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映画『エターナルズ』を観て、ヒーロー像の変化を感じた。

わたしはマーベルコミックを読んだことがなく、マーベル映画もほとんど観たことがなかった。

だから、『ノマドランド』でアカデミー賞を受賞したクロエ・ジャオ監督がメガホンを取ったマーベル映画『エターナルズ』を観に行った時、楽しめるだろうか…という不安のほうが優っていたと思う。

でも、杞憂だった。

現れたのは、多様な“人種”で構成されたヒーローたち

『エターナルズ』のあらすじを簡単に説明しよう。

不老の種族であり7000年にもわたって人類をあらゆる脅威から守ってきた守護者エターナルズは、最大の脅威を退けたことで一度は解散。しかし、人類に再び脅威が迫ったその時、再結集する…!というもの。

これだけ見ると、なんの変哲もないヒーローものと早合点しそうになるが、予想はいい意味で裏切られる。

なぜなら、「アジア系の女性が主要キャストとしてエターナルズ(スーパーヒーロー)を演じる」映画だったからだ。

10人いるエターナルズの中でも重要な人物であるセルシは、中国系イギリス人の女性が演じていた。

考えてみてほしい。あなたは「ヒーロー映画のスーパーヒーロー」と言われてどんな人物を思い浮かべるだろう? 多くの人は、白人の俳優を思い浮かべるのではないだろうか?

長い間、ヒーロー映画つまりマーベル映画の主要キャストはすべてヨーロッパやアメリカの白人の俳優によって演じられてきた。

近年ではこうした偏りが問題視され、マーベルでは『ブラックパンサー』という偉大な映画が生まれる契機にもなった。この映画では、アフリカにルーツを持つ黒人の俳優が主役を務めたのだ。

『エターナルズ』では他にも、パキスタン、アフリカ、韓国、インド、アイルランドなどさまざまな国にルーツを持つ俳優が、そして聴覚障がいを持つ俳優が、エターナルズというスーパーヒーローを演じた

スーパーヒーローがこのように多様な”人種”で構成されていることは、かなり重大なインパクトとメッセージ性を持っている。

「多様であることが自然なこと」というポジティブなメッセージ

それは「多様であることは、わたしたちにとって自然である」というメッセージだ。

世界には、さまざまな国がある。人は世界中を移動し(2020年以降は著しい制限が課されたが)、モノの行き来は国境を越えて行われている。わたしたちは、この地上に様々な人たちとともに生きている現実を知っているはずだ。

映画は、わたしたちが生きる現実の一部である。ならば、スーパーヒーローとしてスクリーンでかっこよく生きる(時にはかっこよく散る)のは、なにもアメリカやヨーロッパの白人の俳優だけでなくていいはずだ。

多様なバックグラウンドを持つ人が存在する現実に、マーベルのヒーロー映画がようやく追いついた、とも言えるのだろう。

でも、「多様であることは自然であり、現実である」ことは日本にいると見えづらい。わたしが暮らす東京は外国人も多いけど、圧倒的マジョリティ(多数派)は日本人だ。

だから、『14歳から考えたいレイシズム』という本を読んだ。自分にもあるかもしれないレイシズム(人種差別や外国人嫌悪など)について、きちんと学びたかったのだ。

『14歳から考えたいレイシズム』を読んで、「美白」について考えさせられた

タイトルの通り「レイシズム」について歴史をひもとき、最新研究をふまえながら《現在進行形のレイシズム》について考察している本だ。

この本では「レイシズムとは◯◯である」とわかりやすく定義していない。「レイシズム」が社会や法律、慣習や文化の中にどのように組み込まれたのか、歴史をさかのぼり、膨大な事例とともに教えてくれる。

わたしがまず驚いたのは、「レイシズム」にまつわる単語の多さだ。これには丁寧な注釈が付けられているので、知っているようで知らなかった様々な概念についてしっかり勉強できる。

広告業界で働く者として、とある一文が目を引いた。

より明るい肌への過度の選好

これは「美白」への度を過ぎたこだわりのことである。「美白」はテレビや雑誌やSNSで日常的に目にするワードだ。一方で、「美黒」「美黄」「美赤」など、白以外の色と美しさを結びつけたワードはほとんど見かけない。

本の中ではインドを例にあげ、いわゆる「美白信仰」についてイギリス白人による植民地主義の影響を指摘しているが、日本についても「ひじょうに長いあいだ、肌のトーンが明るい女性が好まれてきた」と触れられている。

注釈にも書いてあったが、日本にはおしろいの文化があったり「肌の白いは七難隠す」ということわざがあり、「美白」への強い憧れは今も続いている。

より明るい肌への過度の選好」にはこんな経緯があるという。

これらの一部は、社会がおもに農民で占められていた時代に起因すると思われます。肌のトーンが白いほどその女性は戸外で働く必要がないことをしめしており、したがって肌の色は特権と融合し、それがその後“美しさ”に変換されました。(太字は引用者)

「白い肌=美しい肌」という基準は、ある時点でつくられたものにすぎない。それでも、わたしたちはその基準を内面化してしまっている

わたしには重いテーマに感じられた。もしかして「広告」が影響しているのではないか?と思ったからだ。

世界では、「白さだけが美しい」という基準が見直されている

でも、「白い肌=美しい肌」という基準が見直されはじめた。

昨年以降、世界ではスキンケア製品から美白に関連する言葉の使用を取りやめる動きが相次いでいる。

日本でも、花王が国内で初めてそれに続いた。今年の3月に発売したスキンケア商品を手始めに今後、全てのブランドで美白の表現を使わないという。

企業が基準となる肌の色を示すことの問題点を反省し、肌の色の多様性に配慮していくのは望ましい変化である。

ただ、忘れてはならないのは、これまでまかり通ってきたものが実は「つくられてきた」という事実だ。

「美」と「白」が結び付けられてきたのも、マーベル映画のスーパーヒーローがずっと白人だったのも、そうやって基準が「つくられてきた」からなのだ。そして、つくってきた張本人はわたしたちだ。

だから今、あらゆる基準に対して、それは特定の”人種”を貶めていないだろうか?を問う必要がある

広告おいても、これまでスルーされていた言葉づかいや慣例的に使っていた表現について、あらためて問い直す時が来ている。コピーライティングをする時、わたしは『14歳から考えたいレイシズム』を何度も読み直すことになると思う。

文:シノ

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