<「かわいそうランキング」が世界を支配する>を考える

●「かわいそうランキング」が何か知りたい人はこのページを読んでください。

●先行研究や他の問題との関係や違いを知りたい人も、読んでください。

●「かわいそうランキング」を知ると、社会問題の捉え方が変わります。

キーワード

御田寺圭/白饅頭/terrakei07/テラケイ/キモくて金のないオッサン/秋葉原事件/加藤智大/「黒子のバスケ」脅迫事件/渡邊博史/池田信夫/山本七平/丸山眞男/動機の純粋性/ポリティカル・コレクトネス/ポリコレ/バックラッシュ/ホネット/社会的承認/ベック/個人化/バウマン/液状化/世間的な正しさ/自己責任/理想の弱者/幻想の弱者/きれいな弱者/サバルタン/代弁/佐々木俊尚/マイノリティ憑依/オープンダイアローグ/多声性/ポリフォニー/かわいそうランキングのパラドックス/かわいそうランキング/街河ヒカリ 

※およそ1万4千字あります。

※2017年8月6日に公開しました。

※8月7日に誤字脱字を直しました。また、一部の表現を変えました。

※8月15日に「選んだ/選ばない論争、先天的/後天的論争、自己責任、生まれたことを罰するということ」を追加しました。また、第3回おぎの稔×白饅頭トークイベントの情報を追加しました。他にも表現を変えた部分があります。

※9月17日に誤字を直しました。また、一部の表現を変えました。

※その後もいくつかの語句を修正しました。

目次

1章 ご来場ありがとうございます。

2章 かわいそうランキングとは

3章 「かわいそうランキング」の意義

4章 かわいそうランキングは、先行研究や他の用語・概念・着眼点と何が違うのか、どんな関係にあるのか

比較A 「キモくて金のないオッサン」

比較B 秋葉原事件の加藤智大被告と「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邊博史(わたなべ ひろふみ)被告

比較C 動機の純粋性と空気

比較D ポリティカル・コレクトネス

比較E 選んだ/選ばない論争、先天的/後天的論争、自己責任、生まれたことを罰するということ

比較F 「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」

比較G 「サバルタン」と「代弁」と「マイノリティ憑依」

第5章 かわいそうランキングのパラドックス

第6章 かわいそうランキングの今後の展望

第7章 このnoteの今後の展望


1章 ご来場ありがとうございます。

 初めまして。街河ヒカリです。

 私はホームレス生活の方々を支援する組織に所属し、ホームレス生活の方々を支援してきた。

 私は2011年から継続的にTwitterでテラケイさんの投稿を読んでいたうえ、テラケイさんがパーソナリティを務めるニコ生ラジオ「アキバ通信」も聴いたし、2017年5月27日と8月12日に開催されたトークイベントにも参加した。今までにテラケイさんから公開されたすべてのnoteに購読料を払って読んだ。

 私が書くこの文章では次の3点を重視したい。1点目に、まとめサイトやWikipediaよりも考察に厚みを持たせること。2点目に、私が独自の意見を主張するというよりは、俯瞰的な視点から書き、地図のように「かわいそうランキング」の位置づけを示すこと。3点目に、俯瞰的な視点を重視しながらも、私の主観やあいまいな仮説も随所に盛り込み、たとえ粗削りであっても文章化すること。

 つまりこれは、タイトルの通り<「かわいそうランキング」が世界を支配する>を考える文章である。

 全体を通して、およそ1万4千字の大ボリュームである。

 内容が不足している部分もあるし、間違っている部分もあるだろう。今後も読者の皆様からのコメントを反映させ、加筆する予定だ。私へのご意見・ご感想はnoteのコメント欄か、私のメールアドレスに送っていただきたい。

 なお、テラケイさんご本人は近年「御田寺圭」(みたてら けい)または「白饅頭」という名前を使っているが、アカウント名は @terrakei07 であり、「テラケイさん」という呼び名が既に定着している。ここでは「テラケイさん」と書くことにする。


2章 かわいそうランキングとは

 2017年2月3日に白饅頭さん(御田寺圭さん、 テラケイ さん、 terrakei07 さん)がnoteに「「かわいそうランキング」が世界を支配する」と題した文章を公開した。

 かわいそうランキングを知りたい方は、まずテラケイさんのnoteを読んでほしい。

「かわいそうランキング」が世界を支配する

 私がここで内容を詳細に書くとテラケイさんのnoteの価値を奪ってしまうため、おおまかな説明にとどめる。テラケイさんのnoteで使われている語句を活かしつつ、私なりに「かわいそうランキング」の定義を書くとこうなる。

 「かわいそうランキングとは、社会的弱者を救済するための活動やリソース配分の量および優先順位の決定に使われる社会的序列であり、他者から同情や共感を得られやすい弱者ほど上位に置かれ、得られにくい弱者ほど下位に置かれる。」

 「かわいそうランキング」の提唱者のテラケイさんは、ある人物から別の人物への「かわいそう」という感情は、対象となる人物の行動、容姿、年齢、性別、生死、国、職業など、複数の要因から惹起される、と考えている。

 かわいそうランキングは社会問題を語る文脈で使われており、2017年以降、主にネットで徐々にこの言葉が普及している。

 読者の方に注意してほしいことが3点ある。

 1点目である。かわいそうランキングという言葉を最初に作ったのはテラケイさんであるが、テラケイさんは「かわいそうという感情で他者をランキングにすること」を最初にしたわけではない。

 2点目である。テラケイさんは「かわいそうという感情で他者をランキングにすること」を否定的に捉えている。テラケイさんは、
「人から『かわいそうだ』と思ってもらえると得をするから、『かわいそうだ』と思ってもらえるように努力してかわいそうランキングを上げよう」
などということは述べていない。ただしテラケイさんが皮肉を込めて嫌味として「かわいそうランキングを上げよう」と述べることはあるかもしれないが。

 3点目である。
 「かわいそうという感情で他者をランキングにすること」

「かわいそうランキングという着眼点で社会問題を考えること」
の二つを混同しないでほしい。


3章 「かわいそうランキング」の意義

 ここで私が述べるのは、「かわいそうという感情で他者をランキングにすることの意義」ではない。概念としてのメタ的な「かわいそうランキング」を考えたい。

意義1 有用性がある

 かわいそうランキングは、言葉として優れている。文字数が少ないうえ、インパクトが強く、覚えやすい。「かわいそう」と「ランキング」はどちらもありふれた簡単なことばであるが、2語の組み合わせが的確である。

意義2 発展性と普遍性がある

 かわいそうランキングは、時間的にも空間的にも広い領域に活用できる概念である。「今までバラバラに見えていたたくさんの問題の共通性や関係性」を再発見できる。下位概念を上位概念にまとめ上げることができる。異なる分野の人々が共に考える機会を作ることができる。問題の可視化を進めることができる。

意義3 新規性と独自性がある。

 従来から多数の人々によって考えられていた複数の事柄を、2017年の社会情勢と合致した構造へと練り直し、<「かわいそうランキング」が世界を支配する>というワンフレーズの命題にまとめ上げることができた。従来の概念や命題では説明不可能なことを説明可能にしている。その後、現在も「かわいそうランキング」という言葉の拡散が進んでいる。


4章 かわいそうランキングは、先行研究や他の用語・概念・着眼点と何が違うのか、どんな関係にあるのか

 テラケイさん本人も認めているが、かわいそうランキングとよく似たことが、別の人物によって過去に問題提起されたことがあった。その一部をここに解説する。

 まず初めに、テラケイさんのTwitterを引用する。

【2018年12月31日に追記】2018年12月にテラケイさん(白饅頭さん)がこのツイートを削除したため、今ではリンクが切れています。そこで当時の文章を載せることにします。

ツイッターでも何度も言っていることではありますが「かわいそうランキング」の着想自体は、赤木さんが昔著書で触れていることなので、赤木さんにはぜひnoteでかわいそうランキング問題をより深めた記事を書いてほしいという勝手な期待が。


比較A 「キモくて金のないオッサン」

 最初に「キモくて金のないオッサン」という言葉を考えた人物を明確に特定することはできないが、おそらく、一柳良悟さん @1yagiryow5 だと思われる。間違っていたら私に教えてほしい。

 かわいそうランキングと「キモくて金のないオッサン」の問題は、セットで考える必要がある。「キモくて金のないオッサン」はかわいそうランキングの下位にいるし、かわいそうランキングが「キモくて金のないオッサンに関する問題」を深刻にしているのである。

 一柳良悟さんのTwitterを引用する。

最初の弱者男性論は赤木智弘さんで、いわばキモくない金のないオッサンが、(ネオ)リベラルな主張をしたもの。それに反対してソーシャル(ファシズム)から弱者男性論を展開したのが一柳。対立する二つを上手につないだのが白饅頭かわいそうランキング論。

出典:https://twitter.com/1yagiryow5/status/893164515906396160


比較B 秋葉原事件の加藤智大被告と「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邊博史(わたなべ ひろふみ)被告

 「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邊博史(わたなべ ひろふみ)被告は、2014年3月13日の法廷での冒頭意見陳述で、最後にこう叫んだ。

「こんなクソみたいな人生やってられないから、とっとと死なせろ!」

 ちなみに彼がノートに書いた原文では「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」と書いてあったので、発言と原文に違いがあったらしい。(渡邊博史『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』創出版、2014年、172ページ)

 テラケイさんは秋葉原事件の加藤智大被告と「黒子のバスケ」脅迫事件の渡邊博史被告についてもTwitterに何度か書いたことがあった。

 かわいそうランキングについて考えるとき、この二つの事件を忘れるわけにはいかないが、今の私にはかわいそうランキングと事件の関係を整理して記述する力がないので、これ以上は書かないことにする。その代わり参考文献を載せておく。

 渡邊博史被告の意見陳述と獄中手記は月刊『創』2014年5・6月号から何度も掲載されている。2014年9月に出版された『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』ではそれらの意見陳述や手記に加え、事件までの経緯を書いた文章も掲載されている。

 創の篠田博之編集長が渡邊博史被告の近況を下記のURLに随時掲載してくださっているので、皆様も読んでいただきたい。

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/

 渡邊博史被告は2014年7月18日公判の最終意見陳述の中で、秋葉原事件の加藤智大被告についても言及していた。さらに秋葉原事件の加藤智大被告は渡邊博史被告の最終意見陳述を読んだあと、「犯罪経験者にのみ理解可能な犯罪者心理のささやかな解説」と題した文章を執筆し、渡邊博史被告の心理について解説した。その文章は『創』2014年11月号(2014年10月7日発行)に掲載された。


比較C 動機の純粋性と空気

 さて、次に池田信夫氏の文献を参照したい。

 私は池田信夫氏にアンチがいることも知っているし、このnoteをご覧の皆様ががっかりしているかもしれない。しかし池田信夫氏の著書『「空気」の構造』は、有名ではないが、私は良書だと思っている。

 池田信夫氏は2013年に著書『「空気」の構造』の中で、山本七平や丸山眞男らの文献を参照しつつ、日本と西洋を比較し、日本の「空気」の歴史を考察した。そこで私はかわいそうランキングと関連がありそうな部分を引用する。

山本は日本軍の体験を詳細に記録しているが、その中から軍の非合理的な行動に共通点があることを発見した。それは目的のために最適の方法を考えるのではなく、その場の「空気」を読んで人々の合意の得やすい方向に意思決定が行われることだ。
(池田信夫『「空気」の構造』白水社、2013年、62ページ)

 また山本七平は空気の支配が日本に特有の現象であり、日本古来のアニミズムに因るものとしている。

 さらに山本七平は、日本人が価値判断や意思決定において基準としていたのは、可能・不可能でなく、目的や結果でもなく、「動機が純粋か」(動機の純粋性)だったと指摘した。

 同様に丸山眞男も日本人が動機の純粋性を重視していた点を指摘したが、丸山眞男は他にも「ヨキココロ」と「キタナキココロ」という言葉も使っている。「ヨキココロ」と「キタナキココロ」という言葉は古事記で使われた表現に由来している。

 テラケイさんはかわいそうランキングには認知バイアスがあることを指摘したが、山本七平や丸山眞男は日本人の意思決定に非合理性がある点を指摘しており、考えに共通点がある。

 これはテラケイさんが述べたことではないが、「空気を読む行為」の一例に「かわいそうランキングに基づく判断」を位置づけることができるだろう。同様に「動機が純粋な人はかわいそうランキングの上位に行き、動機が純粋でない人は下位に行く」と判断してよいだろう。

 しかしテラケイさんは『「かわいそうランキング」が世界を支配する』というタイトルの通り、かわいそうランキングが日本に特有だとは考えていないようであり、その点は山本七平や丸山眞男らと異なっている。

 また貧困問題や社会運動の分野ではもはや耳にタコができるほど聞かされている話だが、「日本人は権利意識がない。権利でなく好き嫌いで判断する」「生存権はすべての人に無条件で保障されるものである」「権利は生ぬるいものではない。闘争して獲得するものだ」などとということは、従来から多数の人々によって述べられてきた。


比較D ポリティカル・コレクトネス

 テラケイさんもポリコレ(PC)とバックラッシュについては何度も論じていたが、ここであえて話を脱線させ、私なりの解釈を書いてみよう。たんなる仮説に過ぎないし、エビデンスはない。

 前述の山本七平や丸山眞男らが論じたように、かわいそうランキングと似たような現象は昔からあっただろうが、2017年の現在に深刻化し可視化された理由は2点あると私は考えている。

 1点目の理由は、古い身分制度や伝統が縮小し、社会が液状化したからだと私は推測している。

 昔は生まれた国や家によって将来がほとんど決まっていた。大人になったら半強制的に結婚させられていた。職場でも性別や年齢によって役割が決まっていた。公私の両方で「こんなコミュニケーションを取るべきだ」という慣習が人々を支配していた。つまり社会が固体的であり(個体的ではない)、人は明瞭な力で支配されており、枠にはめられていた。個人の意思で自己決定することはできなかった。

 しかし現代は教育の機会の平等が目指され(平等が実現したかは別として)、自由恋愛が広まり、性別や年齢にとらわれない役割分担が広まった。コミュニケーションの方法も多様化した。これらの身分制度や伝統の縮小は、経済優先と表裏一体だろう。人々を押し込める古い枠は、非効率的で利益を生まないものとして捨てられた。社会は流体的になり液状化し、人々はフワフワした存在の個人となり、自由な自己決定の機会を与えられた。本当に自由と呼べるかは別として。

 こうして新しい行動の指針が必要となり、採用された(ように見えた)のがポリティカル・コレクトネスであった。差別に反対し政治的に正しい行動をしましょうと。「人々が主観や好き嫌いを排し、合理性・平等・権利・多様性を重視している」ように見えるが、その人々にはバイアスがあり、何がポリティカル・コレクトネスなのかを決める基準は恣意的であったし、自分たちにとって気持ちのいい選択をしていた。そのようなゆがみが徐々に浮かび上がった。

 さらに注意深く観察すると、ポリティカル・コレクトネスが新たな行動の指針となったののではなく、かわいそうランキングこそが行動の指針だったと判明した。「かわいそうランキング」は昔からあったものの、2017年の現代では人のバイアスを隠し切れなくなり、社会のゆがみが巨大化し、かわいそうランキングの深刻化と可視化が進んだのだ。しかし本人たちは自分の中にかわいそうランキングがあることを自覚できていない。

 現代の人々は一見自由なようだが、実際は山本七平、丸山眞男、池田信夫氏らが指摘したように、人々は空気に支配されている。テラケイ氏のように「かわいそうランキングが世界を支配する」と言い換えることもできる。

 自由は不自由で、不自由は自由なのだ。

 以上が1点目の理由だ。

 かわいそうランキングについて考えるとき、社会哲学者のホネットが論じた社会的承認や、ドイツの社会学者のベックやイギリスの社会学者のバウマンが論じた個人化や、同じくバウマンが論じた液状化が、重要な視点を与えてくれるだろう。

 しかし私はホネット、ベック、バウマンらの議論を深くは知らないので、ここには書かないでおく。

 かわいそうランキングが2017年の現在に深刻化し可視化された2点目の理由は、インターネットとSNSだろう。

 そもそもテラケイさんがnoteとTwitterでかわいそうランキングを提唱したため、当たり前のことではあるが。

 インターネット空間であれば空気を読まない発言ができ、今までバラバラだったマイノリティの人々が連帯することができた。かわいそうランキングの下位の人々と上位の人々がパソコンやスマホの画面上に並んでしまい、社会のゆがみとしてとらえられた。

 以上が2点目の理由だ。

 バックラッシュについては省略する。

 ところで、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)つまり政治的正しさという言葉が普及したが、日本なら「世間的に正しい」「世間的正しさ」という言葉のほうが適切なのではと私は考えているが、これについてはこのnoteの本題から外れてしまうので、これ以上書かないことにする。


比較E 選んだ/選ばない論争、先天的/後天的論争、自己責任、生まれたことを罰するということ

 テラケイさんのTwitterを引用するが、前述のようにツイートが削除されたため、当時の文章を載せることにする。

「後天的な努力ではどうすることもできない属性によって被る不利益を差別とする」という定義は一理あるけど、行動遺伝学や発達科学の研究によれば、頭の良さどころか、根気の有無、キレやすさ、性衝動の強さ、注意力等、多くの人が遠慮なくボコボコにしてるタイプの人が持つ属性も先天的なものなんだ。

ぶっちゃけ差別かそうではないかは、先天的要因とか後天的要因で分けることはまず不可能であり、むしろ「かわいそうランキング」のほうがより説明できるのである。

同性愛者の告白を晒すと人権蹂躙のバイブスを多くの人が感じる一方、不細工なキモオタが告白したLINEを晒されても誰もそう思わないというのも不思議ですね。不細工であることなんかは、生まれつき顔面のパーツや筋肉の配列が悪かったということで十分先天的だと思うんですが、なぜなんでしょうね。

小学生のころ、『時計じかけのオレンジ』の読書感想文で「社会にはナチュラルボーン犯罪者として生まれる人もいるんじゃないか。そんな人を罰するのは、生まれたことを罰するのに等しいのではないか(要約)」みたいなのを書いたらちょっとした物議を醸した嫌な思い出がある。

 他にもテラケイさんは受刑者のIQが全体平均を下回っていることや、軽度知的障害者が受刑者となる(犯罪をする)傾向にあることを何度も指摘している。自己責任か否かの基準についても述べている。

 私(街河ヒカリ)は特に「生まれたことを罰する」というフレーズにゾッとした。今の私はこの「ゾッとする想い」を説明できない。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが……。

 もちろん、生まれつきの病気で苦しむ人や、生まれた地域の戦争が原因で苦しむ人、親から虐待を受けている人々は世界中に多数いるだろう。しかしそのよう理由で苦しむ人たちの問題と、テラケイさんが指摘した問題は違う。「生まれたことを罰する」とは……私は考えを整理できないでいる。

 教育や知的障害や発達障害などを論じる分野では、「人の行動や性格を決めるのは、遺伝的要因か?環境要因か?」という論争が繰り返されているが、複雑すぎて私には整理できないので、これ以上は書かないことにする。


比較F 「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」

 「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」の三つはどれもメディアの問題や貧困問題や社会運動などについて考えるときに使われる言葉だ。これらは他者が考える「弱者はこうあるべきだ」という理想によって作られた弱者や、メディアによって描かれた、現実からは乖離した弱者を指す言葉である。

  テラケイさんもnoteで「きれいな弱者」について論じているが、ただし「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」という言葉を最初に使った人物を特定することはできない。これらはどうやらずいぶんと昔から使われていたようだ。

 以前から多数の人々が「弱者に対して『清く正しく美しく』を求めていいのか?」という議論をしていた。

 たとえば、事件や戦争が起きたときには、メディアは視聴者や読者から「かわいそうだ」と感じてもらえるような弱者を選んで報道する傾向にある。

 生活保護受給者に対して「贅沢をするな」「生活保護を恥ずかしいことだと思うべきだ」と考える人もいる。

 生活保護の支給要件・受給要件について考えるとき、「本当に困っている人のために支給するべきだ。本当に困っているわけではない人には支給してはいけない」という意見もある。しかし、その発言者の「本当に」とはどのような意味で、どのような方法で「本当に」を判断するのだろうか。「困っていることが私から見て明らかな人」「本人は何も悪くないのに、不幸にも収入がなくなった人」「清廉潔白な、かわいそうな人」という意味なのではないか。つまり発言者のあいまいで恣意的な感情を基準にしている。

 これらの現象によって作られる弱者を、「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」と呼ぶ。

 つまり「理想の弱者」「幻想の弱者」「きれいな弱者」は、「かわいそうランキングが上位の人」と重複するが、同じではない。場合によっては「幻想の弱者」が「かわいそうランキングが下位の人」と重複することもあるだろう。理由をこれ以降で述べる。


比較G 「サバルタン」と「代弁」と「マイノリティ憑依」

 まずサバルタンという言葉を説明したい。長くなるが、本から引用する。

 「みずからを語ることができないマイノリティ」という存在は、人類学の用語で「サバルタン」と呼ばれる。サバルタンはもともとは社会の支配階級に服従する底辺層を指す言葉だった。つねに歴史は支配階級によって書かれ、社会に受け入れられていくのに対し、底辺層サバルタンの歴史はいつも断片的で挿話的なものにしかならず、つまりサバルタンはみずからの力でみずからの歴史を紡ぐことを許されていない。つまりサバルタンの歴史は、つねに自分たちを抑圧する支配階級によってのみ語られ、書かれてしまうという矛盾した構造をはらんでいるのだ。
(中略)
 サバルタンの側から見ても、他者に勝手に憑依され、勝手に語られることによって、自分たちと「語られるサバルタン」は乖離していってしまう。
(佐々木俊尚『「当事者」の時代』光文社新書、2012年、305ページ)

 貧困問題や社会運動の分野では「弱者を代弁することは正しいことなのか」という問題が何十年も前から繰り返し問われてきた。

 この古い問いを新しい問いへと練り直した人物がいた。佐々木俊尚氏だ。

 佐々木俊尚氏は2012年の著書『「当事者」の時代』の中で、幻想の弱者、サバルタン、日本の社会運動の歴史、そして2011年の東日本大震災の問題を再考したうえで、「マイノリティ憑依」という独自の言葉を提唱し、問題提起した。「マイノリティ憑依」は日本のメディア空間についての文脈で使われる言葉だ。

 『「当事者」の時代』という本はかなり複雑で、議論が紆余曲折しており、この本への批判もある。しかし私はこの本を非常に高く評価している。

 「マイノリティ憑依」の意味を説明することも難しいが、無理矢理短くまとめると、「マイノリティ憑依」とは、メディアが弱者や少数派の人々を勝手に代弁する現象であり、かつ、マイノリティ憑依によって描かれる人々は、幻想の弱者だ

 テラケイさんは代弁とサバルタンの問題について発言したことがあるが、これ以降はテラケイさんの発言を活かしつつ、主に私の考察を書くことにする。

 たとえばメディアがマイノリティ憑依によって「こんなにかわいそうな人がいる」という幻想の弱者や理想の弱者を描いた結果、その人のかわいそうランキングが上がることもあるだろう。多数の人々からの注目を集め、問題が解決に向かったこともある(本当に解決したかは別として)。個人の物語は大きな力を持つのだ。近年のニュースを思い出してほしい。

 逆にメディアがマイノリティ憑依によって「こんなに醜い人が、こんなに頭がおかしい人がいるんだ」という、(理想とは正反対の)幻想の人(弱者とは限らない。強者のこともある)を描き、読者や視聴者の怒りを煽り、その人のかわいそうランキングが下がるケースもあるだろう。

 どちらにしても、本人たちのリアルとはかけ離れた幻想が描かれている。本人が置き去りにされ、本人が自分の力で語ることができていない。サバルタンがサバルタンのままである。メディア、マイノリティの人々、読者や視聴者、この3者が互いに切り離されており、マイノリティの人々が「ネタ」として消費されていく。しかし「ネタ」はいずれ飽きられてしまう

 説明すると長くなるので省略するが、佐々木俊尚氏は『「当事者」の時代』の中で、「被害者であるがゆえに加害者である」という社会構造があるのだと論じ、マイノリティ憑依と被害者と加害者の複雑な関係を考察している。

 かわいそうランキングの下位にいる本人が自分の状況や問題を自分で語ることができれば一番良いが、中には自分の状況や問題を認識できない人もいる。社会的立場・経済的立場が原因で自らを語ることができない人もいるだろうし、精神疾患や知的障害や発達障害を抱えるがゆえに自らを語ることができない人もいるだろう。それ以前に、死んだ人もいる。死んだら何も語れない。

 街の中でホームレス生活をしている人に、「生活保護制度を利用すれば家賃を払えますよ。だからあなたはアパート生活に変われるんですよ」と言っても「ホームレスのままでいいよ」と断られることもある。ただしすべての人がそうだというわけではないが。

 だれかが問題を語らなければ、問題はますます不可視化され、ますます解決が難しくなる。本人が自らを語れないからには、媒介者が必要になる。ここであえて代弁者ではなく媒介者と書くことにする。

 私はこれまでテラケイさんたちがマイノリティの人々の問題を可視化してきたことについて、心から敬意を表したいと思う。私は「テラケイさんたちの行為は、マイノリティ憑依だ」とは考えていない。佐々木俊尚氏は次のように述べている。

弱者のことを伝えることがマイノリティ憑依なんじゃなくて、「弱者の立場を知ってるから俺は最強なんだ」と思い込むことがマイノリティ憑依。弱者のことは伝えたい、でもその位置と自分の位置との間に絶望的な距離があるってことを知るのが必要。そして伝える。

出典:https://twitter.com/sasakitoshinao/status/186643860263419905

 だからかわいそうランキングという言葉を広めることには危うさもあるだろう。だれかが「かわいそうランキングという着眼点で社会問題を考えること」を進めた結果、かわいそうランキングの下位の人々に憑依し、「他の人よりも私のほうが弱者のことをよく知っているんだ」と思い込み、「ランキングが下位の人々は、こんなに苦しんでいるんだ」と勝手に代弁し、幻想が描かれてしまう、という危うさだ。

 これを書いている私も、マイノリティ憑依をしているのだろうか?

 マイノリティ憑依に陥ることなく、リアルな問題の可視化を進め、解決につなげるためにはどうしたらよいのだろう。もちろん客観的な数値のデータも必要だが、私のこの文章では人々が作る物語の力に注目したい。

 佐々木俊尚氏は『当事者の時代』の中で、マイノリティ憑依によって作られたメディア空間では、そこで描かれる問題を読者が自分の問題として受けとめることができない、と批判している。一方で佐々木俊尚氏は、東日本大震災以降の河北新報の記者たちは心に響く記事を書き続けている、と強く肯定している。心に響く理由をこう考察している。

記者たちは<マイノリティ憑依>するのではなく、被災者と同じ視点、同じ立ち位置から無数の物語を背負い、その物語をおたがいに共有している。そうやって記事を生み出しているのだ。(前掲書454ページ)

 さらに論点がずれるが、近年は統合失調症の人々の治療法として、オープンダイアローグが注目されている。詳しく述べないが、オープンダイアローグは、患者本人、家族、医療従事者らによるミーティングにおける「思想」と「行動」である。

 オープンダイアローグの開発者であるヤーコ・セイックラ氏らが述べているのだが、オープンダイアローグはポストモダン思想を具体化したものだ。

 オープンダイアローグの7つの原則のうち、7番目は「多声性(ポリフォニー)」の重視である。ナラティブ・セラピーにおいては、ナラティブの作者は患者自身だが、オープンダイアローグにおいては、患者や家族や医療従事者らの対話によって物語が共同制作される

 詳細は省略するが、「オープンダイアローグ」は「当事者研究」とも共通点がある。

 このような情報量が少なすぎる私の文章では、オープンダイアローグと当事者研究が何なのか読者の皆様にほとんど伝わらないと思うが、「多声性」を初めとするオープンダイアローグの哲学は、マイノリティ憑依とかわいそうランキングを考えるうえで重要なヒントになると私は考えている。興味を持たれた方はオープンダイアローグと当事者研究について調べていただきたい。


第5章 かわいそうランキングのパラドックス

 予め断っておくが、ここから先で論じることは、すべての人に当てはまるわけではない。

 どうやら「かわいそうランキング」という言葉を広めようとしているテラケイさんたちに対して、こんなことを考えている人がいるようだ。

「テラケイたちは弱者男性の声を代弁するヒーローにでもなったつもりで、いい気分に浸っているんだろう」
「テラケイたちは他人を批判してばかりで解決をする気がないんだ」
「彼らは不幸自慢をして、他人の足を引っ張っている。弱者同士の対立を煽っている。若くてかわいい女の子の苦しみはどうでもいいと言うのか?」
「そんなテラケイたちは、他人から嫌われて当然だし、救済されないんだ」

 ちなみにテラケイさんはTwitterに「言うだけでなく政策レベルの問題に現場からコミットしてます」と書いていた。もちろん私はテラケイさんたちに対して上記のようなことは考えていないが、私はネットで上記のような投稿を読んだことがある。

 しかし、もしそんなことを考えている人がいるなら、立ち止まって自分の考えを振り返ってほしい。

 そうやってテラケイさんたちを嫌うことこそが、「かわいそうランキング」なのだ

 つまり、「『かわいそうランキングという着眼点で社会問題を考えようとしている人たち』はかわいそうに見えない」と感じている人は、「かわいそう」という感情で他者をランキングにしている。テラケイさんたちを批判するつもりが、逆にむしろテラケイさんたちの正しさを示しているのだ。

 正反対の現象もあるだろう。ある人物が「キモくて金のないオッサンはかわいそう。若い女の子が苦しむのはかわいそうではない」という、別のかわいそうランキングを使っているのかもしれない。つまり、他人のかわいそうランキングを批判することで、その人の中に「上下が逆転した別のかわいそうランキング」が作られるのかもしれない。「『かわいそうと思われている人』はかわいそうではないが、『かわいそうではないと思われている人』はかわいそう」と。

 そしてあなたは私のこの文章を読んでいる今も、「これを書いている街河ヒカリという人は、かわいそうに見えない/かわいそうに見える」と感じているかもしれない。あなたに自覚がなくても。

 たとえるなら「『私は嘘つきです』という嘘をつく」「貼り紙禁止という貼り紙」のようなパラドックス(逆説)がある。


第6章 かわいそうランキングの今後の展望

 かつて「草食系男子」という言葉が考案者の意図とはかけ離れた意味に変わってしまったように、もしかしたら「かわいそうランキング」の意味も変化していくのかもしれない。

※2017年8月15日に下記の部分を補足しました。

 テラケイさん(白饅頭さん)の次回のトークイベントのテーマが「かわいそうランキング」に決まりました。私も参加します。楽しみにしています。2017年10月14日(土)に開催され、ゲストは借金玉さんと角間惇一郎さんです。イベントページのURLはこちらです。

http://twipla.jp/events/272137


第7章 このnoteの今後の展望

今後も加筆修正する予定である。


以上です。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

そしてテラケイさん、白饅頭さん、ありがとうございました。

 ご意見・ご感想をお待ちしています。メールでもnoteのコメント欄でも、どちらでも構いません。私のメールアドレスはhikarimachikawa2017アットマークジーメールドットコムです(迷惑メール対策でカタカナにしています)。


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