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今夜あなたが震えていればいい。 『20代で得た知見』

”誰かの寂しさに触れたかった。”

『20代で得た知見』F(エフ)

”あるいは、特別ではない夜道で雨のように己の全身を貫いた、言葉にもならない気づき。”
”でも、どこかに特別な一人がいる。同じような魂を持つ、孤独な人がいる。”
”なぜなら、言葉で分かりあうより、言葉にならぬ瞬間にふたりを閉じ込めさせてしまう方が、遥かに複雑で、偶然的で、印象深く、ふたりはどうしようもないからです。”
”その一人もきっと、「この世でただ一人、自分だけ孤独だ」と思っている。”

『20代で得た知見』F(エフ)

いつも誰かを探している。
自分と同じ、深く青い香りをまとった誰かを。
そして祈るように呪っている。
今夜あなたが孤独に震えていればいいと。

”真夜中。送信できなかった言葉、既読にならなかった言葉を思う。”

『20代で得た知見』F(エフ)

感想

言葉はあくまで記号であって、それそのものではありません。
だからどうしても言葉では届かない領域があります。
空気とか、時間とか、香りとか、言葉では表現しがたいそれらを、著者のF(エフ)さんは「文学の領域」と呼びました。

ところで「文学の領域」は誰かと共有するの難しい。
言葉にならないものなので、言葉で説明ができないんです。当然ですね。
そんな「文学の領域」を共有する数少ない手段のひとつが、そこに一緒に足を踏み入れること、つまりその瞬間を一緒に体験することなんだと思います。
たとえば花火が打ち上がった瞬間の「それ」を言葉で表現できなくても、隣に立つその人と目を合わせれば、きっと言葉はいらないでしょう。
この「文学の領域」を共有することこそ、幸せと呼ぶんじゃないかと私は思いました。
そしてそれを共有できないことを、孤独と呼ぶんじゃないかと。

ずいぶん昔に読んだ小説に、こんな台詞がありました。

”「となりで誰かが笑っていることを幸せと呼ぶんだ」”

誰もいない世界で生きる、孤独な老人の口から出た言葉でした。
それはあまりに切実な言葉で、いまも私の価値観に刻みこまれています。


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