【ブルアカ倫理】キヴォトスの倫理・正義における「道徳的な運」について(エデン条約からあまねく奇跡の始発点へ)

本noteは2024年3月6日現在でのブルーアーカイブの全シナリオのネタバレを含みます。また、その哲学的検討の予備知識として2万字程度の事前情報が展開されます。本論全体として8万8000字弱の構成です。

事前準備なしで本論を読んでも要訣は理解できるはずなので、煩瑣だと思えば任意のタイミング(たとえば今です)で本論から始めてしまって問題ありません。事前準備にはほとんどブルーアーカイブの話はなく、逆に本論はブルーアーカイブがぎっしりです。事前準備は興味に応じて参照ください。


事前準備

 ブルーアーカイブで取り扱われる最も重要なテーマのひとつが「責任」です。私は以前からブルーアーカイブのメインストーリーで取り扱われる正義に関する問題――たとえば「功利主義」であったり「義務論」であったり「一回限りの囚人のジレンマ」であったり――をnoteで取り扱ってきました。

 ブルーアーカイブが主題とする日常ではなく、あえて「ゲマトリア的」観点から箭吹シュロの戦略の新規性を評価した以下のnoteで基本的な問題の整理が行われています。

 調月リオが自己正当化のために取り出した帰結の最大化を目的とする帰結主義的倫理である(行為)功利主義、箭吹シュロが不徹底ながら百花繚乱紛争調停委員会を瓦解させるために用いた非帰結主義的・直観的倫理である(カント的)義務論。

 正義・倫理上の問題は多岐にわたりますが、もし興味があれば以下の書籍が入門として鮮やかにまとまっており参考になるでしょう。電子書籍化もされており、わざわざ本棚や段ボール箱の中にある大量の哲学書から目的物を探し出す努力をせずとも気になればすぐに参照できます。

 分析哲学といえば勁草書房ですが、入門書はもちろん、重要な大著の邦訳を含め現代の哲学的議論を日本語で読めるよう力を尽くしており、頭の下がる思いです。上掲を読めば「嘘は行為の帰結に依存せず悪であり、許容されない」という武器をもって挑んだ百花繚乱編1章箭吹シュロの新規性をうまく掴めるはずです。

 私が買った10年以上前には電子化されていなかったはずで、悲しいことに紙と電子で2冊持っています。

 もちろん、非哲学徒にも有名で一定のムーブメントを巻き起こした共同体主義者であるサンデルの「これからの「正義」の話をしよう」も入門的な整理には推薦できるところです。悲しいことに紙と電子で2冊持っています

 特にトロッコ問題の幾つかの亜種を示しつつこの立場はこう回答する、この立場であればこう、と具体的に例示していく点はトロッコ問題という思考実験、哲学的ツールを初学者への教材とするという正しい運用をしており現代的です。

 「トロッコ問題を示しただけでは何の正義の正当化にもならない」という哲学徒にとってはごく通常の理解は、このサンデルの書が各種実験に対する各種回答を示し、その回答単体では対立議論への攻撃としてなんら成立せず、単に「各論をわかりやすく説明するためのエピソードの呈示」でしかトロッコ問題はないことが了解されるでしょう。

 これはパヴァーヌ2章におけるリオのトロッコ問題を用いた説得が哲学的に成立していないことを端的に示しています。重要な点ですが、リオの議論が成立していないことは先生の側が正しいことを導出しません。このような導出にはわざわざ「誤った二分法」という名前すら付けられています。

 正義における立場は「リオが正しいか/先生が正しいか」の二分法ではありません。可能な正義における立場は無数に存在するのであり、リオが誤っていた場合に先生が正しいことが論理的に導出できるのは「リオが誤っており、かつ正義における立場はリオ側か先生側のいずれかしか存在しない」という状況においてのみであり、正義の議論においてこれは成立しません。

 また、リオの議論が誤っていたからといって(行為)功利主義がただちに誤っていることにはなりません。これもまた「誤った二分法」です。行為功利主義は最も古典的なものであり、ベンサムが唱えたそれは現代において省みる必要がないと判じているなら早計に過ぎます。

 現代的で極めてエレガントな行為功利主義者にJ.J.C.Smartが存在します。ただし正義論だけでなく心の哲学などでも優れた成果を多数出している巨人であるにもかかわらず彼の著書には2024年3月6日現在邦訳がありません。

 勁草書房――ッ!!!!

 リオが採った功利主義ひとつをとってみても、リオが採用した功利行為主義ではなく規則功利主義はリオを論難する可能性がありますし、かつ先生はルールに則らない自力救済を多数是認しており、あの人は規則功利主義にコミットメントを持ちません。「銀行強盗、optimus mirror system強奪、ニンジン作戦、クローバー作戦――」枚挙に暇がありません。そして、先生がこれらを是認していることは先生が非帰結主義的正義である(カント的)義務論にもコミットメントを持たないことを示しています。

 わざわざメインシナリオライターであるisakusanがインタビューにおいて「どのような大人であるべきか」をブルーアーカイブのシナリオを通して考えてほしい、「倫理」はオタクカルチャーにおいて魅力を持ちうるとして、プレイヤー自身が倫理について考えることを強く促しているにもかかわらず、「ブルアカは先生の立場について無反省である」と読解してそれで終わるのは非常にもったいないです。

 ただし、もったいないのはそう読んで終わる場合に限ります。そういった読み方について自体は許されるべきです。それが作家論であれテクスト論であれ、文学上の立場としてシナリオでの立場の描き方が偏っているという読みを主張しつつ、かつisakusanが要求するように哲学・倫理的な正義に関する自分自身のコミットメントを振り返り、再検討することは両立可能です。

 去年の夏時点でのインタビューはいくつかリンクを以下のnoteにまとめて掲載していますので興味があればその箇所だけでもぜひ一読ください。

 少し脱線しましたが、もし正義――特に功利と直観を軸に入門したいならば個人的には「功利と直観」→「これからの「正義」の話をしよう」の順に読むことを推奨します。

 理由は単純で爆発的に売れたサンデルの「これからの「正義」の話をしよう」は著者が共同体主義者であり、「功利と直観」ではまず2つの対立する軸をしっかり噛み砕いていけばよいところ、「これからの「正義」の話をしよう」ではどうしてもそうはいかず理解すべき立場が複数あります。

 「功利と直観」が相補的に理解できるように、「共同体主義」は「自由主義」と相補的に理解できます。

 ベンサムらからはっきりと動き出す功利主義とカントの定言命法から幾つもの応用が出ている直観主義が対立であるように、ロールズの「正義論」に代表されるリベラリズムの再興とサンデルらの共同主義の対立――特にアメリカにおけるそれ――の理解なくして「これからの「正義」の話をしよう」を掴むのは難しいです。

 先述の通り、サンデルの話はわかりやすいという利点があります。ただし、そのわかりやすさは先述したようなアメリカの「自由」とそのカウンターという、アメリカ的な肌感覚をもってより実感的にわかりやすくなるのであり、特に日本の初学者がいきなりサンデルから入るのは複数軸を整理しながら読む必要があり「読みやすいのに、読み終えた結果としてきちんと各種議論を整理できない」可能性があります。ゆえに、「功利と直観」で一度軸をひとつしっかり掴んでから、サンデルに行くのが推奨されるのです。

 サンデルに関するものではほかにも「ハーバード白熱教室講義録」などわかりやすい著作が幾つかありますが、サクサク読めるわりにしっかり掴めていなかった――ではあまりにももったいないです。

 ゆえにオススメしたいのは「功利と直観」なのです。1軸でわかりやすく、しかも功利と直観それぞれの概念に過剰な晦渋さがなく「理解できた」という確かな実感を掴みながら実際にしっかり理解できている、という着実なステップを踏むことが期待できます。「功利と直観」を読んだならばそれを足がかりに「功利主義と分析哲学」から分析哲学へ入門できるという点でも推奨できます。いきなり「言語哲学大全」からはじめて心をへし折られるよりは遙かにいいでしょう。もちろん真剣に学ぶなら「言語哲学大全」は日本の初学者にとって好著です。入門書ではないという話です。買いましょうね。なぜか私の本棚にはⅢだけがない状態が数年続いています。どこに消えたのかまったくわかりません。最悪4巻全部電子で買い直します。

 自由主義と共同体主義が対立軸で語れると述べましたが、ロールズらのリベラル的直観には別の軸からの批判も存在します。

 ロールズはリベラリズムを再興するとともに社会契約を再興しています。社会契約については哲学に興味がなくとも中学で必ず触れているはずです。たとえばエデン条約編2章1話のタイトルであり聖園ミカが語った「巨大な怪物リヴァイアサン」とは、トリニティらしく聖書(たとえばヨブ記などにあらわれます)モチーフであると同時に、同じくそのタイトルを聖書からひいたホッブズの「リヴァイアサン」に依るわけです。

 教科書的にもそう教えられるように、また上掲のとおり様々な翻訳において語られるように社会契約についてのホッブズの主著といえば「リヴァイアサン」です。しかしどの著作も長すぎる原題を完訳していません。本来は原題は「リヴァイアサン、あるいは~」と続くのです。

 具体的にはホッブズのリヴァイアサンは「リヴァイアサン、あるいは教会的及び市民的なコモンウェルスの素材、形体、及び権力(Leviathan or The Matter, Forme and Power of a Commonwealth Ecclesiasticall and Civil)」です。

 こう述べるとタイトルだけからミカが巨大な怪物リヴァイアサンと言って何を言いたかったのか掴みやすいのではないでしょうか。

 教科書的にはルソーの「社会契約論」とともに教えられているはずです。三権分立を唱えたモンテスキューの「法の精神」とルソーが同時代人であるため、おそらく教科書の同じ見開きか近い位置にこの3人の名前がでてくるはずです。

 「三権分立」はカリンの絆ストーリーでも出てきましたね。もちろんみなさんは暗誦できるでしょう。「三権分立」としてモンテスキューの「法の精神」、社会契約としてホッブズの「リヴァイアサン」ルソーの「社会契約論」は習ったはずです。古典的な社会契約と言えばホッブズ・ルソー・ロック(「市民政府二論」)です。

(一部訳出の古さや、幾つか悪訳が論われる岩波文庫ですが[たとえば哲学徒にとって岩波の「純粋理性批判」は悪名高いです。ただでさえカントの三批判はついていくのがたいへんなので余計にそうなるのでしょう]、やはりこういった古典を安価な文庫で発していることには敬意を払うべきでしょう(高価な文庫で哲学徒への素晴らしい仕事を果たしてくれているレーベルにちくま学芸文庫があります。そして文庫ではなく新書のサイズだが中公クラシックスを忘れてはならない……僕は売れないが重要な翻訳の仕事ばかりして死んだきみに休止してほしくなかった……)。

 聖園ミカが語った「リヴァイアサン」のホッブズと「社会契約論」のルソーは社会契約を唱えながら大きな違いの一つとして根本的な「自然状態」への理解が異なりました。

 「社会」(「倫理」や「世界史」のレベルですらありません)をきちんと学んだ人ならホッブズの「万人の万人に対する闘争」の語もしっかりと覚えているはずです。つまり、「ホッブズ-リヴァイアサン-万人の万人に対する闘争」の3点セットでしっかり記憶していることでしょう。社会契約なき無秩序の原始においては万人が全権を持ち、その制約なき自由は各人の自己利益追求のための「万人の万人に対する闘争」になるほかない、という「自然状態」の想定です。

 一方のホッブズから後の時代のルソーは特に「人間不平等起源論」においてホッブズとは全く異なる「自然状態」を想定しています。

 原始時代は社会がないがためにこの状態では不平等は存在せず、高度な概念や社会システムを持たないがために上下関係もなく(これは不平等がないことの謂いでもあります)、「わざわざ戦う必要などなかった」。この状況が何世紀も何世紀も続き、人々が相互に協力し合うようになると言語や理性や概念や社会――そういったものの形成のために不平等が生じていった。これが人間の不平等の起源、「人間不平等起源論」であるという考えなわけです。

 同じ「社会契約」に立つロックはこれについて個人を見、ヒトの初期状態は何も書かれていない「空白の石版」説に立っていることは有名です。この考えははじめてロックが考え出したものではありませんが、哲学においては「経験主義」として特にロックにおいて有名でしょう(「経験主義」の話をしだすと正義と別の哲学的議論が始まるので深入りしません。分析哲学徒が大好きなデイヴィッド・ヒュームの話になっていくので語り出すと止まらなくなってしまいます)。

 心理学においてはワトソンの行動主義で有名でしょう。健康な1ダースの乳児に適切な環境を与えればどのような人間に育て上げることもできるという考えです。

 こうしたヒトの自然状態については当然現代の心理学や進化生物学的な立場から徹底的な批判があります。ピンカーの「人間の本性を考える」はこの「タブラ・ラーサ」を徹底的に叩くものです。

 これは日本においては「氏か育ちか」、英語圏では「Nature vs. Nurture」とよりスマートに呼ばれている問題です。そもそも氏と育ちは対立軸ではない、via(経由)の概念なのだとして名著「Nature via Nuture(邦訳:「柔らかな遺伝子」)」を著したマット・リドレーの手腕は鮮やかでしょう。

 彼は研究者というより生物学系の科学啓蒙家ですが(つまり新しい知見を発掘するというより一般向けに周知する啓蒙に力をいれている方です)、他にも親子間コンフリクトやセクシャル・コンフリクトなどにあらわれる進化的軍拡競争のうち特に性を取り扱った「赤の女王」などセンスオブワンダーを刺激される興味深い本を幾つも執筆しています。

 リドレーの著作を読むまでもなく、上掲のWikipediaのページを見ただけで進化の単位に「種」を見る種淘汰の考えの問題が直感的に掴めるはずです。

 ただし、邦訳「柔らかな遺伝子」が大学生協に必ず置いているだろうドーキンスの「利己的な遺伝子」のもじりであることからわかるように、彼はどちらかといえば遺伝子をめぐるドーキンス陣営とグールド陣営の「ダーウィン・ウォーズ」においてドーキンス側です。

 先述のピンカーもそうと言えるでしょう。どれも興味深い著作ですが先入観なしに読むとドーキンス側に染まります。もちろん、ドーキンス側に立つこと自体に問題はないのですが、ドーキンス対グールドという「軸」を認識しておくことは重要でしょう。これはグールドの側の著作を拾っていく際にも同じことが言えます。

 さて、大幅に脱線したように見えたでしょうか。違います。これらの語りは必要なものでした。何についてか、ロールズの立場に関するサンデル的な共同体主義とはまた別の軸――つまり「自由主義VS共同体主義」とはまた別のVSの軸があるという話をするためにこの長々とした話は必要だったのです。

 ロールズは彼の正義の導出に際して、一つのモデルを考案しました。それが「無知のヴェール」です。

 自由かつ合理的な人々が「無知のヴェール」に覆われたとき、つまり自分や他者の能力や立場について何もわからない状態に置かれたときに合意されるであろうものに正義の根拠を求めようとしました。

 具体的には、裕福で子を持つ人と貧乏で未婚で心身に障害がある人では当然コミットする正義が違ってくるだろうから、それらの立場を方法的にいったん「無知」にする。

 この「無知のヴェール」に覆われた人々の合理的な合意は(先述のとおりロールズが言うようにこのとき人は十分合理的であらねばなりません。「無知」でありながら自分が最悪の可能性に置かれている状況などを考慮しながら最適な正義を導出する、そのシミュレーションモデルが「無知のヴェール」です)正義にかなうと主張したのです。

 今までの流れを追ってきた人にはピンとくるでしょう。ロックの「タブラ・ラーサ」的だと。もちろん「無知のヴェール」は「タブラ・ラーサ」とは異なります。「無知のヴェール」に置かれるに際して人は十分に合理的であらねばならず、合理的な勘定ができるための「石版への書き込み」が要請されています。

 しかし、そもそも「無知のヴェール」が要請している「ヒト」とは何なのかについてかなり生物学的な疑義を付し得ます。先述のとおり、遺伝子レベルで見た場合「男女」はもちろん「親子」や「きょうだい」ですら最適戦略上の争いがあります。「それらの情報も無知にする」ということはつまりどのような操作をするのかよくわかりません。

 無知にしようとするその操作自体が中立的ではあり得ず何らかの価値観へのコミットメントを行っています。それに自覚的でないならば、その価値観に整合的なように「無知のヴェール」を設定し、都合の良い結論を「無知の状態のヒト」から汲み出すただの直観汲み出しポンプにしか「無知のヴェール」はならないでしょう。

 ジェンダーではなくセックスにおいて通常ヒトは性染色体XXで女性、XYで男性に性決定されるオスヘテロ接合型です。XXYの身体的表現型は男性的であり、遺伝子型Xの身体的表現型は女性的です。

 遺伝子によって決定づけられた表現型を含まない形で「無知のヴェール」を被る? もはや何を言っているのかわかりません。性だけでなく気質だけでなくわかりやすくは血液型など様々な面において遺伝子による表現型への影響があります。

 「ツインリサーチ」は有名でしょう。遺伝子が完全に同じ「一卵性双生児」と遺伝子に相違がある「二卵性双生児」での有意な差の有無を調べるものです。たとえば双極性障害は一般にうつ病より遺伝しやすいというのが通説ですが、これはツインリサーチによっているわけです。

 ドーキンス的な言い方をすればヒトとは遺伝子のヴィークル(乗り物)としての表現型です。ここで言いたいのはヒトは遺伝子の成功率を高めるために行動しなければならない、という倫理的主張ではありません。

 というよりも、そのような誤読があまりにも「利己的な遺伝子」に多いので今の版では冒頭でドーキンスはくれぐれもそのように読まないようにと強く念押ししています。

 ドーキンスの立場は、利己的遺伝子説からそれ自体をもって倫理を導出することはできない、というものです。

 これは進化論におけるフリーライダー、つまり「どんなサルのノミ取りもしてくれるサルに乗じて自分はだれのノミ取りもしない裏切りサル」の遺伝子はプール内で勢力を増す(なぜならノミ取りのコストを裏切りサルは他のことにあてられるので)が、裏切りサルに抑制的なのが「君が僕のノミをとってくれるなら僕も君のノミをとってあげよう。君が裏切るなら僕は君に寄与しない」という「しっぺ返し戦略」サルで(このようなサルが出てくるよう淘汰圧がかかるのは、裏切りサルが増えすぎるとノミが媒介する伝染病に対処できなくなるからです)、この「しっぺ返し戦略」は生物学とは別のところで悪い意味での脚光を浴び、ここからの安易な倫理の導出に対して生物学者たちは猛烈に反対しています。

 カルバノグの兎編2章で語られた「囚人のジレンマ」を煌びやかな場に出し、それによって猛烈な批判を受けたアクセルロッドやその影響者たちの立場への非難です。

 先に挙げた箭吹シュロに関するnoteでFOX小隊が語ったAll-D戦略の有効性への疑義については詳述しているので細かくはそちらに譲りますが、All-D戦略にせよしっぺ返し戦略にせよ、そこから安易に「ヒトがなすべきこと」は汲み出せないというのが生物学者・哲学者の共通見解です。

 リオが語った「トロッコ問題」からそれ単体で正義は導出できませんし、「囚人のジレンマ」からもそれ単体でヒトのなすべき意志決定の仕方は導出できません。さらに悪いことに、「囚人のジレンマ」における野性の社会での有効性からオトギはAll-Dを挙げています。

 「囚人のジレンマ」からそれ単体でヒトのなすべき意志決定の仕方は導けないこと以前の問題として、先述のとおり、また先のnoteでも語っていますが野性の社会においてAll-Dは戦略として「最も有効」ではありません。

 これは単純に動物行動学で観察済の事実です。つまり反例がいくらでもあります。All-Dが最も有効なのであれば野性の社会においてAll-Dを傾向付ける遺伝子が遺伝子プール内で優勢になり、表現型として各個体はよりAll-D的な行動を採るよう傾向付けられていきます。

 オトギの言葉が正しいのであればこのような傾向付けはノミによる伝染病の媒介への対抗手段を持ちません。先生が「みんなを信じたい」と言うAll-Cの献身はフリーライダーであるAll-Dの食い物にされます。All-DはAll-Cが払ってくれたコストにただ乗りしてより優勢になります。

 しかしAll-Dに染まってしまうとノミを介した伝染病に対抗できません。つまり、All-D――フリーライダーを排除せよという傾向がたとえば「しっぺ返し戦略」のように強まっていくことになります。

 All-Dはしっぺ返しをくぐり抜ける狡猾さを得なければなりませんが、当然それにはコストがかかります。せっかくただ乗りでコストを踏み倒そうとしたのにです。

 ですが、ただ乗りできる部分にはぜひただ乗りするよう傾向付けられるでしょう。そしてさらに、フリーライダーは排除されるように傾向付けられるでしょう。まるで競い合うように両者は突き進み、生き残っているものは突き進んでいるものだけです(実際に競い合っているというより、そのように見えるというのが正確です)。

 それがなぜ「赤の女王」と呼ばれるのか。これはルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の赤の女王の言葉である「その場に留まるためには全力で走り続けなければならない」を指しています。

 つまり、All-Dが野生の社会で最も有効な戦略だなどと言うのは、このレースを知らないとしか言いようがないのです。

 遺伝的多様性があることは強みです。つまり、生殖による遺伝子型の決定で生得的に何らかの状況に対するAll-Dをより強く傾向づけられる個体が出る可能性が保たれることは、特殊な環境、あるいは環境の変化への耐性として有用かもしれません。

 つまり、All-Dの可能性が保たれていることは強みです。逆の例、つまり弱い例は遺伝的多様性が乏しい例です。たとえば種を作らないキャベンディッシュ種のバナナがそうです。

 我々がふだん食べているバナナに種はありません。これは文字通り種がなく、つまりこのバナナは交配をしません。私たちが食べているバナナの遺伝子はいつも同じなのです。

 つまり、これに壊滅的な打撃を与える病原菌に負ければキャベンディッシュ種のバナナは終わりです。

 だからこそゲノム編集などの人為的な手段での対抗が研究されています。なんとかなるだろうと楽観はできません。戦後の人々が食べていた「あのバナナ」グロミッシェルはパナマ病で壊滅しました。つまりあの頃の人たちと今の私たちが主流供給として食べているバナナは文字通り別物なのです。

 キャベンディッシュがグロミッシェルと同じ道を辿らないとは限りません。

 All-D的生得傾向に寄与する遺伝子の保存はその意味でなされておくと有利ですが、これは遺伝的多様性に本質的な価値があることを含意しません。思い出してください、生物学者と哲学者はそこだけから単純に価値を汲み出すことを許さないのです。

 「価値があるとはどのようなことか」はそれ自体問題であり、生物学のみから解決することはできません。価値決定は生物学のみから汲み出せませんし、また論理操作のみからも獲得できません。

 しかし「価値」がなければ我々は様々な状況に対する合理的意思決定の方途を完全に失うことになります。つまり「価値」という概念はあらねばなりません。しかし、「価値があるとはどのようなことか」は論争的な未解決問題です。

 ヒトがなにものにも価値を見出さずとも生命の営みは海底の熱水噴出口付近などの安定環境を含めて壊滅的打撃を受けない限り続くでしょう。しかし、ヒトがなにものにも価値を見出さなくなったら即座に滅ぶものがあります。たとえば不死なるHeLa細胞は「不死」どころかヒトがなにものにも価値を見出さず培養を止めてしまえば終わりです。

 これはもちろん主流の通説ではありませんが、HeLa細胞は分類上単なるヒトのがん細胞ではなく、別種の生物だと主張する人もあります。

 品質について厳密な意味でのカマンベールに用いるカビも単一株ですが、カビは生命であるとのコンセンサスを得られています。

 しかしHeLa細胞はヒトとは明らかに異なる性質を個体としてもその情報としても持っていますが、とはいえ言ってしまえばそれは「がん細胞」なのであり、がん細胞を悪性新生物などと呼ぼうともそれが新種の生物であるとのコンセンサスは得られていないわけです。

 HeLa細胞の持ち主は逝去していますが、HeLa細胞のゲノム情報は持ち主の遺族のゲノム情報と関係を持ちます。HeLa細胞のゲノム情報が公知公表されることは学際的に有意義ですが、それは遺族の個人情報に強く接近していると言うこともできるわけです。

 このように「カテゴリ」は事実を扱う「生命」や関係を扱う「帰属」と無関係ではありません。たとえばHeLa細胞は持ち主のものではないという法的な判断が下されていますが、これは生物学・医学の知見を当然要請しつつも、それのみからは判断しえない事項なわけです。同様に、上で主流ではないとされた種についての話題も生物学のみならず哲学の方面からも検討されています。

 また長々と語りましたが、問題は「無知のヴェール」についてです。遺伝情報と各種ヒト個体の結びつきをこうして深く考えるとき、「無知のヴェール」がヴェールを被せようとしているヒトとは非常に不明瞭な概念です。

 また、ヒト各個体は生物であるがゆえに多様な問題への多様な傾向性を持ちます。「そのうちのどれをヴェールで隠して、どれを理性的判断のために要するものとして残すのか」という問題に「無知のヴェール」は無頓着ではいられません。

 つまり、この「ヴェール」そのものに既に価値判断がなされているのであり、ヴェールを被せて正義の共通解を得ようとするとき、「どのようなヴェールを用いるのか」という点に関して既にかなり強い価値観へのコミットメントがなされていると言わざるを得ないのです。

 たとえば古典的な経済学で用いられる「経済人」には明白な定義があります。これは経済学上のモデルであるホモ・エコノミクスであり現実のヒト、つまりホモ・サピエンスとは独立の概念です。

 しかし、モデルとして明晰に定義されているがゆえに数学を用いて操作できるのでありその点で経済人についての幾つかの知見を得ることもできるわけです。

 そして、ホモ・エコノミクスがホモ・サピエンスとは独立の概念であるからこそホモ・エコノミクスについての知見を得ることができても、それをホモ・サピエンスの個体や社会についての経済的検討についてどの程度応用が効くのかは少なくともホモ・エコノミクスの定義ほどには明晰でないわけです。

 だからこそ直観的な近似モデルであるホモ・エコノミクスではなく、エビデンスを用いた代替モデルを作成しホモ・サピエンスに積極的に接近しようとするなどの営為を行っている行動経済学が発達したのであり、そしてこれは心理学や認知科学の知見に依存するがゆえに、いわゆる「心理学における再現性危機」と同様の問題に行動経済学も直面したのです。

 いえ、行動経済学においては心理学以上に過激な言葉が「一人歩き」しました。「行動経済学の死」です。

 「心理学における再現性危機」とはざっくり簡単に言ってしまえば、実験心理学上の通説をテストしてみたところ大量の事項について通説が揺らいだという大問題です。

 網羅的にリストを見てみたい方は以下を参照ください(後述のとおりこれらリストに挙がっている各種効果という「各論」ではなく心理学の手続きという「総論」がヤバいというのが再現性問題の核です。リストだけを見て誤解せぬよう)。

 この危機以前の「一般向け実験心理学啓蒙書」は全部ヤバいと言っても過言ではないくらいです。著者に悪意や過失があるわけではありません。どれだけ誠実に書いたとしても、この大規模な再現実験により根幹が揺らがされたのです。

 この問題はかなり根深いです。単に「再現性が得られませんでした」だけでは済まされないのです。たとえばスタンフォード監獄実験のような「やらせ」疑惑については有名でしょうし、単なる不祥事で済みます。

 この問題の核心はそこにありません。何をもって「再現実験」と言うことができるのか、そして「再現性が得られた実験結果を○○効果などとして一般化するためには高い壁があるのではないか」と示されたことにあるのです。

 この大問題の渦中で再試に対し繰り返されてきた反論があります。

 「それはオリジナルの再現実験になっていない」

 具体的にオリジナルと再試の実験の差を挙げ、逆に再試を疑義に付したのです。これの何がそんなに問題なのでしょうか。

 一つは「何をもって再現実験足り得るのかについてのコンセンサス」が十分になかったことです。科学的仮説は再現性あってこそです。そして、再現性は適切に繰り返される実験によって確からしさを判定されます。

 オリジナルの発見者が指示したプロトコルに従って実験した結果再現性に疑義が付されたということもありますが、「再試は発見者の指示するプロトコルに基づいて実施されるべきである」などというばかげた主張を科学において行うわけにはいきません。そんな主観的な態度とは独立の基準が再現実験には求められるべきなのです。

 そしてもうひとつ。実験室レベルでの、研究者同士が再現の正当性について争うような差異で再現性が左右されるのだとしたら。このままでは実験心理学の実験によって得られた結果は、実験室レベルを超えた一般社会に関する知見についてまともなことを言えないのではないか、つまり実験と再試がうまくいってもそこから「○○効果」とは言えないのではないかという危機感が生まれました。

 なぜなら、実験の仕方をほんの少し変えただけで結果があまりにも大きく変わるからです。これが心理学の再現性危機に伴い不可避的に発生した「一般化可能性危機」です。

 行動経済学はホモ・サピエンスに接近するために心理学的知見を応用しての研究を行うものと先述しました。つまり、実験心理学に依存する以上、実験心理学が揺らげば行動経済学も揺らがざるを得ないのです。

 上掲の「行動経済学の死」は2002年ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン、および共同研究者のエイモス・トベルスキー(こちらは1996年に没しているので受賞していない)が展開したプロスペクト理論の重要な特徴であり、行動経済学上の重要な概念のひとつとして扱われていた「損失回避性」すら再現性について疑義があるとしたもので、根幹が崩れて行動経済学は死んだというものです。

 先にこの「行動経済学の死」は「一人歩き」していると述べました。この「損失回避性」の崩壊については反論があるのです。例によって「適切な再試になっていない」です。

 つまるところ、「行動経済学の死」で取り扱われた「各論」については反論があります。「損失回避性」の再現性に疑義が付されたことによって行動経済学は死んだわけではない、というわけです。この意味で争いがあるため各論レベルでは「行動経済学の死」は一人歩きしています。

 しかし、タイトルだけ見た場合の「総論」として「行動経済学が実験心理学に依存している以上、手法の反省と既存のモデルの再点検を強いられている」ことにはほぼ疑義はないわけです。

 「利己的な遺伝子」がそうであったように「行動経済学の死」もまた、そのタイトルのインパクトから実態を正確に掴みがたいところがあります。

 「ある実験によって得られたある結果から導き出された性質」に疑義が入ったから根幹が崩れたのではなく、「実験手法そのもの」に反省を強いられることになったため、それは過去の実験心理学の結果に波及し、行動経済学にも当然に影響を与えたというのが穏当な理解でしょう。

 こうした勇み足については常に慎重であらねばなりません。たとえばダニング・クルーガー効果が疑義に付されたというとき、「能力が低い人が能力を過大評価する傾向はないのか!」と理解すると勇み足です。

 ダニング・クルーガー効果への疑義の焦点はそこではありません。「能力が低い人が能力が低いという理由で自己の能力を過大評価する」のがダニング・クルーガー効果です。この太字の部分がしっかりしていないというのが疑義です。「能力が低い人が能力を過大評価する傾向」があったとしても、その理由は「能力が低いから」ではないかもしれない、というのが疑義の本筋です。

 これはダニング・クルーガー効果の疑義という「各論」の詳細な説明をしたいわけではありません。「心理学の再現性危機」という「総論」がいかに根深いかの例示です。一般に「疑義に付された実験心理学上の成果」はズラッとリスト化されます。ナッジも、ダニング・クルーガーも、分離脳も、スタンフォード監獄実験も、一覧化されます。しかし「心理学の再現性危機」は「そういうリスト」の問題ではないのです。もちろん非専門家にとっては危機以前の一般向け概説書、特に実験心理学の成果を例挙紹介する類の信頼性が揺らぐわけですから「リスト」が大事なわけですが、「心理学の再現性危機」とは「各論についてそれぞれ異なる様々な理由で疑義と反論がなされており」「ひいては実験室レベルの再現性のみならず成果の効果としての一般化の可能性にまで危機が及んだ」ことにあるのです。

 危機に陥って以降、専門家たちは血の滲むような努力で実験心理学を再建しています。「ホモ・サピエンスの心理を知る」とは、あまりにも、本当にあまりにもたいへんな努力を要することなのです。

 ロールズの「無知のヴェール」に戻りましょう。これだけ具体的に話したのでロールズが「無知のヴェール」を被せようとしているとき「ヒト」を「経済人」のように明晰かつ単純にモデル化しているわけでも、ホモ・サピエンスについての話をしているのでもなく、ヒトという概念をあまりにも素朴に使いすぎていると批判できるのです。

 「無知のヴェール」を被せるためにはどのようなヴェールを用いるのかへのコミットメントと正当化を避けられず、それについての明晰化をロールズはあまりにも欠いています。「各人が「無知のヴェール」だと思うものを被れば良い」とも言えません。

 「無知のヴェール」を被るにあたっては条件があります。合理性が堅持されていることです。つまり「無知のヴェール」は確実に「合理的意思決定」つまり「意志決定理論」へのコミットメントを回避できません。

 それは当然、どのような意志決定理論にコミットすべきかという問題を孕みます。行動的でない――つまり「経済人」のようにホモ・サピエンスに依存しない独立した形式的意志決定理論を採用すべきだと言うならば、そのような意志決定理論は様々考えられるのであり、数学の公理のようにその採用は任意であり排他的な正当化をなしえません。

 上掲の「数学での取扱い」を参照ください。ホモ・サピエンスに依存しない意志決定理論は「経済人」を用いた古典的な経済学のように数学的なモデル化が可能です。しかし、採用の正当化はそもそも数学上の問題ではない、数学はそれに根拠を求めないのです。それは数学の哲学の問題です。

 「無知のヴェール」をホモ・サピエンスと独立させないのであれば、「心理学の再現性危機」から立ち直ろうとする人々の努力に接近しなければなりません。つまり、自然科学の成果にコミットする以上部分的には「無知のヴェール」は物理主義に接近しなければなりません。これを哲学的問題が自然化されていっていると言います。

 この問題は排中律に従っています。「「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立か、またはそうでないか」です。先に調月リオが誤っていることから先生が正しいことは導出できないと述べました。

 しかし「無知のヴェール」はホモ・サピエンスと関係するか関係しないかの二択しか許容されません。これは任意の命題Pについて「PであるかまたはPでない」という命題は常に成り立つ(恒真である)という論理学上の原理です。

 もちろん形式的には排中律を排して直観主義によることが可能です。つまり「「無知のヴェール」はホモ・サピエンスと独立か、そうでないか」ではなく「正義を扱う「無知のヴェール」はホモ・サピエンスと独立か、そうでないか、わからないか」であると言うことは形式的には正当化されます。

 しかし、正義論として正当化されるわけがありません。「無知のヴェール」はホモ・サピエンスと独立かそうでないかはっきりと決定すべきです。これは「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立か「完全に依存する」か決めろと言っているのではありません。それでは誤った二分法です。

 「無知のヴェール」が「経済人」のようにホモ・サピエンスから「完全に独立」して誰もが機械的にシミュレータで用いられるような概念なのか、「ごく僅かにでもホモ・サピエンスと関係しているのか、つまり完全に独立しているわけではない」のか決めろと言っているのです。これが排中律の意味です。

 そもそも正義について決定不能になるなら「無知のヴェール」を用いる意味がありません。「無知のヴェール」とは例えば令和6年4月1日から従前より行政機関においては義務であった合理的配慮について、事業者についても努力義務→義務へと改められることについて「集団が正義において合意する」ためのツールです。

 「正義について「無知のヴェール」を用いたところで結論はでませんね」と形式的に言うことはできても、正義論上じゃあ何で「無知のヴェール」なんて取り出したんだよ意見ないじゃん、という話になるわけです。

 よって「無知のヴェール」は排中律に縛られることになり、ホモ・サピエンスと独立かそうでないか決定しなければなりません。

 そして、「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立であることはナンセンスです。なぜなら「無知のヴェール」によって得られる正義がホモ・サピエンスと独立であるならば、「無知のヴェール」が「正義と独立」であっても「正義と独立でない」のであってもおかしなことになるからです。検討してみましょう。

 「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立であり、かつ正義と独立ではないと仮定します。このとき、「無知のヴェール」は「正義を形式的に完全に導出する」か「正義を形式的に完全に導出するわけではない」かのいずれかになります。

 まず「「無知のヴェール」が正義を形式的に完全に導出する場合」を見ましょう。このとき「無知のヴェール」を被せる概念としての対象者はホモ・サピエンスではなく「明晰に抽象化された経済人のようなヒトかそうでないか」のいずれかになります。これも排中律からいずれかが正しいことになります。

 そして、前者、つまり「無知のヴェール」を被せる対象は明晰化されているという考えを採用するならばそれ形式的な意志決定理論と概念的に同値になります。

 形式的な意志決定理論とはモデル化されたヒトの最適行動を決定する理論です。つまりモデルにおいて最適であることは示されているのですが、それが現実を生きる私たちにとって最適である根拠はモデルの内部にはありません。

 私たちにとってどうかは外部からも見なければなりません。「経済人」のようにホモ・サピエンスは動かず、それが行動経済学の発展の動機となったことを思い出してください。

 現実から独立したモデルは現実における私たちホモ・サピエンスの合意によってツールとして採用したり棄却されたりするものです。モデル内部に何の論理的瑕疵もないのだとしても、現実において使えないならそれは現実上のツールにはなりません。

 そして現実のヒトに棄却されたことはモデルの内部整合性に何の瑕疵も与えません。これが「独立」であるということの意味です。

 もう片方、つまり「無知のヴェール」を被せる対象が「経済人」のように明晰でない、一部でも不明瞭、蒙昧な対象でありかつ正義と独立でないとき、正義は蒙昧なものに依って立つことになります。

 意志決定理論と違って道筋が判然としないので、その正義がちゃんと理論に支えられているのかわからなくなります。これは外部的な問題、つまり私たちと正義の間の問題ではありません。内部的な問題、「無知のヴェール」と正義の間の問題です。

 モデル設定をきちんとせずになにやらふわふわと処理を走らせ正義に到達しているわけですから、私たちが採用するかどうかという現実的な問題ではなくシステム内部が正義論としてお粗末になるわけです。

 よって、「無知のヴェール」を被せる対象が明晰であるか否かを問わず、「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立であり、かつ正義を完全に導出するとき、その正義を採用すべき理由は、古典的な経済学を現実の政策に援用するかどうかと同様に、現実における私たちに別途問題として要求されることになります。

 おや、おかしなことになりましたね? 正義論を解決するために「無知のヴェール」を導入したはずが、「無知のヴェール」から完全に導出される正義を定めてしまったがために、その正義を採用すべき理由をまた私たちは探さねばならなくなりました。これではなんの解決にもなりません。ゆえに、「無知のヴェール」から完全に正義が導出されるという考えはおかしなことになります。

 次です。「無知のヴェール」は正義を完全には導出しない場合。これは正義が「無知のヴェール」以外の要因にも依存していることを示します。しかし、それでは「無知のヴェール」を使って正義を導出するというシステムの信頼性が揺らぎます。なぜなら正義は「無知のヴェール」以外の要因にも依っているのですからそちらも検証しなければ答えが出ません。「無知のヴェール」で正義を導出すると言っている以上「無知のヴェール」以外の要因に正義が依存すると困るわけです。よってこれも駄目です。

 これで「無知のヴェール」がホモ・サピエンスと独立でない場合の確認が済みました。また、どの場合分けに従っても正義を導出する理論として不適切であることが了解されました。

 よって、「無知のヴェール」を被せる対象はホモ・サピエンスに少なくとも部分的には依存しなければなりません。しかし、ホモ・サピエンスに関する知見は「心理学の再現性危機」で眺めたとおり蓋然的なもので時に大崩壊するおそれすらあります。

 重要なことは「無知のヴェール」というツールでは正義の当面妥協的な正当化にすら達せないということです。つまり月雪ミヤコが求めるような変わらない正義を導出する手法として使えないだけでなく、当面的にもよくないというものです。確認しましょう。

 「無知のヴェール」が部分的にでもホモ・サピエンスに関係している場合、ホモ・サピエンスのどの部分がヴェールを被せる部分に関与し、何が関与しないのかを決定しなければなりません。

 つまり、「無知のヴェール」を被せる前にヴェールについての価値判断を私たちはしてしまっていることになります。そしてその価値判断が当面妥協的なものだとしても正義に適っているかどうか判断しようとすると、正義が「無知のヴェール」に覆われたヒトを参照し、「無知のヴェール」それ自体が正義を参照するという循環に陥ります。

 それ自体は形式的な破綻、つまり論理学上の循環論法ではありません。当面的な正義を支えに「無知のヴェール」を作成し、「無知のヴェール」を被った上で熟慮した結果当面的な正義に改訂が入る――このような営みは循環しているようで絶えず正義と「無知のヴェール」を更新します。

 しかしこのプロセスは始動において問題を抱えます。「無知のヴェール」は集団が正義に合意するためのシステムです。「無知のヴェール」を作るための「当面的な正義」に合意するための「無知のヴェール」を作るための「当面的な正義」――と無限循環せずどこかで「とにかく当面的にはこれなのだ」と決め打ちするとき、上のプロセスには決め手がありません。

 「決め打ちできずとも最初は不合意がある状態から徐々に合意できるよう歩き出していい」と言ってしまうと更に悲惨です。不合意を認めるなら「当面的な正義0」が当面どうあるべきか哲学者、倫理学者、政治学者、法学者等の間で論争が起き、ホモ・サピエンスが関与している以上科学者も意見し、導出された「無知のヴェール0」も論争の的になる可能性があります。循環プロセスである以上「当面的な正義41」や「無知のヴェール23」で議論が発生したときそこを起点にどんどん議論が枝葉を伸ばしていくことも想定されます。

 つまり、「合意が完全には取れていない無知のヴェール0」から歩き出すにせよ「合意が完全には取れていない当面的な正義0」から歩き出すにせよ、正義に関する論争状態が「少なくとも今よりマシになるだろう」とするエビデンスベースドの根拠がないのです。

 こういったエビデンスベースドではないものの、専門家が熟慮した結果「少なくとも当面妥協的には非専門家の一般感覚よりはマシなはず」と判断することを分析哲学では「直観」に拠ると呼びます。

 「いや傲りたかぶりすぎでしょ」「さすがにマシではあるでしょ」という議論は勿論哲学者間でなされています。分析哲学における「直観」論争は近代的と言うには最近すぎますが、生まれたばかりと言うには歴史を積みすぎている微妙な立場の議論です。

 肯定的であるにせよ否定的であるにせよ、「直観」を正当化または棄却するには観察するしかありません。つまり実験です。ゆえに、実験哲学が熱くなります。

 具体的には「無知のヴェール」や「トロッコ問題」のような思考実験的状況やより現実的な問題に着眼した「事例の方法」と「事例の方法」から主義を導出する際に用いられる「直観」の両方が検討されます。

 これら哲学上の「事例の方法」や「直観」について実験を行うことで概念の明晰化を図ったり、あるいは特定の立場を支持したり、概念の反省的改訂を行ったりと実験を今までの哲学へのプラスαとして用いるのが「肯定的プログラム」です。

 たとえば同じことを主張しているものの文の順番を入れ換えて印象操作をした際、一般の人より哲学者の方が有意に「揺らがない」ことから「直観」は一般的感覚よりはいくぶん頼りになるだろうと実験により主張する類です。

 これら哲学上の「事例の方法」から「直観」を援用し理論を構築するという営み自体がよくない、このような理論構築自体に問題があるとして現代の分析哲学的手続きそのものを実験によって論難するのが否定的プログラムです。

 たとえばあまりにも一般的感覚と「直観」がかけ離れすぎている場合、それは分析哲学者が明晰化した概念と論理操作という剣でちゃんばらごっこをしているだけであり、白亜の塔というリングでこいつらはマニアックなボクシングをしているに過ぎない、地に足をつけて哲学しろというのがこの類です。

 例として分析哲学者は「世界は決定的であり、かつヒトの自由意志だけはその決定的な世界に物理的に観察できるレベルで介入できる。つまりヒトの意志は物理的な領域の因果を閉包を破る」という考えをほぼ大多数が支持しません。

 そんなオカルトめいたバカげた考えは一笑に付すどころか相手にもしません。たとえば「完全に決定論的な世界と自由意志は両立するのであり、むしろ自由意志は決定論を要請する。非決定的であること、完全に物理的に同一な状況下に置かれた私がラーメンを食べるかうどんを食べるか決めるか決定されていないというのは、同一物理状況からラーメンうどんうどんうどんラーメンうどんラーメンラーメンなどとシミュレートされてそんな意志決定は自由でもなんでもない。決定論は自由意志の必要条件なのだ」とか「世界を決定的と見ても厳密にミクロを見ていくと非決定的だと見てもいずれにせよ自由意志と整合的になるわけがない。自由意志は棄却すべきである。自由意志に依存する責任も責任に依存する刑罰も棄却すべきである」とか議論しているわけですが(たとえば下記の両立論者デネットと自由意志を否定するカルーゾーの議論に私はとても興味があり、近々通読する予定です。クオリアの哲学について私はデネットと同じくタイプA物理主義者ですが、この自由意志に関する論証の筋はカルーゾーの方が通っているのではないかと考えています)、

 しかし、実験の結果この「バカげた」考えは一般に90%超の支持を得ていることが確認されています。

 デネットとカルーゾーが殴り合っている間、大半の人は「哲学者の眼中にもない」考えを支持しています。先に私はカルーゾーの方が筋が通っていそうだ、エレガントに処理しているだろうと期待している旨を述べましたが、実験哲学の否定的プログラムは「自由意志の否定から刑罰の消去まで持っていって今で言う犯罪者を感染症の隔離とかと同じように扱うとか現実的に考えてそんな主張通るわけないだろ。バカか? 現実見ろ」と言うわけです。

 実際、デネットの哲学者としての良いところは、彼は動物行動学者ドーキンスなどを同盟者として科学と哲学に関し手を携え、さらに大衆も決して無視しないように通る主張をしようとするところです。

 とにかく透き通った論理で貫くカルーゾーは非哲学徒への処方として注射する価値があろうが、哲学徒はアームチェアの専門家になりすぎないようデネットを見て反省しなさいと処方される価値があるなどと評する方もいらっしゃるようです。

 逆にデネットの悪癖は同盟者ドーキンスと同じく、啓蒙的であろうとするがために(ドーキンスほど過激でないにせよ)勇み足になりすぎたり戦闘的になりすぎたりし、それによって論証に不要なことを言うところです。

 新無神論の四騎手のうちドーキンスは宗教を滅ぶべきであるなどと言うだけならまだしも、デネットと揃って物理主義的な世界観を持つ人を指して「明るい」「頭のよい」を指す「ブライト」と呼ぼうとするまるでセンスのない「ブライト運動」を推進するなど、本当に、熟々、センスがなくて下品なことをやるのでその点世界観を同じくする者として残念なところではあります。

 もっとも、彼らのこれら諸活動については無宗教者(私のような確信的無神論者でなく)が多い日本ではピンとこないかもしれない切実な動機があります。特にドーキンスは宗教が流す血と宗教によって抑圧されている無神論者の社会的地位向上のために本気で戦っているのです。デネットもドーキンスほど過激・戦闘的でないにせよ現状を憂慮しています。

 ドーキンス陣営が進化論について故グールドを中核とする陣営と「ダーウィン・ウォーズ」と呼ばれる大論争を繰り広げていたことは先述のとおりですが、この点においてもドーキンスとグールドは対立しています。

 ドーキンスは上掲のとおり「神は妄想である」「宗教は滅ぶべきだ」と主張しており、対するグールドはNOMAを唱えて科学と宗教は互いの領域に干渉すべきではないと主張しました。

 NOMAとは事実等に関する問題を科学が行い、道徳等の問題を宗教が扱い、互いに教導すべき範囲が違うのだとして科学と宗教の調停を図ろうとしました。

 ドーキンスに言わせれば「たわごと」です。科学的事実からそれのみをもって道徳を導出することはできないことはドーキンスも同意するところです。

 先に「利己的な遺伝子」が「ヒトは遺伝子の成功率に寄与するよう動くべきである」と誤読されることにドーキンスが激しく憤っていることについて述べたとおりです。ヒュームのギロチンなども思い出されるべきでしょう(分析哲学徒はヒュームが大好きなのですぐヒュームの話をする)。

 しかし、ドーキンスは「道徳の話を科学のみからできないことをもってしても、宗教にそれができるというのは根拠がない」と切り返します。道徳に関するその二分法はおかしい、全然筋が通ってないぞというわけです。

 更に、ドーキンスは自分たちはこのように科学「のみ」から道徳へ飛躍しないよう科学者は自省しているのに宗教の側はそんな気はさらさらなく頻回に事実の側に侵犯をしかけていると道徳領域だけでなく事実領域の話も筋が通らないと主張します。

 ここでドーキンスが念頭に置いているのは勿論インテリジェントデザイナー論、創造論とも呼ばれるものです。アメリカの一州の学校教育の生物学において進化論とID論を両論併記すべきだという考えが導入されそうになったことをひいて、ドーキンスは彼らに踏みとどまるような考えはないと一切の期待を持たず宗教は消えろと言うわけです。

 これは宗教の側からもはっきりとした姿勢を見ることができます。「哲学的・自然的真理」と「神学的真理」は二重に存在するという「二重真理説」は度重なる異端宣告を受けています。「事実」「である」について宗教の側は真理は一つであるべきであるとした上で事実について語っている、少なくともキリスト教の歴史にはその流れがあるわけです。

 もちろんグールドもドーキンスと対場は異なりますが進化論者ですから、同時に反創造論者でもあるわけです。ドーキンスが徹底的に創造論と戦ったのと同じようにグールドもまた多くの時間を創造論との戦いに費やしました。

 もちろん、グールドはNOMAを唱えるくらいですから反対しつつも宗教それ自体には科学を侵犯しない限りにおいて温和であろうとしました。一方のドーキンスは潰す気満々です。古典的な創造論における「事例の方法」である「時計職人のアナロジー」、つまり「時計程度の複雑さのものでも人為でなければ作り出せない。況んや生物をや」という考えを勢いよく踏みにじります。

 私はNOMAについての考え方の首尾一貫性はドーキンスに分があると考えていますが、そもそもグールドは「まあまあ」という調停としてNOMAを譲歩して取り出したのであり、ドーキンスは火に油を注いでいるとも思っています。もっとも、ドーキンスは宗教を滅ぼすつもりですから燃え盛ったところでだからどうしたとそのまま燃え死んでしまえとなるわけですが。

 デネットとカルーゾーの哲学的対話もカルーゾーが理を研ぎ澄ませることに一点集中しているならば、デネットは「まあまあ」と地に足を付けてうまいこと現実と調和する着地点を見出そうとしているわけです。

 カルーゾーは「理が通らないだろ理が」と言うものの、実験哲学は「現実見ろよ」と言うわけです。もっとも、デネットはクオリア論争について反論書「スウィート・ドリームズ」にて軽蔑的に記載されているように、「チェンジ・ブラインドネス」という「実験」で一般に支持されている「クオリア」の立場を虚仮にしようとするわけですが。

クオリアのような哲学者の甘い夢が、「意識の科学」の進展を阻害する!
第一人者による痛快な批判と新たな展開。

 売り文句がこれですから対宗教のドーキンス並にデネットも心の哲学では超過激なわけです。「意識のハードプロブレム」がどうとか言うチャーマーズなどを蹴散らしてしまえと邁進しているわけです。

 「クオリア論争」は哲学の側からの科学的手続きへの侵犯です。創造論にドーキンスが憤ったように、クオリアを用いた「意識のハードプロブレム」で科学の手続きそのものに大変革が要る、現在の科学的手続きで全ての可能な知識を解き明かしても「ハードプロブレム」は解けないと言うチャーマーズらにデネットは意識については「イージープロブレム」しか存在しない、そんなもので科学の手続きそのものに攻撃をしかけるなど言語道断と言うわけです。

 「創造論」が科学における一分野の事実を扱う「各論」なら「ハードプロブレム」は科学の手続きそのものを扱う「総論」的言及なわけですから、(タイプA――最も徹底した、そして私の同調する)物理主義者であるデネットには絶対にチャーマーズらの立場が許せないのです。

 「メアリーの部屋」「哲学的ゾンビ」――どれも「事例の方法」から「直観」で物理主義を論難しようとするものです。デネットはそれを「直観ポンプ」と言います。もちろんデネットの言う「チェンジ・ブラインドネス」によるクオリア批判も結局「直観ポンプ」に過ぎない、ただの自分の主義へのコミットメントの表明にしかなっておらず敵対者をそれで論破できているわけではないという反論があるわけです。

 「直観」と「事例の方法」をめぐる実験哲学の肯定/否定的プログラムに興味が湧いてきたならば、好著があります。専門的知識をあまり有さず読み進められますので、この「あとがきたちよみ」を一読して興味が湧いたら蔵書に「実験哲学入門」を加えるのもよいかもしれません。

 特に正義を巡る「直観」の難しさ、「直観」は完全に自由な理性的存在が行っているのではなくホモ・サピエンスという生物の都合に塗れているのだという戦闘的な「功利と直観」における「直観」への攻撃はメタ倫理学上の「進化論的暴露論証」として知られ、反論と再反論の応酬が活発に行われる戦場の「最前線」であり、たとえば以下にその議論が収載されています。

 ただし、「最前線」だけあって徒手空拳で挑むには厳しいので入門書としてまずは以下を読んでおくべきでしょう。可愛らしい表紙に反して近年の新鋭の優れた著作として定評のある一冊です。レベリングはこれ、「メタ倫理学入門」で行うのが最適でしょう。

 お疲れ様でした。ここまでの22,000字超が予備知識です。これからが本論です。ただし、簡潔に済む本論を頭と感覚の両方を納得させながら読むには知識が膨大に要るので、これだけの予備知識が要請されました。

 つまり本論はそれほど長くならない予定です(と書いていましたが本論の方が長くなりました、と今このかっこを追記しています。そしてこのかっこを書いている現在、執筆中のためその差はどんどん大きくなります(更に追記。完成させて校正している現在本noteは全体で8,3000字超です。長くならない予定とは?))。

 しかし、ブルーアーカイブのシナリオ上の非常に面白い要素であると確信しています。isakusanが「倫理」をオタクカルチャーとして扱う以上、たとえばプレナパテスの犠牲をスピノザの「エチカ」を副読にして理解してほしいと言うその気持ちに、真正面から正々堂々と乗り込むのがこのnoteであり、私です。気持ち悪く本気でオタクやるのがいっちばん気持ち良いんですから!(諸説あります)

 なお、isakusanがブルーアーカイブ、特にプレナパテスという魅力的な人物と関係させたことから、そして岩波のエチカが安価で入手できることから「よっしゃあ!」と徒手空拳で挑むことはオススメしません。エチカは省略されたタイトルで、正確には「エチカ、幾何学的秩序に従って論証された(Ethica, ordine geometrico demonstrata)」です。

 エチカが倣っているのはユークリッドの「原論」です。ユークリッド幾何学のユークリッドです。つまり古代ギリシャの数学書に倣って構成されています。

 ゆえに「ある意味」読みやすいですがある意味通読に骨が折れるかもしれません。

 ただし、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で心をへし折られた人は「あれかぁ……」とまでは思う必要はありません。そこまで構えなくても読めます。論理も哲学も全く知らない人はぜひ「論理哲学論考」を買ってみてください。明晰さを追究しているようなのにたぶん何もわからないでしょう。最後の「語り得ぬものについては沈黙するほかない」だけ覚えてなにやらかっこいい気分だけ残ること必定です。


本論:キヴォトスにおける「道徳的な運」

 私は自分がブルーアーカイブについて最初に書いたnoteにおいてキヴォトス倫理を眺める自分の態度が首尾一貫していないことについて述べています。

 「聖園ミカに対する私刑はやめてほしい」と述べつつ「十分過ぎるくらいの代償を払っている」という優しいナギちゃんと甘い先生の二人の考えを額面通りに受け取らず距離を置こうとしています。

 つまり、「聖園ミカは聴聞会において正確に事実を認識され、適正な経緯を経て審判されその限りにおいてのみ罪を償うべきである。ゆえに私刑は許されず、法の裁きが下る前に十分すぎるほどの代償を支払ったとも言えない。社会制裁は刑法上の酌量の理由になり得るが、先生と桐藤ナギサにそれを判断する権利はない。それを判断するのは聴聞会である」という罪刑法定主義に立っているわけです。

 しかしながら、私はエデン条約編4章で悪徳業者に襲撃をかけるハルカの姿を大笑いして受け入れました。「仕方ない」ではないのです。「キヴォトスとはこういう世界であってほしい」と思ったのです。

 カイザーローンに覆面水着団が襲撃をかけたり、ハルカが悪徳業者に報復を行うことは自力救済です。刑事上の罪刑法定主義を掲げローへのコミットメントを掲げ聖園ミカを擁護しながら、民事上例外を除き許されない自力救済を行う無法者アウトローを是認する立場にコミットしているのです。

 私の上掲のつたない記事を素材にキヴォトスにおける「罪の重さ」について鋭い洞察に満ちた考察を行ったnoteがあります。こんな拙文は放っておいてよいのでぜひ一読ください。

 上のnoteにおける極めて重要な言及は以下です。

「人が殺される条件」がどれも非常に時間がかかり、不測の殺人が起こらないようになっている

上掲より、太字ママ

 私はこのnoteから極めて重要な示唆を十分すぎるほど受けたと常々思っており、折に触れては再読し感嘆しているところです。しかしながら、2023年2月20日という当時の記事から1年以上経った2024年3月1日、突然私は上の記事、引用の箇所から更に強烈な啓示を受けました。キヴォトス倫理における「道徳的な運」についての取扱です。

 トマス・ネーゲルは1976年の論文「Moral Luck」においてこの概念を深く検討しています。私にとっては偶発的で極めて面白いことなのですが、この論文は「Mortal question」という本にまとめられています。

 本著の邦題はその14の論文のうちのひとつ、「コウモリであるとはどのようなことか」とされ、その邦題上部に原題の「Mortal question」が併記されています。

 1ページめくると光沢のある銀紙、表紙と同じどこかキュートな印象を受けるタイトルデザインの邦題が黒字で狭く押し潰されるようにして上部に記載されているのですが、下部にデカデカと白抜きでシリアスに引き締まった「MORTAL QUESTION by Thomas Nagel」の原題が記されています。

 日本で売るにはWikipediaに単独記事が作られるほどの「コウモリであるとはどのようなことか」をとっつきやすいタイトルデザインで表示した方がいい! という判断に、表紙と1ページをめくったあとのこの銀紙は「原題がなあ! 超かっこいいんだよなあ!! 見てよ!!!」と訴えかけているように見えて少し笑えます。

 「私にとって極めて面白いこと」とわざわざ太字にしているのは、私は本著を学部時代に大学図書館で通読しそれでいったん本書の扱いを終えましたが、参照の必要に応じて改めて購入しました。私が大学時代特に深く興味をもっていたのは分析哲学における心の哲学、つまりクオリア問題です。学部時代は邦題である「コウモリであるとはどのようなことか」という論文にあたるために本著を読んだわけです。その他の論文は脇役でした。

 しかし、再度購入したのは別の論文を読むためです。その論文こそが今から話題にする「Moral Luck」――ではありません。「The absurd(邦題:人生の無意味さ)」です。つまり本noteで3発目の参照であり、3発とも別の論文を見たくて読んでいるわけです。

 そんな出来すぎた話があるか? あります。証拠があります

 心の哲学を(タイプA)物理主義でやっていた私は、「クオリア」や「メアリーの部屋」や「哲学的ゾンビ」が不正確な理解で用いられるたびに長文ツイートをしていたのですが、毎回毎回同じことしか私は言わないので今後何度も自分が繰り返し同じポストをしないようにと、諸概念と当面の立場はこれ書いてよしとするためにnoteを書きました。

 そして我慢できずにもう一本書いています。

 さらに、私にとって「人生哲学」とはずっと「よくわからんもの」でした。Wikipediaに分析哲学の「ステレオタイプ」が記載されていますが、その3つ目が以下です。

世間で言う「哲学的な」言辞と旧態依然とした曖昧で不明瞭な哲学(言うなれば、疑似哲学)を棄却すること

 私はタイプA物理主義で心の哲学を行うことの分析哲学上の価値を明瞭に語ることができます。先述したように「意識のハードプロブレム」は科学の手続きそのもの、創造論のような「各論」ではなく「総論」への哲学から科学への攻撃であり、哲学徒として私は少なくともこの問題から科学の手続きが改訂される必要はないと弁護していたのです。つまり、私にとって心の哲学は哲学から科学を守るという意味で分析哲学的に有意義な実践でした。

 ですが「人生哲学」についてなにか分析哲学上の重要問題があるのかという点について私はさっぱりわかりませんでした。そこであまりにも偉大な分析哲学者の一人であるネーゲルの、またあまりにも有名な人生哲学に関する論文「The absurd」をごく最近になって検討しました。

 つまり、学生時代の私にとって本著は「心の哲学」について検討するために用いられました。昨年秋頃の私には「人生哲学」という概念そのものにアプローチするための素材として登用しました(結局分析哲学上「人生哲学」の何が大事なのかよくわかりませんでしたが。人生の価値を含む価値総体を取り扱う「価値の哲学」の方が面白そうです。もしかすると「心の哲学」なんて各論やるより「知識の哲学」で総体扱った方が楽しい、という人もいるかもしれませんね。私も「心の哲学」それ自体が面白いからやっていたというより、「クオリア」という哲学者の甘い夢、「意識のハードプロブレム」を殺したくてやっていた、つまり科学の現行のプロセスを守りたかったという意識の方が強いです。最終的に「意識のハードプロブレム」や科学への攻撃なぞ基本的に誰も見向きもしなくなり、ああとっくにもう分析哲学界ではぶち殺されたことになってるんだなと思って以後の争いを追うのをやめています。先述のとおり一般感覚としては「クオリア」と「意識のハードプロブレム」は元気ですが、なぜそんなに元気なのかは心理学や実験哲学の問題であって心の哲学の問題ではないので、私はもうあまり心の哲学に興味がないわけです)。

 日本の分析哲学者で言えば永井均(先生と付したいですが他の学者に付していないため敬称は付さないこととします)の短評が示唆的でしょう。

 山口尚(先生と付したいですが他の学者に付していないため敬称は付さないこととします)が述べていましたが永井均はこういった極めて限られた文字数で論述するセンスに優れています。一方、山口尚は一定の文字数で明晰かつ理解しやすく問題を整理する力に卓越しており、彼のnote群は本当に素晴らしかったのですが「note時代を閉じる」という目的のため現在は全て削除されています。前期ウィト、後期ウィト、等と哲学者は時代を区分けされることがしばしばあるのですが、その営為をわかりやすく行ったわけです。彼のやることは基本的にいつもわかりやすく、クリスタルクリアです。

 おそらく当時におけるクオリアの哲学をめぐる論争を整理した書籍として以下は最高峰に位置すると確信しています。リードナウ。山口尚の分析哲学上の非哲学徒にも届いた明晰な整理の仕事は非常に高く評価すべきであり、彼が未だに非常勤講師なの意味がわかりませんからね。正規採用した大学に後に箔が付くまであります。

 そして今回ブルーアーカイブのキヴォトス倫理を読むための副読として「Moral Luck」が登用されたのです。

 つまり、全く異なる理由から私は3度、別の論文を本著から引いていることになります。学生時代は図書館で読み、昨年秋に買い、今本棚から引き出しました。私にとっては偶発的で極めて面白いことであるという意味がよく伝わったかと思います。完全な余談というわけではありません。「偶発性」はこれから話す主題について、重要な要素です。

 私に啓示を与えてくれたnoteの一文をもう一度引用しましょう。

「人が殺される条件」がどれも非常に時間がかかり、不測の殺人が起こらないようになっている

 キヴォトス人は生徒以外を含めて単なる銃撃では殺害することができません。具体例を挙げると超無敵鉄甲虎丸やクルセイダーちゃんでキヴォトス市民を轢いたとしてもヘイローは壊せないでしょう。現実には頻発している運転による過失致死、これはキヴォトスでは極めて起こりそうもないことです。

 「罪」が現実と比べて基本的に極めて軽いキヴォトスにおいて、殺人は現実以上の相対的な重さをもってキヴォトス人に扱われています。

 現実的感覚でブルーアーカイブを読んでしまっている人は、たびたび聖園ミカが犯した罪の中で最も重いものはアリウスを誘致してのクーデターと誤認します。これはふたつの意味で完全に誤認です。まずキヴォトス人の一般感覚として外部的実力を誘致してのクーデターは殺人より重いと認識されていません。

 エデン条約編4章で聖園ミカが何度も何度も、最も悔いているのは自分の安易な指示で百合園セイアのヘイローが砕けかけたことです。上のとおり百合園セイア本人もまた、聖園ミカのそのような心情を適切に汲んでいます。

 また、トリニティ総合学園の実際の罪状としても実力を誘致してのクーデターは「百合園セイアに危害を加えたこと」より軽いです。これはティーパーティーで最も賢いとナギサに断言され、あの天才浦和ハナコすら質問するならこの人だと扱われている(最終編での王の予言の自己成就の話などです。他にもエデン3章の混乱の中、最大限の活躍をしながらそれでも十全ではない、全く足りないと思っているハナコはモノローグでセイアちゃん、と彼女を求めています)非常に聡明な百合園セイア本人が断言しています。

 これはトリニティに限った話ではありません。ゲヘナを誘致して書記長を引き摺り降ろそうとしたマリナもまたそんなことは大した問題ではないと扱われています。少なくとも、日本において死刑相当かもしれない聖園ミカや池倉マリナの行いはキヴォトスにおいて殺人に近接する行為より重い行いではありません。先に引用したnoteで詳述されている通り、「殺人」こそがキヴォトスにおいて特に重い罪なのです。それはキヴォトス人の一般的感覚としてそうなのですし、法秩序もまたそのように構築されているのです。

 ここで三度引用しましょう。本論において極めて重要な部分です。

「人が殺される条件」がどれも非常に時間がかかり、不測の殺人が起こらないようになっている

 キヴォトス人の素朴な日常感覚において、「不測の殺人」は想定されていません。キヴォトス人にとって殺害は「殺意をもって持続的に攻撃し続けるか特殊な兵器を使わなければ達成できない」ものです。

 「ついカッとなって一撃入れた」程度では駄目なのです。「必ず殺す」という「殺意」をもって持続的な身体負荷を与え続けなければなりません。

 アズサが述べているとおり、キヴォトス人は頑丈ですからそもそもそんな「殺意」に出会ったら通常逃げることができます。つまり「殺す」ためには「逃げられない」ような「拘束」「圧倒的優位」が通常要請されるのです。

 このおぞましさから「殺害」と「それ以外の罪」の間に極めて明白な一線をキヴォトス人は引いています。現実においても他の重犯罪と比しても「殺人」は一線を越えている、他のそれと地続きの罪ではなく、特別なカテゴリの罪なのだという感覚を持っている人は少なくないかもしれません。しかしキヴォトス人はその強度が違います。

 現実の刑事上は「望んで殺したか望んではいないがどうしても殺さざるを得ないほど追い込まれていたか」は酌量上の問題となり些末なことでは断じてありません。

 また「他の選択肢があったかどうか」は刑事上の責任を問うための重要な要素として検討されます。この問題には「期待可能性」という名前すらついています。罪刑法定主義と並び近代刑法の根本原理である責任主義を語るにおいて欠くことのできない概念です。

 「責任なくして刑罰なし」は有名な原則です。そして「適法行為を期待できない場合、違法行為を敢えて選択したとは言えないので責任を論ずる前提を欠く」とする期待可能性もまた責任の要素として重要視されているのです。

 先にデネットとカルーゾーの論争を語りました。カルーゾー的な立場は大まかに言えば決定的、突き詰めれば非決定的な物理主義的世界観から(しばしばこのふたつは区別されることなくまとめて決定的と言われます)「不法行為を働いた人に適法な行為を選択できる余地などいずれにせよ存在しない。決定的であればその人はその行為しかできず、ミクロレベルの非決定性はオカルティックな魂の介在できる箇所ではない。よって人にはいずれにせよ自由意志などない」として、物理主義からの自由意志の否定、自由意志からの期待可能性の否定、期待可能性の否定からの責任主義の否定、責任主義の否定からの刑罰の否定を導出しているのです。

 物理主義からはマジカルな自由意志は導出できません。実験哲学が90%以上の人がそのようなマジカルなものを信じていると示していますが、物理主義的世界観を有してしまうとそのようなマジカルなものが存在することが確からしいとする根拠が現実から発見されていない、よってそのようなマジカルな自由意志が存在するとは言えないということが当然に導かれます。

 ですから、デネットもまたそのような自由意志を唱えているわけではありません。彼はクオリアについてタイプA物理主義という最も強い物理主義を主張する哲学者です。そんなマジカルなものを認めるはずがありません。

 デネットは自由意志をマジカルなものとして捉えるのが間違っている、決定論と自由意志は両立するとして両立論という哲学的な責任の問題では穏当な立場を採っています。マジカルなものを認めない物理主義と責任を問うための自由意志は両立する――その筋の議論で最もわかりやすいのが虚構論です。

 物理主義的な世界観から言って不法行為をした人に適法行為を期待することはできないが、そんなことを言っていては社会が成立しないので自由意志も責任も虚構、フィクションとしてプラグマティックに要請されなければならないという立場です。その立場について一見してわかりやすいのは「責任という虚構」というそのものずばりのタイトルの以下の著作でしょう。

 しかしデネットは自由意志について虚構論を採用しません。デネットは決定論と自由意志の両立論において、虚構論ではなく実在論を採用しています。つまり、自由意志とは社会の都合で作られたフィクションではなく、そのような営為以前に実在している、現実的な存在論的地位を占めているのだと主張しているのです。

 何を言っているのかよくわからないでしょう。安心してください、対話したカルーゾーも何言ってるんだこいつと大困惑しています。物理主義と自由意志が両立し、かつ自由意志が虚構ではなく実在するならばそれは確かに一般的な感覚にとってすごく都合が良いです。

 学校で教えられる科学の知見と矛盾しませんし、自分たちは自由な主体だという「直観」にも反しません。ですが、カルーゾーのように明晰に論証を研ぎ澄ますことを徹底して腐心する人に、たとえばカルーゾーの物理主義的世界観から刑罰の否定までの導出のレベルで明晰に理解できるようにその理路を説明することがデネットにはできませんでした。

 カルーゾーの主張の論旨はあまりにもわかりやすいです。わかりやすすぎて「それ言ったらおしまいだろ……そりゃそうだけど社会で通るかそんなもん!」と現実性がないことまで含めてわかりやすすぎます。

 ですがカルーゾーにとっては「通る通らないじゃない」のです。ドーキンスが「宗教」を滅ぼそうとしたように、デネットが「クオリア」という甘い夢を破壊せんとしたように、カルーゾーは「自由意志と責任と刑罰を破壊しなければならない」のです。

 「できるできないの話はしていない、それはカルーゾーにとって(そしてカルーゾーに言わせれば、ドーキンスが「宗教」に対してそうであるように、デネットが「クオリア」に対してそうであるように全人類にとって)倫理的であるために可能な唯一の立場」なのです。できるできないの話ではないのです。カルーゾーにとってこれは言語と論理の問題です。

「自由意志は存在しない」
「よって責任も刑罰も存在しない」
「適法行為を期待することなどできない人に社会は罪を科している」
「できもしないことをそれができたはずだと言い責を問うのは非人道的である」
「非人道的な行為を行ってはならない」
「よって倫理的な言明をするためには自由意志も責任も刑罰も否定しなければならない」

 カルーゾーにとって理路はこれです。現実を含めた「あらゆる可能な決定的世界」に対して、そこに住まうホモ・サピエンスではない理性的存在とそれが構築する社会を「一瞥することすらなく」「世界が決定的だというただそれだけの理由で」カルーゾーは全てを棄却するのです。

 現実的にできるかどうかなど、カルーゾーにとって問題になりません。彼は現実を見ていません。倫理というシステムはそのようにしか作動させられないのだから、現実的にできるかどうかは問題ではないのです。そのようにしか動かないシステムに別の動作をさせることは不可能です。

 倫理的であるためにはカルーゾー的立場を表明せねばならず、カルーゾー的立場を採らない者は非人道的であるというのがカルーゾー的な倫理の筋です。それは現実に依存せず、決定論に依存するのです。

 決定論的な全ての可能な世界において、自由意志と責任と刑罰が阻却されなければならない。「~しなければならない」「~せねばならない」という言語の使用ルールに則って、そう言わなければならないのです。

 現実は論理に束縛されます。フェルマー予想はどのような異世界でどのような異世界人が確認したところで真です。異世界人はそれを理解できないかもしれませんが、それはフェルマー予想の真偽が揺らいでいるのではなく、単に異世界人の論理操作能力の問題であるに過ぎません。

 異世界人がどれだけ論理操作能力に乏しくとも、いやある任意の異世界に理性的存在など誰一人として存在しないとしても、そもそも生命など何一つなく、モノすらない世界だとしても、フェルマーの予想は真なのです。

 カルーゾー的立場はこのレベルの問題なのです。「倫理」というシステムを「決定的世界」で走らせたら「そうなるしかない」のです。つまり「現実にできるかどうかにカルーゾーの論旨が拘束されている」のではなく「カルーゾーの論旨に現実が拘束されている」のです。

 これは言語と論理の話で、現実とは「独立」なのです。

 長々と予備知識を説明してきたのはこのためです。「独立」の意味はもうみなさん掴んでいるかと思います。「カルーゾーの論旨は現実に依存せず独立に内部的に整合的」なのです。

 このことから「ではカルーゾーを採用しなければならない」と思った人は「独立」の概念を把握できていませんから、残念ながら予備知識2万字超をもう一度読み返した方がよいでしょう。

 数学や論理学における公理、経済学や形式的意志決定理論は現実と独立に設定可能です。そしてそれは論理の話なので現実と独立に成立します。しかし、このような独立的なモデルは現実における採用適否を内的な問題にしないことを私たちは既に確認済です。それはモデルの外部の問題だからです。

 つまり、カルーゾーは透き通るような論理を貫いているのですが、カルーゾーの整合的主張を採用すべき理由は、カルーゾーの主張が整合的だということのみからは導出できないのです。

 カルーゾーも結局の所、最後に「直観」に訴えるしかないのです。「こんな非人道的なことは許されるはずないだろ! なあ! だから俺の理論を刑罰に代わるものとしての隔離処理とかの現実的な部分はともかく最低限形式的な部分だけは採用してくれよ! 自由意志と責任と刑罰は世界が決定的なら死ななきゃいけないんだよ! 今社会で行われているのは非人道的処理なんだよ!! わかってくれよ!!!」と。

 そして彼の形式的な論証の内部的な整合性について確認がとれた普通の人は現実性がなく社会を崩壊させかねないカルーゾーの最低限度の要求に返すわけです。「そんなことはわかっている……わかってはいるが……わかるわけにはいかんのだっ!!!!!」と。

 さて、現実における自由意志と期待可能性と責任と刑罰の重い関係をみなさんは掴めたものと思います。そのうえで、以下をご確認ください。

 「現実」的に考えて百合園セイアが言っていることは「さしたる問題じゃない」はずがありません。これはカルーゾー的な立場からすれば「七つの古則」よりも重い「全ての世界が責任と刑罰について答えを出すための必ず処理しなければならない問題」です。

 百合園セイアは楽園の存在証明を「全ての人にとっての宿題」だと主張しますが、カルーゾー的に言えば「他に選択肢があったかどうか片付けることは責任と刑罰を処理する全ての世界にとっての宿題」です。

 そして、カルーゾーではない現実の実務レベルに降りてきても、近代刑法理論の根本原理である責任主義の要素である期待可能性、「他に選択肢があったかどうか」が「さしたる問題じゃない」ことはあり得ないのです。

 ここで思い出されるべきは「キヴォトス人は現代人よりはるかに重く殺人概念を捉えている」ということです。百合園セイアは断言します。

 「人殺しは人殺しである」――この命題は百合園セイアが言う通り絶対に極めて近いものです。なにせこれが扱っているのは「AならばAである」というあまりにも自明に思える「同一律」だからです。厳密に言えば百合園セイアが言う絶対的な命題「AならばAである」(という命題の真理値は真、T(True)、1である)が成立しない論理は存在します。たとえばクリーネの強3値論理がそれです。

 以下がクリーネの強3値論理における真理値表です。

 注目すべきは最下段、U→U=Uという提案です。命題「Aが未定義ならばAは未定義である」の真理値はUです。Tではありません。かなり直観に反するのではないでしょうか。

 私は実務で扱ったことがないのですがSQLの真理値型がT,F,Uです。nullは値ではないので4値論理ではありません。nullを「未知(Unknown」と「適用不能(Not Applicable)」にわけるなら、つまりnullを「未知:プール掃除の時に浦和ハナコが着用していたもの(水着か下着だが未知)」と「適用不能:ソフちゃんのヘイローの色」に区分するなら4値論理を採用すべきなのですが、SQLはnullについてこの区分けを行わないため、T,F,Uの3値で用をなします。Uが値なのにnullが値ではないのはぱっと掴みづらいかもしれません。これはリレーショナルデータベースの例を見てみるとわかりやすいかもしれません。

 上図は上掲からの引用です。このようなデータベースを運用するに際して、「わからないもの」について値のかわりにマークすることには一定の価値があるという考えは支持するかしないかに関わらず理解することだけはできると思います。nullはそのような考えのもと導入されました。値のみを扱うのであれば真理表は単純です。小学生でもこの表が言わんとすることをわかるでしょう。

 しかし「わからないマーク」であるnullを扱う場合「値と値でないもの」の関係を扱わねばならず、それはTとFの2値では表現できないため、3つ目の値であるUが出現するのです。リレーショナルデータベースにおいて「わからんものをわからんものとしてえいやで扱おうとする」とこうなってしまいます。下掲SQL標準のnullを参照すると2値のスマートにしょうり~かんぺき~な世界に棲みたい人たちの「しんでよ~!」という声が聞こえてくるようです。

 「わからんものをわからんものとして扱う」ためにnullというマークが要り、nullというマークを扱うために3つ目の値Uが要り、nullとnull自身を比較すると同値ではなくUになってしまうのです。

 nullとnullを比較するなら同値に決まってるじゃないかと言う人はnullをわかっていません。nullは値ではないのです。値ではないものと値ではないものの関係が同「値」になることはできません。よってこのときTでもFでもなくUが吐き出されるのです。しんでよ~。

 長々と話しましたが、つまり「人殺し」が値として定義されていない場合、百合園セイアの命題は絶対的ではないのです。百合園セイアは「人殺しは人殺しである」を絶対的にTとして扱っていますが、それは「人殺し」が値である場合に限ります。

 「人殺し」が値として定義されていない場合、「人殺しは人殺しである」という命題の真理値は直観的にそうなるしかないだろと思われるTではなく、もちろんFであるはずもなく、Uなのです。

 そして悪夢のような話ですが「人殺し」はエデン条約編においてその概念について論争がありました。阿慈谷ヒフミのブルアカ宣言を思い出してください。彼女ははっきりと「アズサちゃんが人殺しになるのは嫌です」と口にしています。かつ、白洲アズサは「錠前サオリを殺害する」と決意しています。かつ、錠前サオリは白洲アズサに問いました。

 錠前サオリの回答は以下です。

 錠前サオリに言わせれば「人殺し」を成立させるために必要なものは巡航ミサイルでもヘイローを破壊する爆弾でも石ころでもありません。「人殺し」の成立条件は「殺意」です。

 となると、錠前サオリの発言を文字通りに読むと反「直観」的状況にすぐに気がつくはずです。「人」が「人殺し」になるために必要なのは「意志」だけです。つまり、「殺意」さえあればその人は既に「人殺し」なのです。

 つまりは――「人を殺しているかどうか」は「人殺し」であるかどうかと何の関係もないことになります。そんなおかしなことがあるでしょうか? シナリオの破綻でしょうか。違います。

 この「人殺し」概念はベアトリーチェがアリウスの生徒に「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」を歪曲し「全ては虚しい。どこまで行こうとも、全てはただ虚しいものだ」と単なる虚無主義として教え込み希望を奪い徹底的に絶望を教え込み、「そこにお前達を至らせたのはトリニティだ。憎悪を忘れるな」としたのと同様教育的な理由があります。

 ヒヨリがこのアリウスにおける「人殺し」概念についてはっきりと人を殺していなくても「殺意」があるなら「人殺し」だと教えられたと明言しています。

 なぜ、ベアトリーチェは「殺意の有無」のみをもって「人殺し」を定義したのか。そのことはエデン4章から3章――時系列的には1章以前、百合園セイア襲撃事件の際、白洲アズサが「人殺し」になってしまった場合の帰結の言及から窺い知ることができます。

 人が「人殺し」になってしまったとき、陥る状況は上のとおりです。自分が「人殺し」であるとき、それに纏わる極めて痛苦に満ちた数々の感情がわき上がり、しかもそれは誰にも届かず虚無へと消えます。

 だからこそ百合園セイアは白洲アズサに「「人殺し」になってしまっても大丈夫なのか」と心配したのです。そして、アリウスの生徒を「人殺し」にするとき、上の感情が導かれ希望は断たれるのであって、そのアリウスの生徒たちの絶望と虚無はトリニティとゲヘナへの憎悪として容易に統制できます。

 ベアトリーチェにとって、トリニティとゲヘナの長年の対立や、第一回公会議に纏わるトリニティとアリウス間の遺恨や、アリウス内乱などはせいぜい「面白い見世物」でしかなくそれ自体には特段の関心を持ちません。

 彼女にとってそれはツールです。ツールを上手く使うために制御下に置くこと。「崇高」に至るという目的のために、アリウスの生徒たちを完全な統制下に置くために、彼女たちの憎悪を煽る必要があり、そのためには希望をへし折り二度と将来に希望を抱かないよう努めさせ、その状況はトリニティのせいだと煽る必要があり、そのために「vanitas vanitatum, et omnia vanitas」を歪曲し、「人殺し」を「殺意の有無」で定義してアリウスの生徒全員を「人殺し」に仕立て上げたのです。

 白洲アズサははっきりと「人を殺す」と阿慈谷ヒフミに宣言しました。錠前サオリに対しても宣言しています。このとき、アリウス的観点から見れば白洲アズサは既に「人殺し」なのです。ペロロ爆弾によって錠前サオリも秤アツコも死ななかったことについて、百合園セイアはそれが慰めになればよいと思っていました。しかし、アリウスからしてみれば「殺せたかどうか」は「「人殺し」であるかどうか」と理論上は「独立」の問題です。

 一方、阿慈谷ヒフミの考えは違います。彼女はブルアカ宣言の一言目において「アズサちゃんが人殺しになるのは嫌です」と述べています。このとき彼女がコミットしているのは「人殺しとは人を殺した人である」という「人殺し」の日常的な定義です。

 そして百合園セイアは先述のとおりアリウスと反対方向に極端に強く「重要なことは「人を殺したかどうか」だけであり、殺害を望んだかどうかや他に選択肢があったかどうかなどはさしたる問題ではない」と現実における現代的な刑法に関する理論の根幹にコミットメントを持たない主張をしています。

 つまり、白洲アズサが「人殺し」であるかどうかはあの事件の渦中においてベアトリーチェ的な定義によるか阿慈谷ヒフミや百合園セイアらの定義によるか定まっていなかったのです。

 さらに、エデン条約編で取り扱われた古則は五つ目です。

 エデン条約編2章の題になっているとおり、楽園の存否――つまり他者の内心についての命題に真偽の2値いずれかを与えることはできません。それは2値論理上のパラドックスであり、3値で処理するならば他者の心とは値ではなくnullであり、そのnullとは「適用不能(Not Applicable)」ではなく「未知(Unknown)」であり、パラドックスが発生しない代わりに値としてTでもFでもなくUが吐き出されます。

 これは論理上のパラドックスを解消するとともに値Uをもって「不可能な証明」を2値上のパラドックス以上にはっきりと明示していると言えるでしょう。

 つまり、アリウスの側で「人殺し」を理解しようとするとき、誰もアズサの「殺意」を証明できないのです。錠前サオリは白洲アズサに「殺意」が足りない、だからこそ白洲アズサは弱いと読んでいました。

 錠前サオリに言わせればアズサには「殺意」が足りません。つまり、ベアトリーチェ的な定義に照らせばアズサは「人殺し」ではないことになります。ですが、楽園の存在証明――他者の心の確証は不可能です。だからこそ、ベアトリーチェが慎重に除外したにも関わらず錠前サオリは「殺意」の証明として白洲アズサに要求します。

 こうして、白洲アズサが「人殺し」であるかどうかは極めて不明瞭な状態に置かれます。錠前サオリは白洲アズサに「殺意」が足りないから「人殺し」ではないと言います。阿慈谷ヒフミは「まだ殺していない」から白洲アズサは「人殺し」ではないと言います。

 両人が「人殺し」ではないと言っています。これはアズサが「人殺し」でないことの証明にならないのでしょうか。ならないのです。今一度真理表を確認してください。

 命題A「白洲アズサはペロロ爆弾で人を殺そうとし、果たせず、また、錠前サオリにも阿慈谷ヒフミにも「人殺し」ではないと言われ、殺害の意図を明言しながら古聖堂跡地を訪れた」はTです。

 命題B「白洲アズサは「人殺し」である」は「人殺し」の定義が定まっていないことからUです。

 命題AがTであり命題BがUであるとき、A∩BはUです。「人殺し」について異なる見解を持つ両人が各々の立場において「白洲アズサは「人殺し」ではない」と言っても、それは命題BがFであることを導出しないのです。これは命題Bを更に細かく見ていくと了解できるでしょう。

 命題B1「白洲アズサは現に人を殺していないので阿慈谷ヒフミにとって白洲アズサは「人殺し」ではない」はTです。

 命題B2「白洲アズサには「殺意」がないので白洲アズサは「人殺し」ではない」は五つ目の古則から「殺意」が定まらない、つまり値をとれない他者の内心、nullであるためUです。

 よって命題B1がTでTでB2がUであるとき、B1∩B2はUです。錠前サオリは白洲アズサについて殺意が足りないので「人殺し」ではないと言明しているというTを付け加えても結果は命題B2に拘束されUです。そして命題Bは命題B2に拘束されUです。そして命題AがTであり命題BがUであるとき、A∩BはUです。

 つまり、両人が白洲アズサを「人殺し」ではないと言っているにもかかわらず白洲アズサが「人殺し」であるかどうかは定まっていないのです。

 さらに実際のところアズサは「必殺」とでも言うべき強烈な「殺意」をもって錠前サオリのヘイローを破壊しようとペロロ爆弾を用いました。誰のヘイローも壊れなかったのは白洲アズサのコントロールを超えた領域、たとえば黒服がベアトリーチェに提供した無名の司祭の技術がゴルコンダのヘイローを破壊するテクストへの防御として働いたことに主因があり、アズサが「人を殺せなかった」ことは彼女のコントロール下を超えており、彼女がこれ以上ないほどの「殺意」をもって殺せなかったのは単に「運が良かったから」に過ぎません。

 深夜の田舎道で居眠り運転をしている人が完全に意識を落として歩道に突っ込んだとき「誰もいなかった」場合と「轢いたが対象が死ななかった場合」と「轢いて対象が死んだ場合」では罪の重さが違います。

 当人の意図のレベルも行為のレベルも同一なのに、「運」で罪の重さが変わるのです。これは罪と責任の概念について極めて反直観的です。心理的にも行動的にも当人は同じことをしているのに、それとは全く関係ない「偶然」で罪の重さが変わります。

 これがトマス・ネーゲルが「道徳的な運」として語った4大別のひとつ、「結果」に関係する道徳的な運です。

 このような不明瞭な状況に置かれていることはアズサ自身も理解しています。だから、彼女は自分について「人殺しだ」ではなく「人殺しになる」と言っているのです。

 これは命題q「白洲アズサは「人殺し」である」をFからTにしようとしているのではありません。UからTにしようとしているのです。

 これは阿慈谷ヒフミと錠前サオリにも言えることです。阿慈谷ヒフミは命題qをUからFにしようとしており、錠前サオリはUからTにしようとしています。ふたりともが白洲アズサの立ち位置が定まっていないので「白洲アズサは「こちら側」だ」と言っているのです。

 白洲アズサ自身は命題qをUからTにしようとしています。彼女はその操作を「殺人」をもって達成しようとしています。錠前サオリも命題qをUからTにしようとしているのですが、それは白洲アズサに「灰色の世界に残れ、ベアトリーチェ的世界観を共有しろ」と言っているに過ぎません。

 受け入れるから帰ってこいと言っているのです。錠前サオリは白洲アズサを相手にするとき「殺意」を向けるどころか「手加減」しています。命題qをUからTにすると言っても、二人のやり口や意図は異なるわけです。

 そして、阿慈谷ヒフミです。彼女は命題qをUからFにしようとしています。そのために提出した根拠についての事実命題がこれです。

 阿慈谷ヒフミが言おうとしていることは以下です。

 命題q1a「アズサはヒフミと同じ世界にいられないと言った」……T
 命題q1a_α「アズサはヒフミと同じ世界にいられないことの根拠としてガスマスクを被った「真の姿」を見せた」……T
 命題q1a_α_①「アズサは普通で平凡なヒフミは命題q1a_αによりアズサの隣にいられないと言った」……T
 命題q2a_α「ヒフミには覆面水着団のリーダーファウストという「真の姿」がある」……T
 命題q2a「ガスマスクを付けたアズサの「真の姿」と紙袋を被った覆面水着団のリーダーファウストとしてのヒフミの「真の姿」のヤバさは同程度である」……T
 命題q3「アズサはヒフミと同じ世界にいられないという命題(後述命題q1)の根拠として用いた命題は命題q1a_αと命題q1a_α_①である」……T
 命題q4「命題q2aから、命題q1a_α_①において「普通で平凡なヒフミ」しか把握していないことはヒフミの全体的理解としてアズサの誤認である」……T
 命題q1「アズサがヒフミと同じ世界にいるという可能世界は存在しない」……F
 命題q5「「補習授業部」という世界観をアズサとヒフミは共有している」……T
 命題q6「命題q5により「補習授業部」という共通的な世界観に照らした場合、アズサとヒフミは同じ世界にいるという可能世界が少なくとも1つ存在する」……T
 命題q7「アズサの意志の有無にかかわらずヒフミがアズサの世界に入るため命題q6における可能世界の1つはこの世界である」……T
 命題q8「命題q7によりアズサはヒフミと世界と世界観を共有したため、この共有する世界観においては「人殺し」の定義が定まりnullではなく値になる」……T
 命題q9「アズサとヒフミの共有する世界において「人を殺していない人」は「人殺し」ではない」……T
 命題q10「命題q9によりアズサは「人殺し」ではない」……T
 命題q11「ヒフミはハッピーエンドが好きである」……T
 命題q12「命題q11の選好を充足するためヒフミは実力を行使する」……T

 しれっと全く事前知識を与えていない様相命題を取り扱っているものの、ここでは現代的な議論における様相論理上のツールである可能世界の解釈については深く立ち入りません。

 つまり可能世界についての存在論的なコミットメントの話、可能世界は実在するか否か、その立場は何に依存するのか、つまりは様相実在論や存在論の話はしません。

 上の命題q1や命題q6を見てわかるとおり、「可能世界」とは「不可能である」を「全ての可能世界において偽である」とか「可能である」を「少なくとも一つの可能世界において真である」とか「必然的である」を「全ての可能世界で真である」などと言うのです。

 このとき通常の論理が単に「真である」ということは様相において「私たちのこの世界で真である」と換言できます。様相を扱うならばそのように上掲の現実世界に関する命題リストを様相的、統一的に記載するのが一番もやもやしないのですが、簡便のため記載法が古典的だったり様相的だったりとばらけています。

 「可能である」「不可能である」「偶然的である」「必然的である」とはそれそのままでは論理で扱いにくいです。ゆえに可能世界という概念を導入し、「可能世界全体」を見渡すことで「可能である」「不可能である」「偶然的である」「必然的である」を「である」(と量化)で表現しようとしたのです。

 これに伴い可能世界が単なる規約に過ぎないのか現に存在するのかなど議論がなされたわけですがこれいついては本論にあまり深く関わってこないため措きます。ブルーアーカイブで話すなら多次元解釈による「異世界」は存在するが単に論理の形式的操作のために規約したにすぎない「可能世界」は現に実在するわけではない、などと言うのが可能世界の実在論に反する立場であるわけです。

 ブルーアーカイブの世界、キヴォトスを含むあの世界(そこにプレナパテスたちの世界やビリビリ中学生たちの世界を含めても構いません)における「可能世界」に私たちの「現実世界」は内包されていますが(なぜなら私たちの「現実世界」は可能なので)、「可能世界」という概念のみをもってブルーアーカイブの世界の住人が私たちの「現実世界」をキヴォトスが実在するのと同じ意味で実在すると言うべきかどうかは議論がある、というわけです。

 議論があるというと五分五分に見えますが、五分五分といった空気感ではないことも申し添えましょう。

 本筋に戻りましょう。ヒフミの命題リストを成り立たせるために特に重要な命題が命題q2a_αです。ヒフミは「覆面水着団のリーダーファウスト」だということはヒフミのその後の命題を支えるための重要な柱です。

 ヒフミがファウストだからこそヒフミとアズサは同じ世界にいられて、その世界において「人殺し」の意味が確定し、アズサはようやく「人殺し」ではないことになるのです。

 だから命題q2a_αをアズサはFと捉えました。ヒフミの優しい嘘なのだと。様相的に言うならば「そのような可能世界が少なくともひとつ存在するが、それはこの世界ではない」となります。

 命題q2a_αがFである以上、ヒフミとアズサが同じ世界にいられることも、アズサが「人殺し」ではないことも導出されません。ヒフミが慰めを言ってくれたところで、Fなのだから世界はそのままなのです。

 だからこそ、

 命題q2a_αがTであるという単なる事実の現出が、論理の連関によりアズサを「補習授業部」に引きずり込み、その集団における「人殺し」の意味を確定させ、アズサは「人殺し」ではないことまで固めるのです。

 5分で1億稼ぐ女、暗黒銀行ごときは朝飯前で襲う暗黒街の女帝ファウストがそれで満足するはずもありません。「今アズサは人殺しではない」と導出するだけで彼女は満足しません。「今だけでなくこれからもアズサは人殺しでない人でないと嫌だ」と欲張るのです。

 これは「べき論」つまり「正義論」ではありません。阿慈谷ヒフミがハッピーエンドを好むという「選好」を語っているに過ぎません。つまり、正義によって行為が正当化されているのではなく、ここでヒフミがやろうとしていることは選好による実力行使です。

 キヴォトスにおける「人殺し」は本当にそれだけはやってはいけない一線を超えた行いです。しかし、それ以外の様々な罪がキヴォトスにおいて罪であるのと同時に現実と比して極めて軽いです。それはもう風船のように軽い。

 そんなキヴォトスにおいてですら「さすがにそれはヤバいだろ」と思うことを「普通では?」と実行するのが阿慈谷ヒフミです。現実世界において重石である罪がキヴォトスにおいて風船でしかないように、キヴォトスにおいてもまあまあ重石であるものはヒフミにとって風船どころか空気です。

 校則を無視してブラックマーケットに出入りしたり盗んだのではなく言わずに借りただけとクルセイダーちゃんを持ち出したりして「私何かやっちゃいましたか?」という顔をしている阿慈谷ヒフミはキヴォトスにおいてもズレた女なのです。

 そして、白洲アズサも同様にズレており、錠前サオリもまた直近のイベントで盛大にキヴォトスの常識とのズレっぷりを示しました。そんなズレまくったヒフミにとっても「ブラックマーケットの銀行を襲撃して5分で1億するのはヤバい」という感覚はあります。

 ヤバいヒフミをもってしてなおファウストはさすがにヤバいのです。常々自分は普通だと言うヒフミですが、こればっかりはちょっとというわけです。やべーことやらかしたな、と思っているのでやべーことやらかそうとしているアズサと同じところに至れたわけです。

 つまり、阿慈谷ヒフミがファウストである以上白洲アズサが阿慈谷ヒフミと同じ世界にいられるのであり、錠前サオリも同じ世界にいられることになります。ヤバさはしょせん同レベル、同じ世界の人間でしょう? というわけです。

 こうしてヒフミが巻き込む限りにおいて白洲アズサも、そして錠前サオリを始めとしたアリウススクワッド――ベアトリーチェに呪われた生徒達が「人殺し」ではないと祝福されることになります。

 エデン条約編4章は「赦しと憐れみ」の話ですが、エデン条約編3章でやった「ハッピーエンド」は言ってしまえば「暴力」なのです。暗黒街を支配するボス、覆面水着団を率いてリーダーファウスト様が参上したのですから、ドン・アランチーノがアランチーノ・ファミリーを率いて参上したのと同等以上に状況はヤバいのです。「暴力」。まあそれは当然のことでしょう。

 このように白洲アズサと「人殺し」を巡る問題を捉えたとき、それだけでキヴォトスをめぐる「人殺し」の話は終わりません。

 私たちは「人殺し」についての2つの概念を眺めました。再掲しましょう。

 白洲アズサは百合園セイア的な(正確には阿慈谷ヒフミ的な)「人殺し」の概念によって救済された生徒です。しかし、聖園ミカは百合園セイアの側に立ってもベアトリーチェの側に立っても「人殺し」になりません。

 キヴォトスで重大なことは「人殺し」です。どちらにしても「人殺し」ではないのに彼女は「人殺し」に接近関与した存在として、百合園セイアの生存が確定した後も地獄にいました。

 キヴォトスにおける重大なことが「人殺し」であり、かつ百合園セイアとベアトリーチェの解釈のいずれにしても聖園ミカは「人殺し」にならず、かつ聖園ミカが地獄にいると言うなら一見これはかなり奇妙です。

 ベアトリーチェ的な立場で物を見るとき断じて聖園ミカは「人殺し」ではありません。本人の発言による心情の吐露がはっきりとベアトリーチェ的観点において聖園ミカが「人殺し」でないことを告げているのです。

 彼女はわざわざ強調します。「ちょっと痛い目に」みたいなことは言ったもののヘイローを壊せなんて言っていない、と。

 キヴォトスにおいて「ちょっとムカつくからボコボコにしてやろ☆」は罪ですが、その罪は現実と重さがまるで違います。そこらへんで今日もスケバンがちょっとムカつくから暴れ散らかしているのがキヴォトスです。

 モブではなくネームドですらそういった傾向を見せることがあります。美食研究会の襲撃行為はたとえばハルナにとって「蛇口をしめる」という言い分があります。一応「水が出しっぱなしになっているから蛇口をしめてあげているだけだ」と理を掲げているのです。

 勇者アリスのパーティーメンバーであるゲーム開発部については正当化すらありません。「レトロゲームあるかも!」で古代史研究会を襲撃しているのが彼女らです。騙されてはいけません、彼女達は勇者のパーティーメンバーであると同時にアルちゃん社長が言うところのアウトローですらない「チンピラ」なのです。

 でも「体が弱い百合園セイア」に暴力はまずくないか、という考えがあります。

 しかし、この立場にコミットするのは慎重になるべきです。聡明かつ予知夢の能力を持つトリニティでも反則的な預言の大天使たる百合園セイアの情報は慎重に秘匿されています。同じティーパーティーの生徒会長である聖園ミカの手引きがあったにも関わらず、本人のいる場所に白洲アズサしか辿り着けなかったほどです。

 聖園ミカの手引きがあってなお白洲アズサしか「秘密の部屋」に到着できなかった。そのことを百合園セイアは高く評価しています。

 実際のところ、百合園セイアのヘイローを短時間で破壊しうるのはヘイローを破壊する爆弾を持った白洲アズサしかいません。百合園セイアのヘイロー破壊の実行犯は最初から白洲アズサに決まっており、白洲アズサが成功するか、誰も成功できないかの二択でしかないことがアリウス側の認知です。

 それでもなお賢者である百合園セイアにとって「秘密の部屋」への到達は困難を極める仕事であり、それが達成されるという事実から予知夢でこの事態を既に知っていたこととあわせて「足掻いても無駄」だと百合園セイアは決定論からくる足掻くことの無意味さにコミットしており「それでも足掻く」というアズサの根幹をよくわからなかったと言っているのです。

 この襲撃に際し、白洲アズサは情報が外部に対し徹底して制御されている百合園セイアについての重大な情報を口にします。

 ポストモーテムで「末端」であるとされた白洲アズサにまで「百合園セイアは体が弱い」という情報が周知されています。これはアリウスにとっては「殺しやすい、好都合だ」ということになり、聖園ミカにとってみれば「セイアちゃんは体が弱いんだから痛い目にって言ってもそこんとこちゃんとわかってるよね?」という話であるわけです。

 聖園ミカはあくまで本人が口にしているとおり「"ちょっと"痛い目」にあわせたいだけなのです。百合園セイアに嫌がらせをしながら、同時に「やりすぎないように」という意図を示しています。

 ですが、百合園セイアの嫌がらせについてはある程度配慮しなければならない理由を語れば語るほどアリウスの襲撃成功の確度は高く安定していくことになります。

 結果として「体の弱い子だって前提でちょっと痛い目にあわせてね」という聖園ミカの意図は逆用され爆破が行われます。

 幸いにして、聖園ミカの意に反したベアトリーチェの指示で動いたアリウススクワッドの白洲アズサは「人殺しに堕ちない」「百合園セイアを殺さない」「たとえアリウスにもトリニティにも居場所がなく最終的に全ては無意味だとしても足掻く」と計画実行当時はともかく「どう足掻くべきか」について百合園セイアから教示を受けた段階で覚悟を決めて動いています。「聖園ミカの意に反する者」の意に反する者が爆破の実行者だったわけです。

 こうしてみると聖園ミカが行ったことはただのあいつボコってよという「傷害の依頼と手助け」であり、本人のコントロールとキヴォトスにおける一般常識的な想定を完全に超えた場所で百合園セイア殺害の計画が練られ、また聖園ミカとスクワッド、ひいてはベアトリーチェのコントロールを離れた場所で白洲アズサが百合園セイアを守るために動きました。

 これにより、ベアトリーチェは「殺害を指示」したものの殺害の事実は発生していません。アリウススクワッドもベアトリーチェの指示のもと実行者のアズサを除く全員が百合園セイア殺害のために動いていましたが殺害の事実は実行者アズサの行為により発生しませんでした。

 また、実行者である白洲アズサは実行に際して百合園セイアの殺害を認容どころか認識すらしていません。偽装爆破に際して、アズサは百合園セイアの死が「発生しても構わない(認容)」とも「発生するかもしれない(認識)」とも思っていなかったわけです。

 それどころかアリウススクワッドを、ひいてはベアトリーチェを欺くためには百合園セイア及び「秘密の部屋」が爆破で損傷を受けることは百合園セイアを守るために回避しえないと考えていたのであり、百合園セイアと「秘密の部屋」を損なわずに百合園セイアを守る行為についての期待可能性はあったかという問題について、あの極限の状況で爆破される当人である百合園セイアの指示を受け熟慮し彼女の指示に従ったにもかかわらず完全にクリーンな行為の期待可能性を認めるのは厳しすぎるということになるでしょう。

 「預言の大天使」という百合園セイアの特性と「既にこの場面は見ている」という事実から、「百合園セイアが見た限りでの未来は確定しておりクリーンな行為の期待可能性を考慮するのは厳しいのではなく不可能なのだ」とすら言いうるかもしれません(これは決定論と自由意志が非両立的であり、自由意志が決定論により阻却されるというカルーゾー的立場からのシンプルな意見です。自由意志と決定論が両立するというデネット的な立場からはまた別のテクニカルな言い方をすることになるでしょう。すなわち、決定論それ自体が白洲アズサの自由意志と責任と罪を即剥奪するわけではないが、百合園セイアの予知夢による確定した未来の言明は意志決定の自由度について形式上は全く奪わないものの、現実上の可能な自由な意志選択の幅をある程度狭めているかもしれない、という考えは整合的でしょう)。

 聖園ミカについては結果的に百合園セイアを傷害することについて、傷害が実現されたわけです。つまり程度を考慮せず傷害というカテゴリだけで見た場合、偶発的にですが聖園ミカの依頼により実行者白洲アズサの行為の帰結としての百合園セイアの傷害が実現しています。

 ベアトリーチェは聖園ミカが現れる以前の段階では百合園セイアを傷害しようという意図すらありませんでした。そもそもの話として、聖園ミカがアリウスに関与してくれなければ百合園セイアの殺害を決意・指示するどころか「預言の大天使は真っ先に始末しなければならない」という判断すら彼女にはできませんでした。彼女自身がそのことを認め、ゆえに聖園ミカを自身にインスピレーションを与えるミューズであると言っているのです。

ここでは予知夢の大天使と呼ばれています。いずれにせよガブリエルがモチーフでしょう

 趣味に「おしゃべり」が明記されているほどおしゃべり好きな聖園ミカがあれこれ語ってくれたおかげで「百合園セイアは真っ先に始末しなければならない」とベアトリーチェは判断しました。

 恐らく、錠前サオリが言うところの「何も計画されていなかった頃」――つまり聖園ミカの「おしゃべり」の中で出てきた百合園セイアの話題から百合園セイアに関する認識を獲得し、ベアトリーチェは脅威を認識し殺意を確定させたのです。

 爾後、聖園ミカは「ちょっと百合園セイアを痛い目に」と依頼しました。ベアトリーチェは既に彼女のミューズによりインスピレーションを得て殺意を成立させた後ですが、この依頼によってはじめて「具体的な殺害計画」を立てて、自身の指示が適切に実行されれば百合園セイアは死ぬと確信し、それを求めて「和解の象徴」としてアリウスの中では特にトリニティについての長がある白洲アズサを実行犯とする殺害指示を出しました。

 「百合園セイアは殺害しなければならない」という確定した「殺意」は、「殺意」ではあるものの聖園ミカの依頼の前には具体的実現可能性を持っていませんでした。「殺意」はあるものの「当時の時点における殺害指示の実行意志」は百合園セイアがトリニティにおけるトップシークレットであり手が出せないため、なかったわけです。

 「殺害指示の実行意志」は聖園ミカの依頼によってはじめて百合園セイアへの道が拓かれたことによりベアトリーチェの中で確定することになります。百合園セイア爆殺の指示を受けたアリウスの生徒たちも、ベアトリーチェの指示を受けて「爆殺の実行者を白洲アズサとする襲撃の実行意志」を固めました。

 何を長々と、と思うかもしれません。しかしこの一連の流れは重要なことなのです。教唆、幇助、故意、既遂、未遂、などの言葉はあえて使いませんでした。それらを用いるとキヴォトスの特にトリニティにおける聴聞会ではなく日本の法理で解釈されかねないからです。認容と認識など、やむを得ず使ってしまった言葉もありますが本当は使いたくなかったところです。

 聖園ミカは百合園セイアの傷害をおそらくこの段階では百合園セイアへの傷害の意志がない錠前サオリに依頼したでしょう(複製能力は一度再現できればよいことなど、ベアトリーチェは一々スクワッドに説明しないため、ベアトリーチェ当人は「殺意」を確定させているもののわざわざスクワッドに伝播させていないという考えです。ベアトリーチェはトリニティへの「憎悪」をアリウス生に対し煽っていますが、同時に百合園セイアの殺害は「確実に」遂行せねばならないとも考えているでしょう。「憎悪」に加え百合園セイア個人への「殺意」まで具体的実行案が計画できていない段階でアリウス生に与えることは、アリウス生の「過剰な行動」や「勇み足」を誘発させかねず、彼女は慎重だったはずです。トリニティとゲヘナという具体的な対象への「憎悪」ならびに一般的な「殺害の意志」そのものは涵養しているものの、百合園セイアという個人に対する「殺意」は状況を正確にコントロールするためわざわざ煽ったりせず実行指示の段階まで「無知」のままにさせたというのが私の考えです)。

 聖園ミカから依頼を受けるまで百合園セイアへの傷害の意志がなかった錠前サオリは、自己判断せずベアトリーチェに判断を仰ぎます。ここでベアトリーチェは「単なる百合園セイアは絶対に殺す、真っ先に殺すという殺意」を「百合園セイア爆殺計画」という具体的な状況として考案しました。

 ベアトリーチェの元々の「殺意」は決して漠然としたものではありません。「絶対に殺さなければならない」という確定的な「殺意」です。

 しかし、この「殺意」はベアトリーチェの目的に照らして要請されるべき理由を語りうるものですが、聖園ミカの依頼があるまでは「殺害計画」として「よし、この時点で百合園セイアを殺す」という現実と対応する計画になり得ませんでした。

 聖園ミカの依頼でようやく成立した計画の元、ベアトリーチェはアリウスに指示を下し、アリウス生は「確定的な殺意と具体的な殺害の方策」について確信的に、これが成功すれば必ず百合園セイアは死ぬと判断して行動しました。

 なんといっても「ヘイローを破壊する爆弾」を使うのですから、意図が行為として実現した場合に、行為の帰結として「百合園セイアのヘイローが破壊される、つまりは適切に行為した場合帰結は死に確定され、それ以外の状況は想定しえず、まさにその目的を達するために自分たちは行動している」と皆が確信的に判断していたわけです。

 ここで言う確信的とは日本における確信犯を指す際の確信です。つまり故意とは概念的に区別されます。確信的である――「百合園セイアの爆殺はアリウス分校の生徒によるトリニティへの報復の実現として正当性がある」とアズサやアツコが言うところの「教えられただけの、自分たちのものではないはずの憎しみ」にコミットして動いていただろうということです。

 ベアトリーチェはこの憎悪に全くコミットせず「自身が崇高に至るためにこの行いは容認される」と別のコミットメントを持っていました。

 すなわち、百合園セイアの排除は秤アツコを生贄とすることと同様にベアトリーチェにとって「Agnus Dei」です。

 先述のとおり、白洲アズサが一人指示に背いており(指示の段階で彼女は造反を決意していたわけではありません。どころか、当人は表層では百合園セイア爆殺のために動いていたと意識しているような節があります。百合園セイアはそれを指して、「本当のところは私を殺したくなく、抗いたいのであり、具体的な抗い方への教えを乞いたいのだろう?」と問うことでアズサの自己反省を促したのです。百合園セイアからの白洲アズサ自身の心象と根幹にあるもの、「それでも抗う」という白洲アズサ自身の根底に根ざすものとそのための方途を教示されて白洲アズサは「背く」ことを完全に決心しました)、百合園セイアと共謀して彼女は百合園セイアを守りました。

 白洲アズサが百合園セイアの保護に伴い百合園セイアと「秘密の部屋」を傷害することは「ヘイローを破壊する爆弾で百合園セイアを爆殺した」とアリウスひいてはベアトリーチェに誤認させるために回避しがたいものでした。つまり適法行為の期待可能性は見出しにくいものでした。

 特に百合園セイアは「預言の大天使」です。「こうすればとりあえず当面は、つまり補習授業部合格やエデン条約調印式当日までは"ここまではうまくできたお話"としてうまくいく」ことを彼女は認識していました。

 「絶対確実に百合園セイアを守れる手段」を提案されたにもかかわらず、あえて不確実に陥ってでもクリーンな道を探ることは困難性が高いです。百合園セイアが予知により自身が見た限りでの未来を確定させていることは白洲アズサにとってかなり特殊な状況なのです。

 一応被害者である百合園セイアも検討しておきましょう。彼女は「予知夢」により夢で見た範囲の未来を確定したものとして知っています。つまり、百合園セイアが「百合園セイアが偽装爆破される夢を見た」ことは、百合園セイア本人にとって一意に確定しています。

 しかし、これが「未来を知っている」のか実のところ「未来を知っているのではなく確定させているのか」は不明です。

 単に未来を知っているに過ぎないのであれば、百合園セイアの眠りは百合園セイアの偽装爆破と独立のことです。つまりそれによって百合園セイアに責を問うことはナンセンスです。

 また、百合園セイアが予知夢によって未来を確定させていると見ても、彼女の夢が彼女の爆破を決定したのであっても、百合園セイアが眠らないことは恐らく不可能であり、百合園セイアが予知夢による自身の爆破未来決定を避けられたかという問いへの答えは「まず無理」ということになるでしょう。

 最後が聖園ミカです。彼女は百合園セイアを傷害するという意図をもってアリウスに依頼を行いました。ただし、この意図は極めて限定的なものであくまで「ちょっと痛めつける」に過ぎないものであり、実際にそのように言明して指示しています。

 傷害の幅が一定の値を超えることを聖園ミカは認容していません(認容、つまり「ちょっと痛い目にあわせたいだけだけど、まあセイアちゃんが重体になっても仕方ない、最悪死んでも仕方ない」とは思っていません)。

 認識すらしていません(認識、つまり「ちょっと痛い目に遭わせたい。このときセイアちゃんが重体になったり死んだりするかもしれない」とも思っていません)。

 認識すらしていないことは「そこから」聖園ミカの全てが崩れだしたという浦和ハナコのポストモーテムから窺い知ることができますし、錠前サオリによって指摘されていますし、当時はパニックに陥り特に深刻な一部については記憶に封すらしながら、なんとか百合園セイアの死を合理化しようとしていたものの(百合園セイア偽装爆破事件~エデン3章での先生との再会までの間がそうです)、結局は4章で「誰がそんなことやれと言った」とブチ切れている本人の態度からも窺い知ることができます。

 聖園ミカは百合園セイアを「ちょっと痛い目に遭わせよう」としていただけなのです。極秘である百合園セイアの情報が「身体的に虚弱」であることまで伝わっているのは、絶対に「ちょっと」をの一線を越えてほしくないからです。

 聖園ミカにとって当時の百合園セイアは嫌いだけど大切な人です。最終的には「それでも大好き」と断言する相手です。百合園セイアが話しているのに万魔殿が聞くに値しないと寝ていることにキレかけるほどの相手です。

 嫌がらせは「ちょっと」でなければならないのです。「陽ひらく彼女たちの小夜曲」にて救急医学部で日常的に呻いている風紀委員や不良たちと同じ程度の日常的な状況、病院送りに追いやって、いつもわけわかんないことやお小言ばかりのセイアちゃんをちょっとやっつけて「ざまあみろ」したかったわけです。

 聖園ミカがやったことはお世辞にも性格が良いとは言えません。犯そうとしたことは罪です。しかし、むかつくやつを病床に叩き込んでスカッとしたぜー! するのはキヴォトスの生徒にとって特別に注意を惹くものではありません。

 その一面を見られても精々「どこにでもいる」性格悪い女だとしか思われないでしょう。「殺人」に接近さえしなければ、キヴォトスの罪は基本的にとても、とても軽いのです。そこに罪があることを指摘しても、その罪自体にたいした価値がないのです。

 例外は「キヴォトスは正常化されねばならない」として徹底的に対策しようとした不知火カヤと「リン主席行政官の行いがどのような意図からなされたものであろうと連邦生徒会の官僚システムに適っていないので許容されない。同様に不知火カヤ防衛室長の規定不適合書類も受理しない」という扇喜アオイ財務室長のような姿勢でしょう。

 あの空崎ヒナですら「治安は一定程度保たれればよい。よってETOが私なしで一定の基準を達成できるなら私は引退する。めんどくさいから」としてETO+自分という「更なる正常化、犯罪撲滅」を要求しないのです。

 ちなみに私がコミットメントを持つ立場において、最も好感度が高いのは扇喜アオイ財務室長です。七神リンが彼女を容認したように、扇喜アオイ財務室長は何も悪いことをしていません。

 というよりも、行政機関の財務担当部署のトップとして最も理想的な姿を体現しています。行政機関の財務担当部署だけは、なんとしてでも絶対に、悪意ある汚職を許してはならないのですし、喫緊の正義からの要請を受けたとしてもそれが規定上の「緊急」の要件を満たしていなければ絶対に要請を棄却しなければならないのです。

 「規定外の前例」を生んでしまうと依頼部署と財務担当部署が共謀して「前例」という実質的な「ルール」を創造してしまいます。行政機関は規則的であると共に「規則の解釈」に「前例」を用います。契約事務取扱規程のこの条項はこの契約関係書類一式を見ればわかるように、このように解釈されるのだ、と「前例」をもって「規定」の意味を厳密化させるのです。

 これ自体にある程度の危うさがあります。司法府における「判例」の取扱と類似の危険です。しかしこれは実務上どうしても避けがたいもので、行政機関に属する者としての義務として公益に資するものとして注意深く、明らかに規定からはそう読めないルール創造に至ってしまうような解釈は避けるよう努力せねばならないのです(例外はたとえば憲法でしょう。喫緊の切実なる問題を解決する解釈は憲法の条文からはどう見てもそうは読めないものの、そうなのだと解釈している箇所があります。改憲はあまりにも重い手続きであり、広範に負担を強います。それだけのコストを払うことに見合わない場合、やむを得ず随分大胆だと言えるような解釈をせざるを得ないのです。そういうとき、たいてい憲法がそう解釈されることは自然権に照らして憲法はこうとしか読めない、ゆえに自然権に照らせばこの憲法の解釈は正当化されると合理化されます。当然の話ですが自然権はあまりにも「直観的」であり、「直観的」であることの難しさはここまで読んできたみなさまなら理解できるはずです。苦い顔をして難しい話だよね……と言う他ありません。それに対し「難しい話だよね……」というnullではなく賛否の2値いずれかとその2値の導出がコミットメントを持つ正当化理論を示せと言われたらいよいよ苦い顔になるでしょう)。

 「ルールを解釈する」ことすら危険が伴い、しかし実践として解釈せざるを得ない財務担当者は常に適切、厳密、厳格であることを強いなければなりません。それでは悪法はどうなるのだという話になるかもしれませんが、悪しき規定が存在するならばなおのこと財務担当者はその規定に忠実に従わなければなりません。

 なぜか。悪法に対し場当たり的に対応していたのでは悪法が悪法であることのエビデンスが蓄積されないからです。もっとも、行政機関では通常年一回以上の頻度で各種財務規定や諸手続きについての財務担当部署以外を含む意見収集・リサーチを行っています。

 場当たり的に対応している場合、ほぼ必ず「財務担当者によって同種の書類が通ったり通らなかったりする。規定の解釈が財務担当部署で統一されていない、ふざけてるのか」と長文憎悪が現れます。

 こういったリサーチはしばしばエクセルで行われるので、極端にクソデカい該当セルが現れておおきたきた、となるわけです。つまり財務担当部署が不健全でも不健全性を指摘できるシステムに基本行政機関はなっているわけですが(さらに日本では「ラスボス」として会計検査院が君臨しています。「指摘事項に挙がる」ことは財務担当部署のみならず、当該機関そのものの信頼を極端に失墜させる大問題であるため、「通るかそんなもん! 検査院にどう説明すんだよ!」と書類が打ち返されることは特に調書に単一の事項として挙がるような高額案件について日常的なわけです。だいたい現場と穏当な関係を築きたい中間管理職が少額案件についてはうまいこと回しているわけですが、うまいこと回しすぎている場合、上に書類があがってしまう高額案件について「通るかそんなもん!」と雷が落ちて当該中間管理職は現場と上長の間で板挟みになるわけです。そしてそれを(どっちでもいいから早く解決してくれないかなー、案件処理するの私なんだけどなー)と事務処理担当の一般職員は思っているわけで、一般職員の代替職員ではない通常の意味でのパートの非常勤職員さんはたいへんねぇ、と規定された職権上絶対に自分が処理しない案件、つまり無関係だけどたいへんそうな案件に、たいへんそうだなあと長閑に眺めているわけです)。

 長々と話しましたがつまり私は扇喜アオイ財務室長が好きという話です。彼女が中間管理職であったならば統括する係は地獄になりますが、財務担当部署のトップであれば彼女以上に頼りになる存在はありません。

 公文書としてたいてい5年保存しなければならない会計書類について、特に財務のトップが決裁ルートにあがってくるような、中間管理職に専決が降りていない大型案件において、理不尽な書類を作成しておりそこに自分の印が押されているということは基本的に財務担当者が最も嫌がることのひとつです。

 「通らねえんだよ!」と部下に差し戻すのではなく、依頼部署に直接財務のトップが殴り込んできてくれるのは平の一般職員であれば頼れることこの上ありません。

 最も頻繁に現場とやりとりする末端を憎まれ役にするのではなく、自分が嫌な役目を買って出てそれでも理屈はこうなってるから駄目なんだと断固主張してくれることは頼れることこの上ないです。

 つまり、現実の行政機関の財務担当部署のトップとして存在してほしいくらいの人間であるところの扇喜アオイはキヴォトスにおいてかなり変人だということです。

 追求する正義のためなら自己がルールを逸脱することも容認するという不知火カヤ防衛室長の方がまだ一般的です。こちらは「各学園自治区の都合に束縛されない変わらない正義を貫く」SRT特殊学園のRABBIT小隊ですら「いらねえだろこのドラム缶持ってくわ」するのですから、キヴォトスに適っています。

 私は実務処理担当上の姿勢として扇喜アオイ室長的であることを好みますが、個人としては皆のことが大好きです。ニーチェ的に「超人」を解した場合の不知火カヤの哲学的な魅力についてnoteで一項目設けたほどです。

 先に述べたとおり、私は「ルールに従う」ことに強いコミットメントを持つ人間ですが、同時にキヴォトス人が平然と法を破って自力救済する姿に痛快さを覚えて大笑いして悪徳業者ざまあみろしている人間でもあります。

 この好悪の首尾一貫してなさは合理化されていないし、当然正当化もされていないのです。その好悪は価値一般、正義一般にコミットメントを持つのではなく、特定の環境に置かれた特定のホモ・サピエンスの発する全くヒト一般として扱うことのできない1個体の単なる事実命題「Pである」と読まれることを私は希望するでしょう。

 つまり、この好悪の命題に価値をつけるなら「2024年3月2日現在のこの特定地域の天候は一日通して雨である」という命題と同程度の価値であってほしいという立場に私はあるわけです。

 さて、長く「キヴォトスにおける例外的人間」について話しました。キヴォトスの、特にトリニティを中心とする正義と倫理感覚の話をしましょう。まず注目されるべきは白洲アズサです。

 彼女が「百合園セイア偽装爆破事件」で行ったことは「同意による傷害」です。白洲アズサが行ったこの偽装爆破は彼女に裁かれ足りていない罪があると認定されませんでした。

 逆に白洲アズサはアリウススクワッドという極めて厳しい立場にいたにも関わらず、百合園セイアに関してだけではなく自身を苦しめた桐藤ナギサをも守ろうとした存在であり、トリニティ総合学園は彼女に大恩があるのであって、彼女を僅かにでも蔑ろにすることは絶対に許容しないというミネ団長のような立場があります。

 極めて興味深いのは彼女が白洲アズサについて「もう十分な代償を払っています」と主張していることです。これは法理というよりキヴォトス人の道徳感覚によるものでしょう。頻回かつ過激な私刑を受けた聖園ミカについて、聴聞会による審判以前の段階で「代償を払っている」と優しいナギちゃんと甘い先生が発言しているのと同じ類です。

 聖園ミカが既に代償を払っているという発言は賛否はともかく「何を言いたいのか」は把握しやすいものです。聖園ミカが起こした一連のクーデターについて、私刑を代償として対応させようとしているのです。

 では白洲アズサは「何についての代償を支払った」のか。補助線としては監察官の少女の仕事が参考になるでしょう。

 白洲アズサは襲撃命令者について善意であるか悪意であるか。これはトリニティの監察上重要な概念です。ミネ団長が口にした「代償」は感覚の話ですが、監察官の言葉は規範の話です。

 この少女が問うているのは善意か悪意か、つまり白洲アズサは監察官が取り調べているところの法律行為の成否に影響を及ぼす知識の有無が当時あったかどうかを問うているのです。

 白洲アズサが書類を偽ってトリニティに潜入していることについて、アズサ本人は悪意です。「入学書類偽造関与事件」についてアズサは善意、つまり「自分は本当に和解の象徴として公的にトリニティに招かれたのだ」などとは全く考えていません。

 最初から自分はトリニティに潜り込んだスパイであり、かつ桐藤ナギサを守るためにアリウススクワッドに誤報を流し続けているダブルクロスであることに自覚的です。当然、書類が偽造されたものであることも知っています。

 偽造について悪意であるとともに、この書類の偽造について聖園ミカが完全か部分的かは不明にせよなんらかの関与をしていることに白洲アズサが完全に善意であるというのもさすがに無理があるでしょう。

 トリニティについて徹底的に憎悪を教え込まれているエデン4章のアリウス生の一人であるモブ生徒ですら、聖園ミカがアリウスを支援してくれたことを知っています。さらに、発見直後に牽制的に射撃しているものの、一時期支援してくれたのだから、こちらも今回の件は条件付きで不問にすると徹底的な憎悪によっては成立しないであろう歩み寄りを見せているのです。

 聖園ミカが好きなので脱線になりますが、ベアトリーチェははっきりと「仇と和解など未来永劫あり得ません」と教育しています。この教育が十全に機能していたならば上のアリウスモブの発言はあり得ません。聖園ミカがどれだけの支援をしてくれようと、アリウスはトリニティへの憎悪を忘れず、未来永劫和解することなどあり得ないのですから。そこに譲歩の余地など微塵もないはずなのです。

 エデン条約編の歴史的起点は「第一回公会議」によるトリニティ総合学園の成立と、特にユスティナ聖徒会によるアリウス分派への排撃ならびにエクソダス主導でしょう。

 ですがその時の憎悪は現代における誰も持っていません。今のアリウスの生徒たちが持っている憎しみはベアトリーチェから習ったものです。アズサとアツコはそれを「私たちのものじゃないはずの憎しみ」だと言っています。

 ゆえに、「今」という「日常」を生きる生徒達にとってのエデン条約編は「第一回公会議」に起点を持ちません。

 エデン条約、そしてエデン条約機構という条約に関わる物語としてエデン条約編を読むならば、起点は連邦生徒会長による「エデン条約」という百合園セイアに言わせれば悪趣味な名前の「憎み合うのはもうやめよう」という約束でした。

 これは「第一回公会議」において各分派が「憎み合うのはもうやめよう」と言ってトリニティ総合学園になったことと同じです。

 ですが、エデン条約編が罪を犯した生徒に対する赦し、あるいは「憎み合うのはもうやめよう」というおはなしから始まるのだとしたら、エデン条約も、百合園セイア襲撃依頼も、何一つなかった頃が起点です。

 桐藤ナギサ、百合園セイアとのお茶会で聖園ミカは口にしました。アリウスと和解したいと。桐藤ナギサは疑義を唱え、百合園セイアはどういった政治的意図をもっての発言かを問いました。

 常々百合園セイアに「しっかり考えたまえ」と言われているとおり聖園ミカはこのことについてもあまり深く考えていません。「気分・気持ち」の問題で「アリウスと仲直りしたいな。しよう!」と単純に考えているだけなのです。

 それによってトリニティ総合学園がさらに巨大になることで何をしたいのかと問われても、聖園ミカは何も考えていないのです(アリウスと連合することでより巨大になったトリニティでミカは何がしたいのか。このふたりの詰問が、例のプールでの巨大な怪物のでっちあげの素材になったのでしょう)。

 その無思慮を百合園セイアは白眼視し、聖園ミカはその目が気に入りませんでした。それは悲劇を誘発するたくさんの聖園ミカと百合園セイアの日常的な蓄積のひとつであったことでしょう。しかしこの会合はエデン条約編のはじまりではありません。前エデン条約編です。

 エデン条約編が始まったのは、聖園ミカが勇気を持って一歩踏み出したその瞬間です。

 エデン条約編4章の、終盤に至るまでの聖園ミカはこのときの勇気ある一歩をそもそも封印しています。互いに地獄に堕ちるとき、互いに楽園に歩み寄ろうとしていたときのことを覚えているとよろしくないのです。「和解の象徴」とはエデン条約編における「例のプール(例のプールが例のプールなことあるんだ……)」において先生に場当たり的に言いつくろった虚構だというのが聖園ミカの信念です。

 しかし錠前サオリはそれが誤認であること、聖園ミカが「和解の象徴」という言葉で何を始めようとしたのかを、そしてその価値を強く知っています。

 聖園ミカのことを、トリニティのことを信じ切れない。それどころか信じられる要素の方が圧倒的に少ないにもかかわらず歩み寄ってきた彼女と、彼女が語った「和解」「しあわせになれる」という未来を錠前サオリは完全にはばかげていると捨て去りきれませんでした。

 「全ては虚しい」と繰り返しながらこのときのミカの一歩に「そんな未来」を見てしまった錠前サオリは、だからこそその一歩を逆用した自分は応報を受けるに値すると断言します。

 トリニティという日向からアリウスという地の底に手を伸ばしたミカに対し、その手を掴んで地獄に引きずり込んだ自分のことを錠前サオリは許容しません。

 「全ては虚しい」という考えのもと、それでも何とか身内を守ろうと責任を負い続け、結果が裏目に出続けます。身内を守れないどころか、外部から手を差し伸べてくれた聖園ミカを自分が地獄に突き落とし、自分から離れた白洲アズサは灰色と決別し青空へと進んでいきました。

 「もう何が正しいのかわからない」と言う錠前サオリには一つだけ確固たる信念があります。

「身内は救えない」
「外部から自分に手を差し伸べてくれた人は地獄に墜ちる」
「自分から離れた人は幸福になる」

 考えるに、自分が全ての原因じゃないか? 自分が「疫病神」ならば全部説明がつくのではないか? そう考えて、それに錠前サオリは納得したのです。

 周囲に害悪を撒き散らすことについて錠前サオリは正当なことをしようと思っていました。エデン条約を奪い去り、トリニティとゲヘナをアリウスが審判することは正当だと思っていました。

 だからこそ悪い大人に唆されている家族のアズサを絶対に見捨てず、アズサが「殺意」を向けてくるのにサオリは「手加減」で応じいつでもこの虚しい世界に帰ってこられるとアズサを受け入れようとしました。

 間違っている世界から正しい世界に帰ろう、「人殺し集団」の一員である自分はアズサを当然に受け入れると何度も言うのです。正しいことをしよう、悪や偽りを倒し真実や家族を守ろうと突き進んだ果てに聖園ミカとの対決に敗れもう何が正しいのかわからないと項垂れる彼女がいます。

 錠前サオリの何が正しいのかわからないとは極めて致命的な状況を示しています。これは正義や価値について何も分からないと言っているのと同時にブルアカ宣言でヒフミが否定した「世界の真実」も自分は何もわからないとして、ただの事実についての正しさも掴めなくなっています。

 ただわかることは「自分が全部悪い」ということだけです。そして錠前サオリの知識について致命的であり、錠前サオリの生にとって救済的であるのは、その全てを説明できてるかのように見える「疫病神」の導入は相関的な関係でしかないものについて因果関係を見出しており、「錠前サオリは疫病神である」という命題は偽なのです。

 「自分のやってきたこと全てが間違いで人を不幸に追いやる」という錠前サオリの信念は全称命題なので反証は1例で済みます。

 錠前サオリは白洲アズサの命を救っています。白洲アズサが錠前サオリと決別して灰色から青色へ一歩踏み出せたのは、錠前サオリが他人でしかなかった白洲アズサの死を拒絶し、実績を持って白洲アズサについても自分が責任を負うと断言して救い出しました。

 アズサは水底の貝のように心を開いてはくれませんでしたが、錠前サオリの教えは彼女に叩き込まれています。エデン条約編2章における1対他の防衛的ゲリラ戦においてスクワッドを欠いたアリウスをアズサは徹底的に翻弄し消耗させます。

 今白洲アズサが晴れやかな青空の下笑っているのは錠前サオリが彼女を救ったからであり、その青空を守るために白洲アズサが強く戦えるのは錠前サオリの教導があってこそです。

 そもそも「白洲アズサは錠前サオリから離れた」という認識に不正確なところがあります。これは事実として正しいですが、部分的な事実としてのみ正しいものです。

 このときアズサはミサキやヒヨリ、その他任意の全てのアリウス生に決別を示しているのであり、より正確にはベアトリーチェの教えようとした「全ては虚しい」という世界観に「それでも」と抗っているのです。

 つまり「虚しい」を叩き付けてくる相手その全てに「それでも抵抗し続けることを止めるべきじゃない」と応戦するというのがアズサの徹底抗戦の構えであり、錠前サオリの「虚しい」「そこに何の意味がある」「何を証明しようとしている」はすべてアズサにはね除けられるのですが、それは錠前サオリだからではなく言っていることが「虚しいだけ、それで終わっているから」です。

 錠前サオリという個人をトリガーにして白洲アズサの抵抗が発動しているのではありません。「全ては虚しい」をトリガーに白洲アズサの抵抗が発動しているのです。

 そして、その徹底抗戦において「人殺し」にならざるを得ないと判断していたアズサは「青空」に向かって進んでいきます。アリウススクワッドとははっきりと別れを告げています。

 彼女はスクワッドを指して「家族だった」と言っています。「家族」とは言っていないのです。

 錠前サオリが見た白洲アズサは水底の貝のように心を閉ざしているようなものでした。それは一面的、部分的に正しいのでしょう。アズサは「全ては虚しい」を受け入れてよしとする態度に納得できません。ですが、それでもアズサにとってはスクワッドは家族だったのです。

 もう家族ではない今でも、たくさんの悪事を犯したとしながらそれでも「アツコだけでなく、サオリを含めてスクワッドをみんな助けられたら」と願っているのです。これは以前のアズサにはなかった姿勢です。

 アズサの徹底抗戦は「全ては虚しい」に対する「それでも」が基本姿勢です。つまり何が相手だろうと彼女の信念は変わらないし、折れないし、貫かれるのです。

 だからこそ「自分が「人殺し」というバッドエンドを迎える」ことは「それでも抵抗し続けることをやめるべきじゃない」として自分がバッドエンドを迎えるのだとしてもその中での最上をつかみ取る、ヒフミたちの日常を守る、そのために殺すと強く貫かれるのです。

 この徹底的な姿勢に対して煽りを入れたのがヒフミです。このアズサの「徹底抗戦」について5分で1億の女は貪欲さが足りないとします。「バッドエンドを迎えるとしても抵抗する」程度の抗い方じゃなくてもっとド派手に暴れろ、「バッドエンドをハッピーエンドにひっくり返せ。暴力でも何でも良いから使えるものは全部使ってハッピーエンドのためにやれること全部やれ」と宣言するわけです。

 このヒフミの「ハッピーエンド主義」は対策委員会編の頃から変わることがありません。ただのトリニティのいち帰宅部でしかないヒフミが、実体すら風前の灯火のアビドス高校、ひいてはキヴォトスの規範上の実体をもたない単なる「言ってるだけのクラブ」にすぎない「対策委員会」をキヴォトス3大高の一角、トリニティ総合学園、その生徒会たるティーパーティーが編成するL118牽引式榴弾砲部隊を、ティーパーティーの生徒会長、フィリウス分派首長桐藤ナギサとただの阿慈谷ヒフミの個人的な仲を使ってまで支援したのです。

 桐藤ナギサはこのとき「先生とヒフミそれぞれに貸しひとつ」押しつけることと「カイザーというトリニティにとって有害でありうる対象」を始末する口実ができたことから、ヒフミへの助力・全ての面倒な調整は自分が請け負うことを認めたのですが、それとはまた別にナギサはヒフミの「愛」を高く評価しており、そんなとても気に入っているヒフミのために何かしたい思いもきっとあるのです。

 「愛」が激重の桐藤ナギサは「愛」が激強の阿慈谷ヒフミを心地良い、とても大事な人でこの人との関係だけは失いたくなかったとすら思っています。そして、阿慈谷ヒフミはバッドエンドを認めません。桐藤ナギサが阿慈谷ヒフミとその友人を徹底的に退学まで追い詰めたから絶交する、などという判断を阿慈谷ヒフミはしません。

 その可能性すら考慮していません。「そんなこと一度も考えたことないんですけど!?」というのがナチュラルボーン「愛」激強人間阿慈谷ヒフミなのです。

 グラビティで周囲にこいつの「愛」重いなと認知させるナギサと違って、ヒフミは「それが普通、そういうのが好きだから普通のことしてるだけ」という認識で当たり前のように激強「愛」ビームをぶっぱなします。

 というよりヒフミの「愛」はパッシブで発動しているのですが基本的にヒフミが「愛」の側面で軽薄だったりグラビティだったりすることはなく、つまり日常的に接している限りにおいてヒフミの「愛」とは「なんかいっしょにいると居心地いいな」というものであり強さを感じられません。

 ヒフミの「愛」の強靱さはナギサが「終わった、絶交だ」と思ったりアズサが「もう一緒の世界にはいられない」と思ったりしたときに「なんでですか!? そんなことないですよ!」と居心地のいいヒフミのいつもの「愛」が未だ発動し続けていることからようやくその異常な強さを認知できる類のものです。

 根本的には、日常にいるときのアズサの「アズサ式ばにたす」と変わりません。

 普通にキヴォトス生をやっている分には深刻な意味で「ばにたす……」となる事態にはなかなか直面しません。それこそ「いじめ」などのシンプルにしんどすぎる状況下でなければそれを確認できないでしょう。

 「抵抗し続けることを止めるべきじゃない……!」と言って何もわからない記述式のテストに向かうというアズサの姿勢は「いやこれ選択式じゃなくて記述式だからアズサ式ばにたす発動しても意味ないよ!?」とギャグ的に突っ込まれたりすごい汚れた場所を徹底的に掃除しているときに「おーがんばってるなー」としか認識されなかったりするものです。

 そういう日常レベルのアズサ式ばにたすから「こいつやってんな?」と認知するにはハナコ程度の洞察力が要請されるのです。そういった意味でもヒフミとアズサは類友であるわけです。

 アズサの「それでも足掻く」には同じ世界にいる友達であるヒフミの「ハッピーエンドになるまで足掻く」が乗っています。

 錠前サオリの逃れられない自責、全ての責を自分に帰属すると考える思考。これはアズサの「人殺し」と違って実は明白に反駁されていません。

 聖園ミカに同情・同調されており、先生は「無限の可能性」で二人を救います。つまり、「錠前サオリが全て悪いのだとしてもそれは危険に陥っている生徒に背を向ける理由にはならない。錠前サオリの未来への可能性は私が敷く!」が先生の立場です。

 あの人は錠前サオリの徹底的な自責に直接的な反証を与えません。なぜか。理由は「放課後スイーツ物語」に見ることができます。

 「放課後スイーツ物語」における杏山カズサは最終的に「キャスパリーグ」とそれに関係する全て、たとえば宇沢レイサについて「自分がどう受け止めるかの問題」だと気づきを得ました。

 「気づいてしまえば」問題があまりにも簡単だと思えてしまいます。こんなの一言でわかることじゃん、と。だから杏山カズサは問います。

 彼女は責めているわけではありません。シンプルに疑問なのです。簡単なことで、答えがわかっていて、言われれば今の自分は秒で納得するのに何で言わなかったのか掴みかねるのです。

 彼女は実例を挙げます。どれでも今の自分は納得できる、事実そうだからと。全て文字にすれば10文字に満たない言葉です。これだけで答えを出せるのになぜ悩んでいる生徒に答えを与えなかったのか、という純粋な問いです。怒っているのではなく困惑しているのです。

 今になって自分でもそう思うし、相談されたらそう言うと思うとカズサは言います。それに対する先生の態度は明白です。「今になって」でしょです。

 中学時代について神経質になっている子に対して「受け止め方次第」「前向きに考えよう」「気持ち次第」だよと言うことは、理屈として内的不整合性を持つわけではありません。

 そして、私たちは常々確認してきたはずです。内的に整合的な理論を採用するかどうかは任意であると。

 つまり、そのモデルは破綻してないけどその時のその人に与えて何の意味があるの? というわけです。

 今の杏山カズサはそれらのモデルを採ります。しかしかつての杏山カズサが単に整合的であることからそれらのモデルを採用すべき理由はありません。

 エピソードを経て自分と自分の過去の捉え方が変わって、だからそれらの「とても簡単なモデル」を適合するじゃんと手に取って、なんでこんな簡単な答えを言わないのか? と首を傾げるわけです。

 つまりこれは錯誤なのです。モデルが簡単かつ内的に整合的であることからモデルの採用可能性を類推してしまっています。これは通らないのです。ゆえに先生は「言葉で解決する問題」ではないとして見守っていたわけです。

 錠前サオリは「完全にこのパターン」です。何もかもを自身に帰責し自罰していた彼女は0068の時点で存在しません。

 とてもコミカルなシーンです。

 全てを諦めていた頃の錠前サオリは「愚鈍で惰弱だった私が周囲を破滅に追い込んだ、だから私は疫病神だ」と思っていました。彼女は今も自分が裏社会のニュービーで未熟であることは自覚しています。

 つまり、自分がミスを犯しうる存在であることを認めています。だからこそベアトリーチェのときのように(あるいは「0円ですね」されたとき等の数々の仕事での自分の取り扱われ方のように)「また」騙されたと早とちりします。

 しかし、そこから「私が悪い」「私が周囲に厄災を振りまいている」とは考えません。彼女は「裏世界のやり方」をハルカから学んでいます。基本的に彼女はハルカほどアグレッシブではなくだいたいのことは「教訓を得たということにしよう」してくれますが、あんまりにもあんまりなことをされると「裏世界のやり方」を認容します。

 つまり、自罰に沈まず騙した相手に反撃します。お前達が悪いと他責に持ち込むことまではしませんが(むしろそちらも仕事だろうと捉えている節さえあるかもしれません)、こちらも悪くない、イーブンだで応戦できるのです。

 さらに、彼女はエピローグでかなり進歩した一言を放っています。

 錠前サオリに「裏世界のやり方」を教えたハルカはかなり自罰的な傾向も持つ子です。「死んでください死んでください死んでください」と対になるように、「すみませんすみませんすみません」がある子です。「死んでいいですか、死にます」する子です。

 最後の爆発オチも自分のせいだと捉えています。それに対してカヨコが「気にする必要はない」「むしろ良かった」と理由を添えて述べているのですが、このとき錠前サオリは「ああひも、おあじはんあえだ」と述べています。「明らかに理由が悪くないことにまで自分が悪いと言うなよ。むしろ今回は良かったまであるじゃん」というカヨコの考えにサオリは乗っているのです。

 繰り返しになりますが、錠前サオリの「疫病神」は反駁されていません。そして、あの場面の彼女の呪いは先生が「無限の可能性」を口にしたあの場面だけで完全に解けるものではありません。

 それは錠前サオリと照らすことのできる聖園ミカが絆ストーリーにおいて、破かれた水着の件で「やっぱり無理なんだね」と思ったことからも伺えます。言葉だけで解決するような軽い問題ではないのです。

 しかし、その決して軽くはない呪いを錠前サオリは一人旅の中でしっかりと解きつつあります。間違ったこじつけで自罰する子にそれは違うと思えるほどになります。

 錠前サオリと聖園ミカ。彼女達に必要なのは見守ることです。答えを出すのではなく、破かれた水着のときのように誤答したらチャンスを敷くことです。「何度だってチャンスを作る」「そういうことは大人に任せて」はそのようにして発動されるのです。絶望しない限り、先生は基本的に口を出さずに見守っているのでしょう。

 さて、聖園ミカに戻ります。聖園ミカは慎重に慎重を重ねて熟慮するタイプの人間ではありません。これは聖園ミカがあらゆる意味で愚鈍であることを意味しません。その場当たり的な処理における瞬発的な合理性の発揮について聖園ミカは天稟とでも呼ぶべき才があります

 才があり過ぎて、自分の処理に自分が気づけない程です。「百合園セイアの死」という凶報を受け取った彼女はその瞬発力で危険な記憶に封をして自身の考えを合理化しました。「セイアちゃんが死んだのだから、セイアちゃんの死に値することが達成されなければならない」です。

 このときツールにされたのが元々あった気分である「ゲヘナ嫌い」でした。聖園ミカはこれを気分の問題であると正しく把握しながら、「トリニティとゲヘナの両校が歩み寄るエデン条約などあり得ない。ナギちゃんはお花畑的な思考をしていてどろどろした現実問題を考えてない。ナギちゃんに正義実現委員会がつくなら自分にはアリウスがつく」としてホストの席を奪取し「百合園セイアの死」に値することをしようと邁進しました。

 結果として、「百合園セイアは生きている」と知らされたその瞬間に彼女の動機はガス欠を起こします。彼女の主義は「セイアちゃんの死に値するものがなければならない」という場当たり的な判断から場当たり的に作られた自分すらも騙す(記憶に封をしていれば)内部整合的なフィクションです。

 しかし、その主義はそもそも「セイアちゃんの死が無意味ではないことを証明する」ためにつくられたものなので、「セイアちゃんが生きている」ならば維持し続ける必要がありません。

 この「あんまり考えていない」「瞬発力」に溢れた思考と行動こそがエデン条約編を「憎み合うのはもう止めよう」という物語として駆動させました。ナギサに疑義を突きつけられても、セイアに白眼視されても、聖園ミカは熟慮するのではなく即座に一歩踏み出しました。あれこれ考えてみるより当たって砕けて試せばいいじゃんというわけです。そうして、尊い一歩が確かに踏み出されたのです。

 「お互いに少しずつ歩み寄れば久遠に近い憎悪の集積があってもいつかわかりあえる」――ベアトリーチェの言うような「未来永劫に和解できない」なんてことはない。聖園ミカはただそれを信じているだけの子ではありません。そういう風に考えるなら、自分が一歩を踏み出してみせなきゃじゃん、と楽園の存在証明を始めたのです。

 理解できない他者の心について「今は憎悪があってもそれでもいつか仲良くなれる」と「信じて闇の中を一歩踏み出した」のです。

 聖園ミカは「あんまり考えていない」ので楽園の存在証明を実践しているとき、百合園セイアのように楽園の存在証明を自覚し、たとえ闇の中でも「それでも信じる」を実践し続けることで楽園をすぐ側に存在させ続けなければならないなどとごちゃごちゃ考えていません。

 同感だと彼女の主張を瞬時に理解しつつ、そういう難しいことばかり考えて言うから百合園セイアには友達がいないのだと茶化すくらいです。

 聖園ミカはお互いに降り積もった憎悪があまりにも大きすぎてトリニティとアリウスが和解するのは簡単じゃないとわかっています。それでも、それはアリウスと仲直りすることを諦める理由には、彼女にとってならなかったのです。

 そして聖園ミカは彼女にしては珍しく「考えた」と言い提案しました。アリウスとトリニティが楽園を成立させるための、まず不信を崩す第一歩。「トリニティとアリウスの和解の象徴」に「トリニティで幸せになれることを証明する」と主張するのです。

 ベアトリーチェが言うような「未来永劫和解できない」なんてことはない。全称命題の反証は1サンプルで済むから「和解の象徴」がしあわせになれたならベアトリーチェの言うような考えは当然に瓦解する、というわけです。

 ここで聖園ミカが想定していたのはこの最初の一歩では確実に面識がないベアトリーチェではなく、桐藤ナギサと百合園セイアの両名でした。「和解の象徴」がしあわせになったその瞬間、二人に「あの子アリウスの子なんだよ!」とネタばらしするわけです。

 そうすればあのとき一蹴してきた二人に気持ち良く一発パなせるわけですし(聖園ミカにはそういうむかっときたからボコりたくなる感覚があります。百合園セイアについて何度も懲らしめてやりたいと思ってたと言うくらいです。しょっちゅうグーパンが出そうになっていたのです。でもまあセイアちゃん弱っちいからなあ、自分強すぎるからなあ……アリウスでぶん殴ればいいじゃんね! 百合園セイアは爆発しました)、どうだ見たかと二人を見返しながら、「だからアリウスと仲直りしようよ!」と証拠をもって主張したいわけです。

 「第一回公会議のときみたいに、あるいはいつもみたいに、お茶会しながらおしゃべりすればいいじゃん。それが難しいならそのための第一歩は私が踏み出すよ」というわけです。それが、聖園ミカの「あんまり考えない」性分のとても輝かしい、キラキラとした側面です。

 本noteをここまで読んでいる方なら(既に55,000字を超越しています(度々遡及して追補しているため最低55,000字超です。この一文を書いたときから振り返ってかなり追補しているので[ 今やっているようにです ]誤差は数千字以上あるかもしれません。ここに到達しているならば一般的な文庫本の半分程度の量を、しかもかなり込み入った議論を頻繁に脱線しながら行っているという、量がある上に質としても無駄にやたらと晦渋で読みにくいものを既に通読していることになります。ありえるのか、そんなことが……?)私が聖園ミカとは真逆の性分であることが直覚されると思います。

 このnoteそれ自体が私が聖園ミカ的でないことの証拠です。

 だからこそ、彼女のこういう側面を見たときに「ああ、眩いな」と思うのです。聖園ミカは下江コハルを見てそのように目を細めているわけですが、私のような人間にとっては聖園ミカもそれに該当するんだよ、ミカが物語のお姫様みたいだと言ったコハルみたいに輝いている瞬間がミカにも確かにあるんだよと強く主張したいところです。

 というか、ナギちゃんが聖園ミカに対し激重であり(ナギちゃんがヒフミを愛しているからこそ尚更そのヒフミを失ってでもというナギちゃんの重さがすごいです)百合園セイアもそういう聖園ミカの性質を「好きではなかったかもしれない」と言いながら、それでも聖園ミカのためならば「預言の大天使」としての性質を擲つことなど一瞬の躊躇もない、未来視「ごとき」はそれを代価に聖園ミカを救えるなら「小さな取引」でしかないと言い捨てているあたり、少なくとも桐藤ナギサと百合園セイアにとって聖園ミカはそれだけの価値がある相手であり、わざわざ私が言うまでもなくお茶会に同席している二人が聖園ミカのあんまり性格よくないしあんまり深く考えるわけでもない――だけではない彼女のよさを私ごときの万倍も強く理解しています。

 聖園ミカを救おうと足掻いていた百合園セイアは色彩に儀式を介して間接的に露出した影響で神秘が恐怖に反転を開始しており器の崩壊が始まっていた、狭間ではなく現実において痙攣と出血が治まらないという貧弱な肉体が陥るにはあまりにも危機的状況に陥っているのですが、「自分の体のこと」ごとき百合園セイアは一顧だにしませんでした。百鬼夜行の大預言者クズノハはそれを見てトリニティの預言の大天使に対し最上の評価を付すのです。

 そして百合園セイアはそのかっこよすぎる一面を主張するどころか「長くなるので割愛する」と言って雑に等閑視します。「聖園ミカが生きている」「間に合った」ならそれでいい、今のその感覚が何よりも大事。だからそんな長くなってしまう話は小さな取引に過ぎず割愛すると打ち捨てるわけです。

 当然、百合園セイアが予知夢を見なくなり代わりに「勘」を獲得したことはエデン条約編4章から最終編までの間に聖園ミカにバレているでしょうから、「小さな取引って言ったじゃん、ね?」などと聖園ミアが百合園セイアに迫っているのは想像に難くないのです。

 ミカ⇔ナギサ、ミカ⇔セイアの両関係は互いに対して「素直に好きって言いたくねぇ~!!!」という面倒くさい部分があります。ミカとセイアに至っては「そういうところが好きではない」「そういうところが心底ムカつく」と言う仲ですし、桐藤ナギサも一人で特殊なチェスをしながら「うるさいミカさんもいないので」などと第三者に対しても自身がミカをラフに扱っていることをことさら示そうとします。激重なのはバレバレなのですが……。

 そんなただでさえめんどくさい関係性なのに、桐藤ナギサと百合園セイアは両人共に熟慮するタイプの人間です。慎重に慎重を重ねてしっかり考えるがゆえになかなか一歩を踏み出せません。百合園セイアに至ってはお互いに「ごめんね」を言えていないなんて全く子供じゃないんだからと思っていながらとりあえず落ち着いての一発目がこれになってしまいます。

 私は様々な初見実況を心底から楽しませていただいているのですが、「私はもう許している。だがそれを言ったのは夢の中でのこと(エデン3章の激戦中)なので現実でもミカに言わねばならない」とも「冷たく扱ってあまりミカを理解しようとしなかったことについてはすまなく思っている」とも言えていないと頭で理解しているのに、百合園セイアがとりあえず一発目としてパなすのが「これ」であることに「セイアーッ!! 違うだろーッ!!!!! 」と半分笑いながら叫んでいる初見からの栄養素をとてもおいしく頂戴しています。

 私は初見の際、百合園セイアと聖園ミカの関係における二人の初手ってこうなっちゃうよな……でもその日常が帰ってきたんだよなあ……としみじみボロ泣きしていたのでパッション溢れる叫びに「クゥ~ッ!これこれ! 悪いねぇ!」と最悪のオタク受容をしています。キモオタ私の相手正面からすんな……

 百合園セイアの「そういうとこだぞ」はとりあえず初手で小言をパなしておいて自分のやったことは「小さな取引」だと言いながらナギサは物凄いことしてたぞ、とセイア→ミカを卑小化しながらナギサ→ミカの重さを語るところです。マジでお前そういうとこだぞ。

 そういうとこなのだけれども、とりあえず初手軽くパなしてみるのが百合園セイアと聖園ミカのいつもの関係です。聖園ミカも百合園セイアに対して初手でパなすのでどっちもどっちなのです。

 そして、どっちもどっちだからこそ百合園セイアはとりあえず許して謝らないといけないのだけれどもどうしたものか、とうまく一歩が踏み出せないわけです。

 ミカのピンチすぎて「愛」がダダ漏れ状態になっている桐藤ナギサも長い付き合いの幼馴染みだからこそ今までの関係を踏み越えてえいやと一歩踏み出すことができません。

 そして、そういうときに、「仲直りしたいなら歩み寄るべきで、あっちが動かないならこっちから一歩踏み出す」のが「あんまり考えてない」聖園ミカの「何一つ始まっていなかった錠前サオリとの出会い」から貫かれている根本姿勢なのであり、踏み出せない二人に軽く憎まれ口を叩き込みながら、それでも本心はともかく表にはチクチクを出力してる関係で一歩踏み出して気持ちを伝えるのがちょっと気恥ずかしいというかなんというかもにょもにょな両人に思い切りダイレクトアタックするミカなのです。

 こういうお互い動けなくなっている関係で「勇気を出して一歩踏み出す」のが繰り返しになりますが聖園ミカの「あんまり考えてない」性格の眩い側面です。

 軽く流されたエデン条約編4章のこのひとことが、「仲直りしたい」と一歩踏み出した聖園ミカの「努力しようとここまできた」ことがアリウスにとって虚しく何の意味もないこと「ではなかった」ことの輝かしい証明になっています。

 聖園ミカ自身はこのときそれを覚えていません。なにせ、「和解の象徴」という言葉を初めて使ったあの錠前サオリとの初対面のときのことを聖園ミカは記憶に封をして思い出さないようにしているからです。「和解の象徴」とはこのときのミカにとって「例のプール」で先生に適当に言い繕ったフィクションでしかありません。

 ですが錠前サオリは知っています。彼女は心からアリウスと和解したくて、そのための努力をしたくて一歩を踏み出したことを。そしてアリウスの生徒Aの一言が告げています。たとえ今壊れ、復讐の魔女になってしまっているとしても、それでもあの日あの時踏み出した聖園ミカのアリウスと仲直りできるという一歩は決して無駄ではなく、「仇と和解など未来永劫ありえない」というベアトリーチェの主張は、「それでも聖園ミカだけは譲歩に値する」とするアリウスの生徒Aに崩されているのです。

 あの日脳天気に踏み出した聖園ミカの一歩から連なる努力に、アリウスの生徒Aが応えているのです。聖園ミカも、アリウスの生徒Aもそのことを知りません。この場面に錠前サオリはいませんし、先生もいませんから誰もそのことをしらないのです。

 それでも、彼女の一歩は無駄ではなかった。復讐の魔女に蹂躙される寸前のアリウスの生徒Aこそが、聖園ミカの最初の一歩から連なる努力の有意味性を証明しているのです。ただのアリウスの一生徒にすら「私たちは憎悪を忘れない」「それでも聖園ミカだけは尊重に値する」と思われていたのです。白洲アズサが「和解の象徴」だったように、聖園ミカこそがアリウスにとっての、彼女が語る「お互いが少しずつ歩み寄って、やがてはティーテーブルを挟んでおしゃべりしながら仲直りする未来」、バカバカしいような、とても信じることなどできないような、それでもどうしても棄却することのできない「そんな未来」だったのです。

 正義と道徳的感覚の話をしているのですから、あまり錠前サオリやティーパーティートークに費やすのはやめましょう。無限にできますが余話です。

 話はエデン2章後の白洲アズサの処理に戻ります。ミネ団長ほど神経質ではないものの、サクラコ様が白洲アズサ関連で行っている主張はミネ団長以上に組織として極度に過激です。

 シスターフッドのサクラコ様は基本的に滅茶苦茶人が良いです。その上で、彼女のこの人が良すぎる発言はシスターフッドとして過激です。シスターフッドの歴史的な立ち位置は「政治への不参加」です。内政外政問わず、その姿勢はトリニティ外にすら知られています。

 「白洲アズサ」とは百合園セイア偽装爆破から始まる一連の政治事件の火中の栗であり、彼女への組織的介入は政治的コミットメントを回避できません。

 サクラコ様はそれでも、憚ることなく断言するのです。「白洲アズサの書類は自分が正式なものにする」「シスターフッドがそれを保証し誰にも文句を言わせない」と。

 サクラコ様は今までのシスターフッドのスタンスを変えると言っていますが、その一発目が桐藤ナギサ襲撃事件への参戦であり、二発目が白洲アズサの学籍保証です。

 段階があるだろうがよ、段階が! と言いたくなるほど政治の外から政治のど真ん中に彼女は飛び込みます。その上、彼女は政治だけでなく官僚的な処理の部分にまで立ち入ってシスターフッドが文句を言わせないと言っているのです。

 これはシスターフッドの慣例とトリニティの慣例ならびに規則、それらに照らした全ての批判と自分は対決し白洲アズサを守り抜くつもりであるという宣言です。

 サクラコ様の政治的な過激さと、人としての温厚さ、優しさの両方が伝わるかと思います。サクラコ様の人の良さは白洲アズサだけに向けられるものではありません。

 シスターフッドが動いたとき、聖園ミカは「何を支払ったのか」と浦和ハナコに問い、ミカは代価をかなり高く見積もっていました。しかし、サクラコ様は彼女が本気で嫌がるものを彼女に支払わせる気は毛頭ありませんでした。

 一回手伝ってくれればいい、それも任意で。

 桐藤ナギサ襲撃事件への関与、つまりシスターフッドの政治介入とティーパーティーとの正面衝突。これだけのことを、それだけの代償で容認するのがサクラコ様です。

 そして、彼女はその約束を拡大解釈して有利に使おうとするどころか、エデン3章での浦和ハナコのシスターフッド統括をもって「契約は終わった」と断言し、自ら浦和ハナコに関する権利が消滅していることをティーパーティーと救護騎士団とシャーレが在席する公の場で宣言しました。

 気持ちとしては浦和ハナコを後任にしたい彼女は、その自分の気持ちやシスターフッドという組織の将来より浦和ハナコ個人の気持ちを優先する人なのです。

 このとおり、彼女は滅茶苦茶、めっっっっっっっっっっっっっっちゃくちゃ優しい人です。優しいとはなに? それはシスターサクラコのこと。と言ってしまっていいくらい優しいです。善性の鎌足。

 ナギちゃんに対し血も涙もないなどとちゃけることもありますが、基本的にサクラコ様は温厚温和です。シスターサクラコ、シスターヒナタ、シスターマリー。少なくともこのシスターフッドにおける「サクラコ派」は綺麗な川の上流にしか生息できない浦和ハナコが大した苦もなく生活できるほど「毒」がありません。

 トリニティ総合学園は特に政治的に長けていればいるほど、そこにコミットメントを持てば持つほど表面上はニコニコしています。それができていない人も特にモブには複数いますが、それは巧者ではないということです。

 つまり、トリニティ総合学園はパッと見で毒が見えにくい場所です。気づいたら詰んでいる可能性があります。ではトリニティ総合学園の「毒」を見抜くために必要な「炭鉱のカナリア」あるいはトリニティ総合学園の毒性を見る、その毒に鋭敏な「指標生物」は何かというとウラワハナコ種です。この種の生物はトリニティの毒をたいへん嫌うのでウラワハナコ種が日常的・頻繁に見られる場所はトリニティにおける安全地帯です。

 つまりシスターフッドの少なくともサクラコ派はトリニティにおいて安全です。

 にも関わらず、です。

 残念ですが当然です。シスターサクラコは優しいです。確かに優しい。善の側にいる人です。しかし、シスターサクラコは優しいがゆえにシスターフッドの現状維持、保守を否定します。それで傷つく誰かを救うことができるのならば、シスターフッドは変わらねばならないと判断できるのが彼女です。

 ですが、彼女が聖園ミカや白洲アズサを理由に政治介入したことは観察可能な事実です。その後もシスターフッドは内外問わず政治に介入し続け、連邦生徒会による非常対策委員会の発令に際しても列席しました。

 そもそもシスターフッドという組織に「秘密主義的」で「陰謀」の匂いが常に漂っているということはエデン4章や最終編におけるミネ団長からの度々の指摘からおさえておくべきでしょう。

 しかも、それはサクラコ様が秘密を認め、トップであるサクラコ様自身ですら全容を把握できないものがあると断ずるほどです(ただし、彼女はその秘密において非人道的な行いがなされることを絶対に容認しないでしょう)。

 さらにシスターフッドは遡ればユスティナ聖徒会を前身に持ちます。爪剥ぎのような拷問すら記録に残っている伝説的な戒律の守護者がその前身なのです。

 だからこそ、特に人嫌いで更に古書に精通した古関ウイはサクラコ様の「拉致」を受けて「消されてしまう」と判断しました。そこには「拷問」すら伴うと認識していたほどです。

 アリウスとの複雑な関係を含め、サクラコ様がユスティナ聖徒会とシスターフッドの関係における自分の「覚悟」を示したのはそういった歴史的経緯があるからです。彼女は真剣ですし、彼女が背負っているものの尋常ではない重さとそれを背負っていくつもりだという「覚悟」は笑うべきではないものです。

 そして、それを浦和ハナコが「笑うべきもの」にしたのは、サクラコ様の背負う大量の重石を蹴っ飛ばすためでもあったと思うのです。

 「覚悟」なんてしなくても、私は今のシスターフッドとシスターサクラコを知っている。そんな悲愴な決意はしなくていい、ユスティナ聖徒会とシスターフッドとアリウスとトリニティ。確かに複雑な関係です。

 それでもシスターサクラコなら大丈夫だと信じている。あなたがそういう人だと私は知っている。浦和ハナコがじゃれつくとき、それは基本的にその相手への強い愛情の表現です。めんどくせー女……君が好きだよ……

 閑話休題。トリニティでのシスターフッドとサクラコ様の受容のされ方の一例を見ましょう。

 ①:シスターフッドという組織がそもそも怪しい
 ②:シスターフッドの前身である聖徒会も怪しい
 ③:シスターフッドの最近の急激すぎる方針転換が怪しい
 ④:③の主導者はサクラコ様

 サクラコ様は危惧します。自分はただ「誤解」されているのではない。周囲の人たちは、自分を、

 当っっっっっっっったり前じゃんね。自業自得じゃんね。身から出た錆じゃんね。

 怖すぎでしょ。「文脈」があまりにも乗りすぎているのです。サクラコ様本人は自身ひいてはシスターフッドにそのような「文脈」が乗ることを嫌っています。なぜなら、シスターフッド、ひいては聖堂は心安らぐ救いの場所であるべきだと彼女は信じているからです。そう、良い人なのです。ですが、

⑤:サクラコ様本人が気安いコミュニケーションを不得手としている

 これが致命的です。わっぴ~☆

 これは浦和ハナコとは質が違います。たとえば浦和ハナコは下江コハルと海に行きたいとき、古関ウイの経典無断複写やシスターサクラコのある調査への興味といった事柄からシスターサクラコが近く行動を起こすだろうと読んで介入し、二人を調停して下江コハルを巻き込むという「友達と海に行く」という目的に対して迂遠すぎる権謀術数を巡らせます。

 アズサちゃんと海行くぜー! っしゃあ戦車! (何の何の何?!?)のファウストとは対照的でしょう。

 しかし浦和ハナコはこれが迂遠すぎることに自覚的でしょうし、彼女はじゃれつくことが好きで、コハルやヒナタなどたびたび被害にあっています。「トリニティのほぼ全てに精通している」というヤバすぎる性質を有していながら、浦和ハナコは不必要に人の感情を揺さぶらないのです。逆に言えば「お友達ごっこ」のように「効きすぎる」一撃も撃てるということではあります。

 そして、そんな浦和ハナコですらヤバすぎる知識量と能力から誤解・要請され続けトリニティを辞めようと思い至るほどであったのに、サクラコ様に至っては何をか況んやです。

 外部だけでなくシスターフッド内部にすら「誤解」されていると踏んだ彼女の渾身の一手はこれです。

 それはひょっとしてギャグで言ってるのか!?

 いいえ、サクラコ様はマジです。

 ユスティナ聖徒会を前身とするシスターフッドにおいて慣例を破り政治への積極的コミットメントを持つシスターサクラコが連邦組織の超法規的機関シャーレの先生を招致し皆を集めて説諭した――「文脈」が乗りすぎています。「文脈しかない」まであります。「誤解」を解きたいのです(「誤解」を解きたいのです)であると誰が読むでしょうか。ですがサクラコ様はマジなのです。サクラコ様は「誤解」されることそれ自体が不本意ですし、「誤解」によってシスターフッド内外に不要な圧力、特に自分が恐怖を与えるようなことは避けたいと心から他者を慮っています。で、その出力がこれなのです。

 無理だって!!!!!!!!!!

 「誤解」のないよう付言すると、ここまで「文脈」が乗っているのに、それでもなお割と愛されてるのがサクラコ様の人の良さが極点に至っていることの証左でもあります。浦和ハナコのような洞察力に優れた人やシスターマリーやシスターヒナタのような隣人だけが愛しているのではありません。

 サクラコ様からしてみれば基本的に皆サクラコ様を理解しようと努力してくれており、アドバイスすらくれる優しい方々なのです。そのアドバイスを受け真摯に実践し、尚「誤解」が日に日に深まっているので彼女は憂慮しているのです。

 「歌住サクラコは優しいけど恐れられている」と読むのは正しいのですが要訣はそこではありません。「ここまでヤバいのに歌住サクラコには結構なファンがついている」のです。それも熱狂的な。

 政治に舵を切ったことは特にシスターフッド内部に相応の負担を強いたはずです。それでもなお、5rhPVで歌住サクラコに黄色い声をあげているのは、シスターフッドの生徒達であり、しかも彼女を推しているのはシスターフッドに限らないのです。

 ドロドロとした政治の場のど真ん中に外からいきなり突っ込んで来たヤバすぎる女歌住サクラコが何故火傷してでも躍起になって火中の栗をわざわざ拾いにいくのか。それが傷つく他者を守るためだということを、シスターサクラコは滅茶苦茶良い人なのだということを、たくさんの人が知っているのです。

 「火中の栗を拾う」とは「わざわざ危険なことをする」という意味ではありません。「他人の利益のために危険をおかす行為」を「火中の栗を拾う」と言うのです。

 そして、ラ・フォンテーヌの「猿と猫」の寓話は本来、「そういったことをするな」という戒めです。もっとも、フランスにおける原義において「火中の栗を拾う」とは猫におだてられた猿が火中の栗を拾ったことから、他人に言いように踊らされるなという文脈でその戒めを与えています。原義においてシスターサクラコは「火中の栗を拾う」にあてはまりません。なぜなら、彼女は自己の判断の責任と良心によって火中に手を伸ばした人だからです。彼女は踊らされたのではありません。勇気を出して第三者のために熱い火の中に飛び込んだのです。聖職者――最も清廉な意味でのそれの姿を体現するシスターサクラコに、敬虔な傾向があるトリニティ総合学園の一部の生徒が脳を焼かれるのは当然のことと言えるでしょう。

 次は桐藤ナギサです。彼女もやべー女です。彼女はティーパーティーの現ホスト、正確には少なくともエデン条約締結までの立ち位置は百合園セイアの代理ホストです。フィリウス分派の首長でありティーパーティーの三人の生徒会長たちの一人です。

 彼女自身が述べているようにトリニティ総合学園は手続きを重視します。より正確にはトリニティ総合学園の「生徒達の気質」ではなくトリニティ総合学園という「組織の対面」は手続的正義を守ることによって正当化されています。手続的正義については法務省のPDFが参照になるでしょう。

 手続的正義について

 「きちんとルールに従って手順を踏む」ことがトリニティにおいて重要なわけです。

 「私たちは手続きを重視する、ゲヘナとは違う」――それがトリニティの体面です。

 桐藤ナギサは「補習授業部」の設立でその体面に傷を付けました。

 注意してほしい点は、私は彼女が「ルールを破っている」と言っているのではないことです。超-法規的機関シャーレの権限を組み込むことにより、超-校則的措置を行っているのです。反-校則的措置を採っているわけではありません。

 補習授業部の子たちへの桐藤ナギサの措置はなかなかのものでしたが、それによって彼女が聴聞会で裁かれることはありません。なぜなら彼女は校則に反していないからです。

 特に注意すべきはミネ団長により連続して語られた聖園ミカと桐藤ナギサの行いについてです。

 ミネ団長はミカの「罪」に言及しています。つまり聖園ミカは罪を犯したと言っています。しかし、桐藤ナギサに対してはそうではありません。

 ミネ団長は桐藤ナギサの一連の行いを「行為」と呼んでいます。連続した発言、聖園ミカと連なる流れ、対応する文において「罪」と言わず「行為」と言うのです。つまり、彼女は桐藤ナギサについては法的責任を問えないため道義的責任について述べているのです。これは全く別種の発言です。

 これが桐藤ナギサはルールを破っておらず体面を傷つけたということの意味です。彼女はルールを超越し、それによって補習授業部を傷つけ、トリニティ総合学園の、ひいてはティーパーティーの体面に傷を付けました。

 なぜこんなことをするのか。大切な阿慈谷ヒフミを傷つけてまで。

 それは聖園ミカを守るためです。

 百合園セイアや自身に比べて「政治的にアレ」な聖園ミカをこの殺意の対象に置くわけにはいかない。それはもちろんエデン条約締結という大義のためでもありますが、聖園ミカに怪我をしてほしくないという幼馴染みとしての心配でもありました。

 つまり、自分が死んだら「エデン条約」という「憎み合うのはもうやめよう」というせっかくの大切な約束が揺らぐかもしれないし、聖園ミカという大切な幼馴染みが傷つけられるかもしれない。

 だから形振り構わず必死になった。誰が真犯人なのか分からない、どこに裏切り者がいるかわからないなかでの、それでも守ろうとした桐藤ナギサの孤独な戦いがそれでした。

 聖園ミカが「優しい優しいナギちゃん」と言うのも無理はありません。桐藤ナギサは、恐怖しながら「次は私だ」と思ったとき「エデン条約」と「聖園ミカ」のために動いたのです。自分が生きたいから戦ったのではありません。大切なものを守るために自分はどうなってもいいから戦ったのです。

 「補習授業部」を創設した時点で違法ではなくとも彼女は政治的な責を問われうる状況に陥っています。トリニティの手続的正義の体面に、彼女は「補習授業部」を創設しその「ゴミ箱」の中の皆を苦しめたことで大きな傷をつけました。それでも桐藤ナギサは戦ったのです。自分のことなどどうでもいい、補習授業部の容疑者たちのことは、特にヒフミについてはあんまりなことをしていると思いながら、それでも自分が殺される前にミカさんを守る、と。

 「どうなってもいいから聖園ミカを救う」という彼女の決死の姿勢はエデン4章でより強烈にあらわれます。

 現ホストとしての地位も、ティーパーティーの生徒会長という椅子も、フィリウス分派首長という代表性も、全部手放して構わないと告げて桐藤ナギサは聖園ミカのために総動員をかけました。

 「補習授業部」のときのような合規的動員はできません。聖園ミカは脱獄囚であり、アリウス分校とトリニティ総合学園の間には第一回公会議以来の確執があります。

 つまり、このときの桐藤ナギサには官僚的な合規性も政治的な利益も、手続き上の何の手札もありません。だからこそ彼女は自分自身を代価にしました。桐藤ナギサが座っている椅子には価値がある、これを手放して構わないと宣言したのです。彼女に差し出せるものはもうそれしかなかったのです。

 そして、それでも足りないとわかっていたからこそ彼女は頭を下げました。ただ聖園ミカを助けて欲しいと願いました。トリニティ総合学園において「それは通らない」とわかっていながらそれでもやるしかなかったのです。できることはそれだけで、それでも聖園ミカを助けたいから彼女はやったのです。

 そして、彼女に頭を下げられた3人は「トリニティ総合学園」をもって彼女に応えました。

 救護騎士団、シスターフッド、正義実現委員会――それらにティーパーティーの生徒会長たちが頭を下げてはならない。まずはミネ団長の指摘でした。「トリニティ総合学園」の体裁上それを行ってはならないという指摘です。しかし、ミネ団長は「トリニティ総合学園」によって桐藤ナギサを否定したのではありません。逆です。この姿勢に羽川ハスミと歌住サクラコの両名が続きます。

 この二人の姿勢はあまりも明白です。桐藤ナギサが頭を下げて頼み込んだことに対して「見てねェ。聞いてねェ」です。

 桐藤ナギサと百合園セイアはあくまでも「聖園ミカを助けてほしい」と頭を下げたのです。この子を救うことこそが両名のとっての大切な願いで、そのために真夜中に緊急招集を発したのです。

 特にティーパーティーに牽制的なシスターフッドにとってこれほどおいしい攻撃の的はありません。筋が通っていない動員だからです。この呼び出し自体を咎めることができます。

 そのあまりにも大きな隙に対する歌住サクラコの姿勢が「私は何も見ていません」です。

 サクラコ、ハスミの両名は「先生が危険だから動かなければ」という完全にティーパーティーの両名の願いとはすれ違った応答をしています。これはわざとなのです。

 聖園ミカという脱獄囚を救うために自分たちの組織が動くわけではなく、「連邦捜査部シャーレの先生」という「トリニティ総合学園」が特別に総動員をかけて救助するだけの大義と政治的利益を挙げ、桐藤ナギサが言ったこととやったことは何も見ていない、先生のために動く、ついでに聖園ミカも助かるかもしれないがそれはこの総動員の目的ではなく副次的効果であるという態度です。

 この「桐藤ナギサがやったことを私たちトリニティ総合学園は何も見ていません」という姿勢が最も強烈に表れたのが聖園ミカを救出するための作戦名です。

 「アリウス修復作戦」――誰がそんなこと頼んだ?

 トリニティの合併にも連邦組織への参加も拒否し疲弊しきった「アリウス分校」に手を差し伸べる作戦を実行する。それがトリニティ総合学園の選択でした。

 「聖園ミカ」の危機に「トリニティ総合学園」を総動員するのは論外です。

 「連邦捜査部シャーレの先生」の危機に「トリニティ総合学園」だけが動いたのならキヴォトス全体の問題です。情報共有の不徹底で責を負うおそれがあります。トリニティは手続きを重視しますがそんな煩瑣なことには1秒でも時間をかけず早く出撃したいのです、桐藤ナギサの意を汲み聖園ミカを救うために

 だからこそ「アリウス修復作戦」なのです。アリウス分校はトリニティとして「エデン条約」の権利を持ち、だからこそ「エデン条約」が奪い去られETOが発動したほど「トリニティ総合学園」と密接な関係です。

 「エデン条約」とETO、そしてユスティナ聖徒会のミメシスを盾にトリニティ総合学園はアリウス分校をトリニティのみで扱うことの正当化を行えます。そうでなければアリウスがエデン条約の権利を持ち得ません。

 アリウス分校がエデン条約を奪い去るために行ったことはただエデン条約に「ETOはアリウススクワッドが担う」と書き添えただけです。「トリニティ」に「アリウス」は内在しているのです。これは報道されている単なる事実です。

 「トリニティであるアリウスを救うために来た」――だからこそ「トリニティ総合学園」は誰の許可も要らず自分自身の判断で動いた。その過程で先生と聖園ミカが助かった。ただそれだけのことです。トリニティのことをトリニティがやった? なぜ外の許可を得なければならない? 得る必要などなにもない。我々は正当である。「トリニティ総合学園」は堂々と体面を守ります。

 「我々は桐藤ナギサの願いを叶える、そして桐藤ナギサのことも守る」

 それが「アリウス修復作戦」という名の、桐藤ナギサに対する「トリニティ総合学園」の、あまりにもトリニティ的な答えでした。

 結果として、桐藤ナギサはその権力と代表性を牽制的なシスターフッドを含む全員から守られました。

 TTTで彼女があまりにも揺らいでしまったティーパーティーの権威を立て直すために動いているのは、「桐藤ナギサはそこにいていいし、いるべきだ」というあの夜動いた皆のための真摯な義理立てでもあるはずなのです。「あなたたちがあの夜守った桐藤ナギサの権力は、あなたたちが守るに値するものだった」と今全力で桐藤ナギサは証明しようとしているのです。

 ちなみに。

 彼女は歌住サクラコと違い「文脈」にとても鋭敏です。自分が無数の「文脈」を持つこと、自分と先生が相対すること自体が強い「文脈」を帯びることに自覚的です。

 だからこそ、彼女のチョコレートはそれら全てを断ち切るために徹底的にシンプルです。

 しかし、何の「文脈」も乗らない「ただのシンプルなチョコレート」にどうすれば「気持ち」が込もるのか? どうすれば「気持ちが伝わる」のか。先生に証明できない「自分の内心」を証明することができるのか。

 何をどうしても、「シンプルなチョコレート」という形を外れるわけにはいかないこの制約下で。

 武器はただひとつ。彼女の趣味は、「お菓子作り」です。

しかし、チョコレートの味とクオリティは、既製品を遙かに凌駕している。

 ナギちゃん? それはずるくないですか?

 あとピンクと金の贅沢者どもはいいかげんにせえよ。

 …
 ……
 ………

 ようやく、準備が整いました。やっとこのnoteで私の話したい本題に移れます。この7万2000字はこれからのためのものでした。

 私たちは「人殺し」に関するキヴォトスにおける解釈を見ました。そして、「トリニティ総合学園」の手続的正義を見ました。

 私たちが確認してきた「人殺し」の解釈は2つです。

①:「「殺意」を持つ者は「人殺し」である」
②:「人を殺したものは「人殺し」である」

 ①と②にいずれにも聖園ミカがあてはまらないことは確認済です。

 ①について。聖園ミカは百合園セイアを「ちょっと」痛い目にあわせようとしただけです。「殺意」はありません。「殺意」どころか百合園セイアの死の法的な意味での「認容」も「認識」も彼女の依頼にはありません。

 ②について。百合園セイアは死んでいません。

 そして、「トリニティ総合学園」が非常に手続的正義を重視し体面を守ることを私たちは概観しました。聴聞会は当然この手続的正義に束縛されるでしょう。

 最後に、私たちは聖園ミカの聴聞会に百合園セイアが列席していることを知っています。つまり、百合園セイア偽装爆破事件について聖園ミカに「殺意」がなかったことは被害者である百合園セイアが「見ている」ので証言できます。

 さらに、聴聞会には「先生」が列席しています。その気になれば百合園セイアだけでなく錠前サオリからあの事件について聖園ミカには殺意がなかったことの情報を得ることができます。逆に、聖園ミカに「殺意」があったことを推定できる材料はなにひとつありません。

 つまり、聴聞会は聖園ミカについて、百合園セイアを殺そうとしたことではなく、百合園セイアに危害を加えたことについて裁いたはずです。百合園セイア自身が罪としてはそこが最も重いものになるだろうとして挙げていることは先の通りです。再掲しましょう。

 実際には聖園ミカは百合園セイアに危害を加えていません。危害を加えるよう依頼したのです。しかし、百合園セイアはこの区別をしていないためトリニティの審問上、聖園ミカの罪を取り扱うにはどちらでもよいのでしょう。

 日本において教唆犯は正犯の刑を科すものですから、反直観的ではありません(日本において依頼して傷つけたといっても教唆犯と幇助犯で扱いは異なり、幇助犯の場合正犯の罪を減ずることになりますが、本筋ではなくまたトリニティの聴聞会上そのような区別を行っているか、行っているならばどのように行っているかの確認可能なテキストがないため考察しません。実際に加害することと聖園ミカの案件における依頼して加害することの場合、正犯と聖園ミカは同じ刑を科すというのがトリニティの法理上適当であると解しておけばじゅうぶんでしょう)。

 ポイントをおさえましょう。

①:聖園ミカは百合園セイアに傷害の依頼を行ったことを正犯同等の罪に問われいる
②:聖園ミカは百合園セイアの傷害を依頼している
③:百合園セイアは実際に傷害され、聖園ミカの依頼と百合園セイアの傷害された事実の間には因果関係が成立している
④:百合園セイアは傷害された

 重要で悩ましい点は百合園セイアが生きていることです。白洲アズサと同意して未来視のうえ偽装爆破しているため、死亡するおそれすらありません。これは百合園セイアの予知夢ならびにミネ団長が当時の負傷状態から証言できるでしょう。白洲アズサも互いに死なない確信があって実行したと証言できます。

 キヴォトスにおいて致死的でない傷害事件は日常茶飯事です。さらに、先に述べたとおり白洲アズサは百合園セイアの体が弱いことを知悉しており、聖園ミカはそれ含みで「ちょっと痛い目」にあわせろと言っているのです。致死的にならぬよう配慮しています。

 こちらの直観ではこれはどう見てもただの傷害事件にしか見えません。キヴォトスにおいて殺人がクーデターより重いのは理解できます。しかしクーデターより傷害が重いことは意味不明です。これを認めるならば、そこらへんで銃撃戦を繰り広げている子たちが皆クーデターよりヤバいことをしていることになります。

 百合園セイアが死亡した場合、話はとても私たちにわかりやすいです。傷害教唆の結果、つまり「怪我させてこい」と唆して犯意を正犯に起こさせ、正犯が傷害の意図で(つまり殺害の意図なく)暴行した結果被害者が死亡した場合、日本においては教唆者に正犯同様傷害致死の刑を科すことを相当であるとしています。

 教唆者に被害者の死の認容どころか認識がなくともです。「あいつグーパンしてこい」で被害者が死ぬと思う教唆者は基本いないでしょう。そして、正犯がグーパンしてそれで被害者が死んだら教唆者は正犯同様傷害致死の刑を科すことが日本において相当です。

 つまり、教唆した時点で教唆者の結果の認識に依存せず結果の罪が教唆者に科されるのは日本において相当です。百合園セイアが死んだ場合、聖園ミカの意図にかかわらず傷害を指示した時点で死という結果を聖園ミカが負担することは相当であると日本同様にキヴォトスを理解できるわけです。

 しかし百合園セイアは死んでいません。生きています。にも関わらず聖園ミカが聴聞会に出席しなかった場合、彼女に科される刑は退学相当です。キヴォトスにおいて学籍を持たないことは社会的庇護の多くを受けられないことを意味します。たとえばどたばたシスターにおける七転八倒団がそれです。つまり、退学とは極めて重い刑です。安易に科されるべきものではありません。

 しかし、トリニティは手続的正義にコミットメントを持ちます。つまり聴聞会が合規的に行われないはずがありません。フィリウス分派首長ならびに最も重い罪の被害者当人でもあるサンクトゥス分派首長、さらには連邦捜査部シャーレの先生が弁護に入っているのですから政治的な学園でもあるトリニティ総合学園はかなり聖園ミカに有利な審決をくだした可能性がおおいにありますが(そうでなければ聴聞会がティーパーティーとシャーレのメンツを潰したことになります)、それにしてもそもそも弁護しなければ退学相当というのがやけに重いです。

 傷害を依頼して実際に帰結が傷害に過ぎなかったにもかかわらずなぜそんなにも罪が重いのか。

 生徒会への攻撃自体はキヴォトスの倫理観において重要視されません。空崎ヒナはシビリアンコントロールを外れて万魔殿にデストロイヤーをぶっ放したことがあります。

 レッドウィンターでチェリノ会長が襲撃されることなど日常茶飯事です。

 アビドス生徒会副会長、唯一の生徒会役員という学園の成立要件上極めて重い立場にいる小鳥遊ホシノを便利屋68が攻撃したこともキヴォトスにおいてたいしたことではありません。

 ゲーム開発部は何の正義もなく手続的に正しいことしかしていないセミナーと対決しており、何の制裁も受けていません。

 また、先述のとおり聖園ミカは百合園セイアの体の弱さを気遣っている節があります。ベアトリーチェはアリウス内戦終結時、つまり10年レベルでキヴォトスにおいてアリウスを支配しているにもかかわらず、聖園ミカというミューズに出会うまで、「百合園セイアを殺害せねばならない」という発想に至ることができませんでした。

 それくらい百合園セイアの情報は秘匿されているのです。体が弱いことのみから傷害の重大性を導出するのはやや腑に落ちません。

 現状の私が想定しているトリニティの聴聞会上の法理は「遡及的二重モラルラック」状態であるというものです。

 「道徳的な運」――4大別のうち「結果」に関するものに私たちは既に触れています。真夜中の田舎道で居眠り運転をして完全に意識が落ちて歩道に突っ込んだ場合、そこに人がいたかどうか、生きたか死んだかで罪の重さが変わるというものです。

 日本の法理はこの「一重モラルラック」を法理として認めています。先述の教唆犯の「グーパンしてこい」の例で、正犯が殺すつもりなくグーパンした結果被害者が死んだ場合、教唆犯は傷害致死を科されるのも「一重モラルラック」です。

 私たちの日常的な感覚からは首を傾げる状態が法における常態です。法ではこれが普通です。思考実験で状況をもっと極端にしてみましょう。

 殺人嗜好者がある部屋の吊り天井のボタンを握っています。彼は部屋を覗き見ることはできません。従者が「部屋に人を置いてきました」と彼に言います。彼は嬉々としてボタンを押しました。従者が実際には誰も人を置いていない場合、彼は無罪です。従者が被害者の足先だけを部屋に入れていた場合、彼は傷害を犯したことになります。そして被害者を吊り天井でしっかり殺したならば彼は殺人を犯したことになります。殺人嗜好者の持っている情報、思考、やったこと。全て同じなのに殺人嗜好者のコントロールを離れた状況により「殺人犯」から「無罪の人」まで扱いが変動するのです。これが「道徳的な運」(の四大別のうち「結果」)です。

 ベアトリーチェはこれを認めないわけです。0重モラルラックです(あくまで結果についての道徳的運の0重モラルラックであることに注意ください。アリウス生全員は置かれた環境という点で4大別における別種の強力なモラルラック下にあります)。「殺そうとしたんなら殺人者だろ。全員同じ取り扱いだろ」がベアトリーチェの立場です。

 そして、百合園セイアの立場。

 これが一重モラルラックです。期待可能性が存在せずとも自分の手で人が死んでしまったなら「人殺し」だというわけです。

 他に選択肢がなくとも殺してしまえば「人殺し」なわけです。もちろん日本においてはその取り扱う案件における全体を見渡しても適法行為の期待可能性が全くなければ責任を負わせようがなく、現代の刑法の根幹である責任主義の名ににおいて「人殺し」は「殺人罪」に問われません。

 他に選択肢がなければ「人殺し」は「殺人罪」に問われないのです。

 たとえば現在喫緊の不法な暴力から自身を守るために必要最小限のやむを得ない抵抗を行った結果として相手が死亡してしまったならば、正当防衛が成立します。

 明らかに逃げられたのに応戦した場合は必要性がなかった、つまり他の選択肢があったとして正当防衛は認められません。

 これが日本の法理です。

 ただし、おそらくここで百合園セイアが言っているのは法理における一重モラルラックの話ではなく、「ケガレ」のような「人殺し」の烙印の話です。

 それは自己を苛むとともに他者から忌まれるものです。百合園セイアはたとえば正当防衛・緊急避難であっても人を殺してしまったらその「ケガレ」が白洲アズサに永遠に纏わり付き、それが彼女を虚無まで連れて行くと彼女を心配したのです。

 どれほどの理由があろうとそも「そこ」に至ってしまえば理由を問わず「人殺し」の烙印が痛苦の果てにその全ての感情と共に君を虚無へと連れ去ると百合園セイアは言い、阿慈谷ヒフミは「それ」だけは絶対に許さないというわけです。

 たとえ、そうしなければみんなを守れなくても、白洲アズサが「人殺し」になってはならないのです。

 なってしまえば、それは――

 では、「二重モラルラック」とはなんなのか。私を啓発したnoteを今一度ひきましょう。

「人が殺される条件」がどれも非常に時間がかかり、不測の殺人が起こらないようになっている

 このことから、キヴォトス人の「殺人」への忌避感は非常に強いです。「人殺し」だけは絶対にあってはならないのです。これは感覚だけでなく、法理としてもそうなっています。

 ですが、傷害事件に過ぎない百合園セイアの案件が非常に重大になるのはなぜでしょう。モラルラックが二重になるとはどういうことでしょう。

 私は、トリニティの聴聞会は「一連の法律行為に「殺意」が介入した場合、時系列を遡って関係犯に刑を加重する」という法理を持っていると推定しています。

 わかりやすく聖園ミカの例で述べましょう。

①:聖園ミカはアリウスに百合園セイア傷害を依頼した(殺意なし)
②:ベアトリーチェは百合園セイア殺害をアリウスに指示した(殺意あり)
③:アリウスが密かにトリニティを襲撃した(殺意あり)
④:白洲アズサは百合園セイアと共謀して偽装爆破を行った(殺意なし)
⑤:百合園セイアは負傷した(正犯に殺意なし)

 聖園ミカの罪は①のみにより決定されません。⑤で百合園セイアがどの程度の傷を負ったかに彼女の罪は依存します。これが日本と同じ一重モラルラックです。傷害の依頼をした時点で認識に依存せず結果の責を負うのです。

 そして②~③において「殺意」が介在しているため聖園ミカの罪は加重されます。このうち特に③の「殺意」はトリニティだけでも聖園ミカ、百合園セイア、白洲アズサがそれはあったと確証できる客観的な事実です。

 よって、二重モラルラック法理により聖園ミカの罪は加重され、百合園セイアは彼女の罪のなかで最も重いものは自身に危害を加えたことだと述べ、桐藤ナギサは聖園ミカが出席しなければ退学になると危惧したのです。

 この二重モラルラックは道徳感覚として間違いなくキヴォトス人に備わっています。

 結果として百合園セイアが死んでいなくとも、「殺意」が一連の事件に介在してしまったならばその人は「人殺し」なのだという感覚があるのです。

 エデン条約編4章、つまりエデン条約編2章により「セイアちゃんは生きている」ことが確証され、エデン条約編3章ポストモーテムにより「百合園セイアを殺すつもりだったという聖園ミカの発言は桐藤ナギサを殺すつもりだったという発言同様嘘である」と欺瞞も記憶の封も浦和ハナコに暴かれている状態の4章聖園ミカは、それでも自分は「人殺し」だと言うのです。

 先に「人殺し」の烙印は「ケガレ」であると述べました。

 自分の意図が介在しない場所で起きたこと、そして結果として殺害に至っていなかったとしても、「ケガレ」は遡及して伝播するのです。しかしこの「ケガレ」は時系列遡及的です。

 つまり、アリウスの殺意は聖園ミカに「ケガレ」として付着しますが、「殺意」にストップをかけて同意傷害で百合園セイアを守った白洲アズサはむしろキヴォトスにおいて百合園セイアを守ったとして「賞賛」に値します。

 キヴォトスにおける「殺意」の「ケガレ」は遡及的であり将来的でないのです。よって白洲アズサは「人殺し」ではなく聖園ミカは「人殺し」であるという感覚になります。

 これが「遡及的二重モラルラック」の意味です。

 この感覚が法理にまで貫かれている、というのが私の立場というわけです。これにより聖園ミカの罪は加重され、「殺意」を止めた白洲アズサは百合園セイアへの適法行為への期待可能性がない同意傷害について刑を科されていませんし、本人も、百合園セイアも、周りの人たちも白洲アズサを「守ってくれた」とは思っても「傷害した」とは思わないのです。

 白洲アズサの「書類を偽造してトリニティに入ってきた」ような「些細な罪」は彼女の英雄的行為で全て相殺され、この件について彼女は責に問われないというわけです。

 ただし「二重モラルラック」感覚はある条件において将来的であり得ます。百合園セイア偽装爆破事件について、白洲アズサが聖園ミカが黒幕であることについて善意か悪意か問われたとき、阿慈谷ヒフミが激して桐藤ナギサ襲撃事件と絡めて擁護しました。

 事実として百合園セイアは死んでおらず、ヒフミも百合園セイアが生きていることを知っているため、先に語ったようにヒフミが「人殺し」を単に「人を殺した人」だと思っている場合このような反論はでてきません。

 白洲アズサが聖園ミカが黒幕であることに悪意であるとき、白洲アズサが百合園セイアを守ったとしても「人殺し」の「ケガレ」がつくのです。善意、つまり黒幕が聖園ミカであると知らないときにはじめて彼女は「人殺し」でないことがキヴォトス人の一般感覚として腑に落ちるのです。

 監察官は「仕事」としてこれを問うているため、トリニティの法理もこれを支持します。単に百合園セイア偽装爆破事件や桐藤ナギサ襲撃事件における彼女の適法行為の期待可能性を問うているだけならまだよいのですが、仮に「二重モラルラック」による加重が聖園ミカについて悪意であるとき白洲アズサに及ぶ場合、白洲アズサの罪がとたんに重くなりかねません。この場合、阿慈谷ヒフミの擁護は白洲アズサの将来を左右するかなり切実なものになります。

 もう一度時系列を並べましょう。

①:聖園ミカはアリウスに百合園セイア傷害を依頼した(殺意なし)
②:ベアトリーチェは百合園セイア殺害をアリウスに指示した(殺意あり)
③:アリウスが密かにトリニティを襲撃した(殺意あり)
④:白洲アズサは百合園セイアと共謀して偽装爆破を行った(殺意なし)
⑤:百合園セイアは負傷した(正犯に殺意なし)
⑥:桐藤ナギサ襲撃事件へ~

 白洲アズサが③について悪意であることは自明です。しかし彼女はこれに反発しているため③は全く問題にされません。むしろ③に④で反抗したことが賞賛されています。しかし、①に悪意であった場合彼女に「人殺し」のにおいが纏わり付き、阿慈谷ヒフミが慌てるのです。

 ③に反抗したことから当然には①に反抗したこととはキヴォトス人の感覚では見なされないわけです。対①的な何らかの別の反抗がなければ白洲アズサが②について悪意であることが問題なしとはされないのでしょう。

 キヴォトスにおける「殺人」は重いです。あまりにも重いため、結果として被害者が死ななくても「殺意」ある者が事件に絡んでしまった場合、その責は遡及し、時に将来的でさえあります。

 ⑤百合園セイアの負傷について、①聖園ミカが黒幕であることを白洲アズサが知っていたならば、③のアリウスの「殺意」が④の「殺意」なき同意傷害の結果である⑤の百合園セイアの負傷につき、「人殺し」として白洲アズサに纏わり付くのです。

 つまり③の「殺意」がそれを知るよしもない①の聖園ミカに遡及するだけでなく、白洲アズサが聖園ミカについて悪意であるとき③の「殺意」が④の「殺意」から守るための殺意なき同意傷害にまで及びます。

 むちゃくちゃじゃないか! 桐藤ナギサ襲撃事件についてはともかく、百合園セイア偽装爆破事件については、聖園ミカについて白洲アズサが悪意だろうが善意だろうが「殺らねば殺される」くらいの状況に白洲アズサはあったのだから、偽装爆破で殺人にストップかけてくれたならもうそれでいいだろ、それだけで英雄だろ、とはならないのです。

 「人殺し」の「ケガレ」はこれだけの強さで伝播し、そして百合園セイアが言うところの「人殺しは人殺しである」の烙印が「ケガレ」的に本人を追い込み、また周囲も「ケガレ」を排除しようとします。

 聴聞会で事の次第が明らかにされても聖園ミカが糾弾されていることの理由のひとつは(すべてではありません)、彼女が「ケガレ」ているからです。よくしらんし顔も見たことないけど聖園ミカって「人殺し」なんでしょ? 叩かなきゃ! というわけです。

 こうしてキヴォトスにおいて「ケガレ」てしまい「日常の外」という地獄に置かれたのはなにも当時のアリウスの子たちや聖園ミカやクロコなどに限った話ではありません。

 殺人どころか無益な傷害はしないと知られているにもかかわらず、「ケガレ」て「日常の外」にはみ出してしまった「バケモノ」たちがキヴォトスにはいます。

 清澄アキラが述べているように、「バケモノ」は「理解できないもの」です。

 理解できないものを通じて、私たちは理解を得ることができるのか。
 楽園に辿り着きし者の真実を、証明することはできるのか。

 七つの古則のうち少なくともふたつは百合園セイアが言うように「みんなの宿題」です。百合園セイアは新たに解釈した五つ目の古則から得た宿題、「信じる」ための努力を背負い続けると決めています。

 連邦生徒会長は未完成の文である二つ目の古則について、リンちゃんが埋めてくれたそれを好み、そして「方法」を示すことで「それはできる」と肯定しています。

 「七つの古則」は「日常」における重要問題になりません。ゆえにそれは「日常」を扱うブルーアーカイブの主要な問題では基本的にありません。

 だからこそ先生は「七つの古則」を「言葉遊び」だと言い捨て、それ自体は優先事項ではないと言います。

 むしろ、ウトナピシュティムの本船の起動前、自分の命が終わるかもしれない最後のときにリンちゃんが欠けた文に何を埋めたのか訊くなど、古則を解くことではなく古則から生徒がどんな着想を得てどう歩くのかを気にしています。

 「日常」において七つの古則は重要事項ではありません。キヴォトスにおいてはどこを見てもたいてい楽しそうに楽園が成立していますし、理解できない他人ものを通じてたがいの理解を得る様が見られます。

 しかし、「バケモノ」は、「人殺し」は、「日常」から外れているがゆえに「日常」を生きる人々に排斥されます。そこには楽園はありません。

 「日常」を生きる人たちは「バケモノ」を理解できません。

 「バケモノ」も理解など求めていないと切り返します。

 しかし、だからこそ「日常」において重要ではない七つの古則は返照します。それはあなたたちだけの問題ではない。すべての人の問題なのだと。七つの古則が全ての人の負うべき宿題として全ての人を闇に落とすとき、七つの古則は全ての人の問題であるとして全ての人を照らします。

 「バケモノ」も「人殺し」も「世界を滅ぼした子」も全て、その全てが七つの古則に照らされる存在なのだと宣言します。

 七つの古則は「日常」において重要ではありません。しかし、「日常の外」という地獄にいる「バケモノ」や「人殺し」や「世界を滅ぼした子」をその問いの一般性により地獄から叩き出します。百合園セイアが「全ての人たちにとっての宿題」に悩み闇の中で藻掻くとき、その宿題の範疇に「バケモノ」も「人殺し」も「世界を滅ぼした子」もいるのです。

 七つの古則が全ての人を闇に堕とすならば、七つの古則はその問題は「バケモノ」や「人殺し」や「世界を滅ぼした子」だけの問題じゃない。「私たちみんな」の問題なのだと強調し、「日常の外」にいる子たちを引きずり込み、「日常」にいる子たちに「これ」も「きみたちの問題だ」と背負うよう、「バケモノ」や「人殺し」や「世界を滅ぼした子」のようなまるで理解できそうもない他人の中の他人であっても、「どこにも到達できないかもしれない、無駄かもしれない理解するための努力」という抵抗を止めるべきではないと告げるのです。

 なぜならそれは、全ての人が全ての人に対して負うべき宿題だからです。

 七つの古則は「日常」において重要事項ではありません。しかし、「日常の中」と「日常の外」にいる子たちに「そんな境界は存在しない」と破壊する力を持っているのもまた、一般化・抽象化されたこの古則たちです。「お互いに知るために闇の中を歩かねばならない」と古則は宣言します。

 内外にいる者達は互いに「無理だ」と思います。けれど、特に古則は日常に強く反省を促します。「それを諦めるなら君の日常も全て闇に堕ちるべきだ。なぜならわれわれは一般的な問いであり、君にとって全ての人は闇、理解できないものだからだ。理解していると思っているのは幻想に過ぎず、幻想を破壊されたならば信じるか信じないか決めなければならない。そしてそのとき、全ての他者はみな闇なのだから人もバケモノもなく誰かについて決めたのならばそれはすべてについて決めたのと同じだ」と切り返します。

 「日常の外」にいる子たちを陽のあたる場所に引きずり出すか、自分たちも外に堕ちるか決めろ、なぜならどちらも同様に理解できないものなのだから、という呈示こそが七つの古則です。

 つまり、「先生」にとって「人殺し」についてのキヴォトスの特殊な処理への対処だとか、「バケモノの美学」と「一般の美学」の調停だとか、そういった問題は「日常」的な各論的義務に過ぎません。惑わされてはいけません。これらの興味にゲマトリア的な関心を抱いて狭く深掘りするだけでは駄目なのです。

 「先生」の義務。「大人」の責任。それは「世界」に対して負い、果たすべきものです。その「総論」こそが相手です。

 ブルーアーカイブは「日常」の物語です。そして、ブルーアーカイブのテーマはもうひとつ。だからこそ、天上の遥か彼方、75,000mから光が落ちるせかいは、

 ひとつの例外も取りこぼしもなく、
 そのあまねくすべてが日常きせきでなければならないのです。



補遺:謝辞ならびにご紹介

 本noteはある記事に触発されたものとのことは先述のとおりですが、たいへんありがたいことに本noteを素材により法学的により洗練されたトリニティの法制度に関する考察を展開する必読に値するnoteがあらわれました。

 トリニティ総合学園の聴聞会上の手続きはコモン・ロー、ともすれば前-現代的なそれに則っているのではないかとするものです。成文法を法源の基礎とする大陸法とは異なる考えで、私は現実とキヴォトスの法は性格が異なるとしながら、完全に大陸法の体系を前提というより所与として論述しており、この点極めて不徹底でありコモン・ローで照らしてみせたこと自体にまず価値があります。

 さらに、この観点には大きなメリットが複数あります。

 1つ。仮に「トリニティ総合学園がコモン・ローを採用していない」と背理法を採る場合明白におかしな点を発見できます。たとえばトリニティの法制度が現代日本的であるならば、既に監獄にいる聖園ミカは刑事について召喚により審問される際その意志にかかわらず正当な理由がなければ聴聞会に出席する義務があります。出席する気があるかどうかに関わらず応じなければなりません。そして正当な理由があって出席できないのであればそもそも審問できず、別日が設定されるでしょう。ポストモーテム時にシャーレが聖園ミカを引きずり出せた(先生はそうしませんでしたが)ことと同様、聴聞会は聖園ミカを強制的に出席させればよいはずで、これは事実を明らかにし事実に対する適正な処罰を下すという考えに立つならば、聖園ミカのためにも法の正義のためにも法の正義下にある社会・市民のためにも必要なことであるはずです。しかし、これは日本的な考え方を所与とした場合の当然です。法における絶対の当然ではありません。トリニティの実態はそうなっておらず、聖園ミカの出欠の意志は事実としてエデン4章を貫く重大問題でした。大陸法的、特に日本的な考えをそれでもわざわざ堅持して整合的にしようとする試みは可能ではあるでしょうが、後述の4つ目の理由で少なくとも2024年3月16日の現時点では穏当ではないと考えています。

 2つ。トリニティ総合学園がコモン・ローを採用するならば、起訴段階で「退学相当」として取り扱われることそれ自体に過剰に大げさな反応をする必要はなく、また事実エデン4章において誰も起訴内容それ自体を独立させての問題にはしていません。たとえば桐藤ナギサは聖園ミカがこのままだと退学になるだろうという最終的な帰結を気にしていますし、たとえば百合園セイアは聖園ミカの犯した罪の中で最も重いのは自分を傷つけたことだと述べて減刑に自身が寄与できると考えており、「退学相当」として起訴されたところで、聖園ミカが出席し自身が弁護すれば聴聞会の決定は「退学相当にまでは至らないところにおさえられる」と希望を抱いています。彼女はティーパーティーで最も聡明であるため、単に希望を抱いているのみならず、それは知に裏付けられているでしょう。桐藤ナギサ、百合園セイアの双方が「退学相当」として起訴されていることは聖園ミカに出席というプロセスを採らせさえすれば対処できるから、聴聞会に聖園ミカが出席する意志があるかどうかを重要視しているわけです。

 3つ。エデン条約編4章で聖園ミカの聴聞会「出席有無」が重要視されたことの説明がコモン・ロー的に見れば極めてエレガントにつけられます。先述のとおり聖園ミカはいつでも脱獄できるにもかかわらず監獄で大人しくしているので、大陸的な常識で考えれば引きずり出すだけです。しかし、実際に「喚問に応じるかどうか」はトリニティにおける重大な問題です。先述のとおり皆がそれを気にしています。

 前-現代的なコモン・ローにおける喚問の無視は「喚問に応ずべきであるのにそうしない」ことから、単に各論的な犯罪者というよりもむしろ、法の正義とプロセスそのものを拒絶した者として極めて重大に取り扱われます。何かの法に触れているというよりもむしろ、法とプロセスそれ自体に背いているとみなされるのであり、これに対する前-現代的なコモン・ローにおける処理の例がアウト・ローの宣告であり、これ自体が社会的な死に相当する極めて重い扱いです。

 一例的にはこの喪失は現代の私たちが基本的人権と呼ぶものにまで及びます。基本的人権は制限することができても(職業選択の自由は侵せませんが、誰もが無条件に医者になることは公共の福祉に著しく反し当然許されません、これが権利は侵せないものの制限されるということです)侵せないもの(現代におけるいかなる方法を用いても規定された視力に達さない人は現代においてその規定水準を要求する類の運転免許証を得られませんが、これはその運転免許証を要する職業選択の自由がその人から剥奪されていることを意味しません。技術的発展などにより制限の理由となる問題が解決されれば制限すべき理由はありませんから、ただ通常のプロセスを踏んで運転手になればよいわけです。わざわざ自由を取り返してからプロセスを開始するということはありません。自由は元々あるので当然です。権利が剥奪されている場合、現実的な技術的制限の有無にかかわらずそもそも権利がないのですから剥奪された権利を再度認められなければ権利は認められません)だというのが現代日本人の常識的感覚だと思います。

 しかしアウト・ロー宣告は権利を喪失させるとともにアウト・ローの支援の可能性を閉じようとします。つまり、仮に便利屋68がこの意味でアウト・ローであるとき、これを知った上で柴関がラーメンを提供すると柴関にまで累が及ぶ可能性があります。

 調月リオはAL-1Sを指して人間ではないと一度説得していますが、これは元々アリスが持っていた権利を喪失させようとしたのではなく、そもそもそのようなものはないと事実の指摘を行おうとしているのであって、アウト・ロー宣告とは異なります(アリスは偽造されたミレニアムの学籍を持ち、権利者と見做されていたわけですが、偽造云々や学籍云々ではなくそれ以前の問題だ、人だと錯誤しているがそれはそもそも人ではない、と調月リオは言っているわけです。当時の七転八倒団に学籍はなく、多くの社会的庇護を受けられませんがそれでも彼女たちは人ではあります。アリスはそれですらないと言っているわけです。対策委員会編2章エピローグでカイザー理事が個人として指名手配されていることや、パヴァーヌ1章4話で「ロボットの"市民"」が存在することが明言されているので、ロボットであることから即権利義務の主体になりえない、とはキヴォトスではならないはずなので、AL-1Sは人ではないと言って調月リオが説得したとき、何を言わんとしていたのか気になるところです)。アウト・ロー宣告は権利がある人からそれを喪失させるのです。

 キヴォトスにおいて最も重い意味でのアウト・ロー宣告が存在するかどうかはともかく、大陸法とコモン・ローでは「単に喚問に応じない」ことの考え方がまるで違うことが理解できるかと思います。大陸においても刑事において召喚に応じないことは問題ではあるのですが、コモン・ローではわけがちがいます。「重さが違う」として連続的に捉えるより「カテゴリが違う」として不連続的に捉えた方が適切でしょう。それくらいコモン・ロー的に見た場合「単に聴聞会に出席しない」ことはそれ単体でまずいです。一方で日本において保釈された被告人が召喚されたにもかかわらず公判期日に出頭しないことへの罰則はごく最近(令和5年)になって新設されました。もちろん従前でも保証金の没収などの威嚇力はありましたが、最近まで保釈された人間が出頭しないことそれ自体は罪ですらなく、それを罪として認めるためには正当化について議論と整理がありました。

 さらに聖園ミカは喚問に応じ抗弁しないのですから、トリニティにアウトロー宣告が残っているかどうかにかかわらず、応ずればどうとでもなる「退学相当」としての起訴がそのまま聖園ミカに適用されます。

 つまり、モチーフを援用することをせずコモン・ロー一般という見方をするだけでも聴聞会を取り巻く諸問題をスマートに解釈することができます。もちろん、トリニティ総合学園のモチーフのひとつはあきらかにイギリスですから、そこからコモン・ロー的であることを期待することも、直接的な証拠ではありませんが発想の動機としては有用です。モチーフ考察を避け作中テキストから考察しようとするあまり、かえって発想の動機となりうるものまで見落とし、それがために現実と切り離してキヴォトスを見ようとしているのにかえって日本的に見るという目的逆行的な記述に私が陥ってしまったこと、そしてこのnoteの無批判な内在をおそらく非専門的な読者には一見して見抜きがたく、その捕捉としてのコモン・ロー考察は読みの可能性をより拓くものとして、私にとっても読者にとってもとても素晴らしいものです。

 4つ。オッカムの剃刀です。トリニティの聴聞会の在り方を大陸的、特に日本的かつ整合的に解釈し、内的整合性を保つことは絶対に不可能ではないでしょうがやや迂遠になるでしょう。また、指摘に応じ主張の根幹を守るために整合的に主張の内容に変更を加えることは、科学におけるいわゆるアドホックな仮説であり、アドホックな仮説それ自体を程度にかかわらず完全に排除すべきとまでは言いませんが(仮説の修正はあってしかるべきです)、とはいえ過度にアドホックであることは反証主義の立場だけでなく素朴な科学の実践としても到底容認できないでしょう。一方でコモン・ローを採用するならば普通に読むだけで聖園ミカの出席問題を整合的に解釈でき、かつ明快です。整合的な解釈が複数成立するとき、より単純な解釈を採用することは科学の立場として正当化できます。上掲のnoteで極めて慎重に取り扱われているとおり、コモン・ローと即断する必要は完全に決着をつけるだけの根拠となるテキストがないためありませんが、当面可謬的に他のより複雑な考えではなく現時点ではよりスマートなコモン・ロー論を採用しておく、ということは知的に妥当な戦略です。

 つまるところ、キヴォトスに二重モラルラックを見るとしても見ないとしても、トリニティの法理は大陸、特に日本的に検討するのではなく、英米的に照らしてみる方がトリニティの法の見方として穏当であろうと私も賛意を示すものです。

 isakusanがブルーアーカイブに関する議論がずっと続く状態であってほしい、そしてそれは建設的であってほしいというインタビューにおける発言を行っていますが、上掲のnoteはまさにその理想型であり、私としても自身を羞じつつ(私のnoteの参照書籍を見れば私がコモン・ローを知らないと擁護することが不可能なことがわかると思います。知っているのに取り出せなかった、無批判に陥っており了見が狭くなっており、それにより読みの可能性を広めようとしつつこの点において読者の読みの可能性を狭めてしまっていたおそれがあるのです)欣喜雀躍しているところです(私が狭めてしまったものを、このnoteは広めてくださいました)。

 本noteでも折に触れて語っているとおり、たとえば功利と直観のように私は軸で相補的に物事を理解することが学ぶ上で効率的だと考えています。コモン・ローに触れるとき、コモン・ローとの差異を通じて大陸法への理解を深めることができるでしょう。

 また、そのように軸と学史を適切におさえることで私のように恥ずかしい一面的な語り、狭い了見を回避できるでしょう。こういった私のようなミス、つまり概念を知っているのに適切な場で取り出せないことは体系的な理解の不十分、知識が個別的な雑学のレベルから体系的な知へと至っていないことに起因することがしばしばあり、上掲のnoteのような考察は雑学的な理解を体系的な理解へと助けるものでもあり、「そうありたい私のnoteでの姿勢」を上のnoteが不徹底部分について救済してくださったことは繰り返しになりますが感謝の念に堪えません。

 素晴らしいnoteであると評価するとともに、重ね重ね感謝申し上げます。

 

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