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時間が経っても覚えていることはちょっとした古典ではないか、という話

 お疲れ様です。昨今はメモの話題が盛り上がり、色々なことを覚えておくためのいいメモの取り方、残し方など様々な言及がなされている印象を受けます。今回、書こうと思ったテーマは、何もメモをしないでも、ずっと残っている記憶についてです。つまり、忘却フィルターを通り抜けた記憶たちの話です。
 人間の記憶は、生きていくのに必要か、否かで記憶の選別がされるといいます。実際、日常生活で触れる情報のほとんどは生死に直結はしないですから、すぐに忘れてしまう。では、どうやって記憶に残すか、それは何度も繰り返し同じ情報を頭に入れればいい、そうすれば脳が”勘違い”して重要だと思い込むのだそう。あるいは、強烈な印象を持ったことも重要だと認識するのだとか。ということは、覚えようとしないでも、ずっと記憶に残り続けてたいつかの思い出は、当時に鮮烈な印象を受けたことが影響しているかもしれません。つまり、自分の感性にピンときた何かがあった、ということでしょう。
 メモを活用して、たくさん覚えておくことは、大変重要なことではある一方で、多くの記憶の中で、本当に印象に残ったもの、重要な価値をもつ記憶が埋もれてしまい、もうどれか重要かはわからなくなってしまうでしょう。
 忘れることは、日常で触れる膨大などうでもいいことを切り捨てていく機能です。裏を返せば、忘れなかったということは、何度も触れた情報か、とても印象に残った記憶のどちらかであると言えるでしょう。自動選別機能とも言えますね。
 本当に重要な記憶は、メモを見返してもわからない。何をせずともずっと記憶に残ったもの、長時間の忘却の淘汰を潜り抜けたものこそが大きな価値を持つ。これは、長年の淘汰を受けてもなお残った古典の価値と似ていると思いませんか?古典は時間という厳しい選抜を通ったものとして、大きな価値を持つのです。
 今回は、メモ隆盛の世の中にちょっと逆行した意見を書いてみました。どう思ったか気になるので、コメントをくれるとうれしいです。フォローします。
 


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