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不登校の現在地

𝑡𝑒𝑥𝑡. 養老まにあっくす

 2024年1月28日、桶川市の桶川市民ホールにて「子どもの教育を考えるシンポジウム」が開かれた。登壇したのは桶川のフリースクールHIRO代表・中里哲也氏、文科省初等中等教育局児童生徒課長補佐・大野照子氏、優育プロジェクトの的場美芳子氏、そしてわれらが養老孟司先生である。私はお手伝いのような形で関わらせていただいた。
 顔ぶれをよく見ていただくとおわかりかもしれないが、このシンポジウムのテーマは不登校である。詳しい内容は後日動画でアップされるのでそちらをご覧いただくとして、ここでは私がこのシンポジウムを通して感じたこと、考えたことを書いてみたい。

 まず頭に浮かんだのは、「多様性」という言葉である。多様性・ダイバーシティ──この言葉は、本当によく耳にするようになった。聞かない日はないと言ってもいい。しかし、みなさんどこまで本気でそう思っていますか? たとえば、知り合いのお子さんが不登校になったとする。すると多くの人が、「いまは多様性の時代ですから、それでもいいんじゃないですか」と口にするのではないだろうか。ところが、もし自分の子供が不登校になってしまったら、はたしてどのくらいの方が同じような反応をできるだろうか。結局、多様性、多様性といってもそれは所詮他人事で、自分事になると平均から外れたら平均に戻そうとしてしまう人がほとんどではないだろうか。
 学校や会社のような集団においても同じである。古い企業風土を変えるために若手や新人の意見を積極的に取り入れたい。こうした取り組みは、一般的には評価されるだろう。しかし、それが自分の勤め先だったらどうか。たとえ正しい意見だったとしても、若輩者に意見されるのを面白くないと感じる人が多いのではないか。これは、よく言われる本音と建前の問題である。つまり、多様性は建前なのである。
 ちなみに、不登校の問題を扱った本ではないが、日本人がいかに従来の考え方や行動様式に縛られているかは、高瀬隼子さんの芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』(講談社)や、朝井リョウさんの『正欲』(新潮社・2023年、稲垣吾郎・新垣結衣主演で映画化)をお読みいただくとよくわかると思う。

 ただし、日本人も変わるときは変わる。私がよく例に挙げるのはタバコである。若い方は信じられないかもしれないが、私が子供の頃は学校の先生が教室でタバコを吸っていた。バスに乗っても飛行機に乗っても手すりに灰皿がついていて、みんないつでもどこでもタバコを吸っていたのである。それがいまでは、外でタバコを吸うのさえ難しい。実際、会場で養老先生が喫煙できる場所を探したのだが、敷地内は全面禁煙、周囲の通りも路上喫煙禁止だった。数十年でここまで変わったことは、あまりないのではないか。
 結局、日本人はどうやったら変わるのか。投票で世の中が動かないのはよく知っている。あれだけ政治に文句を言っている癖に、選挙では自民党が勝つ。街頭で演説やビラ配りをやっても、ほとんどの人が素通りである。むしろ避けていると言っていい。養老先生が言うように、日本では「思想は現実に影響してはならない」のである。それなら何で動くかというと、養老先生は「空気で動く」と言う。空気とは何か。
 TikTokで、日本に長く在住している外国人の方たちが、日本語について話している動画を見た。面白かったのは、彼らが日本語を“High Context Culture”と表現したことである。たとえば、私がナイフとリンゴを手に持って、「ハイ」と言って渡したとする。すると、日本人なら誰でも「切ってほしいんだな」と理解してくれる。ところが、外国人にはこれが不思議でならないのである。切ってほしいなら、少なくともcutという言葉を使ってくれないとわからない。日本人はエスパーか?とびっくりする。これが空気である。「言葉ではうまく説明できないんだけど」という表現も、外国人には伝わらない。「言葉で説明できなきゃわかるわけないだろう」と言われる。それに対して日本人は、「言わなくてもわかってほしい」のである。日本人はそうやって空気を読む人たちである。ただし、それが当たり前すぎて自分ではわかっていない。
 マスクを着けるべきか、あるいはもう着けなくてもよいか。コロナでそういう議論は随分あった。しかし、ほとんどの人は着けるか着けないかを自分の考えや意見で決めているわけではない。周囲の空気で決めているのである。だから、自分は着けないと公言する人でも、行く先や相手によっては着けたりする。それどころではない。自分の信念を無理やり貫こうとすれば、着けようが着けまいが冷たい目を向けられてしまう。「あいつは空気が読めない」と。
 養老先生によれば、これは人間が密集して生活する日本ならではの知恵だという。地方では過疎が問題になっているが、ヨーロッパの標準的な人口密度は、日本でいうと鳥取や島根くらいである。狭い場所に人が集まって生活するから、みんな行間を読んで忖度して先回りをする。渋谷のスクランブル交差点でも、人どうしがぶつからないわけである。

 日本はなかなか変わらない。そう書いたが、不登校を取り巻く状況は昔とはだいぶ変わった。それが今回シンポジウムに参加したいちばんの感想である。私が子供の頃は、学校に行きたくない子供がいたら、周囲の大人は何とかして学校に行かせようと頑張った。いまはそういう時代ではない。少なくとも、文科省や教育の現場は、そういう「空気」ではない。ただ、そのことがあまり広く認知されていないと感じる。
 子供が不登校になったら、どこへ相談したらいいか。控室で文科省の大野氏に聞いてみた。すると、各都道府県の教育委員会に相談してほしいと言われた。これは少しハードルが高すぎるのではないか。私はそう率直に述べた。市役所ではだめなのか。市役所なら他の用事でも行くので行きやすいが、教育委員会と接点のある人は少ない。そこが最初の窓口では二の足を踏んでしまう。だが、不登校は学校や教育の問題で、市役所が扱うのは子育ての問題なので、現状はそうなっているらしい。縦割り行政の弊害である。ここは変わってほしいところである。
 ただし、市役所も教育委員会に繋いでくれないわけではない。だから、まずは周囲に相談してほしいという。また現在、小中高等学校の8~9割にはスクールカウンセラーが配置されている。不登校児のケアだけでなく、プライヴァシーに配慮しつつ問題を上にあげてくれる。そうやって、手を差し伸べる人たちはちゃんといる。そのことを少しでも多くの人に知ってもらいたい。
(二〇二四年一月二十九日)


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