20190825.

 仮にその人間をダユと呼ぼう。
 元はサキムニというものだったのだが、いまはダユだ。
 ダユはつい先程、手首では生温いと首筋に包丁を当てたところだった。この包丁は黄色をしてこぢんまりとしたものであって、ダユがいま住んでいる近くのスーパーで、しばらく前に、果ては生きるため、近くは食べるための料理をするために購入したものだ。
 実に愛らしい雑貨だと、かつてのサキムニは思っていた。
 それをほんの先刻、首筋に押し当てた。よくある話だ。些細な積み重ねが最後に、ほんの『些細』に弾かれて、サキムニなりに心底絶望に至ったから、刃を引いてしまおうと思ったのだった。一定の結論から先に述べておけば、それは現状、先送りにされている。かつてのサキムニはいま、ソファに沈んで、窓越しの明るい光をぼんやりと眺めている。明るいということは晴れているのだと、そんなことを思いながら。
 このダユとなったかつてのサキムニという人間の部屋には、別の人間が存在している。同居人というやつだ。いまのいままで『同居人故に過干渉にならない』を貫こうとしていたキュウというのが、そのうちのひとりだ。つい、ぎょっとして、サキムニが首筋に押し当てていた刃を思わず止めてしまったキュウは渋い顔をしている。
 キュウは、時折眠たそうに瞬きするだけのダユを眺め、なんだかあまりにも哀しくて、ついにダユが埋もれているソファの背を蹴り上げた。ダユはソファごと一度大きく揺れたが、やはり眠たそうに目を瞑るだけだった。
「……、」
 細く、長く、ともすれば深呼吸のように、あるいは溜息のように、笑みのように、その全てでもあるかのように、ダユは息をついた。何かを話そうとしたようだったのだが、言葉にならなかったようで、ダユが自嘲のように笑うのが見えたものだから、キュウは、たったいまソファの背を蹴り上げたことを既に後悔していた。
「サキムニ」
「死んだよ」
 だからこそ名を呼ぶに至ったのだが、ダユはキュウの呼びかけを一言で切り伏せた。
「――死んだ」
「し、んで、ないだろ。止めたもの。刃を引かなかった。私が引かせなかった」
 キュウの戸惑いに、ダユは「そう」と笑った。
「実際、刃を引こうと思ったとき躊躇わなければ、止めることもできなかっただろうに」
「……死ぬ気なんてなかったとでも言いたいわけか?」
「違うよ。……いやどうだろう、違うのかな。いなくなろうとしたのはほんとうだったけれども、刃を引こうとした直前に、ああ、痛いんだろうなと思ったのも、ほんとうなんだ。……痛いことを回避しようとすることって……要するに経験の蓄積というのは――死を回避するためのものなんだろうか。死という未知が怖いのも」
「……いなくなろうとした、なんてあたり、やっぱりまだきみはサキムニじゃないか」
「……厭なことを言うなあ」
 殺したと思いたいのに、と――ダユなのかサキムニなのか曖昧な、限りなくダユに近いサキムニは言った。それを見て、ほんの少しだけ――キュウは胸を撫で下ろした。死んだと言い切ったときの見知らぬ顔が、ほんの少しでも知っている同居人の顔に戻ったからだった。
「……ごめん、蹴って」
「……いいよ」
 いいよ、ともう一度言いながら、サキムニに近付いたダユは笑って、胎児のように膝に頭を乗せた。
「ありがとう。……とりあえず殺さないでいてくれて」
「死なせないでいてくれて、じゃないのか……」
「はは」
 キュウの苦笑に、ダユは胎児のように身体を小さく折りたたんだまま、やはり笑った。
「……近しい人たちに、笑っててほしかったんだ。哀しいのは苦しいから」
 独白を聞き逃すまいと、キュウは傍に寄る。
「そうしているうちに苦しさを吐いてくれる――友人のようなものがちらほら、増えてきて。……みんな、苦しい、どうしたらいいかわからないと言うから。こうすればいいんだ、と、納得するまで、……納得してくれたように見えるまで話をしてきたつもりなんだ。私はね。……それこそ、みんな、心の奥底ではわかってる。どう生きたらいいのか。……でも、それを自分で自分に言い聞かせるのには限界があって。だから自分以外の『アドバイス』に納得する。腑に落ちるところを、拾ってくれる。……悪意のある言いかたをすれば、腑に落ちるものでなければ、納得なんてしようとすらしない。……だからそういうとき、相手がとっくにわかっていることのただの確認作業を、聞いて、拾って、応えて、繰り返してきた……」
 つもりなんだよな、と、ダユは言った。
「……それが間違っているなんて、いまでも、微塵も思いたくないから、思っていない。自分にとっても、近しい人たちにとっても、生きるための糧になったと……まだかろうじて信じてる」
 自分に言い聞かせるように、信じてるんだ、と呪いを吐くように声を震わせたダユを、キュウはじっと見ていた。
 苔色のソファには、ばたばたと涙が落ちていることには気付いていた。
「……ただの近しいだけの他人に支えてほしいなんて助けを求めるくらいだ。そんな人間、切羽詰まってるに決まってる。最終的に自分を助けられるのは自分だから、他人に求めて他人が返したアドバイスを『どう活かしたか』の報告なんて――切羽詰まってる人に、求めるのは酷なことだ。提示されたパターンをすぐに実現できるはずもない。それもわかってる。それでも、さ。……私は悩んでる本人じゃないんだよ。同じにはなれない。……だから、与えられた情報から、自分に考えられる限りの絶望を当てはめるために探す。本人が思っている以上のあらゆる『最悪』を考慮する。その最悪を覆せるだろうパターンを、納得を引き出せるまで提示してきた」
 そんな風にしてきたら、と、ダユは急に笑った。
「それだけどうすればいいのかを『わかって』いるのだから、あなたは自分で自分を助けることができる人なんだろう、と。……馬鹿みたいに重い信頼をもらってた。……皮肉もあったんだろうけど、見ないふりをしてきた」
 応えようとしたし、いままでそれなりに応えてきたつもりだよと、ダユはやはり続けた。
 そこからさらに続けようとして、言葉に詰まる。ダユは何度か鼻をすすった。
「そうだと言い切ったよ。大丈夫。きみたちはちゃんと生きられる。助かるよ。助けるんだから。……そんな風に」
 窓の外は明るい。
 エアコンの効いている部屋は実に快適な温度と湿度で、だからこそいま、この部屋の湿度を増やしているのはきっと、ダユの涙以外にはないだろう。
「近しい人が、笑ってるのが、好きなんだよ。哀しいのは苦しいから。……哀しい顔をしているのを見るのは、苦しいから。私は、」
 言葉にしていいのか、最後に一度だけ考えたようだった。
 結局、絞り出すようにサキムニは言った。
「なんでもない幸福を、分けてほしかった」
 それだけなんだけど、とサキムニは笑う。
 このままじゃ、と、息を吐くように。
「望みだったはずのものまで呪いにしてしまいそうで。……苦痛を祓ったときのそれだけではなくて、いつもの、しあわせを、なんでもない当たり前のことを分けてほしいと、思っているのを、――どうして分けてくれないのかと相手を呪うことに転じさせたくなくて。だから、」
 死ななければならないと思ったんだと、サキムニは言った。
 キュウは何かを言おうとしたが、サキムニは遮るように息を吸って――それから「こういうのこそ、悪い癖なんだが」と言った。
「……助けてほしいと、言ったことがある。ほんの数回。片手で数えられる。いままで助けているつもりだった人に、それぞれ1回ずつくらい。助けてほしいって。『聞くだけしかできないけど』って、聞いてくれたよ。本当に。本当に身勝手に絶望した。聞いてくれるだけでありがたいって、そりゃそうだ、そうなんだろうな。……なあ! でもさ!」
 でもさ、という音はほとんど声にならなかった。
「私だって、誰かから、わかっている答えを、言い聞かせてほしかったよ」
 吐くように、――事実、サキムニはそうしている自覚がある。だからこそ、これが最後なのだとも自覚があった。
 それでもまだ生きているのだから、呪詛と望みとを取り違えるものかと、嘔げるサキムニの独白をじっと聞いていたキュウがようやく息を吸ったので、サキムニはキュウを見た。
「……それを、」
「――、」
「それを誰かに、言った?」
「……」
 きょとんとした顔を、いままで苦しさに喘いでいた人間がするものだから、キュウは笑ってしまう。すぐに「ごめん」と言ったが、サキムニはそれには応えず、キュウの言葉の続きを待っていた。
「なんでもないことが幸福なんだっていうのもそうだけど。『いま、私は溺れているから、必要な助けとは、傍にボートを浮かべてその上から頑張れと応援することではなく、直接引き上げてくれることだ』って」
「それを、できないだろう人に求めるのは、どうなのかな」
「……きみだって、無理してただけでできてたとは言えないわけでしょ?」
「……ほんとうに、厭なことを言うね? 無理をしてた『だけ』では――ないけど」
 キュウの言葉に、諦めのようにサキムニは笑った。それから「できないだろうと思うのは傲慢なんだろうな」とぽつりと言って――やはりもう一度笑った。ティッシュに手を伸ばして、流れるままにしていた涙を、まぶたの上からぐっと抑えた。
「……落ち着いてきた?」
「……ほんの少しね」
「じゃあ、ねえ、『きみ』よ」
 サキムニの他に、別の人間が存在していると前述した。――サキムニ、キュウ、そうしてもうひとり。サキムニの役割はあるべき場所に戻ったから、そうなると――これはサキムニを殺そうとしたダユなのかもしれない。キュウは、それに対して話を振った。
「教えて。これらの役割はなんだったのか」
 サキムニを殺し損ねたので居心地悪くじっとしていた『ダユ』は、キュウに応える前にくしゃみをした。
「サキムニは三獣行菩薩通兎焼身語のうさぎ、キュウは鳥の嘴と鳶の目と蛇の尾を持つ人に見られると寝たふりをする変なうさぎ、ダユは――左側の前後の脚が短い野うさぎ。険しい岩肌ではその奇形が役立って自由に動けるけれど、平地がうまく歩けない。……つまりみんな、妖怪とか……幻獣だね」
「なるほど。キャラクターの役割はわかった。きみが『ダユのようなもの』だと言いたいのも」
 ふと口元を緩ませて、『ダユのようなもの』は、キュウを見ずに息をついた。見る必要などないのだから当然のことだった。
「そりゃそうだ。『私』は――誰の首にも包丁なんて当ててない。当てようとは思ったけど。痛いんだろうなと、そう思ったことのほうが事実としてより濃く残っただけのこと。……助けてほしいと、賭けるのか。弱いんだよなあ賭事、向いてないんだ」
「でも、もう賭けてしまってるんだろうに」
「そうだね。とっくに賭している」
 もはや『誰』が話者なのか判らないなと、誰かが笑った。
 最後にタイトルコールがある物語には、続きのあるなし、どちらがより多くあるのだろうか。わからなかった。だからこそ、その人間は嘯くようにこれは物語だとかたるのだ。かたられる物語は、実在も虚構もない、人生の切り取られたほんのワンシーンにしかならないのだから。
 ソファには、誰ひとり座ってはいない。金色のようだった光が、いつの間にか夕陽の色になって、無人のそこを照らしている。


『 サキムニは死にたくない 』

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