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「勝ち組」による「負け組」への暴力、🇮🇱 と 🇵🇸 - 規範性を失い無法化した新自由主義世界の極北

とうとうガザの死者が1万人を超えた。恐ろしい空爆攻撃はなお毎晩続いている。うち子どもの死者数が4104人(ロイター)。ガザ地区の全住宅の半数以上が損壊し、人口の7割超の150万人以上が避難民となっている(毎日新聞)。ガザの現状を否応なく想像させられる日が続き、私は体調不良になり、回復する感触がつかめなくなった。そういう身体で 11/5 の日比谷のデモに出かけた。天気と気温だけが幸いだったが、不具合が多かった現場報告は別の機会にしたい。今回の稿は、岡真理が講演で述べていない論点に着眼しよう。文学者ではなく、政治学者か経済学者が、社会科学の研究者が提起しなければならない原理的課題を考察したい。それは「勝ち組」と「負け組」の問題である。パレスチナとイスラエルの問題は、私たち自身の切実で本質的な問題なのだ。

パレスチナの不幸はわれわれ自身の不幸であり、ガザの地獄はわれわれ自身の将来である。「負け組」の問題がパレスチナに集約されている。「勝ち組」と「負け組」という言説が日本の論壇で喋々され始めたのは、1990年代後半だった。山一と長銀が破綻した金融危機の前後からだ。その主張をマスコミの前面に出て提唱し、教唆し、日本も「勝ち組」と「負け組」に分解するのだと予言し、その必然性と合理性を説得した論者の代表格は、言うまでもなく竹中平蔵である。それは、終身雇用が基本だった日本の経済社会を破壊し、中間層中心の安定社会だった日本を解体する政策の遂行を意味していた。金持ちと貧乏人に分かれる社会を作る意図と構想が明確だった。当時から、この言説は新自由主義の思想の象徴的表現として捉えられていたし、現在もその認識と表象は不変だろう。

それから25年。日本は見事なまでに竹中平蔵が理想を説いた社会に変わった。竹中平蔵の王国となった。安倍晋三と菅義偉と橋下徹の指導で回る政界となった。堀江貴文とひろゆきと成田悠輔が王様として君臨する言論社会となった。新浪剛史と三木谷浩史と孫正義が儲けまくる経済社会となった。「勝ち組」と「負け組」。東京の街を歩くと、どうしてこんなにピカピカの高層ビルがそこら中林立しているのだろうと不思議になる。日本経済は30年ゼロ成長で、若年層人口も減っているのに、誰が働いているんだろう、オフィス面積は余剰ではないのかと心配する。オシャレで高額な店に客がたくさん入り、NHKや民放テレビが演出する享楽と繁栄が真実のように感じられる空間が各所にある。東京は殷賑を続けている。グローバル経済の成長と軌を一にした資本の蓄積と集積が確認できる。目視で了解される。

だが、「勝ち組」は東京だけで、地方は「負け組」だ。地方はどんどん衰退している。地方の県庁所在地の都市に高層ビルが建たない。地方空港の減便が加速化して撤退が相次いでいる。少子高齢化が著しく人口減少に歯止めがかからない。2020年の国勢調査では、5年間で秋田県が-6.2%、岩手県が-5.3%、高知県が-5.0%も人口が激減した。驚嘆する数字だ。マクロ経済を概観したとき、円安の影響で日本のGDPはドイツに抜かれ世界第4位となり、一人当たりGDPは世界第27位となった。G7中最下位。無論、韓国や台湾にもこの指標で追い抜かれているのだが、10年前は為替水準が高く、韓国や台湾の2倍だったそうだ。日本経済の没落と衰退を、地方経済がビジブルに表現し表出している。地方は、移住者と外国人労働者を必死に呼び込みつつ、財政削減のため学校と病院のリストラに余念がない。

東京に住む者が全員金持ちというわけでは当然なく、貧乏人の方が圧倒的に多く暮らしている。日野百草の最近の記事は、その現実の一端をよく伝えていて、スーパーの半額シールの食品は夜9時になる前に売り切れるそうだ。家計の実質消費支出は減り続けている。海苔やタバスコを買うのをやめたという消費者の生の声が拾われ、庶民(中低所得者層)の生活の厳しさが取材されていた。その一方、X(ツイッター)を見ると、株で儲けた株長者の自慢話がタイムラインを埋め、株価動向を解説する金融市場分析グラフが貼られて、あれこれ蘊蓄が語られている。株長者の得意談がXに占める割合が大幅に増加し、「投資垢」と称したアカウント名が異常に増殖した。皆様、ウハウハ大喜びしている。竹中平蔵もさぞご機嫌だろう。大勝利の人生である。72歳。破滅するかと予想した竹中平蔵の人生は大成功の状態だ。

「勝ち組」「負け組」の言説が、報道世界で論争的意味を帯びて議論されていたのは、25年前で、竹中平蔵がマスコミの大物に出世する時期だった。それはすなわち、バブル崩壊後の日本経済を新自由主義型に改造する方向へと日本人が選択して行った過程で、戦後に作ったシステムを壊してアメリカ仕様に強力に再編した時期である。現在もその延長にあり、最終的完成形態(すなわちアメリカの完全植民地)へと進行中だ。結論的に言えば、日本は、日本の中が「勝ち組」と「負け組」に分かれると同時に、世界の中で惨めで劣弱な「負け組」となった。日本メーカーの製品は世界市場から消えた。日本の科学技術力は低下の一途で、大学で学生が学問していない。どころか、大学の研究者がろくに学問を修めていない。官庁や新聞社から天下り・横滑りでコネ系統が来ている。アメリカが日本のアカデミーを支配している。

前置きが長くなった。本来、長い論文が書かれるべきテーマだろう。イスラエルのGDPは20年間で3倍以上に増えている。アメリカでも2.3倍だから、イスラエルの高度成長の事実がよく分かる。先進国の中でこれほど経済規模が急激に膨らんでいる例は他にない。ハイテク製品の生産と輸出が成長エンジンになっている。一人当たりGDPは、スウェーデン、カナダに次いで第13位。フィンランドやドイツよりも高く、英国やフランスより数ランク上位にある。軍事関連技術では世界のトップリーダーの位置にあり、アメリカも中国もロシアも頭を下げて最新鋭技術を導入する側に回っている。イスラエルでなぜそんな奇跡が可能だったのか、空前のハイテク開発力と成長の秘密は、前回記事で説明した。イスラエルが公式に発表した統計では、2050年までに人口は70%増と強気に予測している。先進国でこんなに鼻息の荒い国は皆無だろう。

一方のパレスチナはどうか。ガザはどうか。昨年7月の朝日の記事では、ガザの貧困状態は50%以上とある。世界銀行が定義する「貧困」とは、「1日を1.9ドル未満で過ごす人」のことだ。失業率は21年の数字で47%。国連の難民キャンプに暮らす者も多くいる。封鎖され、牢獄に閉じ込められ、無防備な街を定期的に執拗に爆撃されてインフラを破壊され、自立できず、国連など外からの支援で何とか220万人が生き延びてきた。絶対的な絶望と貧困の中で。国際社会が人権を認めない人間集団として。今回も、そうして、ハマスがテロリストだからという勝手な理由づけで、牢獄の中に住む人間の大量殺戮が正当化された。サディスティックな大虐殺を、フォンデアライエンやバイデンが支持し、西側は積極容認した。テレビの映像で見るように、ガザでは驢馬が輸送手段の現役として使われている。建物はどんどん古くなり、嘗ての面影を失っている。

私は老齢の身だから覚えているが、昔のガザはこうではなかった。輝きがあった。嘗てのパレスチナ人の街や暮らしは、現在のように貧相ではなくもっと活気に溢れていた。パレスチナ人は例外なく日本メディアの取材に好意的で、溌剌とした表情を浮かべ、将来の平和と繁栄への希望を伝えていた。当時の、20年以上前の日本の報道記者は、全員がパレスチナに同情的で、好感が好感を増幅するコミュニケーションとなり、感動が残る報道コンテンツに仕上がった。が、今でも、地獄のガザに輝きがないかというとそうではない。子どもが多い。目の輝きが違う。子どもが大事にされている。子どもを含めて人々が純朴に生きている。日本とは違う。日本にはそれがない。俄か株長者とセレブの美魔女を露骨にひけらかす者は多いが、純真さや誠実さがない。金と権力と暴力。アメリカ様崇拝のみ。

イスラエルとパレスチナは現在のような極端な格差は開いてなかった。もともと、パレスチナはアラブ世界の真ん中で、広い中東イスラム世界の中心に位置する。メソポタミアとエジプトの中間にあり、それと斜めにクロスした、トルコと聖地メッカ・メディナの線の中間になる。地中海に面し、ヨーロッパとアジア(アラビア・ペルシャ・インド)の中継地になる。まさに民族の十字路。文明の交差点。要衝中の要衝にパレスチナがあり、そこには聖地エルサレム(首都)がある。日本史でいえば、京畿の地に当たる。文化が集まって集積される。歴史の主役として焦点となる。そういうパレスチナだから、周辺と比較してやはり教養のベースが違うのだ。印象を言えば、民族のクオリティが高い。誇りが高く知性が高い。私がそう思う根拠は、サイードの存在である。サイードのような能力とセンスのある知識人は見ない。

ヨルダン人、シリア人、エジプト人で、優秀な学者や知識人はいるのだろうけれど、サイードと並ぶ者がいるかどうか。金満国で、贅沢に国民が暮している、サウジ、カタール、UAEの出身者で、サイード的な知識人は見たことがない。範囲を大きく広げて、トルコ、イラン、マグレブ諸国にまで拡大しても、サイードと同等の知性を発見できない。誰かいるだろうか。知識人の出現や輩出には環境と背景の条件が様々あるのだろうけれど、やはりパレスチナは違うんだなと素朴に実感する。歴史の重みと文化の伝統があるのだと納得する。サイードの活躍と功績が、私の中のパレスチナへの尊敬を媒介し、民族の尊厳を守る必要性を動機づける。極東の無名の市民として、それを強く欲する心理が疼く。サイードは(CIAとモサドに)暗殺(毒殺)されたのだ。私はそう確信し、サイードの無念を晴らしたいと思っている。

暴力。新自由主義は貧富の格差を広げるだけでは終わらない。人権を認められた人一般、憲法で人権を保障された国民一般を潰して行く。人権の法的保護と規制を壊して行く。いわゆる社会権・生存権の法制度を消滅させる。あるときまで同じ国民で平等な権利を持っていた者を、不平等に扱い始め、排除対象にして痛めつけて行く。こいつは「負け組」だから何をしてもいいという虐待許容対象に設定する。日本では、90年代に教育現場や労働現場で顕著になった。それは、新自由主義の思想が社会に浸透する過程と併行の現象だった。日本でその弊害は時を追って悪化し、今では小学校でのいじめ暴力が当たり前となり、民間企業ではパワハラどころか暴行傷害が横行している。規範の拘束力が消え失せている。それの極北にある姿がイスラエルとパレスチナなのだ。世界人権宣言の前提性がない。ジュネーブ条約の妥当性と保障力もない。

いじめと新自由主義の問題について、二つは関係ないと皆様は思われるかもしれない。私はそう思わない。大いに関係していると断定する。世界に(欧州や日本やアジア・アフリカに)社会主義勢力が存在し、国連機構に影響力があった当時、パレスチナは現在のようではなく(屠殺されて当然の)「負け組」の極北ではなかった。今回のガザ虐殺について最も厳しい口調で非難したのが、コロンビアのペトロやボリビアのモラレスであり、アイルランドのクレア・デイリーである事実を考えると、何が本質で何が真相かがよく察知できると思われる。今の世界に何が必要なのかという真実も。最後に皮肉の比喩を言えば、今の国連は、いじめ自殺事件での学校長や教育委員会である。責任逃れのアリバイ行動を演技する存在だ。事務総長が何か言っているが、言葉に真剣味を感じない。アメリカと裏で腹合わせした時間稼ぎの猿芝居に見える。

ホワイトハウスの前でハンストでもしたらどうか。緒方貞子がいてくれたらと思う。

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