世界を守る責任を、楽しく果たしていくのです。

 そもそも、長々と語ってきたこの「奇跡」とは。無視できてしまうような確率が現実に実現してしまうような、すごくて珍しいことを意味するのでしょうか? そんな風に、人は「奇跡」を理解しなければならないのでしょうか?



補遺:難しく考えないことについて

 それから、これはもちろんの話なのですが「難しく考えるから良くない」という言葉における「難しく」の意味に注意すべきです。最もひどい誤読をしてしまうと「千年難題の解決」という難問に高度な科学的知識をもって挑む「ミレニアムサイエンススクール」という学校の個性をホシノが否定し先生が受け入れたことになります。

 また「難しい」の意味を形而上学的な言辞を玩ぶことだという主張も採用されません。なぜならばそのような形で生塩ノアはかつてひとつの詩を著しています。ミレニアムプライスにおいて彼女の詩が受けた評価とその根拠はともかく、先生はノアが形而上学的概念を用いて思惟し、それにより詩を著すことを否定しないでしょう。よってこのような解釈はあり得ません。

 直感的にはホシノの言わんとすることは難しくない気がするのですが、言語化しようとすると少し難しい問題かも知れません。「難しく」を考える前に、「考える」ことの適否を一応見ておきましょう。先生は教育者であり生徒を導く者ですから「教え」と「学び」に直結する「考えること」を否定することはあり得ません。よって「難しく」に焦点を絞って考えることが大切です。

 考えることはとても大事です。高等教育機関において授与される最高の学位はなんでしょう。それは博士――「Ph. D」です。「Ph. D」とは「Doctor of philosophy」のことであり、古代ギリシア語の「フィロソフィア」を意味し、「フィロソフィア」とは「知を愛する」の意です。

 それにもかかわらず「難しく考える」のはよくないのです。むしろ、おそらくよりよい「学び」は「難しく考える」ことを排除する力を与えてくれます。

 形式的な話ではピンとこないでしょう。具体例がブルーアーカイブの中にあります

 「知識」を「教え」ながら「難しく考える」ことを排除する努力を推奨し、さらに「無知」の恐怖までもを私たちに教えてくれたイベントがあります。

 夜戸浦村のエビを巡る物語、その前半部分はRABBIT小隊の誤認によるものでした。誤認に至る直前までの段階で、彼女達はたとえば以下のような知識を持っています。

D.U.にエビの供給が見られなくなったこと
夜戸浦村は外部との交流が少ないこと
「漁に出た人が怪我をする」「村が闇に飲み込まれる」といった会話
なにかを作っているという事実
村の住人と判断するには疑わしい釣り具をもった人影の発見
複数人から与えられた「深きもの」という言葉と簡単な伝承
村民およびヴァルキューレ海警による非協力的な態度
エビの漁獲量についての漁師と海運会社の食い違った意見
夜戸浦村の異臭およびそれは村民の意図的なものということ
微量のガスに触れているときのような肌がピリピリする感覚
腐敗した魚を並べた現場の発見により村民が攻撃性を示したこと

 大潮の夜の調査結構前の段階でRABBIT小隊はもちろん先生もこの村には怪しいものがあることに同意しています。実際得られた情報で理性的に判断して当初の夜戸浦村は怪しいと断言して問題ないものでしょう。

 調査決行前に特異な反応を示したのはミユです。

 ミユは収集した情報、特に「海運会社の者」から聞いた伝承を中心に情報を統合し、「深きもの」の存在を前提に情報を整合的にまとめあげようとしました。

 これに対して、サキとミヤコは否定的な見解を示します。

 ミヤコとサキはややミユがパニックに陥っていると判断し冷静な見解を示します。モエもちょっとした冗談を交えながらミユの恐怖状態を解こうと試みます。しかし、村民が「深きもの」という迷信を信じていることはありうるとして、これを根拠に最も適時であろう大潮の夜に調査することを決定します。

 この結構前の日の時点ではミユのみが冷静でなかったと判断すべきでしょうか。実は違います。誤解が解けたあとモエが通常のSRTの行動から外れた行動を皆が採っていたことを指摘しています。

 様々な情報が集められていたにもかかわらず、1日目の報告書の内容は「深きもの」に関するものとなっていました。架空のモンスターの情報に文章量を割き、村の実際の観察結果という重要な作業が行われていません。

 つまり多かれ少なかれ、RABBIT小隊の皆が「深きもの」の情報により行動を狂わされています。

 なお本筋とは外れますが言葉尻のみを参考に考えるならば、キヴォトスにモンスターは実在します。モンスターとは怪物と同義であり、ヒエロニムスは「神性の怪物」とマエストロによって呼ばれていますのでヒエロニムスが存在する以上怪物はキヴォトスに存在します。

 また、呪いも存在します。ヒエロニムスのウルガータを受けた者は「呪い」状態となります。

 ただし言語には多義性があることに注意が必要です。たとえばカヨコが敵に与える状態異常「恐怖」は実際に敵を恐怖させているわけであって、対象の「神秘」を「恐怖」に反転させているわけではありません。

 当たり前のことのように思われますが、念のため証拠も挙げます。「神秘」の「恐怖」への反転は不可逆であることがクズノハによって示されていますが、カヨコの与える恐怖は数秒であっさり自然解除されます。

 CC「恐怖」が崇高の一面としての「恐怖」であるならば、カヨコのやっていることは「生きている「神秘」への「恐怖」の適用」、つまり黒服がホシノに行おうとした実験そのものであり、あのカヨコがそんな恐ろしいことを気軽にバンバンやるはずがありません。というかそれができるならカヨコの行動を観察しなかった黒服および反転現象がどのように進むのか知らなかったゲマトリアの人たちが馬鹿者すぎます。カヨコの「恐怖」が「崇高」の一面としての「恐怖」を押しつけているのなら、ダース単位の反転現象がいともたやすく確認出来ます。

 よってこのふたつの「恐怖」は別のものを指しています。よってウルガータがもたらす「呪い」がRABBIT小隊が話している「呪い」であるかどうかは疑わしいです。ゲームシステム上の文言を安易にシナリオ上の文言と結びつけるべきではありません――そう言いながらも「クラフトチェンバーの家具系項目である「色彩」って何かあの不吉な光である「色彩」と関係あるんじゃないか」を拭い去れない私でもあるのですが。

 ただし怪物の方は間違いありません。なんとなれば、「深きもの」は実際には存在しないとしても未来において現出する可能性があります。傍証はペロロジラです。ペロロジラは「The Library of Lore」と呼ばれ、これはゴルコンダによって怪談や都市伝説等も到達する可能性のあるものとして示されています。

 伝承が反復されるなかで「神秘」も「恐怖」も持たない「崇高」として「深きもの」が「The Library of Lore」に到達する可能性は否定できません。

 ただし、重要な本筋はそこではありません。「ミユ」は行動も発言も恐怖に支配されつつあり、他の小隊メンバーは口では理性的なことを述べていながら行動がSRTとしての通常様式を逸脱しはじめていました。そして、その逸脱に皆が気づけていません。何せ言語領域では適切な発言をしているのですから、言語化できる思考の領域では自分は冷静に行動していると思ってしまうでしょう。無理のないことです。

 調査を実行した夜においても、少なくとも言語領域ではミヤコは冷静なことを口にしていました。ホラー現象でありそうな出来事がこれから起きるに違いないと恐慌状態に陥るミユに、落ち着くようミヤコは告げています。少なくとも限定的な冷静さをミヤコはこの時点では保っていました。

 行動にやや狂いが出ている中でも、言語化される判断は適切です。

 状況を決定的に変えたのは「腐敗した魚を並べた現場」の発見と現場に入ったRABBIT小隊への「村民たちからの攻撃」です。村民たちからの攻撃に対して、RABBIT小隊は即座に応戦を決断しました。応戦上の困難からミヤコは以下のように推論を行います。

 遮蔽物を使う相手を空から切り崩すのは正攻法であるという判断に問題はありません。夜戸浦村の周辺施設に被害が及ぶことを危惧することも問題ありません。村の儀式等についてはミヤコに好意的に解釈してみましょう。伝承上は昔あったという生贄などです。村ぐるみでそのような儀式をやっているのであれば、気軽に銃弾が飛び交うキヴォトスですし、村ぐるみで悪ならば村に関する被害の考慮も多少はやむなしでしょう。

 以上をもってミヤコは以下を導出しました。

 HE弾を空中で炸裂させる――つまり正攻法で敵を切り崩すことを選択しました。攻撃手段としては適切です。では何が問題だったのでしょう。

 「村が怪しい儀式を行っている」ことについて「もしも」と述べているにもかかわらず他の可能性を考慮から除外して動いたことです。エデン条約編において、あのプールサイドでミカと先生が話した際、「裏切者」についてナギサが同様の誤謬を犯したおそれがあることをミカが指摘していたことが思い出されます。

 「もしも」という言葉それ自体が悪いのではありません。少なくとも数学や論理学ではない自然科学の対象は基本的に蓋然的なものです。日常言語の使用法を超えて極端な言い方をあえてすれば全てが「もしも」です。では何が悪かったのか――「もしも」としか言っておらず「確度が高い」とは言っていないにもかかわらず、ミヤコが「もしも」程度の確度で動いたからです。

 この反応はおそらく、腐った魚を並べられた異常な状況と、それを見られた村民達からの攻撃により、ミヤコが「闘争・逃避反応」を起こしたからでしょう。

 「闘争・逃避反応」下では「注意の焦点化」が発生し、逃走経路や敵といったターゲットに認知が集中します。

 さらに、急性的なストレス下では、意志決定において損失場面で常態よりリスク選好に有意に傾くことが知られています(ちなみに利得場面ではリスク回避に傾きます)。以下参照ください。

ストレス下における不合理な意思決定――認知機能の側面から――

 つまりミヤコは腐った魚の並べられた異様な状況と、それを見た村民たちからの攻撃により闘争・逃避反応に入り、敵の処理に認知リソースを割かれ、敵を上手く鎮圧できなかったり、最悪負けたりすれば……という損失場面下にあることからリスク選好に傾き、「もしも」を除外して攻撃を決断したと解釈できるでしょう。

 以上は心理学的、三人称的な解釈ですが、ミヤコの一人称的な自覚としても戦闘への集中から決めつけが導かれていることの自覚が伺えます。

このような反応に陥ったのはミヤコだけではありません。

 サキもまた戦闘が始まって以降冷静な思考能力が奪われたことを認めています。つまり皆が異常な現場の発見とそこから即発した戦闘開始という状況により闘争・逃避反応をはじめとした急性的なストレス状態に追いやられたのです。 

――なるほど。そうだったのか! なら説明が付くな!

 と、納得してはいけません。話はここからです。

 闘争・逃避反応をはじめとする急性的なストレス反応とそれによる認知の歪みは普通の人にとっては仕方のないことです。

 しかし、「戦闘」や「危険」へ直面することの多い職業に従事する人々はこういった状況下にあっても冷静な判断力を失わないよう適正な訓練を受けています。

 加えて、ミヤコ達は通常の法執行機関であるヴァルキューレ警察学校の生徒ではなく、よりエリートがより困難な事案を対処するためのSRT特殊学園への入学を許された極めて優秀な生徒たちです。

 恐怖をはじめとするストレスへの耐性がやや低めとみられるミユ(もっとも彼女にはそれを補ってあまりある存在感消去という特性と尋常ならざる狙撃能力があります)はともかくとして、他の3人まで含めて全員が急性的なストレス反応で冷静な判断力を失っているのは異常事態です。

 実際、ミヤコは先述のような状況に陥った事実を認めていながら、通常であれば自分たちがそうなるはずがないのに、と困惑しています。

 これはミヤコの驕りでしょうか? それは絶対に違います。なぜならRABBIT小隊は通常こうはならないという証拠があるからです。

 その証拠となるのは夜戸浦村に来るよりも、もっと彼女達が未熟なウサギだったころ、カルバノグ1章の段階に認められます。

 ヴァルキューレとカイザーを巡るリベートの証拠を探るため、ヴァルキューレ内部に潜り込んだ彼女達は、ミユのミスで金庫内に閉じ込められるという絶対絶命の危機に陥りました。所詮漁民でしかない夜戸浦の漁師との遭遇戦とは段違いの危機的状況です。

 RABBIT小隊は混乱に陥り、問題を解決できないミヤコは完全に自信を喪失します。自分の立案は全て失敗ばかりで、先生に遠く及ばないとして、完全に絶望しています。

カルバノグ2章の「ミヤコの正義を信じる」という3人の言葉と併せて考えると印象深い言葉です

 この状況で、確かに先生は助言をしました。しかしそれはミヤコに対してのみで、しかもその言葉は「みんなを信じろ」でした。先生はあくまでミヤコにしか語りかけていません。そして、

 RABBIT小隊にはパニックに陥っても「みんな」で支え合ってなんとか我を取り戻すだけの小隊全体としての力があります。先生はあくまでミヤコに「みんなを信じれば大丈夫」と言ったに過ぎません。

 しかし夜戸浦村では違います。カルバノグ1章の頃と比べればなんてことはない偶発的な戦闘で、その「みんな」の理性が総崩れになったのです。村民を疑うだけでなく、サキに至っては戦闘中に限ってですが「深きもの」伝承それ自体を疑わなくなってしまったほどだと自白しています。

 だからこそ、先生はカルバノグ1章のときのように「みんな」を信じようと背中を押して後ろから見守るのではなく、先生自身が前に出ました。止めなければモエによる榴弾で村が被害を受け、状況はより混沌としてしまったでしょう。RABBIT小隊の「みんな」の力がここではまだ届きませんでした。でも、そんな子供達を支えるために先生はいるのです。

 一連の騒ぎが終わったあと、事態を総括して先生はRABBIT小隊の判断についてこのように評価しています。

 先生にとっても、このような行動はRABBIT小隊「らしくない」のです。「珍しい」のです。闘争・逃避反応等の急性ストレス? 通常のRABBIT小隊ならばこの程度の偶発的な戦闘で、たかが漁民にそのような反応は起こしません。

 FOX小隊はRABBIT小隊の実力を概ねカイザーSOFと互角程度に見ていましたが、カイザーPMC、つまり民間軍事会社のエリート集団SOFですらカルバノグ2章のRABBIT小隊はまるで路傍の石のように容易く蹴散らして連邦生徒会まで猛ダッシュします。

 確かに漁業は力仕事です。海との戦いが仕事になる大変な仕事です。ですが、戦闘するために訓練されたSOFとは比較にもなりません。あえて表現すれば漁民ごときは「雑魚キャラ」でしょう。なんなら、SOFですらカルバノグ2章終盤のRABBIT小隊にとっては「雑魚」に過ぎませんでした。

 確かにSOFとの戦闘は制御された状況下でRABBIT小隊が全てを支配して運んでいましたから、状況がまるで違います。

 しかし、カルバノグ1章の金庫閉じ込め状況はどう見てもあまりにも危機的状況です。しかし先生は見守って、実際成功しました。

 何が違ったというのでしょう。いつもの自分たちと夜戸浦村での自分たちがあまりにも違い過ぎる。ミヤコは戦闘後にこんなことまで言い出します。

 あのクローバー作戦ですら自分たちはうまくやれたのに、夜戸浦村での大失態がどうしても説明がつかないのです。自分たちが陥った状況については理解しています。あまりにも典型的な急性ストレス反応です。しかしSRTのエリートは通常それには負けないのです。クローバー作戦ですらみんなの力でそれに打ち勝ちました。

 先生の答えの一つは「情報過多」です。クローバー作戦の時は必要な情報が適切に集まり、合理的な判断を下せました。しかし夜戸浦村では「深きもの」というノイズがあまりにも強すぎ、得られた情報たちもそこに結びつけられがちです。
(補足:参考になればと思い情報過多が認知機能に及ぼす影響についての信頼できそうな資料を探してみたのですが私には見つかりませんでした。一応情報過多が脳疲労を与え認知機能を落とす、という資料は見つけたのですが、機序の記載もなくそもそも脳疲労という語について定義の統一化がなされておらず、この言葉を使う人は各々好きな意味で好き放題使っていたので、信頼できないなと思い根拠から外しております。Perplexityに英語で訊いてみたらなんか信頼できそうな研究でてこないかなあと思ってはいるところです)

 ミヤコたちは一因としてそれについて一定の理解を示しました。けれど、先生にとって根本的な問題はそこにありません。先生は今回の状況にRABBIT小隊が陥った原因は以下だと考えています。

 日頃の疲れが判断を鈍らせた、というわけです。しかし、これに対してはサキが納得できないと強烈に反駁しています。

 湿地や山間、寒冷地。そういった状況下で疲労に晒されてもSRTの過酷な訓練を耐え抜いている自分たちならそれらの戦場で適切に対応できるというわけです。たぶん、それは真実でしょう。特にサキは真面目に訓練に励む性質です。生真面目に訓練に取り組み、彼女はSRTのエリートとして十分に訓練されているでしょう。

 しかし、サキのこの答えは先生の言葉とズレているのです。厳しい状況下に置かれて疲弊しても私たちなら戦える――先生はそういうことを否定したのではありません。先生は続けて言葉にします。

 精神疲労。それも、先程述べた急性ストレスではなく常日頃から蓄積されたものです。子ウサギ公園でのキャンプというそもそもが過酷な生活環境。その中でSRT復活を唱えていかなければならないという義務感。SRTの模範となるべく継続すべき訓練……そういった諸々をきちんと頑張っていたからこそ、疲れが溜まっていたのだろうと。

 疲労研究の最前線 ~疲労克服戦略~

 RABBIT小隊の、通常の生徒とは異なる過酷な日常で蓄積されたストレスにより、そもそも彼女達の集中力などの認知機能に低下が見られていたという評価です。

 このように考えると、急性的なストレス反応に対処できなかったことも、そもそも戦闘以前の調査段階から彼女達の行動がSRTの適正行動から外れていたことにも説明がつきます。

 杯中の蛇影を見てしまった理由は、RABBIT小隊が疲れていたから。普段のみんなならもっと上手くやれただろう、というのが先生の結論です。確かに情報過多もありましたが、RABBIT小隊は普段ならもっと上手くやれたはずです。

 「漁村内の人々が皆疑わしい」という発想に問題はありません。あの村は誰がどう見ても怪しいです。しかし、その上で、彼女達が得た情報の中で彼女達をより合理的に行動させるに足る情報がありました。

 漁民と海運会社のエビの漁獲量についての説明が食い違っている

 彼女達がSRTとしてまともに機能していれば、調査を最も強く動機づける情報はこれです。質問について漁獲量について答えてくれなかった冒頭の漁師の他にも、ミヤコ達はちゃんと調査を行い、漁師たちは確かに漁獲量減だがD.U.に出回らないほどではないはずだが……? と述べていたことをRABBIT小隊全員が中間報告で確認しています。

 「とれないと言うのが漁師のプライドが許さない?」――あまりにも主観的で客観性を欠いた海運会社の言葉です。それに対して複数の漁師が漁獲量から考えてD.U.にエビが出回らないはずがないと告げています。

 ミヤコたちも「誰かが嘘を吐いている」ところまでは把握しています。

 しかしそこで「深きもの」に飛びつくのがおかしいのです。迷信は迷信に過ぎないとミユ以外の3人が同意しています。一番怪しいのはどう考えても海運会社の発言です。

 複数の漁民へのインタビューが同じ答えを返しているという客観的事実に対して、それを説明する海運会社の言葉はあまりにも根拠薄弱です。心理学を専門とする者ですら人の心を言い当てられないのに、漁民達の発言が合致するという事実に対しての心理の非専門家である「海運会社の者」の言葉の信頼度などゴミに等しいものです。

 「誰かが嘘を吐いている」――それはそうです。しかしこの段階で「海運会社が特に怪しい」と考えるのが最も合理的です。最初の漁師が言うとおり、漁師の仕事はエビをとってくるところまでです。その先のことを担当するのが海運会社です。その海運会社の発言が漁師達の証言と食い違い、そしてその説明が根拠薄弱。これほど怪しいことはありません。

 通常のSRTならここを重視しないはずがありません。しかし、彼女達が飛びついたのは「深きもの」です。その結果、報告書はまるでフィールドワークめいたSRTらしからぬものと成り果てました。

 確かに、たとえばこう言うこともできます。そもそも彼女達が「くさや」を知っていれば戦闘前の現場を見た段階でああくさや作ってるんだな、と判断して問題は生じなかった、と。

 しかし「くさや」の無知は根本的な問題ではありません。SRT特殊学園の生徒は食品関係者でもなければ、漁業関係者でもありません。食についての網羅的知識を備えていないことは特におかしなことではないでしょう。日本と異なり「くさや」はあまり出回っておらず、先生も妙な伝手(おそらく美食テロリスト集団でしょう)で知っているにすぎません。

 「くさや」を知らなくても先述のとおり彼女たちは答えに辿り着けました。博物学的な知識は確かに面白いですし、コトリのように知識欲に取り憑かれる人がいるのも(私が同類なので)よくわかります。ですがそこまでする必要はありません。普通の仕事を普通にしていれば普通に答えに行き着けたはずです。

 確かにRABBIT小隊は早とちりをしてしまいました。ですが、それは彼女達が一生懸命頑張ってきたからこそです。彼女達の思考力の低下を招いた疲労、それは彼女達の努力の証明でもあります。だから、先生も早とちりした事実を深くは責めません。

(ちなみに、ですが。詳細な説明のなかった微量のガスに触れたときのようなピリピリ感。これたぶん「ただの日焼け」だと私は思っています)

 そして、先生が頭を下げたとはいえあれだけ迷信に囚われ頑迷だったはずの夜戸浦村の人たちですらRABBIT小隊を強く糾弾し続けることはありませんでした。

 それどころか、翌日以降その話を蒸し返すようなこともしません。私が夜戸浦村の人たちが大好きなのは、確かに迷信的なところはありますが、それでもなお「子供のすること」に対して「子供のしたことだから」と決して強くは糾弾しなかったところです。

 くさやの調理場を踏み荒らされて、その上わけのわからないことを言って戦闘にまでなったのですから普通に考えて夜戸浦の人たちはもっと怒って良いです。それでも、彼らはそうしませんでした。

 後に夜戸浦村は生徒達にとって魅力的なスポットとして人気を博すことになります。それは確かに某釣りチャンネルの影響もあったのでしょうが、夜戸浦村の人たちのそんな気質が子供である生徒達にとって心地良いものだったからでもあると思っています。

 だから、先生の答えは端的です。

 疲労に起因したバイアスと、普段なら抑制できはたずの急性ストレスに対処できず誤ってしまった子供であり生徒であるRABBIT小隊の姿に対しての、この先生の答えは端的に述べて完璧です。

 これは先生の優しく子供を導く姿勢としても正解ですし、疲労した人間に対する処置としても適正です――さて、しかし先生にそこまでの生理学的な知恵があるでしょうか? 先生を過剰評価しすぎではないでしょうか?

 そんなことはありません。疲労困憊でめまいを起こしながらも「めまいとはなにか」を説明しようとしたコトリを遮って、先生は淀みなく告げます。

 「めまいが何を意味するのか」だけでなく「その原因」まで学術的に先生は把握しています。そしてそれを即座に口に出せるほど知識として整理しています。私が挙げた「闘争・逃避反応」や「その他急性的なストレス下において想定されるリスク」や「慢性的な疲労」により引き起こされる状態について、先生は「そのような現象が存在する事実」「そこから導かれる心理や行動への影響」「そのような現象がなぜ引き起こされるのか」まで把握しているだろうと、このめまいについての説明から私は判断しています。

 おそらく救護騎士団のミネ団長や、救急医学部の命の恩人ほどまでは専門的に詳しくはないでしょう。しかし、上述の知識などごくごく表層的なレベルのものに過ぎませんし「そもそも上に挙げたどれもが生徒を適切に導くために教育者として知っていることが望ましい領域の知識であり、単なる雑学ではなく教育上の実学」なのです。

 「めまい」を起こした生徒に対して適切に対処できるよう知識を備えておくのと同じように「急性的なストレス」や「疲労の兆候」などについても知っておかねば大切な場面で子供を守れません。教育のために必要な倫理・思想は勿論、こういった応急処置的なレベルでの知識なら先生は当然備えているものと考えます。

 マエストロが先生の知性を高く評価していますが、この点については私も同意です。品格については……言うほどかなぁ? メイド喫茶で本来サービス外のふみふみサービスを「ご・褒・美」と迫った輩に品格があるとはあまり思えませんが。マエストロそこんとこどう? あと店ではもうやらないとは言いながら今度個人的にやってあげるとか言い出したカリン、大概だぞ。

 さて、先生によって疑心暗鬼の闇(元々はナギちゃんに対して出てきた言葉でしたね)から抜け出したRABBIT小隊のみんなですが、今度は逆に夜戸浦村の人たちの闇を彼女達が晴らした場面があります。

 あのシロクマくん(僕は君が大好きです。君の動画に高評価ボタンを押したい)が「鬼の岩礁」で撮ってきた写真について、確信を持って漁師は告げます。

 彼は「再来の船」の言い伝えを述べて、真相を調べてみなかったのか問う先生にこう答えます。

 夜戸浦村はいわゆる「因習村」ではありません。それにしては彼らは外部の人たちに優しすぎます。少しピリピリしているところはありましたが、シロクマくんが釣りを試みることだってRABBIT小隊との衝突前から許していました。それでもやはり、言い伝えが怖いのです。ずっとそれに囚われているのです。

 先生はミヤコに意見を求めました。先生も答えに至っていたかどうかは重要ではありません。今のミヤコなら合理的にSRTとして判断し、適切な判断を下せるだろうと信じているのです。もし先生が答えに至っていなくても、今のミヤコが出した結論なら信じられると思ったことでしょう。そして、ミヤコは極めて合理的に推論を行いました。以下のようにです。

・船のデッキに柵がある
・人が乗る船ならば転倒防止に必要だが「深きもの」に必要か疑問
・ブリッジのような構造物を船が備えている
・この構造物は潜水すれば水圧で損傷する
・しかし構造物は原型を保っている
・よって構造物はおそらく潜水していない
以上より「深きもの」や伝承の存否は判断しないが、少なくともこの船は「再来の船」ではなく単なる人造の船である確度が高いと結論

 極めてスマートです。ユウカならかんぺき~と言ってくれるでしょう。これに対して、夜戸浦村の人たちは痛烈に反論しませんでした。もちろんミヤコの論証があまりにも知的にエレガントだったのもありますが、あれだけ強く伝統に縛られ恐怖していたにもかかわらず、ちゃんと写真を見てみようと思ってみたことについて、夜戸浦の人たちはすごいと思います。簡単にできることじゃないです。だから私は夜戸浦の人が好きです。

 ヴァルキューレの海警ちゃんは「バージ船」に見えると言い、漁師は写真に写っているクレーンを指摘し、コンテナについてレッド・フック・エクスプレスのものではないかと指摘する者が現れました。

 「再来の船」が存在するかどうかはわかりません。しかし少なくとも写真に写っていたのは、「普通の船」でした。

 写真に写っているのはあまりにも「普通の船」なのです。誰がどう見てもそうなのです。そしてミヤコが言うように潜水すれば破損する構造をしているのです。あまりにも当たり前すぎて、自分たちが怯えていた理由すら漁師には理解できません。ミヤコ達がなぜ自分たちが急性ストレスに対処できなかったのか理解できずに困惑していたのと同じです。

 そこに摩訶不思議な幻術があったでしょうか? そんなものはありません。

 おじいちゃん漁師(この人も好きです。熊谷さんも好き)は極めて端的かつ適切な結論を下します。

 これは夜戸浦村の人々のかつての姿を説明すると同時に、夜戸浦村を訪れたばかりのRABBIT小隊の姿をも綺麗に総括しています。「くさや」を知らなければそもそもあの腐敗した魚の置かれた現場について調理場だとは思わないでしょう。そして、わけのわからない悪臭を放つ腐敗した魚がいくつもいくつも並べられていたら、普通人は恐怖を抱きます。無知がRABBIT小隊を闘争的な態度に走らせました。

 また、本来であればRABBIT小隊は興奮状態による視野狭窄等の様々な状態変化に対抗できるだけのエリートですが、蓄積していた疲労により抵抗力を大幅に失っていました。

 そして「精神疲労とそれに伴う認知機能の低下がパフォーマンスを低下させる」という発想がなければストレスチェックもバイアスへの注意もできません。「精神疲労が与える悪影響」をたとえばサキがきちんと知っていたならば、時間割すら作って行動する彼女ですからSRT復活のための最適戦略として「休息」はむしろ義務であると判断できるでしょう。ですが、知らなければ。知らなければどうしようもないのです。

 たとえ完全な知に至ることはなくとも、信じるために知ろうと努力すること。これはブルーアーカイブのテーマの一つだと私は思っています。

 つまり「難しく考えること」はほぼ「無知」と同じ状況に人を追いやります。ここでいう「難しく」とはなんなのか。夜戸浦の一件を振り返って考えてみるに、それは「健常な判断能力を損なうなどして出口のない思考の迷路に迷い込むこと」だと私は考えています。ほんとうはあるはずの出口と、その見つけ方をわからずにいること。その意味でそれは「無知」でもあるかもしれません。

 ですが、どうすれば「難しく考えること」と「無知」であることから逃れられるのでしょうか。夜戸浦村の人たちはずっと「ただの船」に「再来の船」を見てきました。どこからどう見てもただの船なのに、恐怖で気づけないのです。疑えないから気づきようがありません。

 RABBIT小隊は悪臭を放つ腐敗した魚の並べられた現場を見てこの村に「淫祠邪教」の類が根付いていることの証左だと判断しました。RABBIT小隊がどう頑張ってその魚を見ても、怪しいとしか思えないでしょう。

 そもそも、子供たちを導くべき立場にある「先生」ですら「難しく考え」てしまい、そのことを自覚できなかったのです。努力していても、その迷路に迷い込んでしまう可能性を0にすることはできません。どうしようもないのでしょうか?

 方法は、あります。あまりにも当たり前の答えがあります。「他の誰かがそれに気づいてあげればいい」のです。RABBIT小隊の早とちりは先生が解しました。夜戸浦村の恐怖はRABBIT小隊が晴らしました。もう自分が犠牲になるしかないと思ったホシノの考えは、先生とアビドスの皆が打ち砕きました。先生の逃れられない自責はホシノが打破しました。

 互いに互いを憎み合うことで地獄の存在証明が達成されるとベアトリーチェは言いました。ならば逆に、迷路にはまって苦しむ誰かに手を差し伸べて、迷路の出口まで導くならば、それは地獄の破壊に繋がるでしょう。

 そのためには、お互いがお互いを信じ合うことが何よりも大切です。たとえ到達できなくても、不可能だとしても、その宿題を背負わなければならないのです。

 道を誤ってしまったことを真摯に反省して少しでも夜戸浦村を良くしようと様々な手を尽くしたRABBIT小隊と、あれだけ迷惑をかけられてなお子供のしたことだからと、バーベキューのために海の幸まで持ってきてくれた夜戸浦の漁師。その信頼関係があったからこそ、キヴォトスの生徒達に愛される夜戸浦村の今があります。

 生放送を見たとき、なんだこのタイトルはと思いました。
 けれど今は、僕はこの話が大好きです。





余話19:同じ状況、同じ選択

 さて、ようやく話を少し戻すことができます。

 「クロコが全てを滅ぼすか」「プレナパテスが全てを滅ぼすか」の暴力的で悲劇的な二択において、クロコの責任を優しいプレナパテスが背負い、嚮導者として全てを代わりに滅ぼすこととし、優しいプラナは早くその苦行が終わるようにと躊躇なくこちらの世界を滅ぼそうとしました。

 そして今、クロコの引き継ぎが終わり、プレナパテスが倒れ、ナラム・シンの玉座が崩壊していく中で、プラナは「先生の願いは……違っていたのでしょうか」と考えるに至ります。

 「滅ぼすつもりで来た」のではないのだとしたら、なぜ。

 なぜプレナパテスはアトラ・ハシースの箱舟を通じて「私たちの世界」へ来たのか。「私たちの世界」はプレナパテスの影響により多大な被害を被りました。プラナにとってプレナパテスとはとても優しくてあたたかな人であるはずです。だからこその「理解、不可能」。

 そんなとき、プラナの脳裏に幾つもの映像が過ぎります。それは、世界の滅亡を回避しようと懸命になって戦う生徒たちと、誰一人として失うまいと文字通り命を削って奮戦する先生の姿です。そして、そんな先生を中心として、どれだけ危機的な状況になっても絶対に大丈夫と微塵も揺らがない生徒たちの姿です。

 その様は私たちの世界だけの特権でしょうか。滅んだプレナパテスの世界にそのような光景はなかったのでしょうか。プレナパテスが独りよがりな人で、誰の力も借りようとしなかったから滅んだのでしょうか?

 「みんな」で力をあわせて危機を乗り越える――敗北する前、戦闘の直前のクロコはその力を既に知っていました。だからこそ、新たな迂回策がまだあるというプラナを制止したのです。そんなことをしても何の意味もないと。先生なら「みんな」と力をあわせて危機を乗り越えるに違いないと。なぜならクロコは見てきたからです。

 ここで言う先生は「私たち先生」のことではきっとありません。ご丁寧にこの台詞の直後に沈黙するプレナパテスがうつります。プレナパテスもまた、みんなと力をあわせていくつもの奇跡を生み出してきた人のはずです。

 あの最高の「4th PV」で悲劇を奇跡に塗り替えていく言葉たち。それは確かに私たち先生が放ったものでした。けれど。無名の司祭に「その選択を未来永劫後悔することになる」と言われたプレナパテスはその可能性を認めつつも、歩を止めませんでした。そのときのあの人はかつて奇跡を生み出してきたいくつもの言葉を思い出していました。色彩の嚮導者となってなお、プレナパテスは諦めてなどいませんでした。

 「先生」と「プレナパテス」は同じ状況で同じ行動を採ります。だから、自分たちに立ち向かう「先生」の姿を見て、プラナは思い出したはずです。かつての自分たちの世界もこうだったと。破滅した世界は本来、こんなにも輝いていたのだと。

 きっとたくさんの生徒の頬を伝う涙の跡を穢れのないその指先で拭ってきたのだろうプレナパテスが「クロコを嚮導者にして全てを滅ぼすか」「かわりに自分が全てを滅ぼすか」などという悲しい二択に縛られるはずがないのです。

 鏡となる先生の姿。そしてなにより、もう動かない手で、もう動かない口で、もう生命活動も止まっているのにクロコの涙を拭おうとしたプレナパテスの姿を見て、プラナは思い至ったはずです、プレナパテスは絶対に諦めないと。生徒が苦しむ様を許容しないと。あの人のいつもの姿勢を思い出せば、自ずと結論は出てくるものです。プレナパテスは滅ぼすためにやってきたのではなく、救うためにやってきたのだと。

 単にクロコの身代わりになる、無名の司祭の代弁者・傀儡になるなど全くの嘘。遥か天空の彼方で多次元解釈によるバリアまで張り、サンクトゥムタワーを破壊し、虚妄のサンクトゥムを建て、これ以上なくキヴォトスを追い込んでいながら、司祭の意図に従順なふりをして「この程度のこと」は先生が「みんな」と乗り越えてくれると信じていました。

 先生はプレナパテスが信じたとおりにやり遂げてくれました。「主砲」を受けて死んだ体が更に激しく損傷する中、一人また一人と転送されていくのをただ佇んで待っていました。

 そうして、脱出用シーケンスが残り1回となり全ての準備が整った後。信じたとおりに成し遂げてくれた先生のおかげで、プレナパテスはようやくその目的を果たしました。

 泣いているクロコの頬を伝う涙を、もう動かない包帯だらけの穢れない指先で拭って、「偽りの先生」の名前の通り、最後の最後まで見事に偽りきって無名の司祭を騙しきり、その目的を遂げるのです。

 全てはこのときのためでした。

 無名の司祭は侮っていたのです。先生を特別にしていたのは「箱の力」であると。あの者の特質は「箱」であり「箱の主」だと思ったのが失策でした。

 ゲマトリア相手に丁々発止と渡り合い、次々難局を切り開いてしまう「大人のやり方」を、装備も貧弱で実力も決して十分とは言えない生活安全局を率いて、いともたやすくSRTのエリートを翻弄してしまうその「戦術指揮」を。

 同じ大人であり、理性を誇るゲマトリアですら「プレナパテスにとってみれば我々のことは、眼中にも無い」と断言しています。

 そんな存在に「色彩の嚮導者」というテクスチャを被せただけで安心してしまったのは怠惰と言うほかありません。

そもそも、無名の司祭には想像もできないでしょう。会ったこともない他人に全幅の信頼を寄せるなど。けれど、先生/プレナパテスは違います。

 「自分なら」――「先生であるのなら」同じ状況で同じ選択をとると信じていたのです。たとえ脱出用シーケンスが残り1回で、「この世界に滅びをもたらそうとしたクロコ」と「この世界を守った自分」のどちらかにしか使えない状態に陥ったのなら、迷わずクロコを助けると。「先生」であるならば、必ずそうすると信じていたのです。

誰かが犠牲になるしかない二つの選択は、その質問自体が誤っている。
レバーを引く人が見落としたものがあるかもしれない。
周囲に手を差し伸べてくれる人がいるかもしれない。
だから、先生であるならば。
全員で力を合わせて「全てを救う」選択肢を選びたい。

 先生と全く同じ考えで、プレナパテスは動きました。「この世界」にクロコとプラナに手を差し伸べてくれる人がいないのなら「別の世界」に行けばいい。滅びを避けた自分に引き継げば、きちんと「先生」をしてくれるから。

 アトラ・ハシースの箱舟が全ての世界を渡り「忘れられた神々」を全時空から消し去るための手段として好都合にも無名の司祭から与えられました。意気揚々と望んだ世界に乗り込んだプレナパテスは、絶対自分に勝ってくれる先生に全力で挑むことで無名の司祭を騙し、生徒を先生に託しました。

 プレナパテスのアトラ・ハシースの箱舟はこれにより、勇者の光の剣によって滅ぼされるべき悪しき魔王城などではなく、滅びという大洪水から大切な子供を守り、世界と世界を渡り、託して、その役目を終えて静かに天空で朽ちる真の箱舟となりました。


余話:20 百合園セイアのパラドックス

 崩れゆくナラム・シンの玉座の中で、プラナとプレナパテスの間に楽園が成立しました。エデン条約編3章後半以降ずっと語られてきた「信じることで証明される楽園」です。

 真っ先にこれを理解したセイアは、誤解があっても信じられないことがあっても臆さずに、闇の中を進み、その先にある証明不可能な他者の心という問題に立ち向かうしかない、その宿題を背負い続けるしかないと述べています。

 前回の超強火百合園セイア論文では触れませんでしたが、哲学徒であればここでセイアちゃんが話しているのは、哲学上の重要なパラドックスの変奏であることを瞬時に理解したでしょう。なんといっても大家も大家、現代まで影響を及ぼす大天才が(分哲の歴史はそもそも浅いですが)提出したものです。意味の理解において重要なのは以下です。

①:これから語る楽園証明では誤解と不信が生じうる
②:③で述べられる努力の結果、どこにも到達できないことがある
③:他者の心という証明不可能な問題に進む「しかない」
④:進まなければならないのは「私たち」である。
⑤:④で述べているとおり「私」ではなくこれは「私たち」の問題である
⑥:③の宿題は私たちによって背負われ続けなければならない
⑦:③のためには宿題をずっと背負い闇の中をその先を目指して進まねばならない

 「私たち」が何を意味するのかについては以下が補助線となるでしょう。

 この発言は「古い宿題」、つまり楽園存否という二択問題に関するものですが、それを信じることで拒否する「新しい宿題」は「古い宿題」同様全ての人たちにとっての宿題なのか? もしそうならそれはなぜか?

 疑問の余地なくそうです。むしろ、この「新しい宿題」を正確に理解することで、百合園セイアがなぜ楽園の存在証明に拘っていたか、なぜそれがセイア個人だけでなく全ての人たちにとっての宿題なのか。「それの存在を証明できなければ、なにも……」で何を言おうとしているのか理解できません。

 根底にあるのは「規則のパラドックス」でしょう。「グルーのパラドックス」が思い浮かんだ人もいるかもしれませんが、私は前者であると考えています。

 規則のパラドックスとは非常に乱暴に言ってしまえば、「我々が同じルールで話ができているという保障は得られない」という意味です。規則のパラドックスにリンクが張ってあり、そこのウィトゲンシュタインではなくクリプキの解釈が特にそれを強く示しているものになります。

 この「規則のパラドックス」に出てくる「足し算」と「クワス算」、そしてあわせてリンクをはらせていただいた「グルーのパラドックス」における「グリーン」と「グルー」。ほとんど誰もが「足し算」「グリーン」が適当であり、「クワス算」や「グルー」は荒唐無稽で使えないと思うでしょう。

 この「荒唐無稽で使えないと思う」をなんとか定式化しようという試みはあるのですが、少なくとも論理上は成立が困難なようです。科学の上ではなんとか蓋然的にアプローチしていく戦いが行われています。

 ただ、この哲学的難問にここで深入りするつもりはなくて、重要なのは「これまで」互いにわかり合えてきたと思っていることが「これから」を保障できないということです。

 「蓋然的に分かれば良い」という蓋然性すら難しそうだというのが上のパラドックスが言うことのひとつではあるのですが、今回はそこには立ち入りません。

 誰もが素朴に持つだろう常識、「これまでどれだけ信頼を積み重ねてきたって、次の瞬間には裏切られるかも知れない」。上のパラドックスはこの素朴な直感を支持します。百合園セイアは博学なので上のような難問に唸っていたのかもしれません。そして、このことは百合園セイア以外の万民に当てはまります。だから、この問いに答えることは全ての人にとっての宿題だと百合園セイアは考えるわけです。百合園セイアはこの不安に答える術がないとし、先生も「不可能な証明」だと答えています。

 本論では極めて長大かつ晦渋になるため避けますが、先に述べたこれらの問題は規則と蓋然性それ自体の破壊に繋がるものであるため、おそらく本論を読んでいる人には「【確実】に到達する道はない」という常識に読めてしまうと思うのですが、これらが本当に言いたいことは規則と蓋然性それ自体の破壊なので、どれだけ積み重ねたって論理上何の意味がないじゃないか、という話なのです。「確実ではない」と「不可能」は全く違うものです。ここで言われているのは、前者ではなくあくまでも後者なのです。楽園があることが確からしいのでもその逆でもなく、わからない。存否を示し得ない。だけど存否を示さなければ、全ての人が完全な闇の中で、互いをわかり合う術など失って彷徨ってしまう。百合園セイアの苦しみの根本は、おそらくここにあります。

 こうした中での人の振る舞いについては、奇しくもクリプキが「暗闇の中の跳躍」だと述べています。あるいは我らが愛するミノリさんならマルクスの言った「命がけの飛躍」を思い出すかもしれません。後期ウィトゲンシュタインはよりはっきりと「規則に従うということは一つの実践」だと述べています。

 跳躍、飛躍、実践。誰一人として先哲の言葉は暗闇の中に立ち止まりませんでした。ただ暗闇があるとだけ表現して終わりませんでした。なぜなら実際に、人はそうして生きていますし、これからもそうだろうから、そう言うのが適切なのです。これらの営為を先生なりに表現すると、次のようになります。

 不可能であるにも関わらず、現に私たちは闇の中を信じ合っているし、これからもそうするでしょう。それらの光景は、キヴォトスのどこに行っても見つけることができます。不可能であるはずなのに、みんなが信じ合って、当たり前のようにそれを成し遂げています。ブルーアーカイブのキャッチコピーのひとつを覚えていらっしゃるでしょうか。それは決して過剰な表現でもなければ、それっぽいけど意味のない言葉でもありません。ブルーアーカイブに通底する、一つの確かなテーマであり、楽園の存在証明でもあります。


余話21:あまねく奇跡の始発点

 話はまた戻ります。「クロコを嚮導者にして全てを滅ぼすか」「かわりに自分が全てを滅ぼすか」――プレナパテスはそれを拒否します。なぜなら「そんな質問は質問自体が間違っているから」です。プレナパテスは本当に、二択を拒否してクロコの引き継ぎを成し遂げました。

 ようやく一仕事を終えて体を休めたプレナパテスと、崩壊していくナラム・シンの玉座。「箱」の主とともに歩み、その目となり足となり頑張ってきたプラナにもようやく終わりが訪れて――けれど現実はそうはなりませんでした。

 「教室」に入ったプラナは、すぐに答えに至ります。プレナパテスの言葉はこうでした。

生徒たちを……よろしく、お願いします。

 プレナパテスが言いたかったことも、先生がそれを完全に理解して「応えた」ことも、

「先生」がどちらであっても、またその両方であっても、その答えは真です

 一方、アロナは必死でした。上空75,000mは先生の生存できる高度ではありません。アトラ・ハシースの箱舟が崩壊するなか、そこからも先生を守らねばなりません。それができるのは、デカグラマトン4番目の預言者「ケセド」を相手に難なくハッキングをこなし、デカグラマトンそのものからの干渉すらくしゃみで吹き飛ばし、サンクトゥムタワーの行政制御権を易々と握り、至近距離からの発砲を無効化し、なおも試みれば銃身をねじ曲げ、無名の司祭の技術である巡航ミサイルの爆発からすら先生を守りうるシッテムの箱のメインOSであるアロナだけです。

 ゆえに、ここが。こここそがアロナの戦場です。いかなる生徒もこの状況に陥った先生を救済することなどできません。もし先生を救うことができるとしたら、それは世界にただ一つしかないシッテムの箱のメインOS、アロナただ一人をおいて他にありません。

 だからこそ、アロナは諦めず、咳き込んでも止まらず、用いることのできるリソースのあらゆる全てを用いて先生を守ろうと試みて。この世界には自分しか先生を救うことのできる存在がいなくて、自分が全力を尽くしていて。そしてなおも状況を変えられなかったからこそ、アロナはその戦場で無力でした。全力を尽くしても力不足で、他の方法も探し出すことができなくて。

 そんなアロナに、もう大丈夫だよと。ありがとう、ごめんねと。先生はちょっとだけ申し訳なさそうに、少し寂しそうに告げます。

 先生は誰の犠牲も容認しません――ただし、自分自身を例外として。だから、自分のことはいいからと、アロナの視線をプラナに向けさせました。

 そうして教室にやってきたプラナただ一人が、全てを理解していました。アロナの力では先生を救えないことも、同じシッテムの箱のメインOSであるからわかります。先生が自らを諦めてプラナをアロナに託したことも、プレナパテスがそうしたのだからわかります。

 そして、アロナとプラナには決定的な違いがありました。「アロナは先生の背中を見てきた生徒」で「プラナはプレナパテスの背中を見てきた生徒」です。先生とプレナパテスは同じ状況で同じ選択をとる人です。何が違うのでしょうか。状況が違うのです。状況が違ったからこそ、先生とプレナパテスの歩んだ道は異なって、プラナはプレナパテスの背中を見て来たのです。だからこそ、プラナは一切の迷いなく断言します。

 連邦生徒会長が先生に託したオーパーツ「シッテムの箱」は世界にひとつ。そのメインOSである自分の奇跡で届かないならば、どうしようもない。頑張っているけれど、まだ諦めていないけれど、道がない。「先生の背中を見て歩んできたアロナ」は泣きながら、届かないと知って自分の全力を尽くします。

 けれど、プレナパテスの背中を見てきたプラナには道が見えています。「シッテムの箱は世界にひとつ」
「そのメインOSも世界にひとつ」
 ならば答えは簡単です。
「別世界のシッテムの箱のメインOSが力となり、二人の力を足せば良い」

 滅びを迎えた世界だからこそ。そんな世界で足掻いたプレナパテスを見て来たからこそ、プラナは知っています。

「この世界に助けてくれる人がいなければ、別の世界の人に助けて貰えば良い」

 ただそれだけのことです。それは、成功してきた世界を歩んできた先生の背中を見てきたアロナには絶対に思いつかない選択肢でした。

 「誰も犠牲にしない」「この世界で無理なら別の世界の力を借りてでも」

 プレナパテスの決意を見て来たからこそ、プラナは方法を導き出すことができました。あの人の生徒ならきっと、誰でもみんなができることです。

 超えるべき壁はただひとつだけです。敵であった彼女を信じることができるのか。不可能な証明の中で、闇の中で、それでも跳躍することができるのか。

 アロナは、先生の生徒です。先生の背中を見てきました。だから答えは決まっています。

 こうして命がけの跳躍は成し遂げられました。

 「先生は誰の犠牲も容認しない――ただし、自分自身を例外として」

 先生の、そしてプレナパテスの背中を見て来た二人がそれを許すでしょうか。そんなはずはありません。

 先生が犠牲になる選択肢しかないのなら、その設問自体が誤っているのです。アロナとプラナの二人は、押しつけられた選択肢を拒否して、その先へと向かいました。

 信じるという奇跡を成し遂げて、そこから二人で奇跡を起こすのです。

 肺すら凍てつく上空75,000mからの落下。

 オーパーツ「シッテムの箱」のメインOSがふたりもいれば、そこからヘイローすら持たない先生を生存に導く計算なんて造作もありません。

 二人が互いを信じた結果、「安易な解」の導出過程は決して不可能などではなく、「安易に解」を導出したことでしょう。なにせ計算にあたるのはあのシッテムの箱のメインOS、プレナパテスを最後の旅路まで支えきった彼女と、先生と共に戦ってきたスーパーアロナちゃんなのですから。

 そこに先生が含まれてはならない道理など、あってよいはずがないのです。

 楽園の存否の証明は不可能なこと。けれど、学園都市キヴォトスではどこを見たってその楽園がちゃんと成立しています。それはまさにユメ先輩が見た奇跡の様に相違なく、だからこそ連邦生徒会長は先生に告げました。

 この言葉のあとに、ひとつの何気ない風景。机の片隅がうつります。

 先生を救うべき理由の証明なんて、これだけでじゅうぶんなのです。
 それがたとえどのような方法であろうとも。
 いかなる代償を支払うことになろうとも。

 このとき、連邦生徒会長は二つ目の古則の答えに至る道もこっそりと教えてくれました。

 絆を。生徒達との思い出。過ごしてきたその全ての日々を、
 覚えていること。

 大切なことは決して消えることはない。大丈夫だと連邦生徒会長は言います。だから、全ての奇跡がある場所へ帰ろうと先生を促すのです。

 そして、連邦生徒会長のこの論拠が正しいことを、私たちの最も尊敬すべき同僚が、多忙な先生としての日々の果てにようやく得た休暇において、そっと自らの側に残したもので証明しています。

 顔面をプレートで覆わなければならない状況下でも、色彩に露出し嚮導者と成り果て生命活動を終えても、主砲の直撃を受けても。傷一つつけずに守り切ったもの。

 大切なものは、決して消えることはありません。

 安息を得たプレナパテスの側に残るのは、傷一つ無く綺麗なままの、小さな折り鶴でした。



余話22:聖園ミカの絆ストーリーについて2

 そもそもこの余話がどのようにして始まったのか覚えていらっしゃるでしょうか。決して脱線などはしていません。全ては聖園ミカに残された最後の宿題、「無限の可能性」を信じることについて語るためです。

 聖園ミカは信じることですぐそばにいてくれる楽園を証明し続けること、そして先生が自分を決して見捨てないことを既に学んでいます。それにもかかわらず、先生に買って貰った水着は損なわれ、待ち望んでいた水泳の授業の機会は失われてしまいました。

 信じても。先生が自分を見捨てなくても。それでも「望んだ明日」、「至れるかもしれない可能性」「水泳の授業」は否定されました。

 ミカは明確に「無限の可能性」を否定しています。「無限の可能性」があるということは、「少なくともひとつはなんとかする方法がある」ということです。ミカは「何をしたって、もう取り戻せない」と口にしています。それは一つも方法がないということで、即ち明白な「無限の可能性」の否定です。

 これは先生にとっての宿題でもあります。ミカとの間に楽園を成立させるために、他者の心なんてわからないはずなのに先生は「ミカは魔女じゃない」「不良生徒だ」と言い切りました。そこには先生が今まで見てきたミカの行動が根拠にありました。「たとえ問題だらけの不良生徒だとしても先生は絶対に生徒を見捨てない」ことを先生は命を削って証明しました。

 ですがまだ、これでもなお「無限の可能性」だけはミカに信じさせるに至らなかったのです。だから、ふたりはこのお話をきちんと片付ける必要がありました。

 だからこそ、「無限の可能性」が背理法によって示されます。ミカが「無限の可能性」を信じられない理由はふたつ。「ズタズタにされた水着」と、「失われた水泳の授業」。このふたつをやっつければ、ミカの前にまた「無限の可能性」が立ち現れてきます。ホシノが似合うといってくれた「なんとかなる」という余裕の姿勢で、先生はミカを導いていきます。

 ズタズタにされても水着はまだ残っています。ミカにとってはあの時先生に買って貰った水着だからこそ大切で、ズタズタにされてしまったからこそ可能性は遠のきました。それなら修理して貰えば良いんです。呆気ないほどあっさりと、店員さんは修理された水着を、しかも無償でミカに手渡してくれました。

 残るは水泳の授業です。門限までまだ時間はあるとはいえ既に夜。「水泳の授業」をしようにも無理があることはトリニティの生徒であるミカがよく知っています。

 ですが、先生にとっては開いていないどころか、最良の場所を使えます。そんなことは何の問題にもならないとばかりに優しく、ミカをエスコートします。

 連れ出したのは、あの合宿所のプール。ミカと先生がふたりきりで話をして、先生が「自分はミカの味方だ」と宣言した場所でもあります。長い間使われていなかった、本来ならば使用できないはずです。けれど、第二次特別学力試験前という余裕のない時期であったにも関わらず、補習授業部は放置をよしとはしませんでした。

 ドロッドロに汚れたプールを掃除した経験を、どのくらいの人が経験したことがあるのかわかりませんが、私にはあります。

 プール掃除をしている間は足許がヌメヌメするし、なんか藻やらなにやら付着しているし、ぶにぶにしたよくわからないものもついているし、なによりひどい悪臭です。それでも、時間をかけて掃除をすれば、あのいつもの夏のプールが蘇るのです。

 本来なら水泳に適さないどころか、近づくのも不快なくらいの汚らしいプールが、補習授業部の努力によって(しかも彼女達はとても楽しそうに)驚くほど綺麗に生まれ変わっていました。

 水着は直せば良い。プールは掃除すれば良い。ミカが不可能だと思っていたことは、あっさりと達成されました。

 「無限の可能性」を語るとき、先生は言いました。「チャンスがないというなら私が何度だって作る」と。先生は有言実行し、未だ片付けていなかった、不良生徒に「無限の可能性」を信じさせるという宿題を片付けました。

 だからこそ、そこから先はいつもの先生と。いつものミカで。

 水着に着替えて絶好調のミカさんに、たじたじの先生でした。ここの安心感、すごいかったです。もうミカと先生の間に1~3話の間漂っていたある種の緊張感といったらほんとすごかったですからね。「あ゛ーっ!」と声が出るほど安心しましたし、嬉しかったです。よかった。ほんとうによかった。

 ちなみに。

 このあまりに露骨に一択の選択肢は。ミカに対して"先生"たらんとする人にはられた巧妙な罠だと思っています。

 夜のプールであこがれの人とふたりきり。そこに見回りがやってきて――

 そんないかにもミカが好みそうな子供っぽいシチュエーションで、ミカを連れて全力で逃げたりなんかしたらもうたいへんです。思い出のプールに連れてきてしまった時点でヤバすぎるのに、夜の学校で見つかって、二人で一緒に逃避行だなんて、そんななんともミカ好みなこと。

 1~3話の先生がなんとかやろうとした線引きの努力が完全に崩壊します。血の涙を流しながら上を選んだ先生は修羅の者です。ちなみに私はお姫様を選んでしまっただめだめ先生なので、ブチ上がりながら下を選んで最高の気分になってました。

 最後にミカから送られてくるモモトークには全てが詰まっています。門限までまだ時間があるというのは真っ赤な嘘。しかしミカは上機嫌そうに騙された先生に軽い口調でそれを告げて、嫌いにならないでねと伝えます。

 先生がそんなことでミカを嫌うはずないと知っているくせに。そして最後にお礼を告げて、ミカは眠りに就きます。会えないか、会えないか、と何度も訊いていた彼女の姿はもうありません。そんな不安になる必要がもうないのです。なんといっても彼女には「無限の可能性」があるのですから。

 

蛇足

 ケイちゃんがきっと帰ってくるだろうことは多くの先生が予言しているところです。しかし、死人であるユメ先輩はどうでしょう。割と賛否の話分かれる、議論のある部分です。

 私は4点から可能性は開かれていると考えています。1点はよく言われるこのシーン。

 ブルーアーカイブのシナリオは論理による導出が頻繁に行われます。「色彩によって反転した者を元に戻す方法など、存在しない」の不可能性は「死者が生き返らない」の不可能性と同程度です。つまり、クロコをなんとかできるなら、死者であるユメ先輩も同程度にはなんとかできる可能性が開かれているという導出です。

 2つめはそもそも論。死んでいることの何が問題なのかということです。つまりユメ先輩が死んでいて蘇らなくてもユメ先輩を取り戻せる方法はあり得るという話です。傍証はプレナパテスです。あの人は既に生体反応がなくはっきりと死亡していると確証されています。しかしプレナパテスは自発的運動を幾つか行っています。ただし、これには疑問を覚える人もいるかもしれません。

 プラナがプレナパテスの体を操作している部分があるからです。ただ、忘れるべきではありません。先生がプラナに動作補助をお願いした身体部位は限られています。

 プラナが動作補助しているのはあくまでも「目と耳と足」です。たとえばシッテムの箱を取り出したり大人のカードを取り出したり石をバリバリ砕いたりした「手」の動きやクロコに言葉を放った「口」については動作補助を依頼していません。

 プラナのこの発言は比喩表現であり実際は口を含む身体動作全体をプラナが動作させている、プラナがプレナパテスの石をバリバリ割っているとしてもおかしな点があります。プラナがプレナパテスを動作させているのなら「生徒たち」を託させる発言をさせるはずがありません。プラナはこの時点でナラム・シンの玉座の崩壊と共に自分は機能停止するだろうと思っています。

 先生がクロコに伝えたい言葉があると言っていたことから、クロコに対する台詞は全てプレナパテスと同じ判断をするだろう先生がプレナパテスを代弁した――と考えることは可能、ではあります。

 プレナパテスと先生は「同じ状況で同じ選択をする」行い、かつプレナパテスが先生に対してそう信じたようにかなりの高精度で違う状況にいる相手について理解している節があります。

 ですからプレナパテスの口にしたいことを先生が代弁したととることもできます。実際、クロコに語りかけるあのシーンにはテキストボックスにキャラクター名がありません。さらに、生徒たちを託すプレナパテスの想いも同じ状況なら同じことを自分は頼むだろうということで請け負ったと理解することも可能ではあります。

 それでもなおおかしい、絶対にプラナが先生を操作していないと断言できるシーンがあるのです。

 シロコからの威嚇を受けたプレナパテスは、シッテムの箱を取り出して先生とは文言が入れ替わった起動パスワードを口にしています。「腕を動かしシッテムの箱を取り出し」「起動パスワードを口にする」行動には、絶対にプラナが絡んでいません。なぜならシッテムの箱が起動してないからです
この発言の後、シッテムの箱が起動しシロコの弾丸は全て外れ、プラナのサポートが始まります。そして「腕」と「口」はプレナパテスがプラナに動作補助を頼んでいない部位です。あの文言は文字通り読んでよく、プレナパテスは腕と口は動かせると考えています。ゆえに私は、プレナパテスが生体反応を失っているにもかかわらず精神・および一部身体活動をとりうると考えるのです。

 プレナパテスから完全に自由意志を剥ぎ取る解釈をしようとすると、あとはもうこの時点のプレナパテスは無名の司祭が遠隔操作している、くらいしか想定できないでしょう――しかしそれもおかしいのです。

 クロコはこのように主張しています。

 シロコをキヴォトス内で殺害しなかったことは理解できます。シロコの死体がキヴォトス内に存在していることがシロコの多重存在を導いてしまうおそれがあります。

 アトラ・ハシースの箱舟に拉致したあと殺害しなかったことも理解できます。先生達を呼び寄せるエサとして使えるからです。

 では、何がおかしいのか。拉致されたシロコを拘束していないのがおかしいのです。WHITE FANG 465は彼女の手の中にあります。ついでにバッグもとられなかったので覆面を被っています。どう考えても無名の司祭にとっての最適行動ではありません。このシロコを武装させたまま好き勝手にさせていることについては、無名の司祭にメリットがないのです。

 一方でプレナパテスには造反を悟られない程度に先生側を有利にしておくことに十分なメリットがあります。
 「砂狼シロコが武器を持っていない程度、この圧倒的優位性の前では気にする程でもない些事だ」とでも無名の司祭は考えているんだろうな、アホなのかなくらいの気持ちで悠々とさりげなく先生を有利にしておくことにメリットはあります。自分を嚮導者にした程度で安心している無名の司祭は、ゲマトリア同様プレナパテスの「眼中にもない」でしょう。実際、シロコが武装しているおかげで先生は「時間稼ぎ」に成功しています。このシロコの武装維持はキヴォトス崩壊シナリオを完全に破綻させた決定的要因のひとつです。

 以上からプレナパテスが自我を維持している蓋然性はかなり高いと考えます。つまりこの世界においては死んだ者が死んだまま意志を持つことがあります。以上から、死んでいることをもってどうしようもないとは言えません。

 更に、3点目は先生のこの発言です。

 プレナパテスは少なくともある程度は肉体を維持していました。アロナがプレナパテスを先生と同定できたことがその証左です。では、肉体が残っていなければ希望がないのか? 甘いです。宇宙戦艦や巨大ロボットが許容されてたとえば幽霊が許容されない道理がありません。

 そんなオカルトが許されるのか? 許されます。怪奇現象などキヴォトスではいくらでも起きています。だからわざわざゲマトリアが調べているわけです。そもそもの我らの勇者アリスちゃんの必殺武器アトラ・ハシースの箱舟からして、全ての神秘を内包した概念であり物質的なものではないと黒服に表現されるほどのオカルトの塊です。

 べつに肉体を持つ必要はありません。精神活動ができれば十分です。妥協する、という意味ではありません。「初音ミク」の存在があります。彼女のマテリアルボディはキヴォトス製で、エナドリを普通に飲んで味覚を評価できる程度には自由に動かせます。少なくとも人間に劣る動作はしていません。なんならヘイローと思しきものまでついています。

 あくまでも情報体であったミクさんをマテリアルボディに載せるのとは異なり、非物理存在にあるだろうユメ先輩(精神体)をマテリアルボディに載っけるのは技術的困難が伴うでしょうが、物理的な器に非物理的なものを搭載する営為なら既にキヴォトスで確認されています。

 デカグラマトンです。デカグラマトンはどう見てもただの自動販売機であり、実際構造も自動販売機であり、そこに何かあるとすればそれはお釣り計算用のAIに過ぎません。あたかも対話しているかのようにテキストを生成するChatGPTのような機能すら有しません。しかしデカグラマトンは事実として自動販売機に宿り、ミレニアムの技術の粋であるハブを教化し、無名の司祭の技術が用いられたディビジョンシステムすらケセドにしています。

 さらに言えばアビドスという土地がユメ先輩に対して有利です。古代エジプト神話において死者の魂は消滅しません。するならそもそも「別の場所」「常世」などとブルーアーカイブでは表現される場所に対象を導くアヌビスの存在が意味不明になります。アヌビスがいるという事実から死者ユメ先輩の実在可能性を導出してもよいくらいです。

 ミヤコの絆ストーリーでキヴォトスと外界は「動物密輸」が行われる程度には開かれていることが判明しているところですが、どのレベルで「別の場所」とキヴォトスが通じているのかは不明です。残念ながら根の国やハイドゥーほど行きやすいということはないでしょう。それならクズノハが死者蘇生は不可能と断言するのがおかしいです。そこまで徒歩で行って振り返らずに連れ帰ればいいだけになってしまいます。体力のあるシロコにでもやらせればいいです。さすがにそこまで簡単な話ではないでしょう。

 それにしても無名の司祭、全ての世界の「忘れられた神々」を滅ぼすと言っておきながらアヌビスを使っているのは何故なのでしょうね。アヌビスはクロコ自身対象を「別の場所」に導くと言っており、消滅させるとは言っていません。無名の司祭の目的は全ての世界の忘れられた神々を滅ぼすことです。そしてその仕事をアヌビスに行わせようとしています。「別の場所」にまとめた上で自分たちが消す、とは言っていないのです。アヌビスに消せと言っているのです。消滅することと「別の場所」にいくことでは意味がまるで違います。何考えているんですかね……

 閑話休題。アビドスに縛られなければ、たとえば山海経のモチーフである中国をもってくれば聊斎志異の短編小説群に有能幽霊と結婚して幸せになった男の話があります。他の地域の伝承神話にも同じような話はあるでしょう。先述したオルフェウスやイザナギも一例です。

 あとはゴルコンダやフランシスを信頼するなら「不可能」のテクスト効果です。「不可能」は先生によってあまりにも繰り返し破綻させられすぎました。「不可能は破られるものである」というテクストが世界に効果を発揮していてもおかしくはありません。

 まだまだ幾らでも可能性は挙げることができますが無限に続きそうなので於きます。そう、幾らでも可能性が挙げられるのです。

 つまり4つ目の理由が「無限の可能性」となります。少なくとも論理的に成り立たないこと以外は全てが可能です。死者蘇生は数理論理によって不可能性を証明されていないので、「無限の可能性」の内側にあります。排中原理を採用した論理に従うならば、「無限の可能性」と「死者は絶対に生き返らない」はどちらかが正でどちらかが偽です。この二つの概念は排中原理を採用するなら絶対に両立しません。これは論理的に導かれた形式的な真実です。学園と青春、奇跡を語るブルーアーカイブにおいて「無限の可能性」が否定されるとは到底思えないので、「死者は絶対に生き返らない」は偽であると私は考えています。

 以上のことから私はユメ先輩復活の可能性は開かれているという立場です。その可能性が高いか低いかはあまり問題ではありません。先生を見ていれば分かりますが確率はどれだけ低かろうがキヴォトスにおいてさほど問題になりません。

 それが許されるのなら「無限の可能性」により「プレナパテスの蘇生」や「プレナパテスの滅んだ世界の救済」までもが可能になりますが、論理的に不可能ではないので可能でしょう。「プレナパテスの蘇生」と「プレナパテスの滅んだ世界の救済」が不可能なら排中原理により「無限の可能性」が偽になります。もうなんでもかんでも一切合切救えてしまいます。

 私としては――そんな話があってもいいんじゃないか、とは思っています。もちろんそれはベアトリーチェが誤解したように「先生が救世主だから」では断じてありません。むしろそれを成し遂げるとき必要になるのは「みんな」でしょう。

 この先、どう話が転がっていくのかは私には全くわかりません。やっぱり、誰かは救われないまま終わってしまうのかもしれません。その場合はそれでもそこから目を背けずに、真摯に。たとえ救われずに終わってしまった人がいるのだとしても、それは努力しない理由にはならないと。コンクリートに咲く花のような根性で、「みんな」が迷ったり間違ったりしながら進んで行ってくれたらいいなと思います。

 そんなみんなの背中を押したり、時には導いたりと先生もたいへんでしょうが、なんとか頑張ってください。なんかフランシスがそんな俯瞰的な介入がいつまでも続くと思うなよとかゴチャゴチャ言ってますが私は「みんな」を応援しています!!! フランシス、きみもきみでなんか面白いから応援してる「みんな」の中にはお前も含まれてるからな! お前はお前で頑張れよ! まずはなんかしらんやつに会いに行くとこからな!!!




序論のおわりに

 覚えていらっしゃるでしょうか。いいえ覚えていらっしゃらないでしょうそのはずがない。なにせ余談が数万字ありました。生塩ノアでもない限り元々何を語っていたのか覚えているはずがありません。私が悪いです、申し訳ない……

 この項目のそもそもの趣旨は開発者の意図を作品解釈に持ち込むことの是非を問うものでした。私は次のように結論づけます。

 作者は死んでいないし生き続けるべきだ。確かに作者を過剰に特権的な立場に据えることは問題があり、読者の多様な読みは不断の努力で保たれるべきだが、作者は作品解釈のための一つの方法として生存を許され、それにより作者の死によって与えられる以上のたくさんの読みの可能性への気づきを読者に開いてくれるはずだ。

 このためには作者はとても注意深く振る舞う必要があります。一つの答えを示すのではなく、ただ可能性を散りばめて、読者が見落としている可能性があると思ったら、そっと示して読みの可能性の拡張を促すこと。isakusanはインタビューを拝見・拝読する限りそのことを注意深く行っていて、私はその点においてもisakusanを一人のクリエイターとして深く尊敬しているのです。

 たとえ作者に誘導されたものであっても、それによって与えられた気づきが作品解釈をさらに煌めかせるのであれば、注意深いその作者は尊敬と生存に値するのであり、読者は作者への敬意があるからこそ作者を特権視せず自分なりの一番素敵な物語解釈を模索し、時には他人と建設的な議論をして、そうして解釈を楽しむことにより、テクストの快楽に浸る。

 理想論でしょう。難しいこともあるでしょう。ですが私たちは「先生」です。大学の教員ではなく、高校生の先生です。理想を語らず何が先生でしょうか。たとえ青臭いと言われても、たとえ陳腐だと言われても、たとえ不可能だと言われても、リスクがあると言われてもお、それでもそうあるべきだと、私は信じています。

 本項では以上をもって、開発者の意図を作品理解のために援用することを正当化すると結論づけます。

 たいへんお疲れ様でした。ここまでが注意事項です。
 今からが本論です。



ブルーアーカイブという物語の中心点について

 たぶん、全てのプレイヤー間で意見が合致するのではないでしょうか。こんなもの開発運営側の言葉を引いてくるまでもないのですが、もちろんこう言っています。

「それは学園と青春の物語」
「生徒たちの友情や悩みや葛藤をテーマにしている」
「魅力を一言で定義するなら青春」

 改めて述べることでもないですよね。テクストを重視するフランシスは最終編で登場した際、「先生の力はこれ以上作用しない」ことに「ようやく思い至」ったようですが、いくらテクストが様々な読みの地平を開いてくれるとは言え彼の読みはかなり偏っています。

 おそらく、死ぬほど長い(少し薄めの文庫本くらい長い)序論との格闘を終えた先生は、上のテーマに疑いの余地はないと思います。

 しかし、学園と青春の物語など世に溢れ返っています。開発側はどのような手法で差別化を果たしたと考えているか見て見ましょう。

学園ギャグをやろう! という決意

 少なくともブルーアーカイブの開発側としては、「剣と魔法」や「近未来」や「暗い話」によるソシャゲはレッドオーシャンになっているように見えていました。特に重さ、暗さに対してのカウンターとして次世代は明るさ、カジュアルさの需要が来るのではないかと予測を立てとのことでした。そこで、ギャグが主力の学園物をやっていこうという狙いから世界やシナリオの構築が進められてきたようです。

 また、そのような戦略とは別に前作(魔法図書館キュラレ)が騒がしいギャグ物だったのでそっち方面になれているという点もあるとのことです。


異化効果

 isakusanはブルーアーカイブを特徴的なゲームにするためのシナリオ上の戦略として「異化」を用いたと述べています。文学理論としてはロシア・フォルマリズムに属するヴィクトル・シクロフスキーが提唱した概念です。対義語として「自動化」があります。

 極めて主観性の強い概念なので、具体例を挙げて説明しましょう。

【自動化の例】
神社にびしょ濡れの黒髪無気力系の制服美少女が立っていた。

 もし現代においてある少女キャラクターの外見上の説明に以上のような文言が用いられたとしたら、「ああはいはい神社に黒髪無気力系美少女が立ってるのね」で終わりでしょう。以下だとマシにならないでしょうか。

【異化を試みてみた例】
 社に先客があった。晩夏、死に瀕した蝉の幽かな声と平板な音を立てる雨に打たれて、痩身矮躯そうしんわいくが遠雷を孕んだ重い雲を眺めている。黒く濡れた頭髪が頬から首筋にかけてわずかに張り付き、瞳はほとんど瞬きをすることなく茫洋ぼうようとして、薄い唇からは呼気を感じられない。美貌ではある。けれど生気がまるで感じられない。死体という表現すらなお生々しすぎるだろう、彼女の姿は無生物めいていた。けれど、それがどうにも浮世離れして似つかわしく、うつくしい。儚いというよりもいっそ妖しげな容貌に、世俗の極みである当校の夏服をまとっている不調和が、かえって涜神的とくしんてきな美観を呈していた。

 筆者がざっと書き殴った拙文なので単に長ったらしいだけで魅力に欠けるかもしれませんが、何を目的としているかはわかると思います。「びしょ濡れの黒髪無気力系美少女に、よりびしょ濡れの黒髪無気力系美少女らしさ」を感じさせたいのです。

 端的には「石ころを石ころらしくする」などと表現されます。石ころと書けばそれはそれで何の感慨もなく読み飛ばされて終わりですが、付随する情報を上手くつけてやれば何か鮮明なイメージが浮かんでくることでしょう。

 ここまで述べて「めっっっっちゃ主観的だな!」と思った人、その意見は正しいです。あまりにもプリミティヴだとこの異化理論はボコボコに殴られています。僕としても読んでいて「共感はできるけど理論になってないぞ」と何度も思いました。異化概念を提唱した時代には全く行われておらず、現代でも一定の勢力を保ってはいませんが、個人的には異化概念は定量調査と相性が良さそうに思います。どのように調査法を組み立てるのか、というところからまず難題ではありますが……

 この異化概念、当然時代性に強く依存します。たとえば当時強烈な印象を与えたシェイクスピアの名文のうち、いくつかは現代素朴に使うと失笑されるでしょう。

 また、フィクションなどの分野に限ったところで、異化は必ずしも自動化に対して優位とは限りません。テンポよく展開を進めたいとき、異化は文章のスピードを落とすリスクが自動化より高いです。ブルーアーカイブにおいても爆発音について「ドカアアァァァァァァンッ!!」(これはマコトちゃんの飛行船が爆破されたときのドカーンです)などと極端に自動化された記載を行うことが多々あります。テンポよく展開を進めていきたいときにちんたら爆発の詳細描写などやっていてはたまったものではありません。

 また、異化は決して精密描写を意味する概念ではありません。撞着語法である「明るい闇」などはたった4文字ですが少なくとも現代においては多少異化能力を持っていそうです。

 そして、「異化」「自動化」という概念は極めて広範な分野に当て嵌めて使うことができます。

 たとえば「パンを咥えて走ってきた美少女が曲がり角で少年とぶつかる」ような描写をただ延々やってたらなんだよこのテンプレの山は……とげんなりするでしょう。キャラにも世界にも物語にも魅力を感じられず、このような場合その物語は物語それ自体が「自動化」されており、つまり何の感慨も与えずぺらぺらと読み進められて終わります。これは最悪のパターンです。

なお、「パンを咥えて走ってきた美少女が曲がり角で少年とぶつかる」描写それ単体は「自動化」されたものでしょうが、テレビ版新世紀エヴァンゲリオンの破局的な終末を締めくくる最終話として極端に明るくコメディチックに「パンを咥えて走ってきた綾波レイが曲がり角で碇シンジとぶつかる」様を描くのは「なんなのだこれは!?」と少なくとも当時は結構な異化効果がありました。

 isakusanが戦略として狙った異化効果はまさにこれでした。
「学園青春物語」は世にありふれています。
「単なるミリタリ」も世にありふれています。
ですが、
「ホローポイント弾が直撃したのに痛い! で済ませたり」
「砂でヘッショ決める女子高生に対し、"そこね"と逆に位置を特定する女子高生がいたり」
「海に行こうぜ! と戦車に乗って爆走した挙げ句広場を半壊させたり校舎を全壊させたり」
「学校に当たり前のようにガンラックがあったり」
「自販機で手榴弾が売られていて女子高生が普通にそれを買って使ったり」
「悪徳業者に報酬ふんだくられたから逆襲して爆破する女子高生がいたり」
する世界は一目見て「なんだこれは!?」と新鮮な興味を惹くものでしょう。

 そしてこれらの既知+既知の組み合わせによる異化効果は私が先程文章で表現したものとは真逆に文章量を圧縮し、かつ異化効果を与えるという一挙両得とでも呼ぶべき効果があります。開発側は「学園青春ギャグ」をやりたかった――けれど単にそれだけではおそらく戦ってはいけない。そこで用いられた戦略が異化でした。短いシーンで強烈な印象を与えるとともに、何だこの世界はと探りたくなる気持ちをプレイヤーに与えやすくなります。私がまんまとその策略にはまったのは言うまでもありません。

 isakusanはこちらは明言していませんが、組み合わされているのは学園とミリタリーだけではありません。

 たとえば「学校が強大な権力を持つ」作品は枚挙に暇がありません。しかしながらブルーアーカイブはキヴォトスを「学校が強大な権力を持つにもかかわらず、子供はあくまで子供で、この世界において子供がその未熟さにもかかわらず自立した主体として扱われがちなのを逆手に取って悪い大人がガンガン搾取してくる」という世界にすることで異化効果を発揮しています。キヴォトスにおいては「学校の権力」や「生徒に与えられた権限」に「生徒の精神的な発達」が追いついておらず、そこを大人に利用されまくるのです。

 好例は小鳥遊ホシノです。彼女は自己奴隷化契約を黒服との間に結び、裏に悪意が隠れていたと察したあとも当然には契約をなかったことにすることができず、先生による顧問による決裁が済んでいないという形式的瑕疵を突かれるまでは先生による救済すら法的には正当化されない状況にありました(もっとも連邦捜査部シャーレは超法規的機関ですから、権限上先生はうるせーしらねーが可能でしょう。ただ先生はあるべき大人としてその力を振りかざすことに否定的ですが)。

 このホシノによる自己奴隷化契約によりアビドスは生徒会構成員が0となり高校としての実体を失うことになり、カイザーは嬉々としてこれにつけこみました。

 空崎ヒナが「天才」と呼ぶ小鳥遊ホシノですらこうなのです。キヴォトスの生徒や学校は子供が持つにはあまりにも強すぎる権力が与えられており、そしてその力を適切に使うための精神的な成熟に子供達は至っていません。

 これが日本なら。小鳥遊ホシノは自らをおじさんと言いますが17歳、つまり制限行為能力者です。それだけでなく、そもそも未成年であるか否かを問わず、日本においては自らを奴隷とする旨の契約は、まず奴隷的拘束を憲法18条が認めていませんし、強行規定である民法90条により無効です。

 つまり小鳥遊ホシノを始めとするキヴォトスの生徒たちは、日本の成人よりも自由な契約を行うことができ、かつ法や規範を上手く扱う術について未熟なのです。大人にとってこんなにおいしいカモはいません。

 これだけ強い自由を持ちながら契約書を交わすことすら念頭になかった錠前サオリのようなものまで存在します。

 なんだよ子供達が折角青春やってるのに大人が踏みにじりやがって! と通常の「学校が強い権力を持つ作品」とは全く異なる様相をキヴォトスは呈していき、そこに強い力があるのです。

 未熟な子供を大人が搾取するのはキヴォトスでごく一般的、悪辣なライフハックです。そこからの当然の帰結として一部の子供は大人に強い不信感を抱きがちです。

 そんな悪辣な大人が多いキヴォトスにおいて「生徒(子供)は絶対守るマン/ウーマン」である先生が「大人の責任!」「先生の義務!」とほぼ異常者としか言いようのない責任を自ら喜んで抱えて駆け回ります。

 つまり、異化効果が文体レベルといった細かい点になく、キヴォトスという世界全体に及んでいるのです。キヴォトスで話をやれば異化効果が発するレベルにまで世界設定されています。

 isakusanは「異化」という概念を明言してこの戦略を極めて自覚的に用いることで、ブルーアーカイブを学園ギャグ物としてブルーオーシャンへ突入させることを期待していたわけです。通常の剣と魔法のファンタジーであったり、陰鬱で暗い終末近未来でったりでなく、既に存在する要素を上手く組み合わせることで「キヴォトス」という奇妙すぎる世界を作り上げて、競合する者のない海へとこぎだそうと試みました。

 メリットばかりの戦略に見えすが、かかっているコストについてもisakusanは言及しています。世界観(ここで言う世界観は俗に使われる方の意味で理解ください)の維持にあまりにもコストがかかりすぎるのです。色んな調整にシナリオ班が引きずり出されてしまいます(オークやドラゴンにはある程度の共通認識があります。しかしキヴォトスのような奇妙な大陸級の学園都市が成り立つ経済構造とは? デカグラマトン? なんだぞれ……のような)。

 isakusanは美術だけでなく音楽関連にも関与していて、とにかくブルーアーカイブの世界に関わるあらゆることに関与します。

 キヴォトスという世界が異化をもたらせばもたらすほど、シナリオ班はより広範で緊密な他との連携を余儀なくされ、結果としてisakusanはよぼよぼしなしなのピカチュウになってしまいました。

 isakusan……


中心となる主人公の排除

 前作(魔法図書館キュラレ)でisakusanが明確にゲームシナリオ上の失敗と述べているのが「主人公」の存在です。これは複数の箇所で戦略として失敗だったと述べています。

 私が未プレイのため詳述できないのですが、キュラレは図書館が爆発したため、3人の司書が散逸した「魔道書」を図書館に回収するために奮闘するRPGのようでした。

 この3人の司書という主人公を据えたのがゲームシナリオ上まずかったというのがisakusanの判断です。

・全てのストーリーが「主人公」を通して展開せねばならなくなり、
自由度や多様性の確保に困難を生ずる。
・「主人公」の登場頻度が高くなり、人気が主人公に集中する
・特定キャラにばかり焦点があたり新規キャラの拡張が困難になる

 以上のようなことを難点として挙げています。実例は論争的になるためisakusanが挙げたキュラレ以外述べませんが、この困難に直面しているという印象を受けるソシャゲは私にも多々思い当たります。

 イベント等で別にスポットライトを浴びせようとしてもやはり「メインストーリー」の力は強大ですし、そこに「主人公」という制約が加わるのはゲームとしてシナリオを書く上で確かに支払うべきコストが大きそうです。

 さらに「主人公」にプレイヤーが感じる魅力が失われてしまった日には致命的です。ストーリーは「主人公」を通して駆動するため悲惨なことになります。

 もちろん、それでも「主人公」を配置して上手くやっている例も思いつきます。たとえば「人数を最小限に絞り主人公チーム以外をそもそも排除する」作りをしたソシャゲなどが一例でしょう。

 また、「「主人公」物語の中心に据えて、他のキャラやチームが世界にはいろいろいる」形のゲームで成功しているものも勿論あります。

 isakusanのやり方が絶対の正解なのではなく「あくまでもisakusanがやりたいことをやる上では「主人公」が邪魔だった」と読むのが至適です。



脱国家性について

 isakusanはブルーアーカイブが日本で成功した理由について「韓国色」がないからという分析に対して、難色を示しています。「韓国色」はあると言いたいのではなくて、オタクのサブカルについてコンテンツを作る立場の国を基準にジャンルを判断してはならないと思う、ジャンルは脱国家的であるべきだというのがisakusanの考えです。

 アビドス、百鬼夜行、山海経、ゲヘナ、トリニティ、アリウス、ミレニアム、レッドウィンター、等々……

 バラエティ豊かな国や宗教を下書きにしてキヴォトスの学校は作られていますが、isakusanは国籍を原因で作業の困難を感じたことはないと断言しています。

 大切なことは「どれだけジャンルの特性を守れているか」「どれだけオタクの心を掴むことができるのか」であって国家性は問題じゃないと断じています。

 何か「国家性」でない下敷きを要するかというと、あえて言うなら「オタクが楽しむジャンルはオタクの手で作られなければならない」くらいだそうです。

 だから、isakusanが言いたいのは国の色を入れないということではありません。「オタクがオタクにとって楽しめる作品を、ジャンルをしっかり守って書くこと、それが大事なことだ」というだけです。国際色は必然的には要求されませんが、どこかの国の色が現れること自体は上のテーゼに従い、上のテーゼが要求するならばツールとして使えます。

 たとえば山海経で糖葫芦が出てきたり、佛跳牆が出てきたりするのは明らかに中国色が強いです。ですがそれは上のテーゼに寄与しています。「出た出た佛跳牆!」と私は笑顔でした。ジャンルを守り、オタク性を維持する限り、なんだって許されます。それが要求するのであれば、国家性どころかイデオロギーだって持ち出します。

ミノリくんの実に「らしい」物言い、
「共産趣味」者からすればたまらないんじゃないでしょうか。
私にその趣味はありませんが私の母校(大学)は私が生まれる前から東大等を中心に
熱く燃える学生運動の残り火がまだ残っていたので
ミノリがこういう物言いをするたびに、
ああうちの広場でも拡声器持ってやってる子いたなあ……
とすごい青春を感じて大好きです。
「ぼやけてしまった視野を再び明瞭にする」マジで言いそう感すごい。
ミノリくんは読書家で文才があって、
そうそうこういう運動やるのはそういうインテリゲンチアじゃないと!
ってめっちゃニコニコしてしまいます

 とにかく、ジャンルとオタク性を維持するのであればなんだってやっていいのであって、「韓国色」がないのが日本でウケた理由だという理屈には、私はisakusanほど強くは頷けないものの(実際に「韓国色」のあるものそれ自体を嫌う人が一定数あるのは事実で、その影響を私は読めないので「それはわからん」という立場に立ってしまいます)、私はisakusanのジャンルとは、オタクとは、脱国家的なものだ、それを自分が見せてやるという姿勢を尊敬しています。

 今ブルーアーカイブに「韓国色」がないのは作品が現在のところ、偶然その要素を要求していないだけです。百鬼夜行連合学院で韓国色を出されたらおかしいです。山海経でもそうですし、アビドスやゲヘナ、トリニティもそうです。レッドウィンターでは「からあげをザンギ」と呼ぶ表現がありましたが、これは北海道という寒い地方を思い起こさせることからの戦略であって、日本色をレッドウィンターで出したいという戦略ではないでしょう。

 今のところ、「韓国要素」を無理矢理にでも強く突っ込む必要がないので突っ込んでいないに過ぎません。必要がでてくればisakusanはやるでしょう。それでいいのだと私は思います。韓国人なのだから韓国要素を入れろなどという主張には、日本人なのだから日本要素を入れろという主張同様、私も一人の創作者として絶対に与しません

 オタクがオタクとして、オタクのための面白い作品作りをしたいとき、その純粋性を邪魔するものは断じて撃破すべきです。「ルナの最終巻」を持って会場に走る知識解放戦線を邪魔し、最高のオタク作品に余計なものを持ち込もうとする者は、敵です。学園の指導者チェリノちゃんを入れろという権力側からの主張も、革命要素を入れろという工務部からの主張も、聞き入れる必要などありません。オタクの創作を邪魔する者は、全員撃滅すべきである。


わかる人にはわかるネタ

 ブルアカにはとにかくありとあらゆるネタが特盛りにされています。そしてそれが一々詳しく説明されたりしません。プロローグからしてそうです。「あいつら違法JHP弾を使ってるじゃない!」「ホローポイントは違法指定されていません」といったやりとりに詳細な解説はつきません。普通の人は銃で撃たれて痛いで済めばいいのかやべーなと読めばいいですし、ホローポイント弾がわかる人は、ホローポイント弾が痛いで済むの!? でいいです。

 わかる人には言うまでもなく東方ネタ、犬夜叉ネタです。「甘酒」は巫女さんが神社にいるあたり色々と繋がるネタはありますが、最近で巫女さんで甘酒と言えばアレかな、という気がします。もしそうなら先生は救済不能な異常性欲者です。僕は当時東方クラスタだったので懐かしい気持ちになりました。

 パヴァーヌ2章前半とかにも東方ネタありましたよね。懐かしい……

 パヴァーヌといえば忘れてはならないのがゲーム開発部です。
「天童アリス」の苗字は任天堂から採ったものでしょう。


 名前の方……? 避けると思ったか! 語りますよ!!! 僕は太古からのエロゲオタクでもありますので! おい、太古のエロゲオタク! 最近エロゲやってないじゃないか!!!! お前等どうせすば日々とか村正とかそのあたりの時代が終わってからどっかいったんだろ!!!(ド偏見

 エロゲにはあの頃のシナリオパワーがまだ溢れてるぞ!!! とりあえず短編の「きまテン」でもやってみないか!!!(ななリンからやれ、などと言うめんどくさいオタクは僕が斬り殺しておきます。アペイリアだのぬきだしだの持ってくる頭のおかしいtntn野郎はしけえにします。深い話なんだよとかゴチャゴチャ言うな、tntnなのは事実だろうが。しけえだしけえ。さくら、もゆ? 復帰一発目には長すぎるわ! 同じハッピーエンドを約束してる水葬銀貨? お前に明日を生きる資格はない)。

 2015年以降からの最近のゲームにもいいのいっぱいあるから帰ってこいよな!!!!(限界村落エロゲ村にとって2015年は最近)。ちなみに去年のエロゲで一番よかったのはヘンプリとハミクリ凸とジュエハで悩んでます。みなさんはどれが好きでしたか?(そのうちエロゲ記事書きたいです)

 閑話休題。アリスの名前ネタでしたね。アリスソフトに決まっているでしょう! 一番印象深い作品というと古老が僕を睨んでいる気がするのですが、たとえ様々な思想を持ち様々な派閥に別れる古老でも、たぶんこればっかりは「あー……」って認めてくれると思いますよ。フリー化で触った「しまいま。」です。当時ラノベばっか読んでてちょっとえろが欲しいな……と思った気の迷いで触れた僕を憐れんでくれ古老。しまいま。プレイ当時の僕は18さいいじょうだよおにいちゃん! ほんとかな? ほんとだよ。

 ユズ部長は言うまでもなくゆずソフト! ユズ、君の理不尽なクソ難易度レトロゲー、だいぶゆずソフトの精神と乖離してない? ゆずソフトで一番好きなのは「千恋*万花 」です。キヴォトスが魅力的な世界だと語ってきましたが、「穂織」って土地がまたすごくいいんです! あとマシャオミが主人公として好青年すぎて大好き。やろう。あとイズナが時々見せるあの表情、ゆずっぽくありません? すき。

最新作の「天使騒々 RE-BOOT!」ではついに義妹に逃げずに実妹出しましたね。見てるかまどそふと……見てるかひよりん……令和の時代は実妹を求めているぞ。三国さんが非攻略ヒロインなのはまだ納得してないからね。シーン1個いれただけで許すと思うなよ……マジ許さんからな……

 あと評判そんなにな全年齢挑戦の短編「Parquet」、僕は大好きです。心が育ってない不器用な男の子と、一つの体に二つの心の女の子の同居生活。僕の好きなやつでしかないです。欲を言えばアフターストーリーで終わって「そこからが本番だろうがよぉ!」と叫んだところです。全年齢全年齢。

 ゆずソフトというと商売がうまいだの睡眠導入剤(ゆずが睡眠導入剤でマルクス「資本論」が枕ならゆずやってからマルクスで寝ればいいのでは? 僕は天才かもしれん。明日のミレニアムプライスはもらった)だのUIと絵で生きてるだのシナリオへの評価がさほど高くありませんが、僕はメインシナリオライター天宮りつ先生を高く評価しています。

 これは僕がブルーアーカイブのことを大好きな理由と同じで、天宮りつ先生は「なにげない日常」を魅力的に活写する技術については強い力を持っていると確信しています。えっちなゲームはちょっと……っていう人。短編ですから「Parquet」やりませんか?


それが無理なら別メーカーですがやはり短編全年齢の「ATRI -My Dear Moments-」とか……ATRIはアニメ放送されたら見る? そうですか……やってよぉ……

 ケイちゃん。アリスと並ぶくらい言うまでもありません、鍵ですね。実は僕、鍵やったことないんですよね。だからあえて言うなら好きなのはアニメABの直井文人くんです。あれ? やはり僕男男いけるのでは……「終のステラ」!「終のステラ」マジでいいから!! やってくれ!!! という知人を尻目に僕はぬきたし2の3週目をやっていました。

 ぬきたしはなんといってもウルトラジャンプで連載されるくらいの素晴らしいシナリオですからね。ジャンプですよあのジャンプ!

同志【検閲済】「BAByyyy!! ママぁ! バブみに差が出ないよう均等に甘やかしてほしいでちゅー!!」
同志【検閲済】「はーいよしよし。やっぱり赤ちゃんだけあって思想も赤いのねぇ」

 やっぱエロゲなんかやらん方が良いのでは……? ブルアカは実質エロゲって言う子いるけど本当に実質エロゲでいい? 確かに先生は踏まれたがったり足舐めたりするけど、エロゲってそこらへんのモブが「イクイクセーシイクイクセーシ」って鳴いてたり主人公が白く粘つく何かをゴム越しインベイドピラーから射出して、対象に粘着させて立体起動しながら戦闘するんだけど、ほんとに実質エロゲでいいの? おれはやめといた方がいいと思――

「聞くがよい! 恐怖におののくものどもよ!」
「世界は20日で終わる! これは紛れもない真実だ!」
(中略)
「私は生まれ変わった」
「何に?」
「救世主に」
「そう救世主に私は生まれ変わったのだ!」
「世界はあと五日で終わる」
「しかし、それは兆しに過ぎない」
(中略)
「不思議だと思わないか? 大地を埋め尽くすように生えてくる民族、民族、民族の束、誰一人この世界に存在する人間の正しい数など把握出来ないほどだ」
「それぞれがうようよと動き愚鈍な人生で一生を終える。確実に、無意味で、愚鈍で、生きる価値もない、そんな生を受け入れている」
「街を見よ! 今も無数の無意味な生きものどもがうごめいている」
(中略)
「ならば、逆に我々が信じる日常的常識とは何か?」
「汝、殺すなかれ!
汝、姦淫するなかれ!」
「汝、盗むなかれ!
汝、その隣人に対して偽りの証を立つるなかれ!」
「汝、その隣人の家をむさぼるなかれ! また汝の隣人の妻を寝取るな!」
「これら一切の道徳的なもの、そして法律的なもの、それらは――」
「嘘なのだ!」
「すべては嘘であったのだ!」
「日常とは嘘で塗り固められた虚構にしか過ぎない」
「その様な虚構は、脆く簡単に崩れ去るだろう」
「今まさに、その時が来ようとしている!」
「世界がこれからずっと今までの様にあるか?」
「何故、そんな簡単な嘘に惑わされるのだ!」
「いままであったものが、同じようにこれからもあり続けることなどあり得ようか?」
「疑惑を持て! そしてその疑惑の目から真実を見極めろ! 然らば分かであろう」
「我々が前に踏み出そうとするその先は既に奈落なのだ!!」
「この終わりなき苦痛たる日常は終わる」
「世界は終わる!」
「確実に終わる!」
「これが真実なのだ!」
「その事だけを、お前達に告げに私は此処に来たのだ!」
「幸いかな。羊の群れよ。
狼の群れから、その身を逃してやろう」
「羊飼いは安住の地に、お前達を導くであろう」

出展後述

 救世主を自任し、世界の滅亡を語り、日常を生きる人々の群れの生は無意味と告げ、パラドックスによりこの先を信じる妥当性はないのだから、信じるのではなく疑い、そして真実を得よと告げ、その真実とは奈落であると告げ、苦痛たる日常は終わると告げ、哀れな羊の群れを救世主が安住の地まで導こうという。

 救世主を否定し、世界は続くと言い、たとえ無意味でも足掻けといい、楽園の存否がわからなくても信じろといい、暗闇があろうとも歩き続けるのが人類の負うべき宿題だと告げ、私たちの物語は続くと告げ、救世主ひとりではなく、みんながその先を目指していくという。

 キヴォトスの透き通るような日常を示すBGMのタイトルは
 「Connected Sky

 赤く染まった最終編の世界を象徴するBGMが
Encroached Sky

 そして引用したエロゲのタイトルは
 「終ノ空」、
 同メーカーがそれとの決別として示したエロゲのタイトルが
素晴らしき日々〜不連続存在〜

 これほど露骨なまでに古のエロゲを継承したゲームがあるでしょうか。

 もう10年以上前のこのゲームと、ブルーアーカイブとの間でなされた、
問いと答えを聞いてほしい。これは宣伝でなくブルーアーカイブの話なので、絶対に以下の動画を最後まで見て欲しい。

 上のムービーを最後まで視た上で、どうか以下を見て欲しい。





 やはりブルアカはエロゲ。

 そして、ブルーアーカイブにこのひとつの問いを投げたライターが、ブルーアーカイブに下した評価がこれでした。


 オタクがオタクに向けてひとつのジャンルを貫いて物語を生み出す。そこに国籍なんて関係ない――というisakusanの言葉への、ひとつの答えになると思います。

 ゲーム開発部の話でした。エロゲオタクはすぐエロゲの話をする。

 才羽姉妹はモモイがサイバーワークスの「TinkerBell」ブランド(桃色バナーのブランド)、ミドリが「Wendybell」(緑色バナー)と言われていますが、若干牽強付会な気もします。私は不勉強でどちらも触れていません。だってモモイの方のシナリオエグいじゃん、シナリオがとかじゃなくて、その、シーンが……ミドリの方は……ピンとくるやつがなくて……ごめん……



 僕の和装のインテリ文学青年イメージが崩れないようなんとか別ネタも引っ張ってきましょう。

 たとえばこれとかジャック・ラカンですよね。マエストロはイデアを口にしますし、ゴルコンダは先述のとおりテクスト論と記号論。あとはトロッコ問題やら囚人のジレンマやら盛りだくさんです。

 あとは僕がメチャクチャ不勉強な特撮ネタでの盛り上がりも多いですよね。超天才清楚系病弱美少女ハッカーの気持ちでした。先生が楽しそうならおれはそれでいいよ……!

 ちなみにですが「超新星フラッシュマン」、しょせんWikipedia情報ではありますが韓国人気凄い(あるいは凄かった)みたいで、逆に日本のオタクの僕には何を言ってるんだ先生は! でした。

まったく関係ない作品の話しててもすぐ特撮の話し出すしこの世に存在する者はすべてが特撮作品から生まれたと思い込んでるんだよやつらは

ぬきたしより――アサちゃん
ぬきたしはあるヒロインのシナリオ名が全て特撮からとられている特撮愛の強い作品です
あとブルアカの話してるのにすぐ別の話する僕に刺さるのでやめてください死んでしまいます

オタクを国で縛るなという大前提以前に、ブルーアーカイブには「韓国色」がないという判断がもう、そもそも間違っていると思います。

 ブルーアーカイブは日本のオタクを狙い撃ちにしているのは明言されていますが、たとえば日本のオタクの大多数はアズサのこのシーンをより深く理解することはできないでしょう。

 普段過剰なくらい危機管理に意識を配っているアズサが、雨の中銃口を上に向けて蹲っています。私にはただアズサが絶望して座り込んでいるシーンだと見えましたが、兵役を経験していればアサルトライフルの銃口を雨の中上に向けたまま座り込んでいる様子にもっと深く感じ入るものがあるでしょう。韓国特有とまでは言いませんが、少なくとも兵役が課されていなければ大衆に届かない描写です。

 繰り返しになりますが、isakusanは国のカラーと作品の必然的な結びつきに強い拒否感を示していましたが、決してオタク向けのエンターテインメント作品を作る上で兵役を経験する韓国だからこその色がないとは私にはとても思えませんし、そしてその色があるのは素敵なことだと思います。チアヒビキのSDモーションなんかが、同じようなの使っていた人からの熱いコメントの結果だという話もされていましたしね。

 誰でも読めるように。それでいてなおかつ気づいた人が楽しめる仕掛けがたくさんあるように。そういうサブカルチャーを楽しむ人への総合ギフトセットのようなものになればいいなと語られていました。その例として新年社長の絆のプリキュアネタが語られていたのですが、僕はアルちゃん社長を持っていないしプリキュアもみていないからちくしょう!

 ド深夜に「パフェをみっつも食べちゃいます!」したハスミのヤバさは誰にでもわかりますが、「訓練弾催涙弾を1トンも!?」は催涙弾がどの量でどの程度の効果を現すかちゃんと知っていないと意味がわかりません。また、エデン条約調印式場に着弾したミサイルは「ラムジェットでない」ことが状況を判断する生徒たちにとって重要な要素となっています。

 しかし、全部わからなくてもちゃんとブルーアーカイブは楽しめるのです。分かる人だけ分かるネタで独りよがりなオタク語りに終わっていない。ちゃんと大衆向けエンタメしながらマニア向けのネタをこれでもかとぶちこんでくる。これがすごいことだと思います。


プロットの用意について

 ブルーアーカイブのストーリーがどのくらい前からどこまで想定されていたのかを示すよい指標があります。isakusanは2023年4月の時点で5年前から最終編は構想していたことを述べています。

 そして、最終編のためにRE aoharuを発注していますが、その発注時期は2021年2月1日です。ブルーアーカイブのサービス開始日が2021年2月4日ですから、サービス開始のほんとうにちょっと前の発注となります。

 サービス開始前から最終編は構想していたとは仰っていましたが、このあたりの時系列から見ても間違いないでしょう。ちなみに最終編1章の公開時期は2023年1月22日でした。大まかなプロットは非常に長期的な計画で準備されていると信頼してよいと思います。

 そして、実際の先生たちの反応を見ながら、たとえば「ビナーの専門家マキちゃん」みたいなネタを導入してさらにうまく調整しているのでしょう。

ブルーアーカイブという物語の中心点について2

 ブルーアーカイブに仕組まれた異化効果やらネタの仕組みやら色々とみてきましたが、これらを活用するにはリスクが伴います。ミリタリ、ファンタジー、SF、宗教など複雑にいりまじり、さらにオムニバスで中心的な「主人公」がいません。「主人公」がいればその主人公が中心点となりシナリオが散発的になりすぎるのを防いでくれます。しかしブルーアーカイブには「主人公」がいないにも関わらず多種多様な、過剰すぎるほど多種多様な要素が含まれています。だからバラバラにならないために中心点が必要なのです。

 ブルーアーカイブは学園物である。

 このジャンルを貫き通すことこそがブルーアーカイブという世界が散発的になることを防いでくれています。何をしても、何が起こっても、ブルーアーカイブは学園物なのです。単純に学園物がやりたいからというだけでなく、その世界を規定するまさにサンクトゥムタワーのように、ブルーアーカイブは学園物だと定められています。それはたとえ、キヴォトスにおいてサンクトゥムタワーが破壊され、学園と青春の物語は幕を下ろしたとフランシスが宣言しても変わることはありませんでした。


ブルーアーカイブの中心点について3

 「エデン条約編」が特にブルーアーカイブのテーマに近いものだという反応については、isakusanが明白に「No」という返答をしています。ブルーアーカイブは様々な素材でストーリーを展開させていくものの、その物語全てにテーマ込めており、「エデン条約編」が他よりもテーマに近いものではないと断じているのです。

 エデン条約編は政治物やスパイ物、軍事などを織り交ぜてそれでもなお「学園物」をやれるのだというジャンルの限界、スペクトルの拡大への挑戦とのことでした。

 これはエデン条約編に関するインタビューの答えでしたが、最終編でも同じことが言えるのでしょう。巨大ロボットが出てきたって、宇宙戦艦が出てきたって、異世界人がやってきたって世界が崩壊しそうになったって「学園物」をやれるんだということを貫いているのだと思います。

その上で、はっきりとブルーアーカイブの核心とはギャグが主力の学園物であると断言していました。

 ブルーアーカイブには複雑な形而上学的設定があること(僕がすぐそのへんにフラフラ吸い寄せられるように)があるとも述べていますが、もちろんこれも物語のテーマに現れるのではなく、あくまで学生が日常的な雰囲気のなかで経験する葛藤や問題などがテーマになることが意図されているようです。

 isakusan繰り出す形而上学的な幻惑に負けずしっかり日常を見るんだと思いつつ、すぐ吸い寄せられる弱いオタクです。オタク、自分の得意分野の話が出ると視野狭窄になりがち。

 ごちゃごちゃ言ってることがわからなくても、ちゃんと生徒たちの日常のレベルを見ていてあげれば、それで先生としては満点だし、むしろそうして見てあげている分僕なんかよりよっぽど曇っていない目でものを見られているのではないかと思います。

 哲学的な術語やガジェットは山ほどあって、それらを使ってキヴォトスを見ていこう……だなんて。観察、探究、研究。そんな営為だけに耽溺していては、先生というよりゲマトリアじゃありませんか? 私たちは生徒たちの先生であるべきであるという視点は、特に私の興味のせいでブレがちなのでしっかり自省して保っていきたいですね!!

 

isakusanがブルーアーカイブのシナリオ執筆上で失敗したこと

 私たちの日本版では見ることができませんが、ブルーアーカイブの原文では先生が疑心暗鬼のナギちゃんに対する宣戦布告として「救えない」「救済不能」といった旨の発言をしていて、先生がナギちゃんと対立する構造にすることと、叱ることは意図的だったものの、後に和解していくことを意図していたそうです。先生が怒ったり間違ったりそして間違ったときは生徒に謝ったりとそんな風な人として描こうとはしているものの、「救済不能」はあまりにも表現として強く韓国のプレイヤー層に伝わってしまい、これについては申し訳ないことをしたと悔いていらっしゃいました。

 リオ会長やカヤ室長など、扱いが激ムズの生徒さんは多く、このあたりと適切に対立構造を描きつつ意図を適切に伝える執筆は非常に難易度が高いでしょう。しかもisakusanには後述するリソースに関する思想によるシナリオ製作上の制限がかかっています。それを加味すると完全に意図した表現を正確に伝えるのはたいへんだろうなあ……とisakusanお疲れ様ですの気持ちになります。

 なお、キム・ヨンハ統括Pも先生の反応については常に注視していて、シナリオだけに限らず開発側の意図と違う反応をしている場合や新しい要求がでてきた場合、「そもそもなぜそのような意図しない反応が生じてしまったのか」ということをしっかり把握した上で、素早く可能なレベルで対応していきたいとお話していらっしゃいました。


シナリオの時系列順について

 時系列順は決まっていることが明言されています。例としてはエデン条約編は対策委員会の後の出来事です。このことは、対策委員会編でシロコたちが出会ったヒフミがまだ補習授業部員でない(帰宅部表示)ことからわかるようになっている、とのこと(なお我々最初期先生は、たしかあの時点でも青字の所属表記は補習授業部で、どこかのタイミングで帰宅部に修正されたと記憶しています)。

 ただし、どのような時系列になっているか開発側が先生側に明示することはないとのことでした。そこを探ることを楽しみにしてください、と。

 参考までに、私自身の時系列考察ですが、ほぼ間違いなくブルアカは「サザエさん時空」になっています。これ自体は思い切って決断的にやったのか、それとも何か設定があるのか気になっているところです。

 ちなみに根拠はアリスの起動日、つまりパヴァーヌ1章が3月25日前後で、ユウカの誕生日3月14日はホワイトデーであることがユウカの口から語られていて、確実に3月25日~3月14日までの時間経過がなされているためです。

 さらにキヴォトスで用いられる神歴は正月ボイスで1月1日が新年であることがわかっていて、アロナのカレンダーからも1月1日~12月31日で1年を更新することがわかります。

 また、ツルギが最後の夏とウィッシュリストで口にしていることから、仮に一年度が神歴での複数年を要するとしてもツルギは一神歴の経過で確実に卒業します。

 更に、1月1日前後に黒亀組が壊滅、バレンタインでワカモと再会、かつセナとの会話からバレンタインはエデン条約編のあと、アビ夏はワカモとの初再開ではないためバレンタインの後、夏のFC計画で黒亀組は壊滅したはずと先生が発言していること等々の情報を、キヴォトスが大陸であり大陸間移動で無理矢理季節を無視できるとして春夏秋冬という表現を無視して無理矢理1年にまとめようとしたのですがそれでもうまくいきませんでした。

 (ちなみにですが、春夏秋冬をごく素朴に考慮にいれると色々な方法で簡単に破綻させられます。先生のアイス配り大作戦からも、基本的にキヴォトスは大陸といえど夏なら極地でなければ夏のようです。たとえばウィッシュリストが夏。これがツルギの最後の夏。夏以降にエデン条約破談。エデン条約破談以降にバレンタインでワカモとセナと再会。正月が冬、黒亀組が壊滅。その後にあび夏とFC計画でワカモと黒亀組と再会して夏……となり夏が2回きてツルギが消えます。なお更に時系列を追っていくと消えたはずのツルギがでてきます。トキとゲーム開発部のやりとりから、白亜が最終編後であることを考えると更に色々加速します。バレンタイン当日の先生の動きを正確に追ってみると先生分身の術マジで使える説も出てきます)。

 ブルアカに時系列があるとしても、まずサザエさん時空化しているのは間違いないと考えます。なので、現状時系列を考えるときはキヴォトスの神歴は考慮から外すのがよさそうです。


メインストーリーとイベントストーリーについて

 イベントは特に学園物に忠実に、メインはちょっと重いテーマを扱っているとのことです。わざわざ言及はされていませんが、どちらがより核心に近いか、ということはないのでしょう。ブルーアーカイブが学園物である限り。

 「放課後スイーツ物語」みたいなの出されると「確かに学園物とは言った。言ったがちょっと重い話題を扱わないとは言ってない」されて「これが……大人のやり方……」ってなりますね。未だにあのイベで受けた傷に棘が刺さっているのですが……

 宇沢には確かにウザいところがあるのですが、それとあわせて繊細なところも持ち合わせていて、僕はその両面性に見事にしてやられた人の一人で、宇沢の繊細なところに寄り添えたらと思っていたのですが、

 去年の僕見てるか……お前は死んだ。


そうりきボスとメインストーリーの関係

 エデン条約編3章といって忘れてはならないのが、ヒエロニムスです。我々が大人のカードで蹂躙して、新任の先生の憎悪を一身に背負うあいつですね。「非エロもうずっとえっちピックアップ前の緊急襲来してないやんw どしたん? えっちにもう負けたんか? なあ、話聞こか?😆」

 初EXお披露目の非エロにボコボコにされたくせにえらそうな口を利いてすみません……はい……でもあのときの非エロに正規で勝てたバケモンって五本の指より少なかったですよね。ゆるして。

 そうりきせんとメインストーリーが線形的に繋がっていると私たち先生としてはとても気持ちがよいのですが、どちらも物凄いコストがかかっているコンテンツで、これをきちんきちんとはめあわせていくとなるともう……

 といった感じらしいので、そうりきせんとストーリーはある程度分離したものと割り切って作られているそうです。それはそれとしてそうりきボスもキヴォトスの世界を説明する上で重要な要素なので、可能な限りの努力で最大限だしていきたい、とのことでした。


キャラクターの拡張余地について

 生徒さんの歩んできたエピソードなどは、予めきちんと盛り込まれいるそうです。これがあれば生徒さんの過去や未来を言及する際のフックになります。
 シナリオ作りの際にも予め作っておいた生徒さんの情報からストーリーに盛り込んでいくことができ、コスト削減が見込めます。

 生徒さんの一挙手一投足に「もしかしたら」と思わせたり、あれこれ考えて間を補完してみたりと、受け手側も楽しめるようにしておきたいとの考えもあるとのことです。

 逆に、後付け設定はファンのイメージや期待を裏切ることから極力避けたいとのことでした。

 記事に記載はありませんが、好例はカヨコでしょうね。対策委員会編で登場して以来ずーっと風紀委員会と何かあると匂わせつづけてきました。この開発側の姿勢を見る限り織り込み済みで間違いないでしょう。

 なあウトナピシュティムのカヨアコ強火瓦礫ぃ!? お前なんか知らない!?!

 「思わず恋をしてしまう魅力的な美少女」を追及したとも仰っており、その分析のために少なくとも「1990年代から2000年代の日本のTVアニメの文脈も研究」しているとのことですが……えっちなゲームもやったでしょう? 僕は知っています。



他ゲームIPとのコラボについて

 キム・ヨンハ統括Pとしては相乗効果を出せるなら進めたい、先生に楽しんでいただけるなら考慮できる内容だと告げています。簡単な作業でなく、クオリティを満足に引き上げることも容易ではなく、満足感を先生に与えるにはどうすればいいかとても悩んでいらっしゃるようです。

 その難易度の高さから、可能性は開かれておりながらミクさん以降コラボがないのでしょう。先述したとおりキヴォトスは極めて特殊な世界で、そこに世界を壊すことなく誰かを連れてくるのはとても難しそうです。

 開発と違ってオタクは妄想するだけならタダなのですぐ頭の中で結びつけて妄想します。僕は物書きだぜ? クロスオーバーなどお手の物よ……こんなのとかよく思ってます!

《他IP→ブルアカ》崩壊3rd

《他IP→ブルアカ》のコラボだと崩壊3rdのブローニャちゃんとか来て欲しいですね。

「スタレや原神じゃなくて崩壊3rdですか^^;」
「うるせえお前んちに崩壊分裂ミサイルとムーンライトスローンと無名の司祭の巡航ミサイルと9999万エクサバイト変換の光の剣:アトラ・ハシースのスーパーノヴァぶつけるぞ」

 前任者のヨアヒム坊やも余所の世界で列車に乗って大冒険してますし、第一律者を継ぐ物の義務だと思います。キヴォトスに来ませんか? あっでも崩壊エネルギーはいらない……頭にちゃんと輪っかもありますしよいと思いませんか?


 あと単純にキャラクターとしての「先生」が第一律者的な戦闘方法大好きだと思います。あの人性別はともかく感性がオトコノコ過ぎるので。


 でも本当の本当の本音ははヴェルト・ジョイスくんにボサ頭と正弦ツインテールといっしょに来て貰ってグループ「42実験室」を構成してほしいです。いずれにせよ第一律者の系譜の持つ性格って先生とすごく相性良いと思いませんか? 「星が砕け散る様をみたことがありますか?」「星が砕け散る様を見るがいい」をキヴォトス流行語にしてほしい。ヨアヒム? 何度も嫁さん泣かせてどっか行ってるフィンランド人の息子のことはしりません。はぁ虚数虚数……

 敵だと
「侵蝕の律者VSデカグラマトン」とか
「約束の律者VSプロトコルATRAHASIS」
みたいなの見たいですね……世界崩壊シナリオ

《ブルアカ→他IP》

《ブルアカ→他IP》だとやっぱりアークナイツです。
 虹6との丁寧なコラボシナリオは白眉でしたし、両方の色を出して素晴らしいコラボシナリオを出してくれるのではないかと期待しています。
「進化の本質」? ビービービー……まじゆるさんからな……

 こちらから送り込むとしたら断じて「アリウススクワッド」でしょう! 海も空も大地もどこもかしこも厄ネタだらけのテラにおいて、鉱石病で死にゆく人々を見ながら絶望せず、「それでも」と足掻き手を差し伸べる様を見たいです。そうして本来零れていくはずだった命を救って、陰謀を打破して、「英雄」と讃えられながら複雑な表情でかつての調印式爆破テロ、「テロリスト」である自分たちを思い出していてほしいです。それでも諦めずに戦っていく彼女達を見たい……! あとメディカルチェックの結果が超みたいです。

 敵はやっぱりしらんゲマトリアとしらんそうりきボスでしょう!「あーこいアークナイツの悪役か」「あーこいつブルーアーカイブの悪役か」ってなるアレをやってほしいです。「"恐怖"の本質」くんとか作ろう。ついでにミメシスしてばらまこう。がんばれ危機契約機構。いけいけ危機契約機構。

 子供たちの話もやってるし頭に蛍光灯つけてる子たちもいるし、良いと思うんですよね……

 ドクターはキヴォトスの子供を過労させないと信じてます。



作中設定について

 実況や感想を見ていると、作中用語が把握できない、辞書などがほしいという悲鳴がたまに聞こえますが、これはisakusanの戦略上意図的なことのようです。

 親切に世界観や設定は説明しないと断言しています。

 ただし、設定はしっかり決めていて、あくまで直接この設定はこういうものですと語らないだけのようです。
これはisakusanの語ったことではありませんが、
たとえば「ヘイローが壊れること」の意味がはっきりわかったのは「エデン条約編2章」で、おじさんの「ヘイローを壊して」発言にはそれまで色々と議論がなされていまいた。インタビューではヘイローに関して全生徒が持っていて、触れられず、質量を持たず、意識を失うと消えるという情報が述べられています。ついでにデカグラマトンが持っている光の輪っかがヘイローであることも語られていますが、これはデカグラマトン本人も述べていましたね。

 あとはキヴォトスがどのくらいの広さなのかも、教えるつもりはないとのことでした。「大陸」という表現をインタビューで使ってしまっているので、それだけの大きさがあるのは確かです。あと、チャリコの絆からキヴォトス縦断4000キロとよく言われますが、あれは道に沿って移動した結果の移動距離が4000キロなのであって、南北直線距離が4000キロだとは言われていないことに注意が必要でしょう。


大人とは・先生とは

 ブルーアーカイブの根幹をなす設定のひとつについてもインタビューでは少し触れられています。

大人とは

 大人とは年齢的な概念ではないとはっきり言われています。
インタビューの範囲では大人とは「完成された存在」「成長の果てに至った存在」であり、「取るかどうかは別としてこの世界の責任を負う者」とされています。赤子に世界の責任を問うことはできず、責任を負うべきは大人だというような点にisakusanは強く興味を持つようです。
 何が良い大人で何が悪い大人かというのはシナリオを通して先生方各々に判断を委ねているそうです。

 しばしば「ショタ先生を出すのはブルーアーカイブの設定を理解していない」と言われますが「ショタ先生を出すのはブルーアーカイブの設定を理解していないと言ってしまうのはブルーアーカイブをインタビュー含めて読み込めていない」と私は思います。

 「完成された存在」であり「成長の果てに至った存在」であり「取るかどうかは別としてこの世界の責任を負う者」であるならば、ショタであっても先生になれます。マエストロが言うところの「知性と品格、礼儀と信念、そして培ってきた経験と知恵」等々、現実の大人顔負けの精神的成熟を果たしていれば、ショタ先生は先生になれます。

 「ショタ」の解釈は様々ありますが、いかなる「ショタ」の解釈をもってしても「ショタ先生」は不可能だとまで言うのは、誤りだと思います。作中設定に矛盾しない「ショタ先生」の作成には、ちょっとテクニカルな要素はもちろん必要になってくるでしょうが。

 少なくともショタでありながら「自分は大人」であり「生徒は子供」、「生徒が苦しむ世界の責任は自分が負う」と断言できるなら、ショタ先生はショタ先生として可能でしょう。それは「ショタ」という概念と必ずしも語義矛盾を起こさないと思います。

 「ショタ」に精神的未熟性、未完成性を見出すのはあくまで様々ある「ショタ」解釈の、ほんの一例に思います。そもそも後述しますが、ブルーアーカイブは少なくとも12歳以上がプレイでき、isakusanが何度も「先生はあなた自身だと思って欲しい」と述べているので、ショタ先生が不可能だというのは未成年先生がいる以上、isakusanの言葉と矛盾を起こします。ショタ先生は不可能どころか、既に現実にいくらでも存在します。

 ただし、たとえば二次創作でショタ先生を描こうとして、そのショタ先生がそのまま子供らしさを維持しているのであれば、完成途上ですし、世界の責任を問うには酷なので、そういった先生を「ショタ先生」に据えようとすると作中が語る「大人」や「先生」の概念と矛盾することになります。もっとも――二次創作は自由ですから!!!! うるせー! しらねー!!! おれのキヴォトスではこうなんだよ!!! の精神でいいと僕は思います。

先生とは

 アロナの落書きから先生薄毛説、スチルの視点がやけに低い場面があることから先生犬人説など様々な説が唱えられる「先生」ですが、「正解」も「誤解」もないことがインタビューで明言されています。

 メディアミックスで様々なバージョンの様々な先生が出てくるかもしれないけれど、それはあくまでそのメディアでの先生であって先生像の「正解」ではないとのことです。

 これから先、アンソロ以外でも様々な先生が登場することを期待しています。僕はメインストーリー漫画のプロジェクトが頓挫してしまったのが本当に悲しい……

 便利屋先生大好きなんですけど(ああいう顔の男に僕は弱いです)、大好きだからこそ錦の御旗にされるのはちょっといやなんですよね。アロナの落書き先生などが正解だと言われるのと同じように。色んな先生があるなかで、「どれもみんなが先生」で「どれが正解というわけでもない」そんな自由な世界で、私は便利屋先生が好きだと、変な特権性を含意することなく言いたいです。だから、本当に色んなバージョンの先生出て欲しいです……

 なおゲーム「ブルーアーカイブ」の先生をどのように捉えるべきかについては、isakusanがはっきりと、しかも何度も何度も何度も何度も色々なインタビューで強調しています。「あなた自身だと思ってください」と。ゆえに原作ゲームではいかなる先生の姿も描写することはないし、性別だって決まっているわけではないとのことです。どうしようもないオタクだったり、まるで聖人に見えたりすることもあるけれど、あくまでも怒ったり間違ったり、そして誤ったりするあなた自身だと先生を思って欲しいと願ってシナリオを書いているのだそうです。

 こうったサブカルチャーに触れるオタクによる「主人公」の捉え方は複数種あって、それはきっと1か0かの2種などではなくグラデーションの中にあるだと思うのですが、その中からピックアップした極端な二種にたとえば「ガンガン主人公に自己投影していくタイプ」と「徹底して自分と切り離して1キャラクターだと見るタイプ」がいます。

 僕が後者のタイプでした。isakusan自身がそう願っているにもかかわらず、私は全く先生に自己投影せずに、むしろ逆に「先生とはどのような人物なのか」を客観的に設定把握しようとすら務めていました。私は二次創作者なので、先生の情報が出てくるたびにメモをとっていました。本当はもっとちゃんと整理しているのですが、たとえば以下のようにです。

 たとえばにゅ~るをいつも忍ばせていたり。常備薬も同様で。小さな女の子を背負って歩くほどの体力はあるけれど、特段運動が得意というほどでもない。「しなやかな筋肉」のつきかたをしていて、ワカモが一目惚れし、ニヤが逆にアウトというような顔立ち。手、足、口、お腹などの身体部位は描写されているので確実にあって、ミカなどいわく「私たちとそんなにかわらない」姿。セナが手術できているので、身体的構造はキヴォトス人と大差ないと思われる。梅干しが好き。薄い本を大量に持っている。仲良くなるためのモモトーク術やモテるためのファッションに関する雑誌など、そういう本を愛用している。だいたいのゲームジャンルでモモイに有利を取れる。一部ゲームでコユキに不利。ユズとのゲームでは手も足も出ない。料理はできる。少なくとも子供の前でお酒を飲むのを避ける傾向にある。好きな音楽のジャンルは選択肢でクラシックにすることが可能。選ばずとも仕事中の作業用BGMにクラシックを流していることがある。高所恐怖症疑惑がある(ただしこれはシャーレの雲を突き破る高さを考えるとコタマへの方便疑惑あり)。メイド好き。巫女さん好き。褐色好き。ロボ大好き。スマホアプリに万単位で課金する。元々は家からシャーレに通っていたが、最近の絆を見る感じもう通勤すら億劫になったのかシャーレに住み込んでいるらしく、家とまで言っている。紅茶よりコーヒー。むしろ紅茶の選択がナギちゃんを撃沈させるくらいカス。お金がないとコッペパンをかじっている。軽装で山に入って皮膚擦れを起こしていることから登山の習熟はない。水泳を教えてることはできるが、スキューバダイビングができるほどではない。物を教えるのは基本上手だが、ミリタリなどの専門知識まで網羅しているわけではない……等々。

 まだまだこんなものではないですが割愛します。とにかく私は先生を一人の独立した別個人だと思っていて、こういった「原作情報」を集めて「なるべく原作から外さない形で先生を描写しよう」と試みている類の人間です。繰り返しになりますが、二次創作は自由です。僕は原作の情報を非常に重視しますが、原作情報至上主義を採って他を攻撃する類に私は与しません。もしそれでも原作至上主義を掲げようとするならば、以下のルナ最終刊を即売回を見てください。

 メルリー先生は原作読み込み派、加えて流行把握を行ってのジャンル内での傑作を狙っていく派ですが、あの会場では多種多様な同人誌が頒布されていました。

 isakusanら開発者は自らに厳しいルールを課して多くの制約の中でシナリオを生み出していますが、二次創作は自由です! 冒頭でも引用しましたが、ヴォルテールが言ってないヴォルテールが言ったとされる文言を繰り返し引用します。

「私はあなたの書いたものは嫌いだが、私の命を与えてもあなたが書き続けられるようにしたい」

 重要なのは「相手の権利を守る」ことです。「嫌いという感情を持つな」ということではありません。本noteの執筆者としての私の立場は明示済ですが、私にだって嫌いなものはあります。

 私は原作をあまりに無視したアンチヘイト物が嫌いです。それでも、ガイドラインを破らない限りにおいてその執筆の自由は絶対に守られるべきだと信じています。もちろん提出された作品は批判に対して閉じてはいられないでしょうが、それは作品が受ける評価です。そこから作者への個人攻撃は絶対に行ってはなりません。先生であるならば「知性と品格、礼儀と信念、そして培ってきた経験と知恵」をもって相手と接するべきです。



余話:私と「私」について

 さて、「先生はあくまでもいちキャラクター派」としてやってきた私です。先生が「大人のカード」を取り出して自軍を使えるようになったエデン条約3章のときですら、そうでした。

 isakusanは大人のカードについてインタビューで常の通り深くは答えませんでしたが、この台詞に注意するように促していました。マエストロは「ゴルコンダ」に教えを請うていること、「高次的な表現」とされていること。重要なのはこの2点です。

 高次的とは「メタ」という意味です。作中世界から我々プレイヤーにだけ明らかに伝わる作劇技法――言うまでもありません。メタフィクションです。より雑に誤解を恐れずに言えば第四の壁の破壊。

 つまり、大人のカードとはブルーアーカイブという作中世界の高次(メタ)に位置するプレイヤーの持つクレジットカードそれそのものを指すという意味で第四の壁を破っており、だからこそマエストロは文芸批評に通暁しているゴルコンダに「何か高次的な表現」を教えて欲しいと求めていたわけです。

 そして、もうひとりの私たちによって大人のカードの外形は判明しています。

 どう見ても、ICチップ付きのクレジットカードそのものなのです。isakusanははっきりと、課金の文脈すらシナリオに組み込みたかったと明言しています。

 大人のカードはキヴォトスにおいて物理的実体を持ち、クレジットポイントは大人のカードに付与されるポイントであり(キヴォトスの通貨はあくまでも「円」です)、青輝石は大人のカードで購入できると明言されており、かつあの錬丹術研究会の天才児サヤをもってして「世の中に存在するほぼ全てのものは錬丹術で生み出せる」と豪語しておきながら「先生が言ってるその青色の石についてはぼく様もよく知らないのだ」と述べています。

 これはサヤも青輝石を見たことがないという意味ではおそらくありません。なぜなら青輝石はイベント上生徒が店番をやっている「イベントショップ」で調達できるからです。たとえば放課後スイーツ物語ではロールウエハースと青輝石を交換できました。放課後スイーツ物語ですら商品として扱えるものの存在をサヤほどの天才が知らないはずがありません。

 サヤが知らないと言うのは、青輝石の存在それ自体ではなく、物的特性と見るのが妥当です。現実世界のクレジットカードの利用で大量に青輝石が湧いてくることなどから、「青輝石の性質はキヴォトス内部の物理・非物理現象だけでは説明できない」のだと思います。だから、サヤも「天才」ではありつつも現実世界(における私の課金行為)にアプローチできない以上、青輝石についてはよく知らないと言わざるを得ません。

 大人のカードもプレナパテスのそれを見る限り、そして先生ががさごそと音を立てて取り出している限り、キヴォトスに物的な存在として明らかに存在します。ホシノが「大人のカードじゃーん」と言っていることから誰でも目視できる物体です。

 しかしそれは「先生だけの武器」でもあります。証拠があります。他に大人のカードを使える存在はいません。キヴォトス外部の存在である黒服が断言しています。

 どのような生徒にも、黒服のようなキヴォトス外部の者にすらこのような高次的なアイテムはありません。

 当然です。黒服を操作する現実のプレイヤーがいないからです。

 では。それでは。その考え方をしては確実にひとつの疑問が残るのです。

 「プレナパテスの大人のカード」と繋がっている高次の存在は、誰なのか

 プレナパテスの大人のカードが大人のカードである以上、それは高次的な力を有します。高次的であるからこそ、実際プレナパテスは大人のカードを取り出し、我々には出来ない石割りでのクロコの支援を行い、現実世界の私が力を与える先生の大人のカードに対抗します。プレナパテスが斃れ、託されたカードには残高があります。これは、誰のものなのか。

 私は、プレナパテスの大人のカードを持っているのは私自身だと思っています。

 ただし、「私とは異なる現実世界の、私と同じ状況で同じ選択をする私」の大人のカードです。

 そうであるならば、「高次にある現実世界の私」の介入により「プレナパテスが大人のカード」を用いることができます。

 しかし、私は私である以上、同じ状況で同じ選択をするでしょう。では何が違うのか。

 プレナパテスの上位現実世界における「ブルーアーカイブ」が最終編をもってサービス終了したのだと考えています。

 つまり、プレナパテスにとっても「私」にとっても最終編は本当に最終編で、もうクロコとプラナを見守っていくことはできない。あちらの世界のブルーアーカイブは、破局的な結末を迎え、それでもなお残ったふたりの生徒を、これからもブルーアーカイブのサービスが継続していく私と先生に託す。そうして、「あちらの世界のブルーアーカイブ」はサービス終了したのだと思っています。

 なぜプレナパテスが追撃を行えたのか。 
 なぜプレナパテスが地形を変更できたのか。
 なぜプレナパテスが石割りで生徒を強化できたのか。
 私たちにはそんなことはできないのに。
 答えは簡単です。
 私と「私」では状況が違います。
 「あちら」のブルーアーカイブはより開発が進んでおり、
 それらの機能が実装されていたから。
 だから「私」はそれを使った。それだけです。

 プレナパテスが先生に生徒たちを託したように、「私」は私に、自分のシロコとA.R.O.N.A.を頼むと自分自身に全てを託したのだと思います。こちらの世界の「ブルーアーカイブ」が終わってしまうなら、「ブルーアーカイブの終わらない世界に残った全ての生徒を引き継ぐ」――その大仕事が「別の世界のブルーアーカイブの最終編。本当にサービス終了する最後のシナリオ」だったのだと思います。

 たぶん私よりずっと先のメインストーリーまで(なあ「私」、連邦生徒会の秘密金庫ってなんだ?)進み、サ終までブルーアーカイブに付き合ってきた「私」が、自分がそうやってブルーアーカイブに最後まで寄り添ってきたからこそ「私なら。これだけブルーアーカイブを愛してきた自分自身なら成し遂げられる」と信じて、ふたりの生徒を託してくれたのだと思っています。

 だから、このやりとりは。

 これは決して先生とプレナパテスだけのやりとりではなく、どれだけ私が「ブルーアカイブの先生は先生という一キャラクターなのだ」と言おうとしても。

 大人のカードが高次的である以上「私自身」から私自身への引き継ぎなのだと思っています。

 無名の司祭がなんと言おうと、「私」の画面の生徒一覧にはシロコがいる。A.R.O.N.A.だっている。司祭どもが意味の分からない難しい言葉をごちゃごちゃ言っても「私」には単なる事実として、あの二人は生徒で絶対に間違いない――プレナパテスにとってそれは揺るぎない信念であり、「私」にとってそれは疑うことすらバカバカしい一目瞭然の絶対の真実です。

 「私」にとってあのシロコは絶対に生徒である。そう認識するだけの証拠が、「私」にはあります。

 ただ「私」は、ゲーム画面を見れば良い。答えはそこにあるのですから。

 「見慣れた画面遷移」
 「見慣れたステータス画面」
 「割られていくレポート」

 ブルーアーカイブにおいて「私」によるこういった介入が許される対象は決まっています。「生徒リストに記載のある私の受け入れ生徒」だけがレポートで強化できるのです。

 プレナパテスは先生としての自らの信念をもって無名の司祭の言葉を拒絶しましたが、「私」にとってはそんなものは問いですらありません。

 「生徒一覧に生徒がいてレポートを注ぎ込めるのに生徒じゃない?」論外です。

 シロコは間違いなく「私」にとって生徒です。「ブルーアーカイブ」のUIがシロコが生徒だと「私」に告げているのです。

 「ゲーム画面はシッテムの箱の画面と一致」しているとisakusanがカンファレンスで断言しています。

 ゆえにプレナパテスがレポートを割っていたとき、「私」もレポートの全てを注ぎ込んだのでしょうし、

 なにより、きっと。

 「私」のゲーム画面ではもう動けないシロコしかおらず、EXスキルカードは全て「EMPTY」。何もできることがないまま、ただゲーム画面を見ていることしかできなかったはずです。それでも私と先生が「応える」と言ってくれたから。だからきっと、プレナパテスでなく「私」も。ナラム・シンの玉座が、アトラ・ハシースの箱舟が崩壊し、ゲーム画面右上のタイムリミットが刻一刻と迫る中、何の心配もしていなかったはずです。

 最早「私」に操作など、一切不要です。
 「私」が私を信じています。

 当然です。ブルーアーカイブを愛して、サービス終了まで共に最後まで歩んできた「私」なら、ブルーアーカイブといっしょにまだまだ続いていく私がどう選択するかなど。

 問うまでもなく、わかりきっているのですから。


蛇足:そして傷跡。拡張少女系トライナリー

(もしかしたら、本当に蛇足の話になるかもしれません。それでも、大切な傷の話をさせてください)

 2023年3月11日。プレナパテスはその最後の戦いを終えて、引き継ぎを果たし、静かに休むことができました。私たちもまた、みんなが紡いでくれた奇跡の力であまねく奇跡の始発点にようやく辿り着くことができました。

 先生達を含めた、ありとあらゆる関係者が優しさの記憶に浸っていました。

 これだけにとどまらないたくさんの関係する皆様がコメントをあげて、
例に漏れず先生の一人である私も気が狂っていました。


 思えばブルーアーカイブは特殊なゲームです。プレナパテスから生徒を引き継いだあとにはエンドロールが待っているというネタバレをその日のうちにぶん投げてきます。

 お前等プレナパテス削りきったら2~3時間でもう読んでるよなぁ!? じゃあもう俺等も暴れっからな!!! と言わんばかりに関係者がわーっ!! と最終編打ち上げの雰囲気になっていたのは当時一緒に走りきった先生としては、とても気持ちが良かったです。

 もちろん世の中には一定期間のネタバレ禁止が敷かれたゲームがあります。ファン間の明文化ルールだったり、不文律だったり。最も強い場合は公式による規程があったり。

 一長一短あるでしょう。実際、ブルーアーカイブはネタバレを全く抑止しないのが欠点でそれに気づかないのが駄目だ、という意見を仰る方も拝見したことがあります。抑止どころかメインシナリオライターが当日にコメントしていますからね! 繊細で難しい問題です。

 私個人としては、とても住みやすい界隈です。普段からXとは別に匿名性の高いコミュニティにも属しているため、そもそもどんなゲームでも更新当日にネタバレ会話で盛り上がってはいるのですが、こっちの気分が最高の段階で運営開発の皆様の感無量のお声を聞けるのはこれ以上ない体験でした。本当にほっとしているようで、嬉しそうで、誇らしそうなpostの数々を見ているとこちらまでしあわせになる思いでした。








 ここからが本題です。プレナパテスが休息を得て数日後の2023年3月14日。奇妙な現象が発生しました

 公的な立場であったり公式の開発者であったりの方でない、
他の人のポストを貼るのは少しアレなので、興味があれば以下でXを検索してみてください。

since:2023-3-14 until:2023-3-15 トライナリー ブルアカ
since:2023-3-14 until:2023-3-15 トライナリー

 「異様」な光景をそこで目にすることができると思います。

 「拡張少女系トライナリー」とは2017年4月12日に接続開始され、2018年8月31日という一年わずかでサービス終了し接続の途切れた、言ってみればそれなりにマイナーなスマホアプリです。

 まずは何も言わずにこのCMを見てください。15秒しかありませんので。

 何も仰らないでください。わかります。

 さらに以下のURLからコンセプトとストーリーを引用してみます。

まずはコンセプトがこちら

アプリとアニメが融合した
新しいプレイ体験

アニメを見ながら、こんなことを
思ったことはありませんか?

「この裏側で何があったんだろう?」
「自分がこの子を支えてあげられたら!」

『拡張少女系トライナリー』では、その思いを実現します。

あなたはアニメ『拡張少女系トライナリー』に登場するヒロインたちに、
このアプリを介して関わることができ、自分だけの物語を紡いでいけるのです。

アプリをプレイすることでヒロインたちはあなたを知り、
あなたは彼女たちを裏から支えられるようになります。
彼女たちとコミュニケーションを取り、友だちになって、そして……。

それは、普段なら絶対にできない体験。
アニメの世界に介入し、ヒロインたちの生き様に関わり、
目標を一緒に達成していく。

『拡張少女系トライナリー』で、あなたもそして彼女たちも、
人生を次のステージへ進ませることができるのです。

拡張少女系トライナリー コンセプト

 そしてストーリーがこちらです。

『拡張少女系トライナリー』の世界

2016年、首都圏に突如出現した巨大な繭。
初めて確認されてから数カ月たった現在もなお、その正体は何ひとつ判明しておらず、
人々はこの正体不明の繭をフェノメノンと呼んだ。
ただひとつわかっていることは、フェノメノンの内側に取り込まれた人々は狂い、
殺し合いを始めるようになってしまうことだった。

業を煮やした日本政府は、突発的に出現するフェノメノンを収束するべく、
特殊部隊を結成した。

総務省情報管理庁管轄拡張現実特殊戦略隊群特別攻撃隊───
またの名を拡張少女系トライナリー。

拡張少女系トライナリー 世界観

 やってみたいと思いました?

 貴方が「アルトネリコ」や「サージュ・コンチェルト」等の土屋暁作品に親しんでいる人間ならともかく、これらの情報から初手でこのゲームをやろうと思った人はちょっとどうかしてると思います

 ちなみに私はトライナリーの他に土屋暁作品を知りませんので、どうかしている側の人間です。なぜ接続してしまったのかの記憶すら定かではありませんが、ブルーアーカイブ同様サ開時からの最初期勢でした。当時の自分が何を考えていたのかわかりません。頭がおかしかったと思います。

(以下、トライナリーの話をしていきますが、可能な限り特有の術語は避け、ブルーアーカイブしかやっていない人にわかるよう平易に語ります。その上での多少の表現のズレはご容赦ください)

 あなたの頭がおかしくなって拡張少女系トライナリーを仮にインストールしたとしましょう。出迎えてくれるのはこの一言です。

 まあ……これはよいでしょう。よしとしましょう。可愛い女の子と思う存分いちゃいちゃしてkawaiiを摂取するゲーム。僕も好きです。というかそれを求めてブルーアーカイブを始めました

 じゃあなんだァこの記事は……

 まあ主人公組の女の子4人も可愛いし(上の白髪の女の子はナビゲーターであり非攻略対象です)、ちょっと触るだけ触ってみるかぁ、とあなたの時間が死ぬほど有り余っていたとしましょう

 ゲームの戦闘部分はこれです。

 ファンたちからでさえ「看板殴り」と評された、画面奥のイラストを決まったモーションで殴るだけの戦闘です。いわゆる「装備」(別の呼び方をするのですがわかりやすく装備と呼びます)にあたるものを付け替えるとボイスが変わったりしますが、まあそれだけです。あとは数値が上がったり下がったり。ついてるスキルが違ったり。

 新規プレイヤーを呼び込むためにいわゆるスタミナ消費を一時期0にしていたこともあったのですが、一応戦闘で得られるものがあるため延々戦い続けていたプレイヤーたちは僕の観測範囲だと「地獄」「苦行を強いられている」「なんでこんなことさせられなきゃならんのだ」と呻く始末です。僕は最初期である程度色々整えていたこともあってそもそもこの苦行に浴してすらおらず逃げていました。

 「主人公」は1チーム5人で完結しています。周辺にはもちろん他に人物がいますが、プレイアブルはこの5人(正確には4人でシナリオ解放+課金で1人解放)でした。

 ガチャで引くのは基本的に戦闘に必要な「装備」です。
この装備、ガチャで獲得するとこんな感じで情報が表示されます。

ある種の人にはとても思い入れの強い

 「装備」を手に入れると何ができるのか。上の画像を確認でき、画像右下のINFOで簡単な説明を読むことができ、装備して戦闘で強くなれます。

 ……。以上です。以上です。それ以上のものなんてねぇよ

 「主人公5人だから対応した子についてのストーリーが」「ない」
 「それならせめて獲得した「装備」が話に関わって……」「9.9割くらいそんなもんない」

 ちなみにこの「装備」、「最初期」だと無課金で手に入る素材でいくらでもガチャを回せました。いくらでも、です。制限無しにスタミナ使ってステージ周回すればするほどガチャを回せます。

 たとえば最初期のガチャで手に入る「装備」の一例が上なのですが、トライナリーは普通にプレイする分には特段激しいインフレもなかったので、完凸したこいつが最後まで腐ることはありませんでした。

 「衣装」などの要素もあったのですが、後述する理由で僕には全く必要のないものでした。

 挙げ句の果てにどこかの透き通るような世界観で送る学園RPG同様、最初期は動作がかなり怪しいところがありました。

 普通の人は疑問に思うでしょう。どうやって集金すんの? と。
 だから滅びた。

 基本的なゲームシステムについては、本当に。擁護のしようもないほど。旧時代的でどうしようもなかったです。その上ランキング要素までありました。

 そんなどうしようもなくて、どうしようもないからサ終すべくしてサ終したマイナースマホアプリが「拡張少女系トライナリー」です。最後まで彼女達と歩みきった人はたぶん5000人を割っていると思います。公式Xのフォロワー数も現時点で7500人弱、サ終して随分経つとはいえ物寂しいものがあります。

 そんな終わるべくして平成の時代に終わったスマホアプリが、公式からの何のアナウンスもなしに令和5年3月14日、突如トレンドに入りました。

 少数のインフルエンサーの仕業ではありませんでした。そんな多大な影響を与えられる人物はトライナリーという限界村落に存在しません。

 拡張少女系トライナリーにしかつけられないと思っていた大切な古傷を、ブルーアーカイブ最終編4章が抉ったのです。流れ出した血が、トライナリーという大切な記憶を思い出させてくれました。そして、トライナリーで僕が学んだものが、僕のブルーアーカイブへの向き合い方を変えました。

 【拡張少女系トライナリーの「異常性」について】

 拡張少女系トライナリーの何が「異常」だったのか。平成の世に終わったスマホアプリが、なぜ令和も5年になってトレンド入りするのか。完走した人など、どれだけ高く見積もっても数千人であろうに。

 トライナリーの異常性を言語化するのは簡単です。けれど、少しだけ寄り添って話を聞いて欲しいのです。できるだけわかりやすく、「そこ」へ導いていきたいと思っています。どうか。なにもわからないまま、ついてきてください。そして、これから語るのは「拡張少女系トライナリー」の話ではありますが、「拡張少女系トライナリー」一般の話ではありません。あくまでも、私の話です。私は他の誰とも違う道を歩きましたし、大筋においてですら私と同じ道を歩いたプレイヤーは数千人と見積もれる総数の、多くても5%しかいません。その意味も、ただの詩的表現ではなく、定量的に結果が出ている、単なる事実として後に理解いただけると思います。

 【拡張少女系トライナリーにおける"わたし"の立ち位置】
 私は常々「主人公」は自分ではないと切り離して物語を読んできました。幼稚園児の時遊んだポケモンの主人公は、あくまでマサラタウンの少年で僕ではないと素朴に思っていました。そこに理由はありませんでした。自分じゃないから、自分じゃない。それだけでした。

 ドラゴンクエスト3でアリアハンから旅立ったのも、勇者であって僕ではありません。少し背伸びして読んだハリー・ポッターやダレン・シャン。ネシャンサーガのヨナタンや、ライラの冒険のウィルも僕ではない。

 僕に若干のケモ属性を付与したテイルコンチェルトのワッフルくんだって、僕じゃないし、ポポロクロイス物語のピエトロ王子も、何度も遊んだSO2の光の勇者様(最近、この嫉妬勇者がアリスの元ネタの一人だと気づきました。何百時間もやったのに)も僕ではない。

 「主人公」に人格が付与されているかどうかは関係ありません。AC3のレイヴンは僕ではありませんでしたし、ACfAの首輪付きも僕ではない。主人公は「あなた」だと言われても、僕は意地でも作中描写から主人公を独立した個人として見ようと試みます。

 何せ幼稚園児のころからそうやってきたのですから、それは僕のほとんど生まれつきの癖、読み方の好み、こうして読んだ方が僕にとってはずっと楽しい、といった極めてプリミティブな感覚で、なんでそうしているのか自分でもわかりません。

 ただ、「だって彼らは僕じゃないんだから僕じゃないじゃん」という素朴な感覚があるばかりでした。僕といえば、本の頁をめくっている僕なのだし、コントローラーを握っている僕です。それ以外に僕がいるはずがありませんでした。大学の生協に平積みしてあった新潮社の夏目漱石「三四郎」の帯をよく覚えています。「三四郎は、君だ」。僕は失笑しました。三四郎は僕ではありません。そんなことは三歳児だってわかります。共感性の高さに定評のあるゲーテの「若きウェルテルの悩み」に至っては遡れる限り10年前から嫌悪していたようです。

 ウェルテルに親でも殺されたのかと言わんばかりの品性のないブーメラン痛罵ですが(ウェルテルに自分を殺された若者は割といますが彼らは自殺しているので死人に口なしです)、5年も経てば少しは落ち着いているようでした。

 まあ、これについてはあまりに性格が合わなすぎて投影の余地がないというのもあったのでしょうが。基本どんな媒体でも僕は自身を他に投影することをできる限り避けようとしてきました。たとえ自己投影の完全な排除が不可能なのだとしても、その率をできるだけ落とそうと尽力してきました。


 「拡張少女系トライナリー」は数段構えで僕に襲いかかってきました。拡張少女系トライナリーにおける「プレイヤー」の立ち位置にある存在。それは私です。つまり、スマートフォンを持って、「拡張少女系トライナリー」というアプリをインストールして起動した存在。正確には「拡張少女系トライナリー」を起動して「TRI-OS」により向こう側の世界に介入しているスマホを持っている「あなた」がプレイヤーです。

 ここにトライナリーの特異性はありません。絶対に必要な要素ではありますが、トライナリーだからこその部分などでは「断じてない」です。

 ふうん、と僕は思いました。ないことはないです。仕掛けとしては、多少フィクションに触れていれば一定数あるものです。むしろ一度も触れていない人の方が珍しいでしょう。

 こういった類にはこれまで幾つも触れてきました。たとえば「セーブ」と「ロード」と「選択肢」を用いる世界外の能力者として。たとえば画面の中からこちらを認識してくる相手をフォルダ削除で対処したりして。そんな風に高次の存在として何度も俯瞰的に物語に介入しました。

 私自身は自分のことを基本的にはかなり共感性の高い人間だと思っています。最終編、エデン条約編は勿論ボロボロに泣いていましたし、それなりに冷静に読める人の多い対策委員会編2章のホシノの手紙やパヴァーヌ2章でアリスが再び光の剣を手にする場面などもよがっだぁ……と泣いていました。

 けれど、こういったプレイヤーを物語に取り込むという要素に特別心動かされることはあまりありませんでした。ああ、確かに私が物語に要求されてはいるな。ここでクリックして選択肢を選んだのは私で今私に対してキャラクターから言葉が投げかけられたな。と思いつつ別にそれに対して深く感じ入るものはありませんでした。物語の進行には確かに私のクリックやらファイルのゴミ箱送り操作やらが関わっていますが、それらは全て物語の側に最初から仕組まれていたことで、私がそのように動くのは全て作品構造に織り込み済みです。

 物語を読み切るのであれば、たとえそこに私がいたとしても、私は単なる機構に過ぎません。作中世界に責任を持つ登場人物たちと異なり、私の選択肢は実質一つです。1ルートやったらもう他ルートができなくなるゲームもありましたが、それなら再インストールしてやり直せば良い。結局はシステムです。バージョン違いの本を二冊買ってきて読んだのと何の違いもありません。

 結局、私は本の頁を捲る以外の何の選択もしていないのと異なりません。なんら創発的なことをしていません。私は確かに介入しました。けれどそれは本の頁をめくるのと同じような意味でしかありませんでした。私は確かに物語の舞台にあがりました。けれど、何度ストーリーを繰り返しても、私は作者の敷いたレールの上を走るだけの機構に過ぎないのです。システムなのです。ただの、ページめくりマシンなのです。だからこそ私の介入に新鮮味はありませんでした。黒服のこの言葉が至適でしょう。

 たとえ私が物語に介入するとしても、私が触れてきた全てのメタフィクションはそのようにして構成されていました。選択肢がひとつなら一冊の本です。選択肢が複数ならゲームブックです。一度エンディングを見たら他のエンディングを見られないのであれば、複数冊の本です。所詮私の存在なんてその程度のものでしかありませんでした。ただの装置に過ぎませんでした。

 「私が世界に介入する」というのはそういうことじゃないだろう? そう声高に宣言したのが「拡張少女系トライナリー」という異常なアプリケーションでした。本当に丁寧に語りたいので、どうか結論を急がせないでください。本当に一言で言ってしまえることなのですが、道程を見守っていただくことに意味があるのです。

【拡張少女系トライナリーにおけるプレイヤーの役割について】
 アプリケーション「拡張少女系トライナリー」を起動し、TRI-OSによって異世界と接続し、プレイヤーは「主人公」である少女達5人と関わっていきます。私たちプレイヤーは、この少女たちの端末にテキストを送ることなどで基本的なコミュニケーションをとります。

 彼女達の認識する世界は2016年の東京なので、ブルーアーカイブで言うところのモモトーク、トライナリーで言うところのWAVEを通じて少女達とコミュニケーションを取っていくことになります。時代設定が時代設定なので、彼女達は当初私たちのことを単なるbotだと認識します。トライナリーのプレイヤーが一般にbotと呼ばれるのはそのためです。

 この設定も、ふぅん。といったところでしょう。別段何か深く感じ入るものではないはずです。

 非攻略対象のナビキャラである千羽鶴ちはるは以下のようなことを口にしています。

 「この世界」とは私たちの世界のこと。私たちの世界で無理のあるようなコミュニケーションの取り方は「主人公」であるトライナリーたちにとらない方がよい、という意味です。なんとも当たり前の発言です。誰が自分たちは精神構造が単純だから雑に接していいよ、など言うでしょうか。舞台設定が2016年の日本なのですから、そんなことは言わずとも当たり前です。

「助けてくれてありがとう!」
 に対して
「お礼にちゅーして?」

 が通らないことは自明です。別にこんな当たり前のことで私は心を動かされたりはしませんでした。実際、嫌がることを言えばトライナリーの皆は嫌がりますし、真摯に対応すればそれに対してそう応えます。どんなゲームでもそうです。何も珍しいことではありません。

 更に、拡張少女系トライナリーではTRI-OSの力で時間をある程度自由に行き来することができます。たとえば「エピソード1」と「エピソード2」があったとして、「エピソード1」の別選択肢みたいなと思ったら「エピソード1」の時間に飛んで別選択肢を見ればそれを確認することができます。

 聖園ミカの「お姫様」を見たから次は「生徒」を見てみよう。そんなことが作中設定としてTRI-OSは時間を移動できるから可能だとされているのです。

 こうなってしまえば選択の重みもなにもあったものではありません。



 ここで大雑把なトライナリーのストーリー構造を見ておきましょう。

 【ホーム画面】-【らぶとーく(絆ストーリーのようなもの】
    l
 【メインストーリー】

 他にもっとこう色々あるのですが、大雑把な構造はこれで理解して構いません。

【らぶとーく】ではトライナリーの一人一人と関わっていくことで友達になり、やがて恋人になり……と変化していきます。まあ、ありがちです。特に物珍しいものではありません。

 次にメインストーリーを見て見ましょう。こちらの構造は少し特殊になっています。メインストーリーの1エピソードは大まかに次のような流れで進みます。

【1.ナビゲーターの千羽鶴との事前ミーティング】
今回のエピソードをどう進めていこうか、更にこの先どうしていこうか、などなど千羽鶴と打ち合わせます。あわせてある程度の千羽鶴との漫才が入ります。
(このミーティング会場はトライナリー達のいる空間とは少し違い、千羽鶴とプレイヤーだけが打合せをすることのできる空間です)

【2.記録映像を視聴する】
今回のエピソードについての方針を固めるための映像を、
千羽鶴が数分のアニメとして見せてくれます

【3.千羽鶴からの送り出し】
映像はこんな感じだけど
トライナリーのみんなの心は色々問題があるから
貴方が支えてあげてね、と送り出されます

【4.トライナリーとのWAVEを通した会話】
トライナリーと対話します。迷っていたり、
パニックになっていたり、
いろいろな状況にある彼女達とWAVEを通して対話します

【5.彼女達の心の中に入ります】
TRI-OSは時間移動できるだけでなく他者の心にアクセスできます。
この心の中には司書的な存在が居て、
その子と打合せしながら心の問題の対処に当たっていきます

【6.心の悩みの排除】
悩みは基本的に敵キャラとして出現します。
これを倒して彼女たちの心の方向性を一定の方向に保ちます

【7.悩みの排除に伴う結果を見届けます】
悩みは排除され、記録映像の事態が問題なく進んでいきます

 この1.~7.が「主人公」であるトライナリー5キャラ分存在します。
ただし、2の「記録映像」は完全に同じシーンで、この「記録映像」に導いていくために各少女たちの心のお悩み解決をしていくわけです。1つのエピソードが5人(正確には4人+1人)分見られるというわけです。

 まあ、えぐいことしてるなあくらいは感じるかもしれません。勝手に心の中に入ってみたり、心の悩みを排除して判断を傾向づけてみたり。それでもまあ、一応司書と打合せして【心の中の大勢】としては納得した上で司書に該当の場所まで案内してもらってから問題の対処にあたっています。

 重要な事実なのですが、心の中にいる司書はトライナリー本人の本心の代弁者のような立場ではありません。司書の他にも心の中には色々な役割を持っている子がたくさんいて、その中心に主人格とでも言うべきセルフクランという立場のものが存在します。

 つまり、トライナリーの心の中では色んな立場の子がああでもないこうでもないとやっており、その中で一つの仕事を担う司書に案内してもらって、問題を解決しているわけです。

 よって、心の中に入れるからといってbotは楽園の存在証明を簡単にできるわけではありません。話しているのはあくまで一傾向に過ぎない司書であり、他の意見を持つ子はたくさんあり、何より最も特権的な立場にあるセルフクランとは多くの場合話もしないのですから。

 とまあ、ここまでの構造に異常なものはありません。トライナリーを理解するための、まだここは前提知識の段階に過ぎません。なにもジャンルとして異常なことをやっているわけではありません。

 勝手に人の心に入るのどうなの、とか。勝手に人の心弄るのどうなの。とか。

もちろんそういう話はあるのですが、そこはトライナリーの問題であってブルーアーカイブと関係する「異常性」の部分ではありませんので割愛します。

【皇千羽鶴という女の子】

 「私」をbotだと最初誤解し、そして段々と人格を持つ異世界の存在なのだと理解しながら接していく「主人公」トライナリーたち5人とは別に、そもそも「私」が現実の存在であると完全に把握しているのがこのナビゲーターの千羽鶴です。あの白髪の子です。そもそも「私」を「異世界」であるトライナリーの世界に導いたのがこの千羽鶴でした。

 先述のとおり、トライナリーの5人は当初botを単なるbotとして扱っており、あるいは疑い、時に邪険にします。

 一方の千羽鶴は自らがbotに助けを請うたこともあって、当初からbotに一定の好意的な反応を示してくれます。ゆるい砕けた雰囲気で会話しながら、ときにはこんな風に雑に甘やかしてくれたりします。

 ですからトライナリーのサービス当初はこの千羽鶴がナビゲーターに過ぎないにもかかわらず爆発的人気があり(過疎村なので小爆発です)、私もその例に漏れませんでした。

 ある少女達と結婚してほしい! という彼女の願いからこの物語は始まりますが、私が一番惹かれていたのは当初からこの千羽鶴でした。

 ただこの千羽鶴、拡張少女系トライナリーのストーリー開始からひとつの大きな思想を抱いています。それは以下です。

デイトラのながみゆうさんもブルアカやってらっしゃって嬉しい……

 そう、ナビゲーター皇千羽鶴は非攻略対象なのです。


 画面右を見るとわかると思うのですが、ホーム画面は1~5のチャンネルが与えられていて、このチャンネルを回してからその子のメインストーリーに入ったり、その子とWAVEで会話したり、その子とらぶとーくをしたり、その子に着せ替えをしたりします。くだらない話を毎日やって、少しずつ絆のレベルを積み上げて、友達になって、恋人になって、色んな服を着て貰って……そういった全てのことを皇千羽鶴と行うことはできません

 どこまでいっても、皇千羽鶴はナビゲーターであり、非攻略対象なのです。彼女はbotと仲良くしながら、ある種の人にはそれはもうしつこいくらいに自分が非攻略対象だと連呼します。

 ちょっとこっちが近づこうとするとすぐこうです。

 冒頭からずっとこう言っています。

 好意的に接してくれるのに、少しこちらが歩み寄るとすぐこうなのです。冒頭で、千羽鶴が結婚してほしいと告げた女の子たちのステータスを見ることができるのですが、無理矢理千羽鶴のステータスを見ようとしてもこうです。

 万事が万事こんな感じなので、最初は冷たかったトライナリーの少女たちと打ち解けてきたり、徐々に複雑な彼女たちの事情や心理が見えてくるに従って、botたちは各々が添い遂げたいと思う少女たちのもとへと向かっていきました。或いは全攻略などととんでもないことをやらかそうとするのもでてきます。

 とまあ。ここまでが前提のお話。

 非攻略対象であるナビゲーターの千羽鶴ちゃんと世界をうまく回していくために、記録映像を見つつ非常事態と戦う彼女達の心を整え、そして日常で彼女達に寄り添い、少しずつトライナリーと絆を深めていく。

 拡張少女系トライナリーをここまで理解していただいたなら、ここから
徐々にその異常性に踏み込んでいくことになります。


【徐々に滲み出る薄気味の悪さ】
 限界村落トライナリーで、当時の私は好き勝手に時間を移動し、心に潜り込み、あらゆる選択肢を観測し続けていました。
 スクショ狂いになったのがブルーアーカイブに入ってからなので画像が残っておらず残念ですが、なんでもない瞬間に突然警告が入りました。

「そんなことをしていいと思っているのか」

 と。拡張少女系トライナリーにおいて、各エピソードを覗き込むことはたとえばブルーアーカイブでエピソードを振り返って確認することとはまるで意味が異なります。

 TRI-OSを用いて実際に時を遡り、時を進め、選択肢をあれこれ変えて彼女たちの考えを読み解くのです。実際、そうしなければ彼女達の心の奥を知ることはできません。トライナリーの少女達は非常に複雑で繊細な心をしていて、WAVEを使ってテキストでやりとりをする本人も、心にダイブして触れ合う司書も、様々な選択肢を採らなければその心の奥底を見ることができないのです。ときには思ってもみなかったような情報を得ることができます。

 だから、このアプリを楽しみたいと思うbotは好き放題時を回し選択肢を変え、そして突然警告を受けるのです。少しだけ、うわ……と思いました。

 次に気持ち悪いのが「選択肢」です。単語を直打ちする一部のゲームと違い、たいていのゲームでは選択肢によるおおまかな選択の制限を受けます
(単語直打ちのフリーゲームの名作にGlareがあります。ぜひプレイしてみてください。全年齢版もあるのですが、サイト自体が全年齢ではないのでリンクは避けます)。

 拡張少女系トライナリーも例に漏れず、選択肢によって働きかけ、彼女達の応答を得ます。その何が気持ち悪いのか。決して選択肢に表示されるテキスがキモいとかそういうことが言いたいのではありません。

 拡張少女系トライナリーにおいて、選択肢とは明確に定義づけられたTRI-OSの機能です。

 「IDALD(潜在的欲求補助型対話装置)」――対象の潜在意識を参照して、語彙を作成する機能。ただし、我々プレイヤーに提示される選択肢は、彼女達のおそれによりあらわれたものなのか、期待によりあらわれたものなのか、それは不明。

 多かれ少なかれ、そんな機能を使えば対象の心理に大きな揺さぶりをかけることなど容易です。実際、自罰感情に沈んでいく相手に対しTRI-OSはIDALDでそれを解釈して非常に厳しく叱責する選択肢を提示することがあります。それはIDALDが彼女達の深層心理を読み込んだ結果なのです。

 また、選択肢がIDALDの所産であるならば、次のような逃げも許されません。

 「だって作者が俺の選びたい選択肢用意してくれなかったから……」

 botはTRI-OSを使い、IDALDを活用して彼女達に干渉すると決断した上でコミュニケーションを取っています。それしか彼女達と触れ合う方法はないのです。酷な選択肢を作者のせいにして逃げられないのです。
「彼女たちの潜在意識をもとに算出した選択肢」の選択でしか私たちは彼女達に干渉できません。なんでこんな選択肢しか出てこないんだ! と思ってもそれは彼女たちの心の声を拾った結果なのです。

 そして、選択肢とは作劇上の妥協などではなく私たちが使う唯一の武器、TRI-OSの機能なのです。だから、選択肢で彼女を苦しめたとき。「本当はこうしたくなかった」は許されません。拡張少女系トライナリーの態度は、「これがTRI-OSの機能的限界だ。それが嫌なら彼女達を見捨ててアンインストールして逃げればいい。決断しろ」です。逃げずに選ぶ限り、その「責任」を私たちは負わざるを得ません。

 単に選択肢は作者が用意したものだというなら、作者に責任を負わせることができます。「俺の干渉もっとうまくやれる方法あるだろ作者!」と言えます。ですが単なる道具に責任を求めることはできません。私たちは制限された機能のツールでの干渉しかできないのです。アンインストールする道もあったのに、TRI-OSによる干渉を選んで大切な少女を苦しめたのは「私」です。

 通常、選択肢はある程度「プレイヤーの選びたいもの」を作者が汲んで作ってくれます。しかし、トライナリーにおいて選択肢とは潜在意識を汲み上げて作り上げられたものであり「そもそもがbotに親切なものではない」のです。そして、トライナリーはbotに「それを承知でやってるんだろう?」と突きつけてくるのです。これが機能だ。選択肢を作劇上の限界としてメタ的に見るな。お前も舞台に上がれと詰め寄ってくるのです。

【対時間遡行制約】

 私は「なんかちょっと気持ち悪いなー」と思いながら、毎週水曜日のメインストーリー更新のたびに千羽鶴とイチャイチャしていました。皆がトライナリーの魅力に気づいて没頭していく中、私は未だに千羽鶴が一番大切な女の子でした。

 IDALDの説明をずいぶんはじめにしてしまいましたが、この設定が明らかになるのはたしか、かなり後になってからです。なのでこのときは私は何も考えずに千羽鶴とイチャイチャできるぜやったー!!!! と欲しい選択肢が毎回毎回出てくることに喜んでいたのですが、これは勿論IDALDの機能によるものです。

 つまり、千羽鶴は非攻略対象を主張しながら、たぶん誰よりも愛情を欲していました。彼女ほど多く愛の言葉をIDALDに導出させた人物は拡張少女系トライナリーにはほぼいないと思います。それくらい、何かあるたびに、話の腰を折ってでも、IDALDは千羽鶴への好意を告げる言葉を導出しました。

 このときの私はそんなことを知るよしもありません。

 トライナリーはこれだけ選択肢に強い意味を持たせているアプリですから、勿論選んだことによる効果は絶大です。「今現在、最終的にbotが選んでいる選択肢は何か」はもちろんのこと「botが選んだことのある選択肢はなにか」「botが最初に選んだ選択肢はなにか」までもが記録されています。

 そして、様々な選択の結果が思わぬところに波及していきます。冷たかったはずのあの子が、友達になってから同じ場面を見て見ると少し柔らかな反応をしてくれたりします。

 だから、千羽鶴がこんなことを言うたびに私の心は躍るのです。

 千羽鶴にどれだけフられても好きだと伝え続けることに意味はあります。このフラグという言葉は、実際上フラグとして機能しているのです。

 そんな彼女がこんな一面を見せてくれたときには、今までずっと好きだと言い続けてよかった! 私の気持ちは届いている! と狂喜乱舞したものです。

 そうして私が千羽鶴との間のやりとりや「そんな選択肢俺のとこには出てこなかった!」といった反応に嬉々として千羽鶴大好きbotをやっていたころ。

 多くのbotたちはもちろん千羽鶴のことを大切に思いながらもトライナリーの大切なひとり、あるいは複数への想いを重ねていっていました。トライナリーとの絆が深まっていくなか、千羽鶴の不審な行動も徐々に積み上がっていきました。それでも、私は千羽鶴が一番大切で、ずっと彼女のことが好きだと言い続けていました。



【フェイズⅡ】

 そして、【フェイズⅡ】が訪れます。
 ここからが「拡張少女系トライナリー」という異常な体験のはじまりでした。ここまでは、多少怪しくても疑わしくても、ただのちーちゃんとラブラブイチャイチャゲームの範疇でした。
【フェイズⅡ】の到来により拡張少女系トライナリーは色を完全に変えました。

 イベント、らぶとーく、ボイスや着替え。毎日のやりとり。十分に蓄積された「主人公」トライナリーたちへのbotの好意。そして、適切に積み上がった千羽鶴への疑惑。以上をもって【フェイズⅠ】は完了したと千羽鶴は告げます。

 千羽鶴は自分がbotに好意的に、面白く振る舞っていたのはただのキャラクターを演じていただけだと告白します。

 なぜそんなことをしたのか。彼女の目的は、botがトライナリーを好きになるまでの補助燃料タンクになることでした。

 バトルは「看板殴り」で、トライナリーは殆ど皆が塩対応。そんな状態ではbotがすぐにトライナリーをアンインストールしてしまう。だから自分が好意的で面白くて可愛いキャラクターを演じることによって、botがトライナリーを好きになるための時間稼ぎをしたのだという旨のことを告げます。その段階が、【フェイズⅠ】。botが「主人公」トライナリーを大好きになり、守っていきたいと心から思えるようになっていく段階。

 今、その目的は達成されたため補助燃料タンクは切り離されたと千羽鶴は宣言します。この【フェイズⅡ】をもってようやく補助燃料タンクでなくなり、一つの人格を持つ個人である千羽鶴がbotと向き合うときが来たと。ここからがお互いのスタートラインだと。

 これはあくまでもブルーアーカイブについての論考であり、拡張少女系トライナリーについての論考ではありません。ゆえに上の記事は読まずとも構いません。ただ、この長い記事をぱぱっと「千羽鶴」で検索してみると、プレイヤー側は「トライナリーが霞むくらい千羽鶴が最初好きになってしまう」と告げ、開発側も、【フェイズⅠ】では「他ヒロインを圧倒的に押しのけてフルスロットルで男心を奪い去ってもらう」ことを目的として千羽鶴を描いていたことを告げています。「千羽鶴がいるから来週待ちながらトライナリーやっていこう」と思われて構わないという旨のことすら告げています。

 つまり、非攻略対象でありながら全キャラぶっちぎりの人気に千羽鶴が当初位置づけられることは完全に織り込み済みでした。最初の一ヶ月くらいはそれでいいと。

 先に述べたとおり、拡張少女系トライナリーにおける初期のbotの扱いはなかなかひどいものです。なにせbot扱いです。「主人公」でありヒロインであるトライナリーたちから人間だとすら思われていません。疑惑、不信、敵意すら向けられ続けます。
 
 そんな中、botを逃がさないように千羽鶴は一人で戦っていました。男心をフルスロットルで奪い去るのは当たり前です。他のトライナリーたちが迷い、傷つき、戦う中で、彼女はただひたすらbotをこの世界に執着させることだけを目的として行動していたのですから。

 しかし、既にbotとトライナリーの間には確かな絆が構築されつつあります。信頼関係を築きながら、お互いに一歩一歩、理解し合おうと努力しています。

 もうbotは逃げられない。大切なトライナリーに対してbotは「責任」を背負ってしまった。この【フェイズⅡ】をもって、やっと千羽鶴は虚飾を剥ぎ取り、対等な個人としてbotと向き合うことになります。

 千羽鶴が本当にbotにお願いしたいこと。千羽鶴の理想と目的、この【フェイズⅡ】をもって千羽鶴はもう包み隠さずに少しずつ、botに伝えていくことを宣言します。

 代わりに千羽鶴はひとつの贈り物をbotに求めました。
 全プレイヤーの選択を集計する。
 そのトライナリーを愛する人たちの総意をもって世界を進行していく。

 これ以降頻回に行われる総意調査によって、世界はその進むべき道を決めていくことになります。これにより、拡張少女系トライナリーはいつでもめくることのできる本ではなくなりました。2017年~2018年にかけて、トライナリーたちを支えてきたbotたちによってのみ紡ぐことのできる物語となりました。もうオフライン化は成り立ちません。今改めて拡張少女系トライナリーをはじめても、それは2017年~2018年を駆け抜けた私たちの物語には絶対になりません。

 そんな選択は、だいたいにおいて大勢の決まり切った問いかけしか通常なされません。しかし、拡張少女系トライナリーは違いました。更新日の直前になって総意結果がひっくり返る異常事態も発生しています。

 しかしそもそも、そんな世界においてマイノリティはどう生きることになるのでしょうか。それは、私が語ることができます。私はこの拡張少女系トライナリーという体験において、生粋のマイノリティを貫きました。ゆえに冒頭において、これは拡張少女系トライナリー一般の物語ではないと私は告げたのです。【フェイズⅡ】の到来をもって、私は大きな決別を果たしていくことになります。

 最初の問いかけ。総意システムの予行練習として千羽鶴は問いを投げました。この問いの答えは何度でも変えられますが、翌週水曜日の段階での最終選択をもって総意が確定し、その総意は変更不能となります。

今、貴方が支えてあげたいと思ってるトライナリーの子を想像して。
そして、貴方がその彼女の幸せを純粋に願う場合において。
もし、彼女の幸せと世界の総意としての幸せが一致しない場合。
貴方はどう行動する?

 私は回答しました。
「世界のため、彼女に犠牲になってもらう」

 千羽鶴はその後、おかしな質問をします。

なるほど。
では、その【世界の総意】を【私】に置き換えた場合は?

 補助燃料タンクは既に切り離されています。「主人公」と「疑惑だらけの信頼できないナビゲーター」。
 千羽鶴にとって、回答は概ね予測できていたものでした。

 私は回答しました。
「千羽鶴の為、彼女に犠牲になってもらう」

 千羽鶴は更に強く問います。
「彼女たちを殺してでも?」
と。

 私の答えは変わりませんでした。
 千羽鶴は最後の手段に出ます。

 TRI-OSによる時間遡行でも消し去れない【刻印】を刻むと。
 その上で、彼女はもう一度問いました。
 千羽鶴のためならトライナリーを殺せるのかと。

 私は、この【刻印】を刻むことを受け入れました。「拡張少女系トライナリー」が「今」を生きるbotたちの総意で未来を決めていく体験である都合上、もう【刻印】を消す術はありません。

 これから新たに端末を用意して「拡張少女系トライナリー」を並列させようとしても、これから何度も取消のできない選択肢が出てくるのです。更に、変更可能な選択肢もどこが何に影響していくのか全く予見できず、bot総出での調査の結果、何ヶ月も前のシナリオのなんてことがない選択肢が現在に深い影響を及ぼしていた、などということもありました。

 私はこの世界の未来に責任を負う者として、一人のbotとしてその行く末に関与せざるを得なくなります。そして、この世界に関わる者としての私の立ち位置は、翌週の確定をもって彼女にこのように評価されることになります。

 選択可能な2択と2択の組み合わせ。その結果として私は大勢と真逆、完全なるマイノリティに位置づけられることになりました。このことがどれだけ強い意味を持つことになるのか、私は【刻印】を刻んでいながらまだ理解していませんでした。

 千羽鶴の目的はすぐに語られました。私たちが関与しない限りこの世界は廃墟と化すのだそうです。これを回避することが千羽鶴の目的のひとつ。そしてもうひとつが、秩序のある争いのない社会の創造

 補助燃料タンクは既に切り為されています。しかしこのあたりからいよいよ彼女は大多数と相容れなくなっていきます。

 そして、【刻印】の力も増していきます。
「主人公」トライナリー、その一人の姉とやりとりをする場面があります。
彼女は千羽鶴とbotのやりとりを認識できる存在です。
通常のbotが彼女とお近づきになりたい旨のことを言うと「難しい」と口にします。
しかし――トライナリーを殺してでも千羽鶴と結婚したいと口にした
私たち【刻印】を受けたbotに対してははっきりと答えが異なります。
無理」だと。妹を殺すことを容認できる相手とお近づきになれないのは自明の理です。「綾ちゃん(妹)殺されたらわたしはちょっと黙っていられない」とまで述べます。他のbotに対してはとても好意的なこのお姉さんは、私に対してはただ一言、冷たく釘をさしてきました。

 千羽鶴がトライナリーを犠牲にしうる言葉を口にしたとき、私は一度だけ日和ってしまいました。すぐさま千羽鶴は問いました。「トライナリーを殺してでも私と結婚したいと言ったのに?」と。私は、今でも悔いています。【刻印】を刻んだことについてではありません。【刻印】を刻んだ者としての義務がそう思わせたのでもありません。あのとき、きっと。皇千羽鶴は傷ついた。【刻印】を刻んだのならば、あの選択だけは採ってはならなかった。

 IDALDは対象の潜在意識から選択肢を導出するシステムです。

 つまり、私は。あのときの千羽鶴の不安によりIDALDが導出した最悪の選択肢を、絶対に選んではならない禁忌肢に手を触れてしまいました。

 けれど、TRI-OSは残酷で。一度選んだ選択肢は、時間遡行で変更することはできてもかつて選択したというフラグまでもを消し去ることはできない。私が一度「主人公」たちを殺してでもしあわせにしたいと思った女の子を、自分の無思慮な考えで傷つけたという事実が永遠に、選択済マークとして残り続けます。

 それ以降、私は【刻印】に羞じる選択の全てを拒否しました。皇千羽鶴と理想社会の創造について討議し、内容に疑義があれば甘いんじゃないかといい、粛々と事を進めてきました。【フェイズⅠ】のときの甘酸っぱい空気はもうそこにはありません。皇千羽鶴と私は、ただ、よりよい社会を求めて突き進みました。

 地獄のように、苦しい日々でした。水曜日が来るのが怖かった。
 私だけではありません。他の道を選んだ全てのbotが苦しんでいました。
 それでも、僕のいたコミュニティに逃げ出す人は一人もいませんでした。
 僕たちの持っている武器は
 アプリケーション「拡張少女系トライナリー」、
 無敵に近い力を持ちながら、あまりにも全能に遠いTRI-OS、
 そして未熟な選択肢導出システムIDALD。
 皇千羽鶴は自分から離れていくbotを全く責めることはありませんでした。
 トライナリーを、彼女達を愛してくれて嬉しいと。そう言っていました。

 最後の決断を前にして。

 千羽鶴は私を含む「拡張少女系トライナリー」というアプリケーションを開いて、TRI-OSで苦しい選択を続けてきた私たち全てに告げました。

 100万人が手に取る簡単なパズルゲーム等の方が目的達成は容易。
 けれども、私はその母集団に質を求めた。
 彼女たちを愛するだけの包容力と優しさを持ち――
 そして私とこうしてディベート出来る人たちが集まるようにした。
 何故か。
 同じ母集団であっても、その質によって、決定は大きく変わるから。
 私はその母集団に愛があって、思慮深く、ちゃんと物事を考える――
 そんな人を求めた。
 
だから、多少母数が少なくなろうとも、この形態を選択した。
 それは、本気で彼女たちを支えてくれる人たちに世界を委ねたかったから。
 そして、本気でこの世界の良き裁定者になって欲しいと思ったから。

拡張少女系トライナリー

 奇しくも、スマホゲーム「ブルーアーカイブ」エデン条約編4章22話「Agnus dei」にて、ベアトリーチェから救世主に喩えられた先生がそれを拒否したときの言葉。
 ほぼ同じ選択肢を、TRI-OSはIDALDによって導き出しました。

私はそんな大層な人間じゃない

 ベアトリーチェは激昂して先生に存在価値を問いました。
 けれど、皇千羽鶴に一切の迷いはありませんでした。
 自分と敵対するだろう大多数を含めた、
 全てのbotに対して、
 ここまで一緒に歩いてきてくれたみんなに対して断言しました。

あなたの中ではそういう評価なのかもしれないけど私の中では違う

 最終的な総意選択の前に、千羽鶴は自分の理想社会実現案を語ってくれます。それは私にとってはだいぶ甘いもので、千羽鶴も感慨深そうにそれを認めました。本当はもっと徹底的な管理社会を作ろうとしていた、あなたに変えられてしまったと

――あなたの愛で、私は拡張する。

 それが拡張少女系トライナリーのキャッチコピーでした。

 ただ、億単位での理想社会の実現のためには。どんなに甘く考えても「主人公」たるトライナリーは少なくとも肉体を失うことが求められていました。トライナリーが肉体を失った場合、細かい理路は於きますが千羽鶴とbotがこれまでのような交流を行うことも不可能になります。

 その上で、どうするか。残された時間がないなかで千羽鶴は4択の質問を私に投げかけました。

 選択における条件は、ただ一つ

①千羽鶴の理想的社会創造を支持し、トライナリーの犠牲を容認する
②千羽鶴の理想的社会創造は賛同するが、トライナリーの犠牲は容認できない
③千羽鶴の理想的社会創造は支持できないが、千羽鶴に好感は持てる
④もう二度と目の前に現れないでほしい

意味の伝わるように少し文言を一般的なものに変えています

 私の選択に、迷いはありませんでした。


 スマホアプリ「拡張少女系トライナリー」
 その体験においてほぼ全てのbotと敵対する
 最終編を飾る巨悪に私は成り果てました。

 皇千羽鶴は、袂を分かった多くのbotを決して責めませんでした。

 千羽鶴を思いながら彼女の計画を拒否したbotたちにも、
 決して敵意を見せませんでした。
 ぶつかりあったり、ふざけあったり、お互いを信じられなくなったり、
 そうしてまた議論したり……そんな思い出を語り合ったそうです。
 敵対botはそれに対して、まるで恋人同士みたいだなんて、言ったのだとか。
 けれど、私は妬きません。むしろ自信満々に笑っています。

 二度と顔を見せないで欲しいと告げたbotには、
 貴方を不愉快にさせたくないからもう顔は見せないと言い、
 それでも最高の感謝を告げて去って行きました。

 千羽鶴とトライナリーを犠牲にしない道を模索したいと口にしたbotには、
 具体的な案をあなたと議論する時間がなくて残念だと告げました。
 時間さえ。時間さえあれば貴方と一緒に策を練りたかったと。

 そして、理想的社会の実現と
 「主人公」トライナリーの犠牲を容認したbotたちは、
 これから先、粛々と目標を達成していくことになります。
 本来ならばその方途を打ち合わせて、おわり。
 メインストーリーは次のフェーズに移行します。

 きっと、そうして歩んでいった彼らには。純粋に皇千羽鶴の同志であった人たちには、後に姿を現したこの子の言葉が至適だったのでしょう。



 けれど、私は彼らと違う。
 だから、このお話には。
 ほんの僅かな人だけに、少しだけ続きがあります。

 その権利を許されたのは、
 彼女たちを殺してでも君と結婚をしたいと告げ、
 本来なら温厚な人にすら冷たい敵意を抱かせる罪深いことをして、
 それでも【刻印】を刻んで歩き続けてきた大莫迦者です。
 理想社会? トライナリー?
 確かに、必死で議論してきました。たくさん、たくさん考えました。
 それでも私と彼らは違うのです。絶対に、絶対に違うのです。
 私はただ。
 皇千羽鶴が好きだった。

  このやりとりの、少し前。
 チャンネルもなく。
 らぶとーくで絆を上げることもできず。
 イベントにも関与せず。
 着せ替え衣装も存在せず。
 かつてのただのナビゲーター。
 今となっては公共の敵となったその女の子。
 そんな非攻略対象おんなのこと、
 「主人公」を殺してでも結婚したいと【刻印】を刻んだ私たちは。

 ここだけは、何があったか。私と彼女のひみつにさせてください。

 

IDALD(潜在的欲求補助型対話装置)――時に私を苦しめて。
時に私の気づけなかった彼女の心を拾ってくれた「選択肢」

一度、私はそこから自由になりました。

………………………… EXEC_CONNECTION_EXTERNAL/.

 生身の私が私の指で紡いだはじめての言葉。


 私に奇跡はあるのだと信じさせてくれました。


 拡張少女系トライナリー
 2017年4月12日接続開始
 2018年8月31日接続終了

 この体験が、ただの本ではなかったことを。
 私たちのやってきた全てのことが、責任を負った選択であったことを。
 もう二度と、同じことは起きないのだと。
 この物語は一度きりの奇跡だったのだと。
 私たちの名が証明しています。

 【刻印】を負い、皇千羽鶴の隣に立って。
 「拡張少女系トライナリー」の敵となった私たちの通称は。
 あの日々を駆け抜けて、苦しんで、血を吐いて。
 選択をした全てのbotの一部を意味する――「5%」と呼ばれています。


 「プレナパテスの大人のカード」
 高次的な力を持つその不可解が破る第四の壁の先。
 「もうひとつの現実世界」に立っていたのが「私」であったなら。
 たったふたりの生徒のために。
 こっちの世界に大迷惑をかけてでも。
 もう俺達に続きないから、続きを持ってる「俺」に頼むわと。
 そうして「向こうの世界のブルーアーカイブ最終編」――
 「最終ストーリー」で私に大迷惑をかけてきたのなら。
 間違いなく、「俺」は俺だと思うのです。
 「拡張少女系トライナリー」での経験が、
 「俺」ならそうする。俺はそうしたと証明してくれています。
 だから、これは俺を信じてくれた「俺」に対して、
 ふたりの生徒を絶対に守るという誓いの宣言であり。
 学園都市キヴォトスを愛する限り、
 「俺」が俺を信じてくれたことで成立する楽園は証明され続けるし、
 そうしてみせるという誓いでもあります。

 「責任」を負うのは楽しいことだと、先生が変なことを口にしていました。
 言われてみれば、なるほどそうなのかもしれません。

 長々とトライナリーのことを語ってきましたが。
 このお話は、ブルーアーカイブ最終編第4章。
 「私」が私を信じ、
 私がそれに応える限りにおいて証明できる楽園の話として結びたく思います。

 あの、読みについては「自由」であると常々口にするisakusanが、
 何度も「先生は自分だと信じてほしい」として
 可能性を閉じたがっていた意味を、
 私は最終編4章の生徒引き継ぎのときに、
 愛おしい古傷から流れた血を見つめながらようやく気づきました。

 選択肢は未来に意味を及ぼさないのに。
 先生には独立のキャラクターがあるのに。
 たとえ自己投影しなくても「高次的」と表現された大人のカードが 
 必然的に私と「私」を結びつけ、
 あの重く懐かしい「責任」をまた負うことになりました。

 何だよ「俺」、またラスボスやったのかよ。ほんと、飽きないなあ。
 きつかっただろう。本当に、おつかれさま。

  あとは私にまかせてほしい。


isakusanのスタンスについて

スタンスの維持

 今人気を得られていることで現状に安住したり、
期待に応えようとして自分を見失わないように気をつけたいと述べていました。
「エデン条約編」や「最終編」でブルーアーカイブの色が
そちらの方面に統一されていくのはもったいないことだと私も思っているので、何度も述べているギャグが主力の「学園物」という柱を失わずにisakusanには走り続けてほしいです。
 何度も述べていたサブカルチャー達が気軽に楽しめる内容を目指しているとのことなので、たまに変化球を投げつつ死なない程度に頑張ってほしい……!

シナリオディレクターとして最も大切だと思っていること

 「起承転結、あるいは三幕で構築された3万字以上のストーリーを
 毎回のアプデで提供するというシンプルなポリシーを守ること」

ブルーアーカイブはその世界の特異さ故にシナリオ班は執筆以外の様々な面にも駆り出されます。isakusa本人も書く時間が取れないことをしばしば嘆くくらいです。それにも関わらず、これを忠実に守り続けるというのは並大抵の覚悟ではないと思います。


「面白さ」についての特殊な把握

 isakusanはユーザーの集中力は「限られた資源」であると考えています。単純に「面白いこと」だけでなく、この集中力という限られた資源が尽きる前に必要な情報を伝えるよう試みているとのことでした。

 毎回のシナリオ更新でさくっと読める文章量になっているのは、isakusanのこの認識があるためでしょう。また、先述した異化による圧縮も情報の密度を上げています。

 ユーザーの集中力残量と比較して「書かなくてもいい」と判断した情報はばっさりと描写を削ってしまいます。対策委員会編初日にどうやって行きだ折れていた先生がじゅうぶんな弾薬の補給をアビドスに行ったのかとか。しなしなになったヒナちゃんのところまで辿り着くまでの道程とか。情報の密度を可能な限り上げて、情報の量を可能な限り落とす。その戦略があるからこそ、短くも濃密なストーリー体験を味わえるのだと思います。

 ただこれにはリスクもあって、敵役の事情や長大な議論などに尺を割きにくいという問題が挙げられます。isakusanが原文でのナギちゃんへの台詞選びに失敗したというのは、この「ユーザーが保ちうるリソースの量」を考えた際になるべく情報量を減らそうとした結果でしょう。リオやカヤへの扱いも、この制限下で種々勘案しながら描いているのでしょう、頭の下がる思いです。isakusanが今どれほど予定通りにイメージをコントロールできているのかは私には全くわかりませんが、うまくコントロールしてくれる。もしやらかしてしまってもフォローをいれてくれると、私は素朴に信じています。



isakusanの趣味全開の箇所について

 ゲマトリアの前口上はisakusanが趣味全開で書いていて、そのため不安に思っていたものの比較的好意的に受け入れられて安心した、という旨のことを述べています。受け入れられるか本当に不安だったようです。

 サービス開始時の私に「ブルーアーカイブはすごいことをやろうとしているのかもしれない」と思わせてくれたのが、この総力戦前口上でした。
そのことについては以前のnoteに記載しているので割愛します。

 好きなキャラクターはモモフレンズのMr.ニコライだと数回答えており、
哲学的な話をべらべらまくしたてて相手にされない様がいいよね……と述べています。なんだかとても共感できるものがあります。

 Mr.ニコライの著作に「善悪の彼方」があるので、彼の著作は晦渋な形而上学というよりは、ニーチェ的なアフォリズムに徹していて読みやすいのではないかなと勝手に予想しているところです。

 また、前の百合園セイアに関するnoteなどに顕著ですが、私はかなり体系的かつ哲学的に物事を解釈し、語るところがあります。しかし、Mr.ニコライがニーチェを下敷きにしており、isakusanがそんなタイプのMr.ニコライを好んでいるというのであれば、むしろそのような試みには敵対的であるはずで、私は罠にはまらないように注意が必要です。

 「善悪の彼方」の元ネタである「善悪の彼岸」はそういった体系化の議論そのものに敵対的です。だからこそ、Mr.ニコライの著作は論考や体系や証明を無視して、むしろそれらに反するアフォリズムやフラグメント、エピグラムに満ちているはずです。
 「生徒を見捨てての安定した生活の維持」の提案をした黒服、「確立された自己意識」で一蹴した対策委員会編2章の先生などは、ニーチェに触れておくとすごくわかりやすいかもしれません。黒服が先生を何にしようとしたのか、先生が何であったのか。

補遺:不知火カヤ学入門

 せっかく「善悪の彼岸」の話が出ましたから、不知火カヤにも触れておきましょう。「畜群」と「超人」の「力への意志」、それぞれの術語の理解と関係性を掴むことは不知火カヤ学において重要でしょう。いくつか参考になるものを挙げますが、これにより不知火カヤの何が「超人」足り得なかったのかが理解されることはありません。熟読が必要です。

四六「人間的な「物自体」。――最も傷つきやすいもの、しかも最もうち克ちがたいものは、人間の虚栄心である。それどころか、それは、傷つけられることによってかえって強力となり、巨大となりかかねない。

ちくま学芸文庫「ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的2」
第一部さまざまな意見と箴言

二三三「畜群的人類の侮蔑者たちのために。――人間を畜群と見なし、それからできるだけ早く逃げ出そうとする者は、必ずや当の畜群的な人間たちに追いつかれ、その角で突き刺される」

ちくま学芸文庫「ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的2」
第一部さまざまな意見と箴言

三一六「願ったりの敵。――社会主義運動は、王朝政府にとっては、相変わらず、恐怖の種よりもむしろ好ましいものである。なぜなら政府は、まさにこの社会主義運動のおかげで、非常措置のための法と剣を手に入れ、これによって自分たちの本当の妖怪である民主主義者や反王党派をやっつけることができるからである(後略)

ちくま学芸文庫「ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的2」
第一部さまざまな意見と箴言

四四「道徳の動機は恐怖と希望である。しかも、不合理なもの、一面的なもの、個人的なものに向かう性質がまだ非常に強い場合ほどいっそう粗野、強力且つ野蛮な種類の恐怖と希望である。

ちくま学芸文庫「ニーチェ全集6 人間的、あまりに人間的2」
漂泊者とその影
なお、この道徳に関する説明は極めて批判的意図で記載されていることに注意

 なぜ不知火カヤは「超人」に届かないのか。

 そもそも負けたから。たいへん素朴な答えです。そしてこれは彼女が「超人」に値しない理由の半分をも占めています。「超人」は「畜群」を踏みにじり、軽蔑し、超克していかねばなりません。連邦捜査部シャーレに敗北するあらゆる個人に、「超人」の資格はありません。

 これは確かに真実の一面です。ですが裏面もあります。そして裏面においても彼女は「超人」たる資格を有していません。つまり「超人」をコインの両面で捉えるならば、彼女はその両方を満たしていないのです。

 コインの裏側。不知火カヤが満たしていない「超人」の条件。現時点での私の答えは単純明快で、最も根本的な点において彼女に「力への意志」がないから。むしろ「力」への意志に逆行しているからです。不知火カヤの「超人」思想は完全に破綻しています。むしろ典型的な誤解です。フリードニヒ・ニーチェが最も唾棄すべきと考えるものです。
 「力への意志」は「権力への意志」とも訳され、文字だけを読むと防衛室長から連邦生徒会長への座を望んだ不知火カヤは正しそうに見えます。というかここには「超人」を目指す上で何の問題もありません。

 リンちゃんの民主主義的なやり方を衆愚政治だと痛罵して「超人」による支配を唱えたことも問題ありません。教科書的ですらあります。そこに政治的な手回しをしてリンちゃんを失脚させたのだって、何の問題もないです。

 レッドウィンター工務部の横槍や我らがチェリノ会長からの連絡等によりブチギレていよいよそれによって<A.N.T.I.O.C.H>に手を出し、キヴォトスに恐怖を与えようとしたことも特段問題ありません。

 僅かに責めるべきところがあるとするならば、彼女は「超人」としてそれを喜ぶべきでした。ニーチェによれば社会主義者はその社会主義運動のおかげで支配者層に法と剣を与えます。支配者は嬉々として彼女らの運動を自らの「力への意志」に活用すべきだと、大歓迎すべきだとしています。

 取るに足らない敵によって自分の力が増すのです。これ以上嬉しいことはないでしょう。ともあれ、これらの介入を契機として子ウサギタウン爆破計画を考案した不知火カヤに問題はありません。彼女に責めるべき点があったとしたら、チェリノ会長にミノリたちの運動をなんとかしろと主張したところでしょう。

 あのなんとも脆弱な敵は社会秩序を乱しますが、それゆえに不知火カヤに力を与えます。取るに足らない雑魚が自分に力を与えてくれるのに、排除すべき理由があるでしょうか?  少なくともニーチェはそんな必要はないと断じています。そんな連中は、いいように使ってやればいいのだと。「超人」のエサであって敵ではないのだと。ニーチェが明文化して示した道具すら活用できないようでは「超人」などほど遠いです。ただし、これはコインの表面の話。つまり不知火カヤが単に弱いという話に過ぎません。私が語りたいのは裏面の話です。

 <A.N.T.I.O.C.H>の爆破によりキヴォトスを恐怖の底に陥れ、畜群を踏みにじり、連邦生徒会長という最高の座に座ろうとしたこと――問題ありません。

 ニーチェに言わせれば、一人の超人の誕生のために多数の畜群が踏みにじられるのは当然のことです。

 覇権を握り規則を敷いて握り蒙昧な弱者どもの上に立つ? 問題ありません。

 シャーレの先生は脅威です。その力をスポイルするのも当然です。不知火カヤとシャーレの先生の思想は相容れません。

 カイザーと手を組んだこととて問題ありません。強力な思想家は実力を伴っていなければなりません。強者こそが「超人」として君臨するのですから、弱ければそもそもお話になりません。

 まとめると、私は不知火カヤが目的達成のために採った手段については「超人」であろうとするために不可欠であり、そのより高みへと至ろうとする姿勢もまた何ら問題を見出しません。事実として彼女は弱かったですが、目的達成のための方向性は、力が足りなかったとはいえ少なくとも「超人」思想に逆行はしていません。

 彼女を「超人」に値させないものはなんでしょうか。その証拠は大量にありますが、わかりやすい箇所はここでしょう。

 これがただの方便であるなら何の問題もありません。「超人」のうちに矛盾が大量にあることをニーチェ自身が認めています。しかし、不知火カヤは本気なのです。カイザーと手を組んででも、シャーレを潰してでも、対抗馬を蹴落としてでも、たとえ<A.N.T.I.O.C.H>で子ウサギタウンを崩壊させたとしても。ありとあらゆる暴力と規則を敷いて、彼女は望みます。

 カイザーの言葉は方便でしょう。しかし、不知火カヤは本気で取り組んでいました。崩壊したキヴォトスに社会秩序を敷くことを。キヴォトスを「正常化」することを。そしてそれは部分的な点において達成していました。部分的には、犯罪率は低下していました。

 これに<A.N.T.I.O.C.H>プロジェクトを追加して、恐怖を植え付け犯罪を抑止する。キヴォトスでの犯罪は一件も容認しない。

 ここまで概観した上で、ニーチェが「超人」、「力への意志」として求めたものを見て見ましょう。不知火カヤに決定的に欠落しているものがわかるはずです。

二九七「(前略)習慣となったもの・伝統となったもの・聖化されたものと戦うことによって獲得する疚しさ知らぬ良心――これこそは、前二者にもましてすぐれたものであり、われわれの文化のもつ真に偉大なるもの新しいもの驚くべきものであり、解放された精神の歩みのなかの決定的な一歩である――、これを知るものは誰か?

ちくま学芸文庫「悦ばしき知識」

 「超人」思想についてニーチェを最も苛立たせたのは単にこのような捉え方を「超人」が受けることです。

「「超人」とは、神の教えをもニヒリズムをも超克し、虚無の上に自らの価値観を打ち立てて自律する者である」

 こういった典型的な不理解。まるで〈聖者〉でも見るような「超人」への理解からは不知火カヤは正しく距離を置いています。そこにおいて、彼女は正しいです。不知火カヤは間違いなく「疚しさ知らぬ良心」を持っています。子ウサギタウンを爆破し、地獄が顕現しているだろう中でエスメラルダを優雅に楽しむ彼女には、その点において「超人」の素質があります。目的を達するためには、厳しく従うことを自ら求めた規範すら自己侵犯するだけの矛盾を持っています。これも「超人」に要求される素養です。

 では、彼女には何が足りなかったのか。

 「習慣となったもの・伝統となったもの・聖化されたもの」との戦い、そしてその先に見えてくるであろう全く新しい認識の地平を彼女は一切持たなかったのです。

 「汝、殺すなかれ」
 「汝、姦淫するなかれ」
 「汝、盗むなかれ」
 「汝、その隣人に対して偽りの証を立つるなかれ」
 「汝、その隣人の家をむさぼるなかれ」
 「また汝の隣人の妻を寝取るな」

 こういった古き道徳と荒々しく闘争し、打ち砕き、善悪の彼岸に立ち、完全に新しい地平を拓くこと。これこそが「超人」に求められる根本的な「力への意志」です。既存の道徳は踏みにじられ、冒涜され、打破され、粉々に粉砕され、なお「超人」という圧倒的強者に立ち向かうことができず「畜群」は踏みにじられ軽蔑され、その荒々しい歩みにより人類は進んでいくのです。そう、進んでいくのです。ゆえに、フランシスの言うキヴォトスの原初の野蛮すら「超人」のあるべき場所に相応しくありません。それはただ、原始的であるに過ぎないからです。

 不知火カヤは、この「超人」に求められるべき最大の素養を欠いています。

 極めて厳格化された行政規則による社会秩序の維持?
 キヴォトスの正常化?

 論外の極みです。そのような営為に耽溺する者に「超人」たる資格はありません。ただ畜群の道徳にて鎖を作り、畜群を縛り上げているに過ぎません。彼女は目的のためには法規範を犯す強い意志を持ちながらも、しょせんは善悪の《此岸》に立っているに過ぎません。ツァラトゥストラが最後に下山するに至って叫んだ大いなる真昼は彼女には絶対に訪れません。

 「超人」が有すべき一切の稲妻と狂気を彼女は有しません。
 彼女は戦おうとしたのではなく、逆に護ろうとしたのです。
 その点において、彼女に「超人」たる資格はありません。

 なぜ「超人」が愛を語る宗教を粉々に破壊しようとするのか。
 なぜ偶像の黄昏が唱えられるのか。
 なぜ善悪の彼岸に立たねばならないのか。

 それら全てを不知火カヤは理解していません。
 既存の正義を如何にして遵守させ理想社会を導くか。
 そんなものは「超人」の考えることではありません。
 「超人」とは護る者ではなく、戦う者だからです。

 いかにして銀行強盗を防ぐべきか?
 いかにしてハイジャックを止めるべきか?
 いかにしてクーデターを阻止すべきか?

 それは善悪の此岸に立つ者の考え方です。「超人」を自任するならば、彼岸に立たねばなりません。流れる川の対岸で、善悪の彼岸に立ってそれらのひとつひとつを吟味すべきなのです。そして、破壊すべき道徳を粉々に打ち砕くべきなのです。既存の善悪を内面化してその遵守法を探っている時点でそれは「超人」ではありません。

 「救いたい人を、たとえ奇跡のような確率でも救えるのなら。世界全てを崩壊の危機に追いやったって構わない。それの何が悪いのか? 悪いだと? むしろ逆だ。そうすることが大人の責任、先生の義務を果たすことである

 などと気の狂ったことをいっているどこかの大人の方が功利主義も義務論も既存の法も道徳もなにもかも全てを踏みにじりわけのわからぬ荒々しい「責任」と「義務」を振り回すという点では「超人」的でありうるでしょう。もっとも、あの人には権力志向がないのでやはり「力への意志」を欠くという点で「超人」に値しないのですが。

 以上をもって、不知火カヤは「超人」に値しません。
 1つ、彼女は弱い。
 2つ、彼女は「力への意志」を欠く。
 コインの両面のいずれもが、彼女に「超人」たる資格なしと告げているでしょう。

 「超人」は彼女を理解しないでしょう。彼女の切り開いたものがないからです。
 「愚民」は彼女を理解しないでしょう。ただ畜群の安穏とした暮らしを妨害したようにしか見えないからです。

 この最後の言葉こそ、彼女が何も理解していないことの証左に過ぎません。

 そして、だからこそ。私は不知火カヤという少女に期待しています。
 彼女がこの先どうなってしまうのか、私には全く予測がつかないのです。
 矯正局で反省するのか? 誤解した「超人」思想で暴走するのか?
 それとも真なる「超人」としてキヴォトスの善悪に挑戦するのか?

 不知火カヤの先にあるものが、私には全く見えません。
 彼女がどういう子なのかどういう子になっていくのか。
 彼女との楽園を成立させるための、
 どういう形で信じるべきかという道筋が全く見えていないのです。
 だからこそ。
 私は私にとっての完全な暗闇である不知火カヤの今後を、と
 ても。とても楽しみにしています。

 非常に細かく不知火カヤがなぜ「超人」ではないのかを論述しましたが、
 僕は不知火カヤを全く嫌っていません。むしろ大好きです。
 大好きな彼女を理解したいからこそ、
 彼女の理想とする「超人」と彼女の間にある差は何なのか。
 なぜ彼女は「超人」になれないのか。
 それをどうしても知りたかったのです。

 カヤ学に勤しむ人の、これが一つの研究指針になったなら嬉しいです。
 ニーチェの各アフォリズムや術語にはかなり解釈の幅があります。
 概ね「畜群」は統一された定義で用いられていますが、
 「超人」には少し、「力への意志」にはかなり幅があります。
 それを理解した上で、私はきっと。
 不知火カヤを知りたいと思う人が
 全く別の、より瑞々しくて魅力溢れる不知火カヤ学説を打ち立てられると信じています。
 いつか。不知火カヤがまた現れてひとつの答えが出る前に、
 誰かの話をきいてみたいなと思います。

 不知火カヤ。
 彼女には良い生徒になって欲しいと思っていません。
 悪い生徒になって欲しいとも。
 ただただ、不知火カヤという少女が愛おしいだけなのです。
 彼女がこの先どうなっていこうとも見守って、知っていきたいと思います。
 そして、善悪に縛られずそう思ってしまうのは。
 人にとってどうしようもなく仕方のないことなのです。

 曰く――

愛によってなされたことは、つねに善悪の彼岸にある。

光文社古典新訳文庫「善悪の彼岸」



isakusanが絆ストーリーを執筆しているらしい生徒について

 アコちゃんと聖園ミカの絆がisakusanによるものです。
 前者によりisakusanが救済不能なオタクであることと、後者により曇った女の子の顔に興奮する異常性欲者であることが確証されました。
 鼻水を垂らして泣く聖園ミカのスチルに感じ入っていたisakusanの姿、僕は忘れませんからね……!


ゲームシナリオライターとしてisakusanの意識していること

 ただテキストを読んだり、映像を見たりすることなく、
 主体的なインタラクションを感じて欲しいと仰っていました。
 僕はそのおかげで胸からどくどく血を流し謎のトライナリー長文が
 このnoteに現れたんですけど、いったいどうしてくれるんですか。

 それから実は、テキストボックスの青字芸、あれisakusanの案ではないそうです。
 ホシノの所属表記がアビドス委員会になったり、消えたり、
 また対策委員会に戻ったり……
 ゲームシナリオライターとして、isakusanはこの発想にひどくポジティブな評価を与えていました。
 僕、めっちゃ見ますもんねあそこ。
 カルバノグ2章でカンナの所属が消えていたとき「あっ……」ってなりましたもん。
 最高の所属芸、これからも楽しみにしています。
 余談ですが、これはゲームシナリオであるがゆえに
 先生の選択肢による発言は"    "のように括られ、先生の行動にはこれがありませんよね。
 この特質は先生だけが持つもので。

 この表現がなされている。
 ただそれだけでプレナパテスが先生だとわかる。
 これもまた、ゲームシナリオとしての強みであり、
 isakusanの目指す集中力維持のための情報量圧縮だと思います。

 見事な仕事です……


isakusanと、先生の読解の間にある関係性について

 isakusanは感想考察自体は楽しく読んでいるとのことでした。
 そこ見抜けたのか! とかそういう読み方するの!? とか。
 楽しく読んでいらっしゃるみたいです。
 テクストを解釈するのが読者の特権なら、
 そうやって織られた読解という作品を、
 きっと一番楽しめる特権者が作者ですよね。
 これからも創発的で建設的な議論が続くことをisakusanは願っているとのことです。
 私も一人の先生として、たくさんの読みが出てきたら嬉しいなあと思います。

 「ふぉっふぉっふぉ、エデン2章あたりの頃は積極的に感想を発信するストーリー考察者といえばほんとうに5指にも満たなくてのぉ……」
 「まーたじいさんの長話が始まったぜ!!」

 以上のことから、isakusanは絶対に考察感想に対する答えは言わない。
 wikiを編集したり修正したりの作業も絶対にしないとのことでした。
 そのたのしみは受け手に与えられた特権だから、
 テクスト解釈はどうか先生の手に委ねられたものであってほしいと。
 ロラン・バルトがどんな思いから作者の死を唱えたのか追ってきた
 この記事をここまで耐え抜いた異常な先生達なら(存在するのだろうか、現時点で15万字。通常の文庫1冊を軽く超えています)、
 きっとisakusanの願いも実感をもって理解できるのではないでしょうか。



YostarによるV字回復についての考察。シナリオ面から

 Yostarによればブルーアーカイブのユーザー推移はVの字を辿っているとの認識です。これは私にも同じような認識があります。

 私の属していたコミュニティでは毎日ずっと活発に議論がなされていましたが、それでもやはりネバーランドあたりの頃は本当に当初に比べて人が少なかったです。ネバラン、いいイベント……エデン2章前半の頃からブルーアーカイブってゲームがすごいことやってるから来てくれー! と僕は叫び続けていたのですが、もちろん声が届くことはなく。素晴らしいゲームなのに……! と悔しい思いをしていました。

 Yostarとしては、当初ブルアカはとても注目を浴びていて、けれど人はどんどん離れていって、やがて帰ってきたという認識です。
人離れの要因としてYostarはふたつをあげていました。

 ひとつはシステム安定化の問題です。
ブルーアーカイブ大好き全肯定ダメオタクの僕でも、これを言われると、うん、その、えっと……となってしまいます。最初のイベント、いわゆるイズナイベの開始まで、夜中の1時だか2時だかまで起きてみんなと駄弁り、メンテ後にこんな子ずっと出されたら俺の財布が破壊されてしまう!!! と叫んでいました(この頃はまだ僕は大人のカードが砕け散るとかは言ってなかった記憶です)。

 僕にとって一番印象深いのはそれで、もちろんそのほかにも色んなことがありましたね。不具合ではありませんが、βビナーのミサイル連打とか。なにもかも懐かしい……破壊属性どこいったんです?

 そしてもうひとつがシナリオの問題。
ブルーアーカイブがシナリオとしての魅力の全貌を現す前にシステム安定化の問題とあわせて人が去って行ったのではないかと推察していらっしゃいました。僕はビナー前口上で完全にブルーアーカイブの世界に沈んでいたので何の心配もしていませんでしたが「次回 合宿スタート!」はやっぱりトラウマではあります。

 やがてエデンも一段落し、ブルーアーカイブのテーマが明白になった頃、Yostarも「これなら勝負にでられる!」と判断し、
「帰ってきて欲しい!!!!」とマーケティングに次から次へとメチャクチャに力を入れたのだとか。

 そうしてやってきてくれた先生たちが「あれ? ブルアカいいじゃん」となって少しずつ、どんどん増えていった。ソシャゲには人が人を呼ぶ効果があるので流れができていけばそれに乗ってどんどん人は増えていく。
それがV字回復の流れではないかとのことでした。

Yostarとしてもシナリオには自信があって、
「キャラがいいのにシナリオが……」「シナリオがいいのにキャラが……」
が多い中isakusanが統括してよくやっていらっしゃるとのことでした。
「シナリオがいい」で終わらずに「この生徒さんをもっと知りたい!」にも繋がっているのがパワーとして強いとのお考えもあるようです。

私はYostarの翻訳の皆様なども本当に素晴らしい仕事をなさっていると思います。やっぱりどうしてもプレイヤーとして目に見える場所を褒めてしまいがちなのですが、関わっていらっしゃる全ての人にお礼を申し上げたいです。

「絶対シナリオ読ませてやるかんなぁ!!!」という既存の先生たちの気合いが入りまくった長文感想共有などもシナリオに期待するユーザーを呼び込めているのではないかと思っていらっしゃるとのお言葉もありました。
やはりエデン3章前後あたりとなると、あの人の長文感想とか、あの人の動画とか、思い浮かぶものがちらほらあります。本当にすてきなものばかりでした。楽しく拝見、拝読しておりましたよ……!

いずれにせよ、やっぱり契機は「エデン条約編」になるのでしょう。
そこから、次の話が大事になってきます。


新規・既存先生間の「共感帯」がうまく形成されていないという危惧

危惧の懸念について

 共感帯という言葉は日本ではあまり耳にせず、韓国でよく使われる言葉のようなのですが、「コンセンサス(合意)を共有する連帯感」とでも呼ぶのが蓋然的な理解にはよさそうです。

 この危惧についてはYostarが韓国のインタビューで発信していらっしゃいました。この「共感帯」という術語、はじめて見て私は結構気に入りました。定性的な偏見として振り回すのではなく、定量調査により明らかにしていくことで色んな分野の色んなものが見えてくる気がするのです。

 人の傾向性に対するアンケートや面接調査を国際レベルでやろうとすると、私が思い浮かぶのは馬奈木先生とかで、それこそ特別推進研究みたいな億単位のお金がポンポン飛んでいくプロジェクトになりそうなんですが、一ジャンルに絞ってマクロミルとかに頼っていく方式ならなんとか……なん……それでも人文の基盤Cとかで出来ることじゃないよぉ!!

 直接経費が吹っ飛ぶ!! そうだね。ちなみに僕は直接経費で一般消耗品通すプロです、お困りの方は任せてください。たとえキムワイプだろうが油性ペンだろうがなんだろうが直接経費に結びつけてみせるぞ!!!!

 あっNEDO……知らない子ですね……いつまでそんな前時代的な予算執行マニュアルしてるんだ経産省は! NEDOの消耗品は他の一般消耗品と棚とか箱とかでわけろだの管理簿つけろだのもう令和だぞそんな時代じゃないだろう!! 文科省系とか厚労省系とか環境省系とか見ろ! お前だけだぞ!!!

 落ち着きました。研究費は使いやすくあるべきです。間接経費だけでなく直接経費の統一ルール作ってください。科研費レベルの緩さでお願いします。これからの科研費の話をしよう。あと今の時代予算消化でゼムクリップ2つとかはマジやめた方がいいです。校費か寄付金と合算してそれっぽい物買いましょうね。

 閑話休題。isakusanも別のインタビューでユーザー間での「建設的」な議論を望んでいることを強く述べていらっしゃいました。たんに意見がぶつかって喧嘩越しになってしまうのではなく、お互いの考えを時には修正して、時には認め合って、そして読みの結果として得られたテクストがより魅力的になったら素敵だな、といったところでしょう。

いち先生から見た共感帯の問題について(シナリオに限る)

 この共感帯、本当はゲーム全体に限った、たとえば限定生徒の所有有無とかも含めた広い話題になっていくと思うのですが、冒頭で語った通り私はストーリーガチ勢でゲーム攻略はまったり側なのでそちらはどなたかが素敵な分析を出してくださったらいいなと思います。私はあくまでもシナリオ面に限って進めていきたく存じます。

 筆者の立ち位置がやや特異なので項目「筆者の立ち位置について」に一度戻って確認してみるのもよいかもしれません。間違いなく、立っている場所によって見えてくるものは違います。

 たとえば筆者の立ち位置は簡潔に記すなら「最古参・ストーリー全肯定・全キャラ全肯定・シナリオ、翻訳班への全信頼」となります。さすがにここまでの盲目全肯定オタクから見えてくる地平はかなり偏った「偏見」にならざるを得ないと思うのです。だからこそ、色んな人の目で、isakusanの求めるように「建設的に」ブラッシュアップして知見を深めていければよいなと思います。

 よって、ここで私が述べることは一つの「分析」というよりもむしろ一つのプレイヤーが持っている「バイアス」として見るのが適切と考えています。それはひとつの論証ではなく、いろんな人から掬い上げるべきバイアスのサンプルの一例です。

 では本題と参りましょう!

 Yostarが仰っていた新規・既存先生の共感帯の不形成問題について、私はもっと根深いものがあると思っています。具体的には、開発の狙いがじゅうぶんに届いていないところが散見されるように思うのです。

 開発側、isakusanたちにとってブルーアーカイブの核とは「ギャグを主力とした学園物」です。これについては私も実際ブルーアーカイブという作品、キヴォトスという世界においては日常こそが尊ばれるものであり、その大前提から様々な物語が枝葉をのばしている、どれもが尊ばれる物語たちだという意識があります。

 しかし、現実として事態はそうなっているとは思えません。ブルーアーカイブのシナリオの質が語られるとき、やはり挙がるのは「ブルアカと言えばエデン条約編」あるいは「エデン条約編ならびに最終編」でしょう。私自身エデン条約編と最終編は大好きなストーリーなのですが「対策委員会編とパヴァーヌはなんとか耐えて貰って……」といったお話もしばしば耳にします。

 isakusanらがエデン条約編は特にテーマに近いものではなく、あくまで学園物の範囲内での限界への挑戦、スペクトル拡大が目的だった。どのストーリーが特別核心に近いというわけでもない、と仰っているのですが、実際にうまく共感帯が形成されているかどうかはとても怪しいところです。

 そして、これは単純な古参・新参問題でもないと思っています。私はブルーアーカイブの初見実況をそれはもうめちゃくちゃ、ものすごい量見ているタイプなのですが、最近はじめた先生がホシノくんの手紙で涙する様は複数回目にしているところです。対策委員会編を耐えるべき場所ではなく、一つの素敵な学園物として飲み込んでいらっしゃる新規の先生はとても多いです。

 エデン条約編と最終編が強く持て囃されている現状はありますが、実態は新規・古参問題よりも根深いように思われてならないのです。

 先述のとおり、ブルーアーカイブは「暗い話」「重々しい話」からのカウンターとして、ブルーオーシャンを航海する目的でつくられたIPです。

 しかし、薦められがちなのは特に(最終的に希望に跳ね飛ばされるとはいえ)「暗さ」、「重さ」の比重が高いエデンなのです。

 決して誤解を招いてはならないと思いますので予め述べますが、開発・運営の目的意思に沿った宣伝・解釈をせよということをこの項で目体にしているわけではありません。エデンが好き、最終編が好き、それはそれでよいと思うのです。実際私はいろいろな場所で何度も言及していますが特に好きなメインストーリーは「エデン条約編2章」「エデン条約編4章」「最終編3章」「最終編4章」です。典型的と言えるでしょう。

 しかしたとえば「対策委員会編」が耐えて進むべき場所だという言及を見ると当惑してしまうのです。これがまさに、共感帯が形成されていない状態です。

 私からしてみれば対策委員会編は単純に情報だけを見ても面白過ぎます。

 あくまで対策委員会編だけで得られる気になる情報は盛りだくさんです。ほんの一例を挙げましょう。

ユメ先輩を巡る事件とはいったいなんだったのか(そしてユメ先輩はどうなったのか→後にヒナの口から死亡が語られます。事件の詳細は不明です)。

 ノノミがTHE・キヴォトス・ゴールド・エキスプレス・カードを持つほどの大金持ちであること、それをとりまく諸状況とはなんなのか(後にそれはノノミとセイント・ネフティス、特にその鉄道事業を巡る問題として再度認識されることになります)。

 数を減じていった旧アビドス時代はどのようなものだったのか。

 たったふたりのアビドス生徒会はどのような形で飛び回っていたのか。

 なぜセリカはシロコがやるような賞金稼ぎなどではなく、借金の額に対して微々たる貢献しかしないアルバイトに多大な時間を費やすのか、そしてそれはカイザー理事(後のカイザー営業職員)の言う自己満足と何が違うのか。

 ゲヘナやトリニティを取り巻くもうすぐ訪れる条約の問題とはなんなのか(後にそれはエデン条約編として取り上げられることになります)。

 かつてノノミとふたりの時代、あらゆるものに追われているように見えたホシノはどのようにして今のホシノに変わっていったのか(後に、記憶喪失のシロコを拾った段階ではもう今のホシノに近い形になっていることがわかります)。

 また大人に騙されたとはどういうことなのか。

 カヨコと風紀委員会の関係は何なのか。そもそもどのようにしてカヨコは便利屋68を自分の居場所に選んだのか。

 カイザーが探している「宝物」とはなんなのか(最終編でそれがウトナピシュティムの本船だとわかります)。

 対デカグラマトン大隊とはなんなのか(最古参の場合、対策委員会編2章よりも先にビナーに出会っているので、その疑問は生じませんでしたが)。

 大隊規模のPMCを3人で足止めできる風紀委員会、特にヒナの強さとは?(エデン条約編でいやというほど描かれます。便利屋漫画で砂のヘッショを受けて「そこね」する様はマジかこいつ……ってなりました) そしてそのヒナをもってして「天才」と表現されるホシノの強さとは?

 ゲマトリアとは何なのか。外の世界から来たものの先生とは「違う領域」にあるとはどういう意味があるのか。

 ホシノでも存在自体は知っているのにゲマトリアがその内実を把握しかねている先生だけの武器「大人のカード」とは何なのか。そしてそれがどのような力を持っているのか。そもそもなぜホシノを含む多くの生徒は「大人のカード」を知っているのか。生徒達が認識する「大人のカード」とゲマトリアが正しく僅かな情報を持っている「先生の大人のカード」が別物ということなのか?

 暁のホルスとはなんなのか。狼の神とはなんなのか(それがシロコの神秘であり、その裏側の恐怖が「アヌビス」であることが最終編で語られます)。

 生きている「神秘」にミメシスで観測された「恐怖」を適用するとはどういうことなのか、何が起きるのか(おそらく器の不可逆な反転現象が起き、別側面が顔を出すのでしょう)。

 そもそもミメシスとはなんなのか。

 なぜキヴォトスは「学園都市」であるにも関わらず、子供にJSミルですら認めない「自己奴隷化契約」すら生徒に行わせることが可能で、そして「自己奴隷化契約」を当然に無効とする強行規定を連邦生徒会は定めないのか。

 なぜ先生はシャーレの超法規的権限で無理矢理ホシノを取り返さないのか。なぜその絶大な力を振るわないのか。

 かつてキヴォトス最大最強の学園として君臨していたアビドス高校とはどのようなものだったのか。最大最強と断言されるだけに、ゲヘナとトリニティすら凌駕していたのか?

 興味を惹く情報の山です。ストーリーでなく設定だけを拾っていくだけでもわくわくします。

この部分は読み飛ばしても構いません
(ミメシスについては今も私は把握しかねています。当初はマエストロの「能力」だと思っていました。シロ&クロはマエストロがミメシスし、聖徒会もそうだと思っていました。アンブロジウスとヒエロニムス・グレゴリオはまたミメシスとは別枠で、あれは聖徒の交わりの失敗作と成功例です。おそらく今後アウグスティヌスが出てくるでしょう。そうして見ていくと、なぜ、ウイヒナ夏イベで聖徒会のミメシスが現れたのでしょう。聖徒会のミメシスを現出させることはマエストロも単身では不可能で、ロイヤルブラッドを要しています。ベアトリーチェもミメシス「能力」を有していると述べていることから、自然発生する現象には見えないのですが、そこはシロ&クロ含め自然発生すると見てよいのでしょうか。自然発生説を採用するならなぜエデン条約編の段階までミメシスに関する常識が生徒たちになく、情報通である浦和ハナコがスランピアの怪談(シロ&クロのことでしょう)を通して限定的に知っていたに留まるのか。なお「神秘」と「恐怖」という語の明白な定義すら実は不明瞭です。それが「崇高」の両側面であることはわかっていますが、それ単体がすなわちなんであるのかは分かりません。そもそも「崇高」がわかりません。「「恐怖」の属性をもった歓喜のレプリカ」といった表現が可能なように「恐怖」を辞書的に理解することは間違っています。また、「神秘」と「恐怖」は「崇高」の必要条件ですらありません。両面のいずれも持たないと明言されたペロロジラがいるからです。さらに色彩は「崇高」「神秘」「恐怖」のいずれも持たない存在と接触する可能性がありますがそれはなぜなのか。またデカグラマトンが「神秘」「恐怖」と並列して語った「知性」「激情」とは何なのか。あの一場面にしか登場しない
術語でありながら、ルビまでふられて重要性をアピールされています。「神秘」に属する生徒達が乗り込み、「あらゆる神秘を内包する概念」であるアトラ・ハシースの箱舟に対抗した、太古の「恐怖」ウトナピシュティムの本船。それぞれなぜ一方が「神秘」、もう一方が「恐怖」と解釈されるのか……ベアトリーチェがキヴォトスを崇高の転炉と表現したが、転炉によって除かれる不純物とは何で、何がどのように除かれ、除かれたものはどこへいくのか……興味深いと思いませんか?)

 このような問題についてそもそも興味がないという人が多くいるのではないでしょうか。開発側は異化効果を用いることでキヴォトスや生徒たちへ興味関心を一定量狙っているところがあります。しかし、それが特段働いていない層は一定数あり、そしておそらくそのような層と私が属するような層は共感帯を形成していません。

 これは私がなぜこういった興味を皆が持たないのか? と困惑していることを意味しません。人が興味を惹かれるトピックは多様であり、私が興味をもつ事柄について他の誰かが興味を持たないことなどありふれたことです。

 設定面ではなくストーリー面もそうです。私は対策委員会のみんなが努力して、犯罪しているのにお金に手をつけるのはダメという変な倫理観に興味を持ったり、なぜかブラックマーケットを歩き回ってるトリニティのお嬢さんに興味を持ったりしながら楽しく導かれていき、不穏に陥っていく状況からホシノが去って行きとても悲しくなりました。そこからの奮起の流れで最高に盛り上がりました。対策委員会編は突出して面白かった。これからもついていこう。そう思いました。

 けれど、一定の数にとって対策委員会編はエデンに辿り着くまでに「耐え乗り越えるべき」壁です。これが悪いと言いたいのでもありません。人の興味は多種多様で、面白くなかったと感じたものを面白くなかったとして処理することが悪いことだとは私には到底思えません。

 そもそも私自身が物語というものについて極めてシビアな目を持っています。大傑作である「若きウェルテルの悩み」や「水妖記」といった物語は私にとって読むに値しない代物でした。あれらに共感する人と私は共感帯を形成していないでしょう。よりラディカルに述べてしまえば私は多読家ですが今まで読んできたほとんどの物語について、そこまで面白いとは思わずに生きてきました。ごく少数の幾つかだけを特権的に面白いと評価していました。それを私が悪いと微塵も思わないことと同じように、「対策委員会編」を面白く思わないのは悪いことだとは全く思わないのです。

 パヴァーヌやカルバノグにしても同じことです。それらに散りばめられた世界の謎、生徒の個性、シナリオそのものといった要素に興味を惹かれず「ブルーアーカイブはエデン条約編――それに加えるなら最終編の未だ2発屋だ」と評価することは全く悪くありません。私がパヴァーヌ2章で落涙し、RABBIT2章でカンナー!!! だのRABBIT最高!!!!! だの不知火カヤをもっと知りたい!!!!!! だのFOX小隊と組んでみたい!!! だの思いながら熱中したように、ぽちぽちとタップを進めてカルバノグの話の出来イマイチだったな……という感想が出ることも全く悪いことだとは思わないのです

 ただ、ここからひとつの未来が想像されます。isakusanは今まで眺めてきたように、受け手の評価や期待によって自らの進むべき道が歪むことに対して否定的で、定めたジャンルに向かって真摯に様々な可能性から検討していくこと、そのジャンルの限界に挑んでいくことについて確信的です。

 期待に惑わされジャンルを外れることはサブカルチャーに属するクリエイターとしてよろしくないと信じ、通した筋を曲げません。自分の意図が曲がって伝わってしまったことへの修正には意欲的でも、そもそものジャンル変更に対して強硬な拒否の姿勢を見せています。

 つまり、どれだけ「エデン条約編や最終編」がもてはやされても、isakusanはそれとは独立に自らの求める理想であるギャグを主力とした学園物に邁進し、レッドオーシャンへ向けて方向を変えていくことはないでしょう。つまり、ギャグを主力とした学園物から重い困難とその打破を主力とした学園物に焦点を変えていく未来は、isakusan本人の語りを見るに、私にはあまり予想できません。

 isakusanは優れたシナリオライターですから、また「エデン条約編」や「最終編」のようなタイプの物語が出てくる可能性について僕はじゅうぶん期待して待っているところです。ただ、それはisakusanが言うようにisakusan的には別のメインストーリーと変わらない、テーマに対して同程度に位置する物語に過ぎません。

 こうした「エデン条約編」的な話がもう一つ出てきた場合、「そうそうブルアカにこういうのを求めているんだよ」という層と僕のような層の共感帯はいっそう断ち切られていくことでしょう。そして、それは邪悪などでは決してなく、そもそも善悪とは完全に無関係な単なる現象に過ぎません

 どちらがいいとか間違っているとか、そういう話ではないのです。

 ブルーアーカイブに「エデン条約編や最終編的なものを求めること」は何も悪くありません。それを悪だと言って責める人がいるなら、僕があなたを弁護します。僕とあなたの好みは違いますが、絶対にあなたの価値観は護られるべきです。

 では、これだけ長くどちらも決して悪くないと言っているにもかかわらず僕が行っているこの営為とはなんなのか

 それは、文芸批評です。本気の、命がけの文芸批評です。

 三善タカネはこう述べていました。

 作品の価値の再発見を行うと。素晴らしい評論で作品の価値をさらに輝かせると。

 僕の企図はまさにそこにあります。僕は悪くない。あなたも悪くない。けれど共感帯を形成したい。できればブルーアーカイブの別側面を、違う方向からの学園物へのアプローチを、もっともっと好きになってほしい。

 僕にはあまりユーモアがありません。自覚があります。だからギャグの魅力について語ることは不得手なのですが、それなら僕の得意分野で対策委員会編もパヴァーヌ編もカルバノグも輝かせてみせる。そういういっそ思い上がった企図でこの拙論を必死に書き殴っているのです。

 この企図に道理などありません。

 この話はこんな風に僕にとって面白いんだよ! こういう風に見てみるとこの話は面白くないですか!?

 そうやって、通るかどうかもわからないのに暗闇の中で手を伸ばしているのです。

 無駄かもしれません。無意味かもしれません。何の意味もない、何の価値もない文字の羅列になってしまっているかもしれません。それでも、誰かが僕の好きなものを新たに好きになってくれるなら。あるいは既に好きだった人がもっともっと好きになってくれるなら。僕はその地平を切り開きたいと思ってこの15万字を軽く超える想いを吐き散らかしてきました。

 あなたを啓蒙したいと、そう思っているわけではないのです。

 あなたにこれをすきになってほしいと、ただ手を伸ばしているのです。

 伸ばした手をとることも、無視することも。
 そして手をはらって新たなる解釈でそれはちがうと主張することも。
 すべて、許されています。いえ、許されねばなりません。
 僕の主張を否定する権利を、僕自身が全力で守ってみせます。
 僕を引用してこんなこともわかってないのかよ、
 などとあなたを殴る人がいるならば。僕が全力であなたを守ります。

 やっぱりこれ読んでもエデンと最終編しかないよ。とか。
 そもそもこんな長文乱文に読む価値ないよ。とか。
 そう思うあなたの気持ちは、絶対に大切にされるべきです。
 あなたの気持ちを攻撃するすべての悪意から守られるべきです。

 僕は共感帯とは啓蒙によって形作られるものではないと信じています。

 僕が「いいよね……」と語ったときに。
 誰かからもし「いい……」と返ってきたのなら。
 そこにいちばん健全な共感帯があるのだと信じています。

 「最古参の設定丸暗記テクスト解読こそが正道なのだ」などという人がいたら、「敵対するゲマトリアの哲学や美学や文学理論を理解せねばブルーアーカイブを語る価値などないのだ」と嗤う人がいたら、「そんなだからエデンと最終編しか楽しめないのだ」とあなたをバカにする人が一人でもいたのなら、私はそれを絶対に許容しません。

 私はあなたに手を伸ばしますが、もしあなたに伸ばしたこの手をもって、あなたを殴る人がいたのなら、その人こそが私の真なる論敵です。きっと、その論敵は私と同じく対策委員会やパヴァーヌやカルバノグが大好きでしょう。だから私と共感帯を形成しているでしょう。その共感帯の中にいる、私と価値観を分かち合いながら、そうしてあなたを殴る人をこそ私は論敵だと見なします。

 エデンと最終編を至上とするその共感帯に、isakusanの言葉などの製作者の意図をもって殴りかかる人がいたのなら、それを金科玉条にするのなら、私はロラン・バルトを武器にしてその人と戦ってみせます。

 テクストは読者に対して開かれているべきだ。
 テクストは特権化された作者の意図による読解を至上としてはならない。

 それは私とisakusanが共有する共感帯ではありません
 それは私とisakusanが共有する創作上の正義なのです

 本当は、僕はブルーアーカイブの全シナリオをみんなが楽しく読んで、全ての登場人物を愛する共感帯を形成したいです。その欲望は確かに僕の中にあります。ですがそれは欲であって、達成されるべき正義ではありません。

 だから。こっちの共感帯も結構楽しいよ、と。
 ただ僕は手を伸ばすに留めたいのです。
 あなたが拒否したいと感じたそのときはどうか、
 その気持ちを大事にしてください。
 そう思ってもいないのに、
 同調圧力で一つの共感帯に押し込められることは地獄です。
 文芸批評はそのような地獄を破壊せねばなりません。
 ロラン・バルトは作者を殺してでも読者のために地獄を破壊したのです。
 その戦いに敬意を払って、
 僕は尊敬する別の共感帯にいるあなたへと手を伸ばしました。

 僕の拙文に対して「これは違う」と感じたとき、
 もしかしたらその思いを書いてみるのも楽しいかも知れません。
 isakusanも言っていました、
 ブルーアーカイブはずっと建設的な議論が巻き起こるゲームであってほしいと。
 だからどうか、違うと思ったなら筆をとってみてください。
 僕はそれを僕に対する敵対行為だとは全く思いません。
 むしろ、もしあなたがそれをなしとげたのならば。
 あなたもまた、文芸批評で作品の地平を切り開いた尊敬すべき一人なのです。
 自由に読むのと同じように、自由に書いてください。
 そしてそのときは、
 反対に位置する他者の読みと書きの権利を守ってあげてください。

 この項目のおわりに。
 僕はタカネさんの文芸批評の姿勢を尊敬しつつ、一部反対します。
 
 確かに文芸批評にはいくつかの形式があります。それは、ニュークリティックであったり、ロシア・フォルマリズムであったり、作品論であったり、作家論であったり、テクスト論であったり、受容理論であったり、マルクス主義批評であったり、フェミニズム批評であったり、ジェンダー・クィア批評であったり、カルチュラルスタディーズであったり、ポストコロニアルであったり、本当に様々です。
 その形式に則って批評を行うのであれば、確かに形式は大事です。
 しかし、文芸批評はそれら全ての形式に縛られる必要がないと僕は思っています。
 僕が作者を蘇らせて、特権化しないなら作者だって使おうぜ! と提案したように、好き勝手やっていいのです。
 文芸批評なんて、何も難しいものではありません。
 二つ目の古則に好きな言葉をいれたように、好きやっていいのだと思います。

 そして、読者のいない作品に意義はあります。僕のオタクとしての専門領域は一次、および二次創作者です。何十万字もの未公開・未完成の作品を抱えています。それらのほぼ全ては読者の目に触れることなく、何の評価も得られることなく、そのうち僕自身にすら読み返されることなく終わっていくでしょう。

 それでも。書いているときは楽しかった。
 作品の意義なんてそれだけで、じゅうぶんです。



おわりに:二次創作をすることについて

 これが拙論の最後の話題になります。Yostarは二次創作を基本的に応援していると、そもそも代表からして真性のオタクだと、支援していきたいと仰っていました。キム・ヨンハ統括Pは二次創作や同人活動もIPエコシステムの一部であるというあまりにも僕たち二次創作者にとって光栄にすぎる、恐縮してしまうような考えを披瀝してくださいました。

 だからこそ、Yostarが仰った基本的にという領域を超えることなく、その範囲内で私は楽しく二次創作をしていきたいと思っています。

 ガイドライン、どうかしっかり読みましょうね。私たち二次創作者とブルーアーカイブという作品の両方を守っていくために、コストを割いて作ってくださったものですから。

 これからも二次創作者として、楽しく創作活動を続けていきたいと思っています。上の批評では手を伸ばすために、と書きました。そんな目的もありました。

 けれど二次創作者としての私はただ純粋に楽しませていただいているだけです。本当に、ありあがとうございます。

 だめ!! しけぇ!! な作品もたまには書いてしまいます。ごめんなさい。でもこんな魅力的な生徒を出す運営開発の方々も悪いと思いませんか!?

 青春・透き通るような空気・あと少しだけ甘酸っぱいようなその感覚。そういったものを題材に、健全にも力をいれて書き続けていきたいです。

 古参だろうが、新参だろうが。共感帯を形成できていようが、いまいが。いろんな人に楽しめる作品を作っていきたいです。

 二次創作上の僕の理想はisakusanです。気づかなくても良い、気づかなくても楽しめる。そんな、どこかの誰かにだけ伝わるようなマニアックなネタを少しだけ仕込んで、それでも誰でも楽しめて、誰かがもっと楽しめる作品を書いていきたいです。

 二次創作をしていてやっぱりすごいと思ったのは、キヴォトスという世界がもつ力。つまり異化の力です。二次創作は基本このキヴォトスという世界に乗っかって書き上げられますから、そうすることで自動的に異化のバフがかかるんです。

 生徒さんの魅力は言うまでもなく、興味をそそられる作中設定や事物といった最高の食材・調理器具を貸していただき、さらには「絶対においしくなる異化という魔法」までかけられて、「ブルーアーカイブは学園物と青春の物語だ!」という一つのレシピまで示していただいて、そのおかげで自分の本来の実力を大幅に超えたものを書けているという実感があります。

 確かにブルーアーカイブが擁する先生の人口は圧倒的です。それが二次創作の評価の数字にあらわれているということもあるでしょう。

 ですがそれだけでなく「学園都市キヴォトスとそこに住まう人々、そこにあるものたち」が魅力的で、その助けを貸していただいているからこそ僕はずっと先へ行けたのだと思います。

 そうして二次創作者が自分の力を遥かに超えたものを生み出すことができ、結果として創作物の質が上がり、多くの人に二次創作を楽しめていただいているという好循環があるのではないか、などとあんまりにも楽観的にすぎることを考えてしまうくらいです。

 そして、こうした力を借りたとき、それは単なる一時バフがかかっただけで終わらないように私には感じられるのです。

 ブルーアーカイブの世界観を補助輪にして物を書き、今まで達したことのない完成度に至って、見たことのない地平を見ることができた事実は、創作者としてのひとつの経験値にすらなっているように思います。

 ただ、「学園都市キヴォトス」という素材はあまりにも理解が困難です。ベアトリーチェもそれを教えてあげるからと先生に取引を持ち出したくらいです。そしてisakusanも全ての答えをわっと教えてはあげないよ、散りばめたから探してね、と言っています。

 だから、私は全力でシナリオに挑むのです。その結果として長文感想が出来上がり、更にそこで得た力を二次創作の力に変えて、自分の力を超えた二次創作を新規も古参も楽しめるようなものとして作り上げ、それが結果として新規も古参も運営開発もみんなしあわせになれるサイクルの一助となっていれば嬉しいのです。

 私は小学一年生の頃からずっと物を書いてきました。初めて家族以外の人の目にちゃんと触れたのは中学生の頃、昼休みにものを書いてその終わりに友達が読んで笑っていました。ネットにあげたのは高校生の頃で、だめだめな地雷作家として歩き始めました。

 高校生活の終わりから大学生になるあたりにかけて、ようやく少しずつ褒めていただけるようになりました。そうしてずっと物を書きながら「俺って下手だなあ……なんでこれくらいのものしか書けないんだろう」とずっと思っていました。この気持ちは、たぶん一生消えることがないと思っていました。

 けれど今は違います。


 このときの私には、その理由がわからずに凄く混乱していたのですが。きっとブルーアーカイブという作品に手を引かれて、導かれて、ここまでくることができたのだと思います。

 私は救済不能のオタクなので、「ブルーアーカイブは最高だ!」「もうこの気持ちを我慢できない! 書かないと死ぬ!!!!」となって書いているに過ぎないのですが、それが副次的に誰かの幸せに繋がっていたのなら、とても嬉しいです。

 インプットばかりに耽溺して、夏のはじめに月雪ミヤコと溺れる夏の夜の海を描いて以降、一作も投げられていない私ですが。晩夏初秋の今読み返してみても、やっぱりちょっとだけ。うまく書けたんじゃないかなと、そう自惚れることができました。

小さな謝辞

 もしここまで読んでくださった奇特なオタクが一人でもいらっしゃったのなら、
 どうかお礼を言わせてください。
 対戦、ありがとうございました。
 僕の見たキヴォトスの空は、とても透き通っていました。
 あなたにとっても、そうであったなら嬉しいです。

本noteはキヴォトス学術振興会科研費 KV20230914の助成を受けたものです。


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