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「すべての教育は洗脳である」という言葉に、真正面から「No」と言えますか?

旧態依然とした学校教育の中で、日本人は洗脳されている。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨する恐ろしい洗脳が、白昼堂々なされているのが今の学校なのだ。

『すべての教育は「洗脳」である』p.6

これは堀江貴文さんが2017年3月に出版された以下の書籍に書かれていた文章。
皆さんは、この言葉を聞いて何を感じるでしょうか。

2017年といえば、私自身、初任として学校に配属された年。
いよいよ「先生」になるぞというタイミングでこの本のタイトルが目に止まったのか、Amazonの履歴を見ると2017年3月30日に購入していたようです。

どんな思いで買ったのか、読んでみてどんな感想を抱いたのかはよく覚えていないのですが、確か大学時代にYouTubeで近大の卒業式でのスピーチを聞いたあたりから堀江さんの教育に対する考えによく触れるようになった記憶があります。

当時は「洗脳っていう表現は言いすぎでしょ。ただ、子どもたちに自分の常識を押しつけすぎないようにしないとなぁ…」くらいの感覚でしたが、7年間の小学校教員を終えた今、「(あくまで良くも悪くも)洗脳という言葉は間違っていないのかもしれない。」と思っている自分がいるのも事実。

公立小学校の教員を退職し、2024年4月から、その堀江貴文主催のゼロ高等学院でコーチを担当する私がどんな思いで教室(学校)を飛び出してきたのかにも繋がると感じたので、このタイミングで言葉にしておきたいと思います。


タイトルと実際

本のタイトルなので、ちょっと目を引くタイトルにするのは当たり前。
「洗脳」という表現をあえて選んでいるのだと思いますが、本書の「おわりに」では、以下のような文章が書かれています。

多くの人は既にアクセルペダルを踏んでいる。ただ同時にブレーキペダルも踏んでしまっていた。両方のペダルを踏んでいるから、タイヤが空回りするばかりで、ちっとも前に進まない。それこそが動けないでいる人たちの現状だった。
(中略)
だからこそこの本は、「アクセルの踏み方教本」ではなく、「ブレーキの外し方教本」として書いた。自分のどこにブレーキがかかっていて、そこにどんなふうに足を置いてしまっているか。それはどうやったら外せるのか。

『すべての教育は「洗脳」である』p.203

既存の教育を洗脳と呼び、そこから抜け出すことを推奨している僕の主張は、また多くの反応を呼ぶかもしれない。でも、最後まで読んでくれた人には、これが単なる学校否定ではないことがわかってもらえたはずだ。

『すべての教育は「洗脳」である』p.204

最後の一文にあるように、読み進めていくと単に従来の学校を否定するためだけに書かれたものではないこともわかります。
「売られた喧嘩をまんまと買ってしまったけれど、よくよく話してみたらめっちゃいいやつじゃん」みたいな感覚ですね。(知らんけど。)

「洗脳」の捉え

改めて、本書でいう「洗脳」を定義づけてみると、冒頭に引用した文章にある通り、「やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性に蓋をすることを推奨すること」と捉えることができます。

先ほど「洗脳という言葉は間違っていないのかもしれない。」と書いたのは、この辺りのニュアンスを理解したからこそ。
「洗脳」というと全面的に悪いイメージがありますが、この定義に対して、100%真正面からNoと言えなかった自分がそこにはいました。
悔しいけれど、7年間の「先生」としての時間は「(みんなと一緒に)ちゃんとすべき」が勝っていたのが事実です。

「洗脳」が都合のよい学校システム

親、教師、世間の大人たち。これらの人々は、子どもや若者の「没頭」を極端に嫌う。「没頭」とは欲望の解放であり欲望はコントロールできない、という理屈からだ。

『すべての教育は「洗脳」である』p.95

学校では時間割という枠組みがある以上、子どもたちの「没頭」を途中で止めなければならない場面が出てきてしまいます。
自分の力の無さもあるので、システムのせいにしてしまうのは逃げだと思う部分もありますが、40人弱が同じ教室で過ごす学校ではその限界も感じさせられる日々でした。

もともと学校は、「国民」と「労働者」を育てるための機関として誕生した。そして学びの機会を与えるどころか、いちばん大切な「没頭」の機会を奪う場として存在し続けている。没頭する力を奪われた人々は、自らにブレーキをかけ、行動力を失い、やがて好奇心さえ失っていく。

『すべての教育は「洗脳」である』p.126

小学校でよく聞かれる「1年生の頃はあれだけ授業に対して目を輝かせていたのに…」という言葉はまさにこの辺り。
「学びたい!」「学びは楽しいもの」というイメージが、6年間の教育体験によって、「学ばなければならない」「我慢が必要なもの」へと変わってしまうのだと思います。

もちろん、尊敬する素敵な先生方、教師の目から見ても心が熱くなる実践をされている方をたくさん知っているので安易に一般化してしまうことは避けたいのですが、履修主義的な学校教育では、「興味のないものでも一定のモチベーションをもって取り組む(取り組ませる)」ことが生き延びるために必須な力だったようにも感じてしまいます。

「洗脳」から逃れた先に

僕たちの学びの可能性は、大きく広がり続けている。学校も、教師も、教科書もいらない。一人ひとりがもっと自由に、夢中になって新しい知を開拓できる時代がやってきたのだ。それは当然、新しい働き方、生き方のイノベーションにも直結している。

『すべての教育は「洗脳」である』p.206

「学校も、教師も、教科書もいらない」という言葉だけを見ると、さすがに数週間前まで教師をやっていた自分を否定しかねないのですが、言いたいことはその次の文章。
既存の学校教育のシステムが生まれた明治時代から150年が経った今、生き方・働き方が大きく変わる時代に、タブレットの導入などはあれど大きなシステムの変化がないのは、学校の中にいる者として考えさせられるものがありました。

教育されるな、実験しろ自分の人生を

これは、先述したゼロ高等学院の一つのテーマ。
私は、(特に義務教育における)学校がいらないと言うつもりは微塵もありませんが、多様な学びの場や時代と共に変化していくシステムは必要だと感じています。
そしてこのテーマのように、教育(洗脳)されることなく、やりたいことのアクセルを踏み、自分の人生を切り拓いていく子どもたちが増えることを願っています。

おわりに

「洗脳」と聞くと、個人的には宗教的なものを思い描いてしまうのですが、自分のこれまでの経験を振り返ってみても、子どもであれ、大人であれ、ある種の洗脳(信仰心)のようなものが、学びを加速させてくれる場合もあると感じています。

だからこそ、「洗脳」という言葉はさておき、そういったものが全て悪いと思っているわけではありません。(コミュニティにおけるそれには、一定の違和感も感じているので、どっぷり浸るということを避けているのかもしれませんが…)

ただ、最終的に自分が本当にやりたいことは何なのか。
「尊敬(信頼)する他者が言っているから」ではなく、「自分の頭で考え、自分自身を信じて進み続けること」が必要だと思わされました。

そんなこんなで、私は「教えるー教えられる」という「先生」としての関わりから、より対等な立場としての「コーチ」へと舵を切ったのかもしれません。


あなたは「すべての教育は洗脳である」という言葉に真正面から「No」と言えますか?
ぜひ、感想やご意見などコメントなどいただければ嬉しく思います。

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!


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