苦労したから偉いなんてこと、ないんだよ
おもしろくもないこと嬉しくもないこと、感銘なんか受けもしないことに愛想笑いばかり振りまいていた自分が、一番しょうもなくて、一番つまらなかった。
「ああ、しょうもないなほんとうに」と独り言を言って、自然と出てくる大粒の涙にがっかりしては、それでも満たされなかった。
自暴自棄になってしまえたら楽なのに、と思うことは数えきれないほどあった。
引くほどすべてに誠実に抜かりなく人生設計を立てて計画的に生活すること、リスク回避をしてなるべく平凡に生きていくこと。
私は基本的にそういう人間だと思う。そう、もともとの私のまま、そうやって疑問も感じないでそのまま生きていけばいい。
なのに、
ふとした瞬間に「なんかつまんない」と思い、自分で作り上げてきたものを容赦なく破壊し始める。
「努力が水の泡になるのが楽しくてたまらない」という一種の狂った感情を持っているもかもしれない。これもほんとうに水の泡になることはないことも知っているうちの感情なのだろう。
敷かれたレールに従って生きることもできなければ、飛び出したまま走り続けることもできない。私は私が一番つまらないと思っていた。
大学時代、ゼミの先生には、創造したものを破壊してしまうまでが私、というのも見透かされていたらしく、就活前に自己分析で自分のことを紹介したあとに、「(私の名前)さんは、すごく、理性的ですね」と言われた。
幼いまま育った反抗心が爆発しそうだった。
向き直って「自分のことは、ちゃんと分かってるつもりです」と言うと、
先生は「きちんと分かっているのと、それを開示していくのは、また別の話です」と返した。
「自分を知らないことより、自分を知りすぎているのはすごく怖いことです」と言った瞬間から「そうですね」と笑った先生に、私はその時から心を開いたのだと思う。
嫌なことがあると研究室にいって、先生の研究の手伝いをしながら駄弁っていた。
大学の教授にしたって、高校時代の恩師にしたって、病院の看護師のお姉さんにしたって、昔から、自分よりだいぶ年上の大人の人が、好きで懐くことが多かった。
同級生の誘いを断ってでも、先生たち、お姉さんの横にいる時間が好きだった。
たぶんそれは、小さいころに大きく大人に失望した反動だったのだと思う。
そして異性の場合、中途半端な年齢差ではない大人に懐くのは、恋愛感情という厄介なものが邪魔することはないと確信しているからだった。
こういう大人になりたい
こんな大人になりたくはない
どちらも知った
尊敬すべき大人と
尊敬しなくて良い大人
悲しいほどに分かるようになった
ずっと、大人になりたかった、自由になりたかった
自分で逃げられる力が欲しかった
大人になってみると、思ったよりも自由はなくて、
けれど可能性も選択肢も無限大だった
「あの頃よりはずっと良い」と親友と話したときに、
「そう思えるような過去があるって、幸せなことだと思う?」
という話になった。
あって悪いわけじゃないけれど、ない方が良いに決まっている。
家庭環境だって、良好なことにこしたことはないし、身体だって丈夫な方が良い、そんなの、絶対にそうだ。絶対なんかなくても絶対にそう。
苦労した方が偉いなんてことは絶対にないし、楽に生きられるならその方がいい。
現に、「楽して稼ぐ方法」に多くの人が食いつくようにできている。それがいいと知っているから、それが一番生きやすいから、そういう本能は本来あって当然だと思う。
だから、壮絶な過去を抱えている人が偉くて立派なんてことは絶対にないし、たくさんの愛情を受けて恵まれた環境と人間関係のなかで育った人の大らかさや、包容力、屈託のない笑顔、そういうものは手に入れようとして手に入れられるものではない。
私の恋人を見ていると「この人は温かい愛情をたくさん受けて育ったのだろう」と感じられるように、そういう温もりは人から人へ伝染していく。その温もりで救われる人だっている。
トラウマ級の過去ってやつがないことを悔やみ「自分には何もないから」と嘆く人も見てきた。
「おもしろいほど人生がうまくいっていることが嫌だ」と一見嫌味に聞こえるようなことだけれど、真剣に悩みを打ち明ける人もいた。聞くたびに理解はできずとも、胸は痛んだ。
「可哀想な子が好かれるようにできているのが悔しい」と体が健康なことを呪う子もいた。
いつかやってくる絶望的な状況を恐れているからなのか、そんな状況を危惧している自分の不甲斐なさなのか、自分が選ばれない理由を探し続けた結果からか、
みんなが、それぞれにそれぞれの苦難を抱えて、怯えている。
私は、「私の方が頑張ったのにどうして」と比較対象が他者になることより「私はあの時もっと頑張れたのにどうして今はできないの」と、
過去の自分が比較対象になることが、しんどくて、悲しい。
そういう思いに苛まれて、けれどそのたびに自分で自分を鼓舞してきた。
乗り越えた、頑張れた、という事実は、自分を助けてくれることもあれば、自分をどん底へ陥れることもあるから厄介だった。
人と比較するより怖いのは、自分が比較対象になること、けれど、自分は見えないから、よりよく見える他者に気を取られてしまう。
ある人が言った「可哀想な子が好かれるようにできているのが悔しい」というのは恋愛によく当てはまることだなと理解はできた。
可哀想な子は優しくされるから、同情されるから、私は普通だから?俺は何も抱えてないから?ひとりで平気だろうって?そんなわけがない
そんなわけがない。
ひとりで大丈夫に見える人は、そう見えるだけで、見せるのが上手なだけで、ひとりで大丈夫な人なんて、いない。いないのだと思う。
どんなに強く見える人も、溺れていることに気づいてもらえないのは、寂しい。「私が見えない?」「俺が見えない?」「ちゃんと見てよ」という声にならない叫びを拾ってもらえないのは、虚しい。
どちらの立場にも正しいも立派もない。
魅力的な欠点がある人には、確かに多くの人が惹かれるのかもしれないし、陽のなかに潜む陰を見た時に触れたくなるのが人間のさがなのかもしれない。そういう人だけが持つ輝きも確かにあって、けれど、その人たちはその輝きと引き換えに、あって然るべき温もりや感情を知らずにいるということもまた、事実であると知っている。
平然と「平気なふり」ができる人も、素直に「平気なふりなんかしない」人も、どちらも美しく、尊いと思う。
自分にはないものを持っている、そうやって羨んでしまうものが、実はその人にとっては、「持っていたくなんかないもの」かもしれないということも忘れたくはない。
私の周りには、いろいろな人がいて、いろいろな人の幸福や憂鬱がある。
就職後に先生に「ついに大人になってしまいました」と話したら
「喜ばしいことでしょう」と言われたので「煽ってますか?」と返した。
すると
「大人らしくする必要のない場所もあります」と返されて、「先生だいすき」と学生時代の私のまま手のひら返しをした。
大人になりたかった。
大人になってみると、大人ってそれほど大人じゃないと知った。
大人になったら無敵だったと思ったのに、大人になってからの方が惨めな思いをすることが増えたように思う。
母が仕事の話をしているときに、「叱れることがなくなるって、結構酷なのよ」と話していたことが、昔は全然分からなかったけれど、少しだけわかるようになった。
理想の大人にはなれていないと思うけれど、
もう今更理想がどんなだったか、忘れてしまった。
あるとき「22歳とかで結婚するんじゃなかったけ?」と友人に茶化されて
「ずっと、自分の家族が欲しかったんだけどね、もう別にいいかなあ」と返したら
「ほんとーーーによく笑うようになった!嬉しい!」と頭をわしゃっとされて、心を突かれたみたいに心地良くくすぐったかった。
結婚がしたいというより、ずっと自分の家族が欲しかったけれど、
そんな肩書きにこだわることを忘れてしまうほど笑っていられるから
大人になれたことを、よかったと思うことにした。
大人って厄介だし、割り切らなきゃいけないことも多いし、理性的にならなきゃいけない場面も多いし、余計な価値観を刷り込まれるし、信念を貫くのがいかに難しいかも知る。
けれど、つまらなくなんかなかった。
つまらなくはないし、無意味でもない。
つまらないと思ってきたものは、きっとつまらなくなんかなかった。
感じ方、見え方、考え方によっておもしろがれることは変わっていく。
好きになる相手の特徴も変わる。求めることも変わる。それはつまらないことなんかではなくて、おもしろいことだった。
葛藤して生きている人は、みんな、それでもやっぱり美しい。
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