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君をDVから救いたかっただけなのに。【ショートショート】

夜空にぼんやりと浮かぶ雲を見ていた。太陽が落ちても地上から光が失われなくなった代わりに、我々は星の輝きを忘れ去ってしまった。

夜風にはわずかに冬の名残が感じられる。暗く静かに佇んでいる桜の木々は、ほとんど散ってしまった花々に思いを馳せているようだ。

スマホの着信音が鳴る。画面を見ずとも誰からの着信なのかはわかっていた。

本当なら、着信なんて無視してここで夜を明かしていたかった。かつて愛し合っていた人と過ごした大切な場所。ここに来ると不思議と心が穏やかになった。私にとって、ここは世の中の喧騒から離れられる唯一の聖域だった。

そんな場所で着信を鳴らされるのは、土足で心に踏み込まれるような嫌な感覚になる。うんざりだ。もう終わりにしよう。

今では小さく感じる滑り台に腰掛けると、私は一つため息をついて電話に出た。

ーーーーーー

私の物語がおかしくなったのは二週間ほど前からだった。

仕事帰りにコンビニで缶ビールを買い、それを飲みながら川辺を歩いていると、遠くで複数のパトカーや救急車がランプを光らせながら停まっているのが見えた。

野次馬らしきパジャマ姿の中年の男が私に「川から死体が上がったらしい」と囁いた。

物騒な場面に遭遇してしまったことに面食らったが、疲れていたこともあり、哀れな死者に心の中で合掌してそのまま帰路についた。

翌朝のニュースで、昨日見つかった死体は私の元恋人だったことがわかった。

死因は自殺だろうと推測されているが、全身に打撲のような痕があり、自殺につながるようなトラブルに巻き込まれていなかったか捜査が進められるとのことだった。

私は全身から血の気が引くのを感じ、朝食を床にぶちまけて崩れ落ちた。彼女の屈託のない笑顔がフラッシュバックする。つないだ手のぬくもり、風になびいた髪の香り、柔らかい唇。

抗いようのない吐き気に襲われ、さほほど胃に詰めたばかりの食物をすべて吐いた。

まさか、彼女が死んでしまうなんて。そんな馬鹿な。

今度は激しいめまいと耳鳴りに襲われて立つことができない。会社に欠勤すると連絡し、這いずるようにして寝室のベッドまで移動した。

頭の中がぐるぐると回転しているようで気分が悪い。何も考えたくない。しかし、考えずにはいられなかった。彼女の死について。これからの私の人生について。

彼女と出会ったのは大学3年生のときだった。

ふたりとも同じ映画館でバイトをしており、自然と接する機会が多くなった。その頃のわたしは童貞で女性との関わり方を知らなかったが、彼女はそんなことは気にしていないようだった。

私からすれば彼女は高嶺の花のように思えた。

控えめに言っても美人の部類に入るだろうし、性格も明るくて誰からも好かれるような人だった。それなのに、彼女は私を恋人として選んだ。はじめはなにかの冗談かと思ったが、彼女は本気だった。

そのときの彼女の心情については後から聞かされた。当時彼女は彼氏と別れたばかりだったという。彼氏は外面は良いが、DVがひどく、他の男との交流を一切絶たせるなど束縛が強く、自由に生きたい彼女を苦しめていた。

また、それでいて男は浮気をしていた。彼女が言うには、付き合っていた2年の間に少なくとも3人、疑わしい人をいれれば10人と体の関係を結んでいたという。

当時、彼女は親友に相談しようとしたが、その親友も彼氏に浮気されてふさぎこんでおり、とても相談できる状態ではなかった。彼女は一人で決断し、男と別れることを選んだ。

嫉妬深い男は当然別れ話に逆上したが、彼女は一切動じずにただ「もうあなたはいらない」とだけ言ってその場を去った。

彼女はそれまでイケメンで優秀な男をタイプとしていたが、そのことをきっかけに男性不信に陥ってしまった。どんな男と接しても、裏では浮気をするような人間なのではないか、と勘ぐるようになってしまったのだ。

そんな折、彼女はバイト先で私と出会った。私は見るからに女経験がなさそうでイケてなかったが、趣味や性格が合い次第に好意を持つようになったそうだ。

おそらく、女慣れをしていない私なら、浮気をせず誠実に付き合ってくれると信じてくれたのだろう。

それから、私たちは約1年間に渡って大切な時間を過ごした。人を愛する喜びも、自分以上に大切な存在がいるという幸せも、セックスのやり方も、全て彼女から学んだ。

はじめて彼女の裸を見たとき、全身に打撲のような痕があり驚いたが、彼女はDVのせいだと打ち明けてくれた。二人は何度も何度も愛し合った。

私にとっての人生は彼女そのものであり、きっと彼女にとっても私はそういう存在なのだろうと思っていた。この先も結婚して子供を生んで、年老いて死ぬその時までずっと一緒なのだと。

しかし、それは私の一方的な勘違いだった。

東京では珍しいほど強烈な嵐がきていた夜、彼女から電話があった。

「別れてほしい。元カレと寄りを戻すことになったの」

私はしばらく彼女が何を言っているのかわからなかった。これまで彼女と喧嘩をしたこともなければ、悲しませるようなことをしたこともない。彼女が私と別れたがる理由が何一つ浮かばなかった。

それに、あの束縛していた男のもとに戻るというのも腑に落ちなかった。すべてが唐突すぎて、私にはなにか裏があるように思えてならなかった。

だから、私は「あの男に脅されているのか?」と彼女に尋ねた。

彼女は「まさか。違うわ。彼のことを忘れきれなかったの。本当の気持ちに正直になろうと決めたの。これまでありがとう」と言って電話を切った。

そんな言葉を信じられるわけがなかった。彼女から元彼がどんな仕打ちをしてきてかを聞かされていたし、そのことで彼女がどれほど苦しんだかも知っている。

彼女はきっと男に脅されているに違いなかった。

数日後、私は大学で男を見つけ、そのことについて問いただした。しかし、男は半笑いで「おいおい、自分が捨てられたからって人を悪者扱いするなよ。彼女言ってたぜ?お前とのセックスが退屈で嫌だって」と軽くあしらった。

私は頭に血が上って男に殴りかかったが、ラグビーをやっている男に敵うわけもなく、反対に殴られて気を失った。

それから半年が過ぎ、大学を卒業した私はしがない中小企業でサラリーマンになった。仕事に忙殺される日々だったが、私の心の中にはまだ彼女への思いが残っていた。彼女を救わなければ、という言葉が頭の中で何度も反復していた。

ある日、たまたま取引先の会社に挨拶のため訪問すると、あの男とばったり出くわした。男はその会社で働いているようだった。

男はニヤリと笑いながら私に近づき、「久しぶりだな」と握手を求めてきた。私はその手を払い、「彼女を自由にしろ」と吐き捨てた。

男は困ったように眉を釣り上げ、「おい、俺の会社はお前んとこのクライアントだぞ?なにかトラブルがあれば取引をなくすことだってできるんだ。口に気をつけろ」と囁いた。

「それに、彼女とのことはお前には関係ない話だ。他人が首をつっこむな」と男は笑いながら去っていった。

私は心の中で再びふつふつと怒りの感情が湧き上がるのを感じた。彼女が今も地獄のような日々を送っているのかと思うと、胸が締め付けられるようだった。

そして私はあの日、ついに彼女を守るために行動したのだ。夜道を歩く男をナイフで滅多刺しにし、もう命が助からないだろうというところで走り去った。

これで彼女は自由になり、再び私のもとへ戻ってくるはずだった。

しかし、その後彼女は自殺の道を選んだ。


ベッドの上で私は身動きひとつ取れなかった。一体なぜこんなことになってしまったのか。もしかして、彼女は脅されていたのではなく、本当にあの男を愛していたのだろうか。

私は自分が犯してしまった罪に気づいたが、どうすることもできなかった。

ーーーーーーー

電話に出ると、やはりあの男からだった。なんとなく、生きているのではないかという予感があった。

「お前、自分がなにをやったかわかってるのか?」
「ああ、わかってるつもりだ」
「彼女はお前のせいで死んだんだぞ。お前に襲われて俺は半身不随になった。それに罪悪感を抱いて彼女は・・・」
「ああ、わかってる」
「ふざんけんじゃねぇよ!おま」

私は電話を切り、スマホを地面に叩きつけた。

たしかに私は彼女を死においやったかもしれない。でも、死んだ彼女の体にはDVの痕があった。だとしたら、生きていても死んでいても地獄じゃないか。

なんで、なんで私のもとを去ってしまったんだ。

私はしばらく慟哭し、そしてかばんの中から今日のために準備しておいたロープを取り出した。

桜の木々は、静かに夜風に身を揺らしていた。すでに散ってしまった花たちを弔うように。

人気のない小さな公園の中、ひとつの桜の木にドスンという衝撃が生じ、ぱらぱらと花びらが散った。


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