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客観性は「真理」か

【書評】『客観性の落とし穴』村上靖彦=著/ちくまプリマー新書

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 毎日スーツを着てパンプスを履いて仕事に行くことがどうしても無理──そういう理由で一般企業への就職をあきらめた女性がいる。「そんなことくらいで」と思うだろうか。「努力が足りないのでは」と思うだろうか。しかし、多くの人にとって何でもないことだとしても、彼女が就職を断念しなければならないほどに苦痛と感じるのであれば、少なくとも彼女にとっては、それは耐え難い苦痛なのではないか。
 客観性はすべての人に同じ基準を押し付け、すべての人を同じ基準で測ろうとする。そうしたとき、前述の女性のような人は「落伍者」あるいは「怠け者」というレッテルを貼られ、世の中から切り捨てられてしまう。けれども、そのような客観性ははたして「真理」なのだろうか。
 単一のモノサシで測ろうとするから、比較と競争が生まれる。偏差値はその典型である。偏差値は学力を測るモノサシのひとつに過ぎないが、偏差値によって学校も生徒も一直線上にランクづけされてしまい、その中で競争を強いられる。偏差値が無意味だと言っているのではない。数値的な客観性によって、見えなくされているものがあるということである。
 本書の「はじめに」の中で、「障害者にも幸せになる権利はあると言うけれど、障害者は不幸だと思います」という学生の言葉が紹介されている。本来、何が幸せで何が不幸かは、人それぞれである。しかしこの学生は、幸せの基準は誰でも一緒だと考え、その基準によって障害者を不幸だと決めつけてしまっている。同時に、自分自身をもその基準に縛り付け、不毛な序列制へとみずからを追い込んでいるように見える。
 客観性に対する過剰な信仰。数字に支配された世の中。現代社会におけるマイノリティの差別と排除は、それらと切り離すことができない。著者は病気や障害を抱えた人たちへの聞き取りを通じて、「経験をその人の視点で語る」ことの意味を説く。それは一体どういうことか。
 本書で取り上げられているショウタさん(仮名)のエピソードをここに紹介したい。母子家庭に暮らす彼は、精神疾患と薬物依存の母親を世話しながら、極度の貧困生活を送っていた。だから、家にしょっちゅうゴキブリが出たり、夕食が毎晩カップラーメンなのも、彼にとっては「普通のこと」だった。しかし、友達が遊びにきたことで、彼は自分の家庭が「普通ではない」ことに気づいてしまう。そして、自分を不幸だと思い、「普通の生活」に強く憧れるようになる。ところが、母親の逮捕をきっかけに施設に入り、自分以外にもさまざまな境遇の子供がいることを知ると、「普通って何だろう?」と考えるようになる。結局、普通なんてものは存在しないんだ。そうやって彼は「普通」の呪縛から離陸する。
 人間は、一人ひとりが異なる顔を持った個別的な存在である。しかし、客観性「だけを」真理と見なしたとき、「全体」や「多数」といった顔のない主語によって、個人は抹殺される。現代社会の持つ非情さと、現代人が抱く不安。その二つの根底にあるものを、著者は見事に描写している。
(ブクログより転載)

𝐶𝑜𝑣𝑒𝑟 𝐷𝑒𝑠𝑖𝑔𝑛 𝑏𝑦 𝑦𝑜𝑟𝑜𝑚𝑎𝑛𝑖𝑎𝑥


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