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今日は父に連れられてとある講演を聞きに行った。その場の全員が大笑いして、拍手して、盛り上がっていたが、わたしはただ傷付いて帰ってきただけだった。

講演の内容は、頼まれごとを断らずに一生懸命やっていると、相手が喜んでくれてまた頼まれるようになって、人生が変わる、という内容だった。
わたしは以前、頼まれてもいないのに上司を喜ばそうとして一生懸命働いたことがある。結果、上司は喜ばなかったし、給料も最低賃金で生活保護より手取りが少なかったし、ある日突然統合失調症と診断されて休職することになった。

休職して2ヶ月ほどたったとき、傷病手当金の申請書を会社に提出しに行った際、「もう辞めてくれないか」という内容をできるだけ角が立たないよう言われたのを今でも覚えている。結局、わたしは会社に利用され切り捨てられた。頼まれごとを一生懸命して人生が変わるも何も、世の中が親切な人で溢れているとも限らないし、自分の運を過信しない方が身のためである。わたしにとって人間も世間も、その程度の認識であるから、自分の人生こんなに素晴らしいことがあったと、約2時間半知らない人の自慢話を聞かされている時間は、ただつまらなく、むしろ自分の人生の在り方を否定されてもいるような、非常に悲しい時間であった。

講演会の場所をあげてしまうと誰の講演会なのかが特定されてしまうような気がして怖い。知らない誰かが挙げたインスタのコメント欄で目にした、「お前学生時代、みんなで盛り上がってるのに1人水を指すようなことを言ってしらけさせてただろ。空気読もうぜ。」という怖い言葉。
みんなが楽しんでいるときに自分だけ白けているような気がして怖い。それを書くのもいけないことのような気がして怖い。でもその気持ちになってしまったことは変えられないし、わたしの感情を奪うことは誰にだってきっと許してはいけないことだと思う。

父はこういった類の講演会に行くような人たちのことを、〝いい意味で〟頭のおかしな人たちと時たま言葉にするときがあるけれど、調子に乗った勘違い中学生が、「自分、頭おかしいから」とダサいことをする理由を片付けているのと同じものを感じる。本当に頭のおかしなやつはそうやって連帯なんてできないし、社会の一員としてやっていけない。わたしの心の孤独と社会不適合な特性をいじわるに揶揄されている気持ちになって仕方がない。

友達と話をしても、講演を聞きに行っても、熱くなれない自分を思う。昔からそうだった。1人冷めている自分がいた。統合失調症になったのは、冷めた心で身体を酷使したから。熱くなれる何かが欲しい。正常になりたい。みんなみたいになりたい。

わかったようなことを言ってくるやつが嫌いだ。本人は寄り添ったつもりでいるから正直に言えやしない。みんなみたいになれない孤独を、〝みんな〟の中に入れている人間がわかるはずないだろう。

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