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経済は自由でいいのか

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 自由・平等・博愛──これは言わずと知れたフランス革命のスローガンである。十九世紀ドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーは、これを社会を構成する三つの機能に当てはめ、「社会三層論」を提唱した。三つの機能とはすなわち、法と精神と経済である。法律は平等の原理の上に成り立っている。法の前では誰しも平等でなくてはならない。精神は自由の原理に拠っていなければ ならない。何人も精神においては自由に思想することが認められなければならない。では、経済は? 経済の拠って立つ原理は友愛だと言ったら、奇異に聞こえるだろうか。
 われわれの現実の世界では、経済は「自由」の原理によって動いているように見える。いや、実際その通りであろう。いわゆる市場の原理、「神の見えざる手」である。個々人の自由な利益の追求が、社会全体に利益をもたらす。市場に任せることで、社会が抱えているさまざまな過不足やアンバランスが調整され最適化される。そのように考えられている。しかし、本当にそうだろうか。
 自由に基づく経済活動の結果、つまり各人が自己の利益を優先して行動した結果、競争が起こる。競争によってイノベーションが起こり、経済が活発化して発展し、人々の生活が豊かになる。イノベーションこそ成長の源泉であり、競争は経済を促進するための基本原理であると考えられている。だが、たとえば医療や福祉、教育や学問もまた社会を構成する一部である以上、当然経済活動に含まれていなければならない。そして、これらの活動に求められるニーズは、利潤のみを優先する原理によって満たすことが、はたしてできるだろうか。ここでも「市場に任せれば上手くいく」という言葉が当てはまるのだろうか。
 経済とは何か。内橋克人氏は著書『共生の大地──新しい経済がはじまる』の序文で、次のように謳っている。

今日に明日をつなぐ人びとの営みが経済なのであり、その営みは、決して他を打ち負かしたり、他と競り合うことなくしてはなりたちえない、というふうなものでなく、存在のもっと深い奥底で、そのものだけで、いつまでも消えることのない価値高い息吹としてありつづける、それが経済とか生活というものではなかったでしょうか。おぞましい競り合いの勝者だけが、経済のなりたちの決め手であるはずもないのですから。

『共生の大地──新しい経済がはじまる』内橋克人氏著/岩波新書より

これ以上に優れた経済の説明を、私は他に知らない。経済も人々が社会生活を営む行為である以上、そこには善悪やモラルの規範が必要ではないだろうか。人は社会を営む生き物であり、人がパンを焼くのは自分のためでもあり他者のためでもある。自己の利益が第一、自分の生活は自分の責任で、という考えが経済を支配すれば、万人の万人に対する闘争が始まり、モラルなどは吹っ飛んでしまう。すべては自分の責任、食っていけないのは自分が悪い。そうしたいわゆる自己責任論に行き着く。
 聖書のヨハネの黙示録では、バビロンは生き物であると同時に大きな都市でもあるとされている。すなわち文明である。そして、バビロンは「淫売の母」であるとも書かれている。聖職者はこれを性的な意味に解釈するのだが、作家のミヒャエル・エンデはまったく違うことを意味するという。エンデによれば、淫売とは本来捧げられるべきものが売買されることだという。愛は売買されるものではなく、お互いに捧げるものだからである。つまり、バビロンとは売買されてはならないものが売買されることだというのである。
 現在の社会を見渡せば、芸術から宗教まで、売買の対象にならないものは何もない。健康でさえも金で購われる。どこかの首相が国民皆保険制度を見直すと口を滑らせたが、この調子で行くと救急車を呼んでも乗せる前にクレジットカードを持っているか訊かれるだろう。要するに、現代の都市社会はバビロンそのものである。ヨハネの黙示録には、バビロンはすぐに滅びると書かれている。信じられないほどの早さで滅亡するという。
(二〇二一年一月)


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