見出し画像

「口伝」で受け継ぐ古代の知恵と近代心理学の違い──『自然和合エニアグラム 心を癒し、あなたを成長させる古代心理学』#2

第一回はこちら



秘伝、相伝の厳しさ


約二千年もの間、秘伝であったエニアグラムが広く世に知られたことは、ある種の大事件といえるだろう。極少数の賢者のみが学び、身につけていた深い知恵に、誰でもアクセスできるようになった。
特に、多くの科学的、近代的な心理学者が研究を始めたことは、エニアグラムに様々な変化をもたらしたと考えられる。古くからの秘伝が、近代心理学の影響を受けたのだ。
 
「秘伝」というのは、師が弟子の中から、これぞという人物を選んで奥義を明かすという伝承の仕方である。一方、現代の学問では、得られたものをできる限り一般化し、誰でも取り扱えるようにする。一般化したものは、容易に移動し、国境も越えて広まってゆく。
 
心理学的な実験を行なったり、学術論文を書いたり、読んだり……あるいは、精神科の患者をエニアグラムのタイプ別に分析したり……。こうした近現代の研究手法により、謎多き神秘の学問は、現代人にとって、より科学的と思えるものになった。
 
おかげで、良くも悪くも、自分はエニアグラムを知った、理解した、と思う人が増えた。この古代心理学を、学ぶだけでなく、教える人まで増えている。研究者の中には、そもそもエニアグラムを「学んだ」という意識すらなく、自らが科学的な方法で、エニアグラムという古い学問の正しさや有用性を「検証した」と主張する人もいる。
 
とにかく、エニアグラムの専門家は増えた。特に、アメリカや日本などで顕著なのは、ビジネスにエニアグラムを活用しようという動きだ。エニアグラムの講座やセミナーが各地で開催されている。
 
確かに、エニアグラムは個人の能力を伸ばしたり、組織をうまく運営したりするのに役立つ。そのため、ビジネスに活かす方法はたくさんある。
 
だが、もともとのエニアグラムが何のために伝えられていたかは、測り難い。秘伝とされていたことから、悪用を避けようとした意思が汲み取れる。商売に用いるにしても、この学術で不当な利を得てはならない、といった戒めがあったのではないだろうか。しかし、現代人の中で、こうした重大な点に気づいている人は、あまりいないように見える。
 
秘伝とした目的は、私利私欲によって悪用されないため、だけではないだろう。「誤解を避ける」というのも大事なことである。
エニアグラムは一子相伝のような形で、指導者が弟子に、その内容を「口伝くでん」したという。
 
「口伝」つまり、口頭で伝えたというのが興味深い。一対一で話しながら、じっくり教えると、弟子が本当にその内容をよく理解しているかが分かるのだ。弟子がどれくらいの人物で、エニアグラムをうまく使いこなせるのか否か。この知恵で、多くの人々を良い方向へ導けるのかどうか……。そうしたことを見極めながら、伝えることができる。
 
文字などで書かれたテキストがない、ということは、例えば、師が何か課題を出したり、質問をしたときにも、弟子は自分の考えや力で応えなければならない。教科書をただ暗記したような勉強では、対応できなかったことだろう。
師の話をすべて憶えたつもりでも、ずっと昔に話したことについて、不意にまた問われたり、同じ理について全く違った角度から、あるいは、違った表現で尋ねられることもある。
 
相伝というのは、ごまかしの利かない厳しい世界なのだ。こうした対応、修行の積み重ねによって、エニアグラムを臨機応変に活用できる「本物の賢者」が育ったに違いない。
 
学問や技術等を伝える上で、教科書など何らかの文書があると、非常に便利だ。が、文書に書き記すと、外部に漏れ、誰かの手に渡り、悪用、誤用される恐れがある。だから、選び抜いた人の心の内、頭の中に隠し、声や表情、動作など、人間の体を通じて伝えた。
 
昔の人は、「物」や「テキスト」は盗まれやすいと知っていたのだろう。古代人は現代人より劣っているとか、下等だと思うのは間違いだ。むしろ、深い思慮や鋭い感覚があった、と考えるべきだ。
 
こうした「古代の秘術」らしい趣き、伝承感覚といったものが、現代では失われているように思う。
 

ビジネスに活かせるエニアグラム


 現代社会で、ビジネス界に広まったエニアグラム。そこには近代的な経済学の論理や、現代の様々なビジネス手法などが入り、もはや、本来の古典的な有りようをイメージすることは難しい。
エニアグラムは、使い方や使う人物によって大きく変わるものだから、現代のビジネス人や、経済、経営の専門家などは、その立場、視点、思考でこの心理学を用いることとなる。

自然和合エニアグラム 9つの型

エニアグラムをビジネスに活用する場合、例えば、1の勤勉・完璧志向型の人に、正確さを要する細かい事務などを任せようと考えるかもしれない。8の強力・親分型の人をチームのリーダーに抜擢しよう、などと思うかもしれない。
 
自分が企業のトップなら、タイプ2の愛情・奉仕型の人を秘書につけるかもしれない。4の個性・芸術型の人をデザイナーとして雇い、危機管理部門にはタイプ6の律義・安全志向型をすえるとよいだろう。突撃営業や、人前に立つプレゼンテーションなどには、3の能率・成功志向型を用いたい。情報収集や知識強化のために専門家を招く際は、タイプ5の観察・頭脳型を選ぶかもしれない。
 
7の楽観・万能型は忙しそうだが、社員旅行を計画するなら、やはりこの人に頼んだほうがよい。タイプ9の安穏・調和型は、独りで仕事をさせず、皆と一緒に働かせて、良き調整役として活かしたい。
 
もちろん、これほど単純な話ではないが、ビジネスではこのような形で利用されやすい。確かに、エニアグラムを知らない場合に比べ、うまくいく面は多いだろう。
ただ、本当にうまくいくか否かは分からない。どう出るかは、その組織の本質が大きく関わってくるためだ。
 
例えば、その企業がスピード重視の経営を行なっていたとしよう。ここで4の個性・芸術型のデザイナーを使った場合、必ずしもピッタリとは言えない。ある程度、綺麗でセンスのあるものを時間内に作って欲しいのに、タイプ4はいろいろと考え、細部にこだわって、仕事が遅れる場合がある。確かにできあがったものは非常に美しいが、そこまでの水準を求めているわけではない。こうなると、タイプ4の評価は下がってしまうだろう。
 
逆に、商品の質やセンスにとことんこだわり、これによって高い付加価値をつけたい企業の場合は、状況が全く異なる。タイプ4は賞讃され、チームリーダーにでも成り得る。商品づくりの方向性を決定し、皆に自分の美学や感性を伝えねばならない。
 
このように、組織の大方針や経営哲学などが、各人の評価や心理に強い影響を及ぼすのである。エニアグラムを用いたとしても、皆が活き活きと働けるか、本当に適材適所か、といったことは、にわかには分からない。
 
「心理学を導入するのは良いこと」と思い込みがちだが、不自然な形で人に当てはめたり、これで良いはず、と決めつけたり、強引なやり方で組織を動かしたりすれば、むしろ反感を買う可能性もある。
現代の組織では、事あるごとに「メンタルヘルス、メンタルヘルス」と言い、専門家を呼ぶが、心身が不健全な人は一向に減らない。その真の理由を、よく考えるべきだ。
 

人間の癖と無意識


経済や経営ではなく、心理学という学問としてエニアグラムを研究する場合も、深慮が必要である。ビジネスに用いるときとは、また別の問題もあるが、古代の感覚が失われがちという点は共通している。
 
心理学畑の人々は、近代的な西洋心理学の影響を受けることが避け難い。専門家たちは、精神分析的な見方をしたり、精神医学的な研究を行なったり、その他、主に理論的なアプローチを試みるだろう。
 
研究の中には、実験なども含まれる。ただ、繰り返しになるが、エニアグラムはその性質上、これを扱う「人物」によって解釈が大きく異なる。
例えば、せっかちな人がエニアグラムで性格分析の実験を行なったとしよう。被験者を集めて、実験内容を素早く説明し、一日のうちに多くのことを試す。結果がすぐに出るよう、行動の差や回答の差を明確にしようとする。
実験を終えると、その研究者は急いで結果を論文にまとめ、発表する。
 
しかし、その論文の内容は果たして正しいのだろうか。被験者は、せかされることでストレスを感じる。はっきりと行動を決めなければ、と思うことで、細かい感情や思考などを無視してしまう可能性がある。各人の本心や本質が出にくくなるのだ。
 
研究者自身も、前のめりに急いでいるため、被験者の細かい様子や表情などにまで目がいかない。ある程度、論文が書けるだけの結果が得られれば満足し、それ以上、「余計なこと」は考えないだろう。
その実験を受けた後、被験者たちがどのような心理で、どのような生活に戻っていくのか、といったことを、追い続けようとも思わないだろう。
 
同じものを見ても、同じ人に会っても、同じ場にいても、それをどうとらえるかは、実に様々であり、その人の資質が問われるのだ。
 
例えば、日常的に重い心の病いを抱えた患者を診ている精神科の医師が、エニアグラムについて論じたとしよう。すると、どの型の人も皆、性格や心の持ちように問題がある、と見る可能性が高い。各タイプの欠点や負の面に注目しがちになるのだ。
患者のイメージが強いため、どの人間も、非常に深い苦しみやトラウマなどを抱えており、そこから抜け出すことは容易ではない、という感覚で心理学を論じることが多いだろう。
 
これは精神科の医師に限ったことではない。近代以降の心理学は、人の心の中の闇に迫ろうとする傾向がある。
もちろん、その考え方やアプローチが有効な場合もある。無意識の暗い領域から、辛い記憶を呼び起こし、心の傷を認識した上で、癒す。これにより、心理状態が改善することもある。
 
ところが───実は、「無意識」「潜在意識」などと呼ばれる心の領域は、必ずしも暗いものではない。素晴らしい閃きや知恵が湧く源泉であり、明るさや温かみをもった深い領域なのである。心の奥が「暗い」と感じるのは、「見えづらいから」に過ぎない。そこに光を当てることは、何も恐ろしいことではないのだ。
 
しかし、長年、近代心理学には何となく暗い感じや、怖いイメージがあったように思う。それは、健全な人を対象とせず、主に精神的な病いの原因を探っていたからかもしれない。あるいは、一般の人にとって簡単ではなく、どこか近寄り難い学問であったからかもしれない。あるいはまた、心の奥底には過去のトラウマや恐ろしい記憶、自分では認め難い欲求など、何か黒々としたものが眠っている、といったイメージが広まったためかもしれない。
 
いずれにしても、100年ほど前からこの分野の代表とされてきた近代心理学には、親しみやすさや自然さといったものが感じられない。一部の医師や学者が、暗い様子で何か難しい論を唱えている、といった印象なのだ。
 
こうした専門領域に住む心理学の関係者がエニアグラムを用いると、どうしても「病気と闘う」「暗い過去やトラウマと向き合う」といった考え方、姿勢になりやすい。
分析する相手を、患者やクライアントととらえる場合も多いだろう。自分は「専門家の先生」であり、病んだ人々をどうにかしてあげなければ、という観点になる。
 
すると、エニアグラムの見方に何らかの偏りや影響が出てくる。古代の秘伝を修めた賢者とは、おそらくかなり違うのだ。
 
昨今は、明るい研究家や親しみやすい心理学者なども増えた。が、それも、良い傾向とばかりはいえない。浅い理解で心理学を語ったり、軽い気持ちで人の心に影響を及ぼそうとしている可能性があるからだ。
 
暗いにせよ、明るいにせよ、偏るのはよくない。そして、やはり心理学に関わる本人の資質が問われる。
 
すでに述べている通り、心理学の実験などを行なう際も、研究者に癖や偏りがあれば、問題が起きてくる。
そもそも、どのような実験をするのか。仮説を立てるにしても、実験環境を設定するにしても、被験者を集めるにしても、その研究者の思想や意図などが色濃く反映される。そして、実験で得られた結果の分析も、その人の眼が偏っていれば、不正確になりかねない。
 
研究者といえども、多くの場合、無意識のうちに何かの影響を受けている。まさに「無意識の領域」の問題なのだ。
 
心理学者は「無意識」や「潜在意識」の専門家である。にもかかわらず、なぜ無意識のうちに偏った判断をしたり、分析を誤ったりしてしまうのか。それは、簡単にいえば「頭で考えているから」である。
 
頭で考え、「論文を書かねば」などという意図で、「意識的に」仕事をしている以上、無意識の世界にアクセスすることは、ほぼ不可能だ。潜在意識は閉ざされて顕在化できず、自分自身の心の奥底がどのような状態か、分からないままになっている。
 
近代心理学の特徴、専門家としての独特な立場、個人的な性格の癖、等々──。
こうしたものの影響を無意識のうちに受けたエニアグラムを、研究者たちは論文にまとめる。その論文を読んだ人が、また専門家と称し、エニアグラムについて語ったり、教えたりする。
この現代版のエニアグラムは、心理学畑で教示されるだけでなく、様々な形で一般の人々にも広く伝わっていった。

「修行」のみから得られる「真の客観性」


なぜ、ここまでエニアグラムに対する見方の偏りを問題視するのか。それは万事、歪みのない眼やバランス感覚が大切だからだが、エニアグラムという心理学特有の理由もある。
 
エニアグラムの性格分類は、すべての人間に当てはまる。つまり、誰もがこのエニアグラムの9つのいずれかの性格をもつ、ということだ。だから、皆、基本的には偏っているのである。
 
例えば、全く同じものを見ても、1型と2型の人では違った見方や感じ方をする。2型と3型の人も、もちろん異なる。
人の心理を分析する際も、この差異は出る。同じ様子、言動などを見ても、各タイプで意見や結論は違ってくるのだ。
 
専門家といえども、この差異を埋めることは至難の業である。エニアグラムを客観的にとらえて、深く理解することは容易ではない。
様々な観点から書かれた、多くの本や論文などを読めば、ある程度、個人の癖が是正されるだろう。しかし、どれほど多くの論文を読んでも、何人の患者を分析しても、どんな実験をしても、自分の心の有りようや、ものの見方が偏っていれば、良き指導者や癒し手にはなれない。
 
1型の人には1型の見方しかできず、2型の人には2型の見方しかできない。論文や大学の授業等の表現の仕方も、3型は3型なりの、4型は4型なりのものとなる。カウンセリング等を行なっても、5型は5型らしい、6型は6型らしいものとなってしまう。
 
この「偏り」と「客観性の欠如」から脱するには、どうすればよいのか。
 
自分自身が、大きく成長するしかない。修行を重ね、自己の内面を磨く。無意識の領域といわれる心の奥にアクセスし、自分の潜在意識や本心を知る。
自分には何か大きな偏りや悪癖がないか、と常に問い続け、あれば改善する。
 
内面だけでなく、外の世界にも目を向ける。各タイプの人達と接し、じっくりと学ぶのだ。そして、様々なことを達観できるくらいの人物になるしかない。
 
エニアグラムを学び、修める過程は「専門分野の研究」というより、総合的な「修行」の道といえるだろう。
その道には、自他のあらゆる面が含まれている。
 
自分は知識の豊富な学者だ、専門家だと思い、謙虚さを失って、患者や一般の人々を「研究対象」のようにしか見ていない。そのような状態では、エニアグラムの奥の世界へは進めないだろう。
 
科学的なアプローチをし、人間を「研究対象」にすることは、一見、「冷静」で「客観的」なように見える。が、これは「真の客観性」ではない。実は、「自分を棚に上げている」のであり、「自分には問題がない」と思い込もうとしているのだ。
言い換えれば、「自分を参加させず、自らの心を抑圧している」ともいえる。
 
本当に冷静な研究者などは稀である。多くの人は、冷静で明晰な人物を装っているだけ、と考えられる。自分には特段、何の感情も意図も欲もない、という風に見せているだけなのだ。専門家というのは、そうあらねばならない、と思い込んでいるのかもしれない。
 
こうした思い込みがあると、ますます自分の思考の癖や、本心が分からなくなる。偏りが無意識の領域に隠されてしまい、気づきにくくなる。気づかなければ、改めたり、心のバランスを整えることはできない。
 
自分の心の内には何があるのか。これを知る必要がある。心の中を暗い闇とばかり思わず、明らかにすることが大切だ。
自分は一体、どのような人間なのか。これを包み隠さず、自ら認識すべきである。己を知り尽くすことは難しいが、知ろうと努め、自らを省みなければならない。
 
「真の客観性」は、自分自身を客観的に観るところから始まる。自分の偏りや癖をよく認識した上で、是正する方向へ動き、悪い癖や縛りから自己を解き放つのである。
 
これは、厳しい修行の道であるが、同時に、自らを大切にする優しい生き方でもある。
 
現代人の多くが、自分の感情や本能などを抑えて生きているように見える。冷静であろう、科学的であろう、と努力することもその一つだ。自分を賢く見せようとか、正しく見せようとか、何か目に見える成果をあげよう……そうしたことを考える余り、自分の本当の気持ちを無視してきた面があるだろう。仕事上の利益や、他者へのアピールを優先し、自分自身の心を満たすことは後回しになりがちだ。
 
自分のことなど放っておいて、たくさんの本を読んだり、セミナーへ出かけたり、人脈を増やしたりしたほうが、良い人生が送れる、と、多くの人が思ってきたのだろう。しかし、人間は自分の心を無視し続けることはできない。抑圧の反動として、妙な形で自己愛が表れ、利己的になったり、攻撃的になったりしてしまう。あるいは、ストレスや過労のため、ウツや無気力の状態になる。
 
せっかく知識を集め、多くの人と接する機会を得ても、利己的な面や無気力な面が出てしまい、物事がうまくいかない。付き合いが広く、派手に動き回っている分、欠点が出たとき、多くの人に嫌われ、悪い評価を受けてしまう。
 
自分の心を抑圧するのは、近道のようで、むしろ苦しい道なのだ。いくら努力をしても、永遠に光明が見出せない可能性が高い。
むしろ、しばらく休んで、静かに独りで過ごし、自分の内面を観るほうが、楽な道なのだ。疲れを癒し、自分の本音に耳を傾け、心身を労わる。そうすれば、早い場合、その日のうちにも幸せな気持ちが湧いてくるだろう。
 
自分のことを考え、自分のことを思いやるのは、悪いことではない。自分に対して、素直に、優しい目を向けてみよう。心を大切にし、身体の感覚などをもっと深く味わってみよう。そうすれば、科学的な正しさや、近現代特有の思考的な縛りといった重いよろいを脱ぎ捨てることができる。

古代の人々が、どのような気持ちや感覚で暮らし、どのような人生を送ったか。イメージを膨らませてみよう。
 
偏りや悪癖がなくなる、というのは、とても気持ちの良いことなのだ。
自分のことを駄目だ、駄目だ、と思って責めるばかりが修行ではない。自分を大切に扱ってこそ、心を開くことができ、無意識の癖に気づいたり、より大きな自分を発見したりできる。
 
真の客観性というものは、決して冷徹なものではない。むしろその逆で、とても温かく、落ち着いたものである。ある種の安心感が、頑なな我執を溶かすのだ。

「いかにも苦しい修行をしている」という風な修行は、外に向かってアピールするための苦行である可能性が高い。自分の本心は無視したまま、誰かに凄いと言われたい、という欲で行なっている。そのような苦しい世界から脱し、本当に、自分を大事に育む修行をじっくりと行なっていくのがよいだろう。
 
今回は、そろそろ終わりにしようと思うが、「無意識」や「潜在意識」の話が出たので、それに関して以下、もう少し補足の説明をしておきたい。
 

【補足】顕在意識と潜在意識


 人が普段、自分で意識できる顕在意識は、氷山の一角といわれる。顕在意識と潜在意識の割合や、無意識の領域に何が眠っているかというのは、およそ、以下のようなイメージだと考えられる。

無意識については、今回、暗く恐ろしいものではない、と述べたが、もちろん怖いものや危険なものも存在する。
人間、特に大人は、日頃、常識や社会のルールなどを守って生きている。それは、潜在意識にふたをしたり、一定の枠を設けて調整している状態だ。この自制の意識を取り払えば、むき出しの本能や欲求などが溢れてくるかもしれない。怒りや悲しみなど負の感情が溜まっていた場合には、そうした気持ちで一時的に、心の中がいっぱいになってしまう恐れもある。
 
しかし、よく考えてみると───そもそも「良い心」や「良い気持ち」と「悪い心」や「悪い気持ち」を区別しているのは、人の顕在意識だ。
無意識の領域には、良いものと悪いものが、何の区別もなく混在している。だから、暗い気持ちや良からぬ心と、貴重な知恵や善良な心が、どちらも存在するのだ。
 
善良な心、正しい道ということに関しては、簡単には述べられないので、また改めて書くつもりだ。ただ、顕在意識で、これは善、これは悪と決めつけてしまうと、新しい閃きや型破りな発想などが生まれてこない。そのため、意識のふたを緩めて心を大きくし、本音や本心を顕在化させることが大事である。
 
無意識や潜在意識については、次回以降もまた、違った視点で述べたいと思う。

よろしければ、サポートをお願いいたします。