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『君たちはどう生きるか』を、僕たちはどう読むか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 白状すると、僕はこの本に不当な先入観を持っていた。しかし、それには歴とした理由がある。ご存知のように、岩波文庫はジャンルごとに色分けされている。外国文学なら赤、日本文学なら緑といった具合だ。そしてこの『君たちはどう生きるか』は青である。青は哲学や思想──カントとかヘーゲルとかショウペンハウエルとか、日本人なら西田幾多郎とかだ。だから僕は、「この本は偉い先生が人生の意味を説いたお堅い本に違いない。そんな大きな問題が文庫本一冊でわかってたまるか。説教くさい本はごめんだ」と敬遠していたのである。それは大間違いだった。
 いちばん大きな思い違いは、この本は小説だということである。いや、小説と言ってしまってよいのかどうかはわからない。でも、少なくとも小説のように読める。まず、この本には主人公がいる。コペル君という中学生だ。勉強や運動はよくできるが、背は小さい。二年前にお父さんを亡くして、いまはお母さんとわずかなお手伝いさんを残して、郊外に住む叔父さんの家の近くに身を寄せている。叔父さんはよくコペル君のところへやって来る。亡くなったコペル君の父親から、「息子のことを頼む」と言われているのだ。
 始まりはこうだ。叔父さんとコペル君は銀座のデパートに来ていて、屋上から下を見下ろしていた。そこでコペル君は眼下の人々を見下ろしながら、「人間って、水の分子みたいだ」と思う。そして、「あそこにいる人たちは僕に見られていることに気づかないが、僕もさっきあそこを通ったとき、ここから誰かに見られていたかもしれないね」と叔父さんに語る。それを聞いた叔父さんは驚き、コペル君があとで読み返せるようにノートを記した。「人類がコペルニクスによって天動説を発見したように、人間も最初は自分を中心に考えるが、だんだんと広い世間を中心に考えるようになる。でもそれは簡単なように見えて、大人になってもそれができていない人は多い。だから君の発見はとても大切なことだ。」そして「コペル君」というあだ名が誕生する。
 このように、本書はコペル君の日常の出来事を通して彼の内面的成長を描き、「私たちはどうあるべきか」を読者に投げかけてくる。登場するエピソードはいちいち身につまされるものが多い。たとえば、北見君という友達が、上級生に目をつけられてリンチされる。コペル君と仲間たちは、そういう事態になったときは、一緒に殴られることで抵抗しようと固い約束を交わしていた。にもかかわらず、いざその場面が来ると、コペル君は足がすくんで傍観者を決め込んでしまう。誰にでも、そんな卑怯を恥じる経験があるのではないだろうか。コペル君もさんざん頭の中で言い訳を考えて、自分を正当化したい誘惑に駆られるのだが、最終的には自分を欺くことができない。この葛藤が非常にリアルだ。
 叔父さんはノートにこう書く。「人間は、何が正しいかを知っているからこそ、自分のしてしまったことを反省し、過ちを悔いることができる。悔恨の苦しみがあるからこそ、正しい道に向かって再び歩き出すことができる。過ちを悔いるつらさこそ人間だけが持つ苦しみだ。」いま世間では、ある芸能事務所の非道が取り沙汰されている。噂を知りながらも見ないフリをしてきた企業、それを報道することなく黙従してきたテレビ局。しかし、それに勝るとも劣らない誤りは、「自分には彼らを断罪する資格がある」という思い上がりではないだろうか。
 最後に、この本が生まれた経緯についても少し触れておかねばならない。この岩波文庫が発行されたのは1982年だが、実際にこの本が書かれたのは1937年のことである。つまり、日中戦争の起きた年である。現在では日中「戦争」と呼ばれているが、当時は支那事変と言われていて、戦争ではなく正当な戦いという空気だった。9・11後のアメリカの対外認識と同じである。軍靴の音が迫り、自由な執筆ができなくなりつつあるなかで、せめて子供たちのためにヒューマニズムの精神を守りたいというのが、著者たちの願いであった。それを思うとき、「もう少し親しみやすい題名でもよかったのでは……」などという低水準な感想は吹き飛んでしまった。この本はこれからも、この題名のまま読み継がれてほしい。
(2023.9 ブクログより転載)

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥


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