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「世の中」と「世間」の違い

「生きづらい世の中だ。」
「世間の目を気にする。」

世の中と世間の違いはなんだろう?
そんな疑問を持ったので考えてみます。
言葉の意味はほぼ同じで、語源も同じ仏教用語だそうです。でも状況によって、私たちは無意識のうちに使い分けています。
そこの違いはなんなのか。まずはそれぞれの例文を3つずつ挙げてみます。

生きづらい世の中だ。
世の中は常に変化している。
この本は世の中の真実を描いている。

世間の目を気にする。
彼女は世間の評判を気にするタイプだ。
彼は世間知らずで、社会の常識に疎い。

大きな意味は同じ。でもニュアンスが微妙に違うような気がする。
一度言葉を入れ替えてみます。

生きづらい世間だ。
世間は常に変化している。
この本は世間の真実を描いている。

世の中の目を気にする。
彼女は世の中の評判を気にするタイプだ。
彼は世の中知らずで、社会の常識に疎い。

うーん。やはり違和感があります。
「生きづらい世間だ」は特に違和感満載。なんでだろう。

・・

考えた結果、
「言葉単体で使うかどうか」が分かれ目ではないかと。もう一度本来の例文に戻してみます。

生きづらい世の中だ。
世の中は常に変化している。
この本は世の中の真実を描いている。

世間の目を気にする。
彼女は世間の評判を気にするタイプだ。
彼は世間知らずで、社会の常識に疎い。

「世の中」は、それ単体でもスポットライトを当てられる言葉。「生きづらい世の中」や「世の中は常に変化している」という文章の中では「世の中」が主役で、そのことを強調しているニュアンスがあります。
一方で「世間」は、「世間の目」や「世間知らず」のように、何らかの言葉と引っ付かないと気持ちが悪い。そんな風に思います。

また、「よのなか」はひらがなで柔らかいイメージ。「セケン」はカタカナで堅いイメージ。音読み訓読みの違いもあると思いますが、そのように感じます。みなさんはどうでしょうか?

・・

いろいろ調べてみると、「よのなか科」を提唱されている藤原和博さんの意見が見つかりました。

藤原さんは動画内で、世の中と世間の違いをこう表現されています。

世間は、他人の目から見ている視線、あるいは他人の目から見る自分。
世の中は、自分の目から見ている視線、自分と世界とのインターフェイス。

なるほど!と思わず声が出てしまいました。
どこから見ているのかという視線、つまり「矢印の違い」が2つの言葉の間にはあるということです。
世の中は、自分の目から外を見る「内→外」の言葉。だから単体でもスポットライトを当てられる、そういう風に解釈しました。

また藤原さんは、このような表現もされています。

世の中の英語は「Society(社会)」ではなく、「Your world(あなたから見える世界)」と訳すのがしっくりくる。

1人1人それぞれの目から見える世界、それが世の中。言葉の奥深さを感じる、素敵な翻訳です。
これは「漢字の違い」にも表れていると思いました。世の中と世間、つまり「中」と「間」の違い。イラストで示してみました。

世の「中」に入って、内側から見る視線。
世の「間」に身を置いて、外側から見る視線。
世の間にいると、世で起きていることが他人事に感じてしまいます。

また、「世」は1人1人にとって異なるもの。
世とはつまり「環境」ですので、自分自身の仕事や家族、交友関係によって形成されていくもの。したがって、人それぞれ世は違ってきます。
だから「世の中」という言葉は、「他者の世」の中に入って見る視線、ともいえる気がします。

「他者の世」の中に入ってみる視線。他者になって見たり考えたりすること。
これが「他者の立場になって考える」ということではないでしょうか。
また、他者になってみることで、自分を客観的に見ることもできますね。

・・

なので、世の中と世間の違いは「自分事として捉えるかどうか」だと思いまます。自分の身のまわりの環境を自分事として捉え、その中に入って生きる。これが「世の中に生きる」ということ。「世の中で」ではなく「世の中に」。
そして「他者の世」の中に入り、他者になることで、他者をわかろうとする。あるいは自分自身を違うところから見てみる。つまり「内→外」を「自分の外側からやってみる」ということですね。そのように私は考えました。みなさんはいかがでしょうか?

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