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追憶の手紙

目次

 透明な手紙の香り。それは五月の風に乗って、かすかに薫った。

「きれいな茜色だなぁ」
「え?」
「え?」
 それが、藍さんとの出会いだった。
「ごめんなさい。独り言でした。お恥ずかしい」
「いえいえ。思わず口から漏れるほどに、たしかにこの空は美しいですよね」
「そうなんですよ! 空や自然が好きなんですよね。この茜色の空も綺麗で好きだ。木々や家々が黒々としていて、その対比も含めて美しい。燃えるように強く映るのに、物寂しく悲しげで、空模様って不思議です。日中とは打って変わって、太陽がここにいるよ~! また明日~! って叫んでいるようにも感じるんですよね」
 私は、自分の名前が連呼される気恥ずかしさに耐えきれず、俯く。
「どうされたんですか? 輝く太陽に、そのあまりの眩しさに目を背けているんですか。太陽に照らされて、あなたのお顔も茜色に染まっていますね」
 また、茜って。
「……ええ。眩しくて。私は、もう少しして日が沈む頃の、藍色の空が好きです」
「え?」
「落ち着きます。吸い込まれるような藍色に、身を委ねたくなるような安心感を感じるんです」
「……そう、ですか」
「目の覚めるような青空や、目映い夕陽のほうがお好きですか?」
「いやいや、どんな空も好きですよ。曇り空だって、暑さをやわらげてくれて好きですし、雨模様だって、雷だって、まるで空に感情でもあるかのような激しいところも魅力的だ。月や星が輝く夜空も、黄昏時、夜明け前の空も。ただ、藍色の空が好きだと言われて、どきりとしただけなんです」
「どうしてですか?」
「……その、自意識過剰で恥ずかしいんですけど……僕、名前が『藍』でして」
「藍色の、藍?」
「はい。藤ノ木藍といいます」
「まあ! ふふ」
「え、笑いました……? いや、まあ、そうですよね」
「ごめんなさい、違うの。私も、名前、茜って言うんです。おんなじだなって、おかしくて」
「そうなんですか! あかね、さん。茜色のあかねさんですか?」
「ええ。川本茜です」
「そうでしたか」
「私こそ、恥ずかしながらずっと気にして、あなたの顔を面と向かって見られなかったの。ごめんなさい」
「いやいや。はは、なるほど」
 空はいつしか藍色に変わっていた。一番星が瞬きだす。
「藍色になりましたね」
「そうですね。あ、すみません、お引き留めしてしまって。その格好、お仕事帰りですよね?」
「ええ。といっても、今日商談に失敗してしまって、社に戻りづらくって。しばらくこの橋の欄干に身を預けて、空をぼうっと見ていたわけなんです」
「そうでしたか」
「でも、なんだか元気が出てきました。ありがとうございます」
「空や自然を見ると、元気が出ますよね」
「まあそうですけど、あなたと話してて、元気が出てきたんです。だから、ありがとうございます」
「そうでしたか。それはよかった。独り言大きくてよかったなあ」
「またここに来ます。商談、破談になったわけではなくて、今日はだめでしたが、対策を練って出直します」
「応援してます。僕もがんばらなきゃ。僕もよくここに来るんですよ。また会えたらいいですね」
 どきりとした。
「ええ。お元気で」
「茜さんも、無理しないでくださいね。靴が磨り減るほどがんばってるんだ。きっとうまくいきますよ」
「……ありがとう、ございます! がんばります!」
 靴を買い替えないとと思っていたけれど、もう少しこの靴でがんばってみようと思った。都会のこの空でも、肉眼で見えるほどに星がたくさん輝いていた。

 それから何度か、特に用もなく、あの橋に寄った。あの人影を求めて。
 商談は、上司に相談し、提案資料を何度も作り直して何度も足を運び、なんとか成立させることができた。それは、あのときの彼の言葉があったから。私はまだ、磨きながら、あの靴を履き続けている。靴底だけ、靴屋さんで新しいものに替えてもらった。
 彼がいるときもあったし、いないときもあった。通勤で毎日通る人がいれば、目に見えて一喜一憂する私を見て、呆れていることだろう。
 彼との何度目かの逢瀬の帰り、一枚の封筒をもらった。灰色がかった、紫色。なんだか分厚い。
「帰ってから、見てください」
「今ではだめなんですか?」
「だめです! 絶対、帰ってから、見てくださいね」
「わかりました」
 帰宅後、早速封筒を開ける。中にはたくさんの写真が入っていた。写真の裏には、日付とコメント。「6/11 四つ葉のクローバー見つけました」「6/18 今日も一段と綺麗な茜さんの色の空です」「6/23 今日見つけたこのお花、綺麗でしょう」といった具合に。一枚一枚、とっても素敵な写真。彼の目が捉えたこの景色を、私も一緒に目に焼き付けたい。そう思った。
 写真を一通り見終わった後、小さく折り畳まれた手紙を見つけた。

茜さん

よろしければ、6/23の花を一緒に見に行きませんか。ご都合のよい日を、こちらまでお知らせください。不安だったら、公衆電話からでかまいません。 

              xxx-xxxx-xxxx
                藤ノ木 藍

 まだ携帯電話も普及していなかった頃。電話に出るのは誰なのか、ドキドキしながら受話器をとり、ボタンを押した。
「もしもし、川本茜と申します」
「こんばんは、茜、さん。藤ノ木です。藍です」
「はあ、よかった。違う方が出られたらと思うと、気が気でなくて」
「独り暮らしです。安心してください」
「そうなんですね。私も独り暮らしです」
「お電話、ありがとうございます」
「こちらこそ、お誘いありがとうございます。ぜひ、私は週末でしたらいつでも」
「え? ……本当ですか?」
「そうでなければ、わざわざ電話しませんよ」
「そ、それもそうですね。はあ、よかった。正直、もう会えないんじゃないかって。怖がられてたらどうしようって、思いました」
「なんとなく、あなたなら、藍さんなら、大丈夫だと思って。むしろ、嬉しかったです。素性の知らない私に電話番号を渡すなんて、あなたこそ不安だったんじゃないですか?」
「僕も同じです。茜さんは、もし電話をくれなくても、悪用はされないと確信していました」

 それから約束をして、待ち合わせをして、初めてのデート。あの封筒のような美しい色をした花を見て歩きながら、あっという間に時が過ぎていった。
「銭葵っていうそうです、この花」
「そうなんですね」
「恩恵・温厚・柔和といった花言葉があるそうです。他にも、アオイ科の花には、優しさとか、豊かな実りっていう花言葉があって。葵って、仰ぐ日、仰日あふひから来ているそうなんです」
「お詳しいんですね」
「調べました。梅雨時に太陽を仰ぐなんて、ちょっぴり切ないなあなんて思ったりもして。でも、葵の花が満開になると、晴れ渡って夏が来るんだって。この色も、いいなあって思って。まるで空の綺麗な色を混ぜて、淡くしたみたいな」
「私たちの色を混ぜて薄めたら、こんな感じになるかしら」
「どうでしょう」
「ふふ。とにかく綺麗ですね。見に来られてよかった」
「それならよかったです」
「また、教えてもらえませんか」
「え?」
「藍さんのほうが、こういうところ、お詳しそうだから。いつか、前に聞いた藤の花も見てみたいです」
「また、お誘いしていいんですか」
「ええ、ぜひ」

 そんなことが何度か続いて、二人になり、三人になり、二人になった。
 葵から、小学校の宿題で、「名前の由来を聞いてくる」というものを出されたと聞き、懐かしくなってあの封筒を探した。少し色褪せた封筒を取り出す。
「この写真のお花ね、葵っていうの。太陽に向かって真っ直ぐ咲く綺麗なお花なのよ。このお花には、『温厚』、おだやかって意味や、『優しさ』って意味もあって、葵にもね、真っ直ぐ、おだやかで優しい人に育ってほしいなと思ったの。後ね、お父さんとお母さんの色を混ぜて薄めたら、葵の色に近くなるのよ。お母さん、試したんだから」
「そうなんだ。この写真の裏の字、お父さん?」
「そうよ」
「やっぱり。お母さんの字とは違うけど、見覚えあったから」
「そう」
「お父さんとお母さんがくれた本にも書いてあったよね、名前のこと」
「よく覚えてるわね」
「まあね。お母さん、ありがとう、教えてくれて」
「どういたしまして。葵は、お父さんとお母さんが願った以上にいい子に育ってくれてる。いい子すぎるくらい。たまにはわがまま言っていいのよ」
「別に」
「そう。でも本当に、言いたいこと、してほしいことがあったら、ちゃんと言うのよ。お母さん、できる限り叶えられるようにがんばるから」
「お母さんは、がんばりすぎなくていいよ。お母さんはさ、元気でいてくれたら、それでいい」
「葵~!」
「うわ、ちょっと、恥ずかしいじゃん! やめてよお母さん!」
「いいじゃない、前は喜んでたわよ」
「きらりちゃんにこんなとこ見られたら笑われちゃうもん」
「あら。でも、今はおうちだからいいでしょう」
「でも」
「どんどん大きくなっていくのね」
 ねえ、あなた。あなたにも見えてる? 急成長するこの子のこと。
「そうだよ。僕背もぐんぐん伸びるよ」
「そうね」
 あなたに似て、背の高い男の人になるのかしらね。
 すると、少し開いていた扉のすき間から、風が入ってきた。心地よい風。それは、遠くから、きっとあなたのいるところから、私まで、透明な手紙の香りを運んでくれたのね。見えてるよ、真っ直ぐ高く優しく大きくなるよって、私には見えにくい手紙で伝えてくれたのよね。
「さて、そろそろごはんにしましょうか。宿題、ランドセルにしまってきなさい。今日はお母さん、お休みだから、おいしいごはんを作ったのよ!」
「やったー! ありがとう!」
 あなたにも、このおいしいごはんのにおい、届くかしら。五月の風に乗って。そして、誘われてここまで来てくれたら……なんてね。今日はあなたも葵も好きなメニューよ。
 扉を閉めようとすると、ちょうど茜色から藍色へと、空が移り変わるところだった。

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今回は休もうかと悩みましたが、お題からまたあの家族の光景が見えて、筆を執らずにいられませんでした。
前作はこちら。

シリーズを読み返していると、いろいろ気になるところが出てきて、うっかりな私にシリーズもの向いてない~と恥ずかしくなりました。設定とかあんまり考えずに思いついたまま下書きなしで書いてしまっていますので。優しい方がそっと教えてくださって、こっそり直して成り立っています…
前作で一つ大きな誤りがありましたことを、この場でお詫びいたします。
きらりちゃん(同級生)がスミレちゃん(花の精)になっていたので、書き直しました。失礼しました。
今回も矛盾がないとよいのですが…年齢設定とかなかなか難しいです。ふわっと濁してます。

小牧幸助さん、毎週素敵なお題をいただきありがとうございます!
読者のみなさま、毎週読みに来てくださってありがとうございます!
穴ぼこだらけですが、それでもよろしければ、もう少しお付き合いくださいね。

#シロクマ文芸部

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