誰かのために怒ること

電車の中で時折、見知らぬ人同士の、諍い(いさかい)を目にする。

荷物や肩がぶつかり、「謝れ」と言う人。

ぶつかったほうは、小さな声で「すみません」と言うが、その態度が気に入らない、馬鹿にするなと、追い打ちをかけられる。

「謝ったからいいじゃないか」と場を離れようとすると、それでも場が収まらない。遠巻きに眺めて思う。何が正解なのだろうと。


「怒り」を感じることは、自分の尊厳や、大事だと思っていることを傷つけられたり、蔑ろ(ないがしろ)にされたことを改めて認識し、必要があれば、その相手に伝えるきっかけになるのだと言われる。

怒りを感じることと、それを表現することは、イコールじゃない。

ほぼそれが同時にできる人もいるけれど、怖ろしく時間が経過した後で、「あぁ、あのとき怒っていたのだ」と気付く人もいるくらいだ。かくいう自分も後者である。

表現するまでに時間が経過しすぎると、当事者は目の前におらず、せっかくの怒りも行き場が無い。となると、怒りというのは、動機が発生したその場で表現できたほうが良いのではないか。

怒りを感じて、表現するまではできるだけ短く、けれど、表現の仕方には気を付けて・・・というのは、かなり訓練が必要だろうし、そうして上手く加工された「怒り」というのは、どこまで自分を納得させられるのだろうと思う。

怒りっぽい人は確かに敬遠されるし、感情任せでは何事もうまくいかないことが多い。でもどうだろう。自分ではない、誰かのためだったら、もっと怒ってもいいんじゃないだろうか。

電車の中での諍いも、周囲の同乗者たちが両陣営に分かれて、めいめい感じた怒りを存分に言い合ってもいいんじゃないか。火に油を注ぐことになるし、電車の運行上、迷惑だから現実には難しいけれど、そうやって言い合って、さいごに笑って終われるのなら、価値はある。

他人事を自分事にするには、怒りの感情から始めるのが、入りやすい。

ネットワークの海で、炎上騒ぎに乗じる人たちのニュースを聞くと、もっとお互いに顔の見える距離で、誰かのために怒る人が増えたらよいのにと思う。

「怒る人」がいる。その怒りの「相手」がいる。

自分のために怒る人たちは、誰かが代わりに怒ってくれないから、そうしているのかもしれない。当事者たちだけを置き去りにしない、「誰かのために怒れる」社会であったなら、もっと本当は、居心地が良いのかもしれない。

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