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【掌編小説】置き引き

 この日本で泥棒なんてそうそう出会うわけがない。

 現に私は財布を落としたことはあっても盗まれたことはない。

 そういえば以前、雨の日の暗がりの道を歩いていたら、道端に二つ折りの財布が落ちているのを見つけた。好奇心で中身を見たら、レシートすらない、本当にすっからかんだった。

 だけどそれは周りに人がいないからこそ行われるわけで、人の目に怯えながらそれをやり遂げる心臓に毛が生えている奴なんてそう何人もいてたまるかと思いませんか?

 それでこの前、旅先の共同浴場に行った時のこと。そこには古びた100円ロッカーがあった。俺はコインロッカーに「心配入りませんよ」と合図を送り、いつもの調子でたかを括って風呂に入って上がると、財布の中身どころか財布すらない。すっからかんのその先があることを身をもって知った。

 しかし、と同時に「なんだ本当にいるのか」と変な感動に包まれた。私は河童でも見たような気分になった。私はずいぶん高い金を払って河童が本当にいることを知ったのである。

 そうして、しばしばフワフワと酒を少々飲んだような心地よい気持ちになって銭湯を出た。その足取りは不思議と軽かった。

 しかし、すぐにやりきれなさに見舞われた。今度からはコインロッカーを使おうと心に誓った。

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